2025年1月3日
新年の一月に入れば、冬の雪の積もった外に寒い日が続く。
寝起きの朝は風邪をひかないように暖房を入れていても、布団の温かさに根負けして、枕に顔を埋めてしまう。大学の仕事で父がいなくなってしまうと、途端に家は静寂に包まれる。幼い頃に亡くなった母の代わりに、男一つで育ててくれた父がいなくなれば当たり前ではあるとはいえ、慣れているはずの静かさに悠那は寂しさを感じていた。本当の理由はもう分かりきっていた。
偶然に出会った珪子はユズルとの生活をしつこく聞いてきてはいたが、同棲生活を思い返してみれば、なるほど、と自覚しなければならなかった。私自身は、まだ妻よりも、彼には愛人として甘えていた方に、落胆しながらも一番しっくりしていた。歌で悩んだときは熟睡している彼を布団にして、頬をスリスリするのが好きだった。男の人のわりには重くもなく軽くもない丁度いい人肌に、いつも深い眠りの淵へと誘惑された。
ただ…帰りの遅くなった日にフレンド追跡機能でいた場所を聞かれた時は別の重さを感じた。それでも彼の一途さに独占欲と心配の入り混じった好意は心の隙間を心地よく満たす温かさは、悠那にとって満更でなく、むしろ積極的に受け入れていた。
人間の社交性は環境によって大きく変化する。その社交性から、誰もが関わる人間によって求められる役割を演じ分けられる。母親に甘えることなく父親には良い子の模範として過ごし、『ノーチラス』こと幼馴染の『後沢鋭二』にはしっかり者の役割を演じてきた悠那は初めて演じる必要のないありのままの素顔を晒せる相手に出会えた。そんな人に逢えずに生きてきたために、どう向き合えば良いのか気持ちの整理は付いていないのだ。
人肌が恋しいとはこのことかな、と悠那は「万葉集」の文節を口ずさむ。
「我が背子と、二人見ませばいくばくか、この降る雪の、嬉しからまし」
乱で遷都した聖武天皇の無事を祈る気持ちを込めた妻の歌を唄うと、好きな人を思う愛情も無事を祈るのも、昔からある感情なのであろう。お互いに作ったご飯に冗談を言ったり、自作ポーションの材料で散らかった部屋に思い切り文句も言えていた。パパも研究資料を散らかしても、今までいつも通りと割り切れていたのに。やっとデスゲームから生還し、『自由』を手に入れたけど、あの温かい生活や暖かい色のある唄を奏でられる家庭を知ってしまえば、この灰色の空間は私をもっと淋しくさせる。
悠那から徹大にソードアート・オンラインの話をすれば灰色空間もマシな色になるのかもしれないが、いまの悠那にはそんな気持ちはない。徹大もそのあたりは察して、深くは聞いてこようとはしてこない。
一
それでも今日の午後、パパと約束をして初詣に出かけたが、それも新年の恒例というだけであった。神社は徹大の勤める大学から車で十五分ほどの集合住宅の傍らにあり、時期や時間もあるせいか、参拝客は見当たらない。小枝に雪を積らせ、神主様や巫女さんもいない雪かきをしていない道は僅かな積りの凹みを頼りに歩いた。
「長靴で良かったぁ。スニーカーじゃあ、ぐっしょりになってたかも…」
「大学帰りに急いで来るものではないな。この寒さで革靴は堪える…」
「家で少しはゆっくりしてもいいのに…はい、カイロを持ってきたから、これで温まって」
「…気が利くな、悠那」
重村徹大がカイロを酸化させようとする間に、首に巻いた栗色のマフラーをほんの少しだけ巻き重ねていると、普段は人の混むのが当たり前なはずの恒例行事に、人のいない空間はもの寂しい色に塗りつぶされていた。一時だけでも役割を過ぎれば、後は余程の予定も無い限りは忘れられる居場所に、耳がぼやけるほど静けさに襲われる。
カイロが暖かくなったか、防寒着のポケットに入れていると、背後から呼ばれる声がした。名字だけしか聞こえなかった二人は、同時に振り返ると、眼鏡を掛けた男性と横に並ぶ男の人が立っていた。パパは眼鏡の人を知っているそうであるも、私はどうも思い出せなかった。
「あぁ、須郷君。元気そうだな」
「お久しぶりです――重村教授」
