ヒースクリフとユイは、月夜の黒猫団に見守られながら空に浮かぶ無数の画面にコードを打ち込んでいた。ヒースクリフはハッキングに協力しなければ体内にキャロライナ・リーパー相当の辛さと痛みを与える脅しのような誓約書に従い、サーバーアンチの低い点を瞬時に判断していた。私は辛い物が苦手だ。その恐怖が、逆に彼の判断力を高ぶらせる。
一方、その横で互角のスピードで打ち込むユイはハッキングを手伝い、クラッキングの用意をしながら別の事に焦りを募らせていた。妹のストレアは無事なのだろうか。ハッキングの被害さえなければ、一緒に脱出できたであろう妹の安否を早く知りたいと。
「ストレアちゃんは大丈夫でしょうか….」
「たとえデリートされている可能性もあれば、バックアップがあれば再生できる」
「たとえそうだとしても….消えたストレアを戻しても、私は一緒にいてくれたストレアちゃんに会いたいです」
「ユイ、それ以上茅場が何か言ったら、次は遠慮なくやっちゃっていいぞ」
ケイタはユイを一瞥してからヒースクリフを見ていると、彼は少し怒ったような口調で言う。
「ログアウトの復元は順調に進んでいる。やるにも後にしてくれ。しかし、一人でこれをするのはしんどいな….」
「もう割り切って、真面目にパパ活をして下さい。時間は刻々と迫っているのですから」
「….ふぅ….一体誰がMHCPにこんな言語をインストールさせたんだ….」
愚痴に聞こえる言葉を吐かずにはいられなかった。ヒースクリフは元々、アインクラッドの九五層でGMとして正体をあきらかにする予定でいた。それがアインクラッドに彗星の如く現れた極上ラーメンの情報に釣られてきてしまい、あろうことか呆気なく捕まっている。
一生の不覚だ。恐ろしい速さでキーボードの記号を打ち込みながら、哀傷を孕んだ瞳で画面を見つめ、独り言を呟いた。
二人はある画面に一瞬だけ顔を見合わせた。すると一つの画面を食い入る様子に、サチは気後れしつつもユイに近づいた。
「なんだか詰まっていそうだけど….どうかしたの?」
「ママ、これはゲームの中枢部分…モーメントにあたる場所です。ですが、ここから先は相手に感知されてしまうルートばかりでいい抜け道が無いんです」
サチは優しく微笑んだが、画面から視線を外した落ち込むユイに事態の深刻さがわかる。そして、両手であやすような仕草をし、そのままヒースクリフに向けて真剣な表情を浮かべた。
「茅場さん、私は….お二人ほどハッキングをする技術はありませんが….サポート位はできます。手伝わせてください――ユイちゃんの為にも、ユイちゃんの妹のために….」
今度はヒースクリフが真剣な表情を浮かべる番だった。サチの進言にケイタやダッカ―、困り顔のままササマルにテツオも協力に声を挙げる様に、内心の驚きと困惑を押し殺していた。その眼の輝きは、一切の邪念や駆け引きを感じさせない純粋な心に隠れた強い意思。茅場晶彦には、若さの勢いしかない者に対するイライラ以上に、どこかワクワクするような、思い出せない熱さを感じていた。
黒いコートを着た少年も目を細めて言い添える。
「茅場、俺もハッキングに加勢する….お前のやったことを許す気はない――だが、今いるプレイヤー達を現実世界に生還させられるなら….俺は協力する方を選ぶ」
「へぇ….冷静なキリトが随分と熱いことを言うようになったな。ここで色んなパパ活でもして漢にでもなったか?もし、そうならいい人紹介しろよ」
「お前なぁ…」
キリトはげんなりと呻く。ケイタはヘッドロックをかましながらキリトをからかい、勢いのままヒースクリフとユイの画面を共有した。
一
明るい月夜である。ユナは一人、夜光虫の灯りと僅かな月明かりを頼りに川を眺めていた。彼女の傍らでは反射した月が頼りなさげに揺れている。今宵は風もなければ雲もない。静寂な夜に、この穏やかな水音が心地よかった。もし石でもあれば、何となく投げて波を立てていたのかもしれない。
(静かな夜だな….これから終わる世界とはとても思えないや)
久しぶりに一人になった私は、ノーチラスやクラインと話し合ってしまったユズルの男衆を思って苦笑する。ゲームがクリアされれば日本のどこにいるのかは分からなくなってしまう。どこかで合流できる場はあるか、と入念な意見交換でカフェを経営しているエギルのお店に集まることとなった。意外にもプレイヤーの大半はその近場で、交通のいい関東地方に住んでいるのは朗報だ。
(皆の繋がりはなくならない….この関係が終わらないのはありがたいな)
この世界で経験した出来事が情景の様に空想される。何にでも言い合える親友と呼べるリズベットと一緒に遊んだ日々。初めて本音をぶつけ合ったシリカちゃんとの会話。お互いに弱みや性癖を引きずり出し合う駆け引きをしたアスナとの頭脳戦。そして、ユズルの好意に半年もかかった鈍感な私が初めて気づいた恋心とその後の蜜月も、どれも無かったことにするには、ここには大切な思い出ができすぎた。
(自分勝手に思えば、まだここにいたい….でも、この世界のモンスター達は元プレイヤーなら….何度も生き死にを繰り返して元の自分がバラバラになっていくのを黙って見ていたくないな….)
もし亡くなったプレイヤーに自我があれば、自分の大切な思い出がバラバラに無くなるカーディナルの仕組みにユナは気分が沈む感じを覚えた。一つには心の支えが無くなる不安を想像できないからであり、もう一つはいろんなことを分からなくなるのに本人はそれが気にならなくなっていくことだ。
(ここのモンスター達は自我がなくなって関心がなくなるのかな――う~ん。そこまで極端には考える気はないか…まぁ、ピンク髪の女の人は悩むのは良いことって話したし….)
ユナはきわめて冷静に熟考した。私は相手の気持ちをここまで深い領域まで寄り添える経験などがなかっただけだ。このゲームが始まった日から、幼馴染のエーくんを励ましたり、時に厳しい言葉をかけたりもした。はっきり言えば怖さや恐怖の内面に、百層までエーくんが無事でいてくれるのか、そんな茫然とした不安もあった。
落ち込んでいたエーくんが危なく感じていた日に死の不安に背中を押されて、ランチと一緒にユズルを頼って連絡をいれたのかもしれない。改めて私はまた、彼を利用していたことに気付いた。しかし、あの場にユズルがいなければ二十体の拷問吏を相手にできなかっただろう。誰か一人は死亡していたはずだ。
ユナは、皆が集まっている場に向けて歩きだし、これ以上に思考したい気持ちをぐっと堪えた。
(色々悩んじゃっているけど….ほんとに気になっているのを考えなくちゃ!)
ユナは軽く背伸びをし、気にしていた夢の出来事を考え始めた。二泊三日の深夜ライブの間に情報屋経由で聞いたが、このVRMMOでは夢を見る事はない。ケッコンシステムで夫婦となったプレイヤーが、ごく稀に、夢という形で相手の過去を垣間見ることはあるそうだ。それをユズルが知っているかはさておき、ユナは彼に問い詰めたくなかった。
勝手に記憶を覗かれて快いと思うはずはないし、あの記憶がユズルの過去であれば、現実世界の彼は今の医療では治らない何か重い病気を抱えているのかもしれない。ユナには大きな危険にさらされている感触があった。そして、もっと残酷な可能性を否定して憶測のみに留めた。
(たとえ病気でも、その先が辛い未来でも私からユズル…いえ、柚季を見捨てはしない!彼から距離を取られても、絶望に呑まれて拒絶されても、私は何度だって貴方を包む!)