須郷と言われた眼鏡男の名前から、ようやくパパの教え子の茅場晶彦と同期の須郷信之を思い出す。身長や雰囲気のせいか、茅場のアバターを越したヒースクリフより粘着性があるように見えた。けれども、昔に会った頃より覇気を感じない取り繕った表情の今の須郷に、悠那は距離を置いてしまう。時折、パパともう一人の男からの目を伏せると、一瞬だけ口角を歪ませる所があり、いくら頭脳明晰でも生理的に彼を良い目では見れなかった。
「最近の仕事はどうだ?」
「研究は捗って、毎日が充実しています。今が一番、忙しい時期ですかね」
「そうか…充実しているようで何よりだ。しかしだな――そちらの方は…」
上手く話題を切り替え慣れないか、徹大は須郷の隣にいる男性のことを言っているようである。
「僕がお世話になっているレクト会社CEOの結城彰三さんです」
「結城彰三です。初めまして、重村教授。須郷君から貴方のことはお伺っています」
「ほぉ、これは失礼しました。一応私は、東都大学で電気電子工学科の教授をしているもので…教え子がお世話になっています」
人見知りであろうと誰とでも関係なく挨拶のできる社交辞令をする父に、意外な一面が私には面白かった。
「そう言えば最近は他の人とは会ったか。晶彦は連絡すらついていないが、まぁ…それは仕方ないんだがな。凛子君や比嘉君とはどうだ?」
「重村教授は卒業してもう関係なくても、私や他の人を気にしているのですね。凛子さんは茅場先輩を探して、それっきり。比嘉は自作のプログラム作りをしてるとか、何も心配はないそうです」
須郷はそう言い、笑った。
「そうか…何か困ったことがあれば、伝えさえしてくれれば、相談はのろう」
隣で聞きながら、何だか三者面談のようだと思った。ちらちらと降る雪に、手を擦り合わせる音をすらしてしまう。厚手のコートのポケットに手を入れていると、ちょっといいかな、と結城彰三の声に、悠那は軽く背筋を伸ばした。
「君の名前を聞いていいかな?須郷君は久しぶりに恩師に会ったなら、旧交を温めるのもいい…でも大人の話を聞いているだけでは退屈ではないかい?」
「あはは…パパがフランクに話しているのは珍しくて、退屈してはいないです。私は、娘の重村悠那です。ここ最近まで、ソードアート・オンラインに閉じ込められていて。色々変わっていて慣れるのは大変ですよ」
軽く会釈した挨拶に、結城彰三は呆気にとられた。テレビでも話題になっている一万人のプレイヤーから半数以上が亡くなったデスゲームにおいて、精神病を患う者も多く偏見の目を向けられやすい世間において、自ら名乗るなどあり得ない。不意打ちに似た言霊に気を動転させてしまい、思ったことを口にしてしまう。
「君は帰ってきたのか。あのゲームから…」
「…はい。結城明日奈さんですよね――娘さんの名前は」
洗練されたはっきりとした声によって、今度こそ泡を食ってしまい、突っかかりそうになるのを寸前で止めた。悠那自身が『結城』の名字を聞いてから、妙な引っ掛かりの感じに、いつだかアスナと父親についての会話を連想していた。似ている特徴から、もしや、とかまをかけただけではあるも、効果は絶大だ。囁きながらで聞き耳でも立てない限りは聞こえない声に、結城彰三が上ずりながらの口調で、
「む、娘を…明日奈を知っているのか!?」
「同じ仲間として一緒に関わっていましたから。お父さんのこと、明日奈さんは良く話していましたよ。お仕事のこと、責任感の強い人。そして――家族の為に頑張って働いているって」
悠那は話し合いに夢中な大人を他所に、距離を取りながら二人で話しやすい場を作っていく。プライベートに近い会話は外に漏れてしまえば、何が起こるのか予想は出来ない。夢で見た白衣の男が誰かが分かるまではパパを含めた研究所の人には最低限の情報でも、なるべく伝えたくなどなかった。
「明日奈はあっちではどうだったか聞かせて欲しいが…話してもらえないかな?」
「明日奈さんはお茶目な人でしたよ――トップギルド…ここでは会社みたいなものです。社長の補佐官を務めていたのに、とても友好的で明るい子でした」
「明日奈が――お茶目?」
咄嗟に声が出ず、答えかねていると悠那が説明する。
「?えぇ。でも茶目っ気さがギスギスした雰囲気をいつも柔らかくしていて、言う程悪い感じではありませんでしたよ」