ユナは繰り返し、ユズルと話した言葉を思い出しては叱咤する。いつだか、ただ悶々と月を見上げて彼への想いを託すことはしない。私自身が彼の心を癒やし、元気づけられる相手になればいいだけだ。
(そのためにも、まずはユズルが助けないと危なっかしいと思われないようにしなくちゃね)
そんなことを考えているうちに、着いたヒースクリフのいる裁判所のホールからがやがやと声を聞き、ユナはドアの前で深呼吸する。ひとたび意を決した少女はそれ以上の憂い顔を見せず、ドアを開けた。
二
アインクラッド内の罪人を裁く裁判所の中は広々とした大理石のホールだ。数人のNPCが、カウンターの丸椅子に座り、大きな帳簿に書き込みをしたり、天秤でコルの重さを測ったりしていた。各部屋に無断での侵入は許さず、勝手に入れば強制的に裁判所から追い出されてしまう。ユナはカウンターに近づいた。
「こんにちは。ヒースクリフ裁判の部屋に戻りたくて来ました」
「IDはお持ちでいらっしゃいますか?」
「ここにありますよ」
ユナはポケットから長方形の白いカードをつまみ上げた。
「承知しました」
NPCは帳簿を指差し、ユナは青い光に包まれる。青い光が消えたとき、彼女は微笑んだ。大きな部屋の片隅に飾った赤い花に茶色の絨毯が敷かれた床は高級感が漂い、規律の厳しい法廷の場より高級なホテルにいるような気がした。
甘美な道具や家具を見て回っていると、ソファに朽葉色の髪をした後ろ頭が見えた。なるべく気配を消した私はちょっとした悪戯をしようと、そろりと背後に回る。両手で目を隠し、軽く飛び上がった彼に、柔らかく声をかける。
「だ~れだ?」
「…ユナだろ。驚かさないでくれよ」
「別にいいでしょ。久しぶりに幼馴染にイタズラしようと思っても」
「普段から会っていただろ。アイドルグッズ販売の打ち合わせでユナがしょっちゅうギルドに来てた時なんか、大変だったんだぞ。俺に「ユナを紹介して欲しい」って何度も声をかけられたからな」
日頃から溜まっていただろう愚痴を言い切り、ユナは冗談を思い付いたような表情を浮かべた。
「エーくん、もしかしてモテ期なの?」
「違うよ….それに相手は男だぞ」
「男にモテて嬉しいんだね」
うんうんと頷くユナに、ノーチラスの眉は八の字に曲がる。次に男にモテると言ったら、ユズルに「ユナは女にモテる」の話題をつまみにしてレズ疑惑をかけてやろうと心に誓った。
「そんな訳ないだろ…アスナの護衛役になってから男の見苦しい嫉妬とか見飽きたからな。それに、声を掛けられる大半はいじりみたいなもんだ。堂々としてれば、どうってことない」
「ふぅん。何かエーくん、前よりどっしりと構えているね。どこかの騎士様みたい」
そこで、ノーチラスは首を横に振り、
「それは…どちらかと言えばアスナの方だろ」
「表面だけ見ればね。でもアスナってあれで打たれ弱いからさ。内面はエーくんの方が、真っ正直な騎士道の心を持っている感じ」
「そうか?」
良く分かっていないノーチラスに、ユナは朗らかに対応する。彼女からアスナの印象は美人で才色兼備なお嬢様だ。しかし、どこか仕事にストイックに臨む姿勢やどこか攻撃的な感じは彼女の良さばかりが目立ってしまい、攻撃性の裏に隠れた弱い自分を誰かに見せることはない。
そんな彼女でも補佐役のエーくんといる時は、割と素に近い表情というより、どこか自信に満ち溢れた眼差しをする。七四層の戦闘でも、ユズルとのラブシーンを写真に撮っていた時も、裁判所の進行でも。どこかで鋭利なアスナの剣を納める、鞘の役割を担うノーチラスがいて、彼女――アスナという少女は始めて戦場の騎士となる。そんな風に思っていた―
その時、別のドアから顔を覗かせたキリトの声が、ユナとノーチラスの会話を断ち切った。ハッキングの疲労を隠したキリトは二人に向かって言う。
「ログアウトの準備が出来たからすぐに来てほしい」
二人は何も言わなかった。もうすぐお互いのパートナーと離れ離れになることを。それはキリトも同じであり、ユナはキリトの後ろ姿を哀しげに見ていた。
三
大理石の真ん中に置かれた長方形のテーブルにヒースクリフはユズルと話している。ヒースクリフは時々、考える仕草をしていた。三人が部屋に入ると、チラリと見てからお互いに会話を続ける。
「茅場さん。貴方のゲームが初日からおかしくなったことは知っていましたか?」
「おかしくなったことは、カーディナルシステムが修正してくれるはずだが….その言い方はもっと根深い問題なのかな」
「カーディナルにいたMHCP達は初日からモンスターの再構築をしていたそうだ。何もない所からモンスターは作れない。これをカーディナルは¨正常¨としている現状は開発者から見ても異常ではないのか?」
その単語を聞いた途端、ヒースクリフは鋭く息を吸い込んだ。たった数単語で真意を導いた開発者は、骨の張った手で口を隠し、落ち着いた口調でゆっくりと話す。
「いや….そのはずはない。確かに、カーディナルにはモンスターのリポップ、コルの管理、MHCPによるメンタルデータの管理を任せている。この仮想世界はナーブギアによる脳から検出される運動野と感覚野を読み取り、デジタルコードに変換してアバターに伝える仕組みだ。モンスターのリポップが機能しないのはカーディナルの異常である可能性が高い」
ヒースクリフは曰くありげに言った。
「そうか….ならノーチラスのFNCは何ですか?運動野は行動を、感覚野は感覚を機能する役割のはず….それはナーブギアの異常で起こるのでは?」
「ナーブギアは人間の脳波をアバターに伝える。しかし、人間の脳は現代でも解明できない複雑なものだからね….大半は運動野を出力させるが、脳のマッチングによりコードに変換されないことがある。感覚野を出力させれば、生存本能によってアバターが動かなくなることも有り得る話だ」
なるほど、と頷く。
「最後の問いです。このゲームがハッキングを受けているのは知っていましたか?」
「寝耳に水だよ….ここまで私の世界に異常があるとなれば、一度入念に調べなければならないか」
テーブルに肘をついた手を足膝に置き、顔をしかめた。
「ユイの話になるが、ハッキングした者は新しいゲームにデータを吸収させたそうです。ソードアート・オンラインとよく似たゲームを調べれば、手掛かりが掴めるのでは」
「なるほど….ならば、問題の解決までに時間はかからないか。現実世界に戻れば、合間で皆の集合場所に連絡を入れよう」
「頼みます」ユズルは興味を仲間たちに向け、メニュー画面から時刻を見る。茅場晶彦を生け捕りにする作戦に、裁判からハッキングまでの時間は、気づけば深夜に迫っていた。
「これからソードアート・オンラインのログアウトとクラッキングを同時に行うが、いいかな」
数分後に、ヒースクリフこと茅場晶彦が大広間のプレイヤー達を見回し、そう告げた。
「私は現実世界でやるべきことができた。警察に自首はしないが、いずれ向き合うべきことだ。時が来れば、皆の集まるエギルの店に連絡を入れよう」
「一つだけ…聞いていいか?」
ヒースクリフはEnterを押そうとしたが、キリトの声で留まった。
「….何で、こんな事したんだ」
「――理由など忘れたよ。ただ子どもの頃から思い描いていた空に浮かぶ鋼鉄の城を実現させたかった。その幻想を具現化し、本物を完成させたかったからかもしれない。今は….ソードアート・オンラインを作り始めたキッカケすら、もう覚えていないからね」
そうか....とキリトは頷く。
「ゲームクリアおめでとう、プレイヤー諸君。またどこかで会おう!」
ヒースクリフとユイはEnterを押し、プレイヤーは白い光に包まれる。プレイヤーの誰もがいなくなった大広間は徐々に青白いポリゴンが上空に溶けていく。各階層のモンスター達はひと鳴きの声を上げ、意識を手放した。
四
目を覚ますとナーブギア越しに白い天井が見える。なんだかとてもフラフラした。耳をかすめる風が、耳から脳に、ノロノロとこそばゆく移動する感じで慣れない。手足は骨の形がくっきり分かるまで細く、ソードアート・オンラインでは見ない左側に置かれた点滴が現実世界を実感させた。
ユナは鉛のように重い身体を寝返り、動かし辛い左腕を三日月に伸ばした。
(必ず事件を解決しようね。今度は私から貴方に逢いに行くから)
五
意識を覚醒させれば、真っ暗な空洞に、大きなスクリーンから映し出された外の様子。画面には、白衣を着た大人が走り抜ける場面や深夜の巡回をする懐中電灯をもつ人が映っていた。しばらく、ぼんやりと眺めていると不意に空洞のどこからか、若い男性の声が響いた。
『気分はどうですか。朝田柚季君』
大きなスクリーンの一画面に、窓越しで男の人が向き合っていた。短めのヘアーカットにふちの細い眼鏡、白衣の下にはグレーの白いワイシャツにベストを着ている。ズボンは動きやすいジャージに近い黒色の物であり、曖昧に微笑んでいた。
「すこぶる元気ですよ。でも顔は分かるんですが…名札がぼやけて見えないくらいです」
『そう….ですか。私は倉橋と言います。柚季君のリハビリを担当しますのでよろしくお願いしますね』
第四十話まで、アインクラッド編をお読みいただき、ありがとうございます。
これからユズルとユナは事件を調べて、別々に行動していきます。目的は定まっているので、二人は必ず廻り合えます。
それでは、ALO編でお会いしましょう。
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