悠那が血盟騎士団に入った時は大手ギルドであり、当然ながら多忙を極めていたアスナは効率のみを考えてギルドを運用して他のギルドとの関係をギスギスさせてしまいがちだったのは、大手ギルドの立場を考えれば致し方ない。ノーチラスを復帰させて、彼を補佐にしてからの彼女はとても柔らかくなり、友好さと天然さで近づきたい人も、また増えていた。ギルドでアスナさんの知っている人柄や活躍を話しこんでいると、彰三は少し間をおいて、
「悠那君、それは本当に明日奈の話で間違いは無いんだね」
「私とよく関わっていたアスナさんは、そんな感じでしたよ」
「…そうか。あの子がそんなことを…」
彰三はそう言ってから、物思いから醒めるかのように、
「もしよければ空いた時間に喫茶店で会ってはくれないか。君の知るアスナと私の知っている明日奈は違っていてね。もう少し、詳しく話を聞きたいのだが」
それを聞いた瞬間、ところどころに悠那の脳裏に、
そこには東京都の御徒町から中央区の公共交通機関や料金が表示されていた。
二
悠那は予定の時間よりも五分前に早く到着した。パパに頼んで駅の近くに降ろしてもらい、雑貨ビルや店内を覗き歩きしながら駅の方に行く。平日の昼間に乗る電車は空いていて、混んでいない開放的な空間は非日常に近い。もっと仕事をしている人で詰められた窮屈な空間が日常であれば、これはおかしなことかなと、悠那は後から心づいた。
東京駅から御徒町までは乗り換えせず、御徒町から中央区までは一回の乗り換えで済む。その日の午後一時半、悠那は早歩きで道を歩く人より歩幅を広くし、御徒町にある『ダイシーカフェ』で情報交換をするため、ここに来ていた。雪の積もった少し風のある日で、軽い汗のかいた身体を冷ましてくれて歩き疲れずにすんでいた。
(ユズルの話なら、たしか奥さんと一緒に経営しているんだよね。エギルさんが現実世界に戻っているかは分からないけど…安否も兼ねて確かめないと!)
スマホのマップ機能を頼りに気を集中していたせいか、目的の場所に着けば繁華街とは離れた閑散とした場所にあった。だが、この場所のレトロや煉瓦ある建物や街灯の少ない雰囲気はソードアート・オンラインの第五十層≪アルゲート≫に似ていた。
(な~んとなく雰囲気似ているなぁ。エギルさん…やっぱりどこかで寂しさもあったのかな)
英語で閉店の札の垂れ下がったドアに、まだしわの無い紙が貼られている。用紙も湿っておらず、雨でインクの滲んでいない文字は、出してからそれほど日も経っていないモノだった。
「えぇと…『本日は夫の体調不良もあり、臨時休業させて頂きます。誠に申し訳ありません』う~ん…この張り紙だけじゃ、まだ何も分からないや。でもこの書き方は…多分だけどエギルさんは帰ってきていない可能性があるかな」
軽い調子で言うも、悠那はちょっと、いや、かなり困ってしまった。この『ダイシーカフェ』で集まる約束は絶望的になるし、何より連絡手段が限られていて、残された珪子のラインを頼らなければならない。せめて事件の犯人かソードアート・オンラインをコピーしたゲームの正体を知ってから、彼女には伝えたかった。
「まずいなぁ。茅場さんとの連絡は取れそうにないし、当てずっぽうに動いちゃえばパパに疑われて事件すら調べられなくなりそうだよ」
ここ数日に分けて事件を調査しに街のゲーム屋で話題のゲームを聞き込んでいる。昔に通っていた唄のボイスレッスンを再び受講し、体力も戻り始めた段階で数週間前にレッスンを週三日に増やした。重村徹大の目を欺くのもあれど、一番はボイスレッスンを増やせば、唄の感覚を早く取り戻せるし、その帰りに情報集めをすれば、人目を気にせず事件の細かい内容を調べたりまとめたりができるからだ。
「ふぅ…次は柚季のお母さんがいる中央区の『葛城道場』に行ってみるかな。時間はまだあるし…何か柚季のことが聞けるかもね」
私は途方に暮れるも、回れ右をして御徒町駅に向かう。雪でしっとりと濡れた髪は乾きそうになく、まだ明るい路道に絶え間ない雪がいつまでも降り続いている。それでも雪に怯えずに進めるのは、恐らく事件を調べている柚季に近づいている実感と、必ず協力してくれる珪子の存在に支えられているからだ。
御徒町駅から中央区の築地駅に行く電車まで時間は無く、雪道を軽い足取りで熱く高鳴る鼓動に胸を躍らせたまま急いだ。
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