ずっと漠然と死ぬことが怖いと思っていた。
まだ20数年しか生きていない私にとって死ぬことの意味について考えることなんて殊更無いのが事実だから。
あの人が居なくなってから4年。未だに全てを受け入れたわけじゃ無い。現実に絶望して辛くなってもう全てがどうでも良いやって投げやりになって、悲しいのか憎いのか分からない感情に戸惑って、溢れ出る涙の栓の閉め方が分からずに泣き続けて、それでも何か適当に生きる理由をつけて今まで何となく生きてきた。
私にとって、あの人は全てだった。
一緒に居られればそれで良かった。
けれどそんな風にいくらあの頃を振り返って泣いても、現実が変わったりしない。過去に戻れるようなタイムマシンなんてモノもある訳じゃない。
何を理由にして、この辛く耐えがたい世界で生きていけば良いのかずっと考えてきたけれど、八方塞がりでそのきっかけすら掴めそうにない。
もう、疲れてしまった。
死んで、あの人に会いに行けるなら良いかと考えると、今の私にとってそれは大きな希望になってしまっていた。
会いたい。
優しくて恥ずかしがり屋で、私の事を常に考えていてくれるあの人に会いたい。会って目一杯抱きしめたい。触れ合って笑いながら一緒に美味しいものを食べてテレビを見て、内浦の海を二人で泳ぎたい。
死ぬ事で、擦り切れる精神も身も楽になるなら、あの人のいる場所へと行けるのなら、きっとその方が良い。
握りしめた受話器の奥から、数回のコール音が聞こえると、留守番電話サービスですと言う機械的な女性の声に切り替わった。
最後にメッセージを残したかったけれど、こんな日も登っていない深い時間帯では当たり前だけれど電話になんて出ない。
言いたかった言葉を留守番電話に残すと、塗装の剥げた緑色の受話器を置いて電話ボックスの外へ出る。まだ真っ暗な夜闇の中、ゴルフバックをしっかりと背負い数時間前まで降っていた雨で濡れた山道を踏み締めて上へ上へと足を進める。
「何の電話をしていたの。」
長い漆を塗ったような艶の黒髪を後ろで縛り帽子を深く被ったマリが一歩後ろから私に訊ねる。
横目で見ると操作していた携帯電話ディスプレイの画面光で顔が照らされていた。目元が吊り上がり端正で綺麗な顔立ちは、故郷の内浦にいる親友の黒澤ダイヤを連想させた。
この子のマリという名前といい、昔の事を色々と思い出してしまう。
「少し、電話しときたかっただけ。たいした事じゃない。」
「……そう、」
後ろから私の顔をまじまじと見る視線が感じられた。私の事を根掘り葉掘り聞いて来ず引き下がったのは、この子が賢いからだろう。空気を読む力に長けている気がする。彼女が言っていた境遇からなのか、そもそものこの子の性格からなのかは分からないけれど…、目の前の事に神経を尖らせていたい私にとってはその方が都合が良い。
「この先、まだ少し歩く。」
マリはそう言って携帯に目を落とした。
携帯電話の検索マップを使って、殺した少年Bの携帯から聞き出した少年Aの居る別荘とやらの住所に向かっている。コンビニで買った地図から割り出すよりも携帯の位置情報を使った方が手間は大きく省ける。警察などに私の位置を割り出される恐れがあったから携帯は内浦の海に捨てて来ていたから助かった。
吹く風が冷たい。厚手の黒いジャンパーを着ていても寒さを感じる。真っ暗闇にポツポツと浮かぶ街頭の下を通る度に私やマリの吐く白い息が見える。
「寒いね。マフラーとか貸してあげれば良かった。」
「ううん、大丈夫。そこまでしてもらわなくても。」
「松浦さんは、寒いのと暑いのどっちが好き?」
先ほどまで口数が少なかった少女が少し声を弾ませる。私の人となりを少しでも知りたいのだろう。人間性の部分には触れずにそれとなく私という人を知ろうとしている。当たり障りのない会話の仕方から、やっぱりこの子からは良識の高さが伺える。それこそ、私と違って学生時代から大人っぽかった親友の2人を見ているようだ。
「暑いのかな。」
「夏の方が好きなのかぁ。実は私は冬なんだよね。夏って脱いでも脱いでも暑いじゃん?その上冬は着込めばあったかい。」
暑いのが嫌、と言う気持ちになった事が私にはあまりない。澄み切った青い空に放たれる太陽光の下で育ったからだろうか。内浦の夏は暑いけれど、あの湿り気のある潮風と灼熱の太陽が好きだった。
「海が、好きなんだ。」
「海?へー、確かに松浦さん海とか似合いそう!」
そう言って少し後ろを歩いていた彼女は私の隣に足並みを揃えた。声が弾んでいる証拠に上機嫌そうだ。
「海に潜っていると、嫌な事を忘れられる。青く澄んだ海中から上を見上げると太陽の光に揺られる水面が幻想的で綺麗で…。」
この4年、あの人を失ってから私が私で居られる場所だった。
「その、婚約者だった人も、海が好きだったの?」
話の流れから上手く私の事を知ろうと当たり障りなく探りを入れてくる。
「うん。」
私の返事にどう返そうか考えあぐねているのか、少し沈黙が流れる。
この子とは、恐らくもう2度と会う事は無い。だから最後に思い出話をする程度になら、私の事を話しても良いのかもしれない。
「彼とは幼馴染だったの。」
私の突然の言葉に少女が小さく声を漏らすのが聞こえた。不均等に並ぶ街灯と携帯の明かりが彼女の顔を照らしているのだろうけれど私は真っ直ぐ前だけを向いて、独り言のように続ける。
「一緒に海辺の街で育って、昔はよく一緒に子どもっぽい悪戯とか悪さをしたりする悪友って感じだったんだけれど、成長するにつれて大人っぽく優しくなる彼を好きになって…、何でだろうって初めての気持ちにヤキモキしたりなんかして…。」
小さい頃私の方が高かった身長を抜いて、一丁前に背だけ大きくなったと思ったら、無意識に私の気持ちをくすぐるような言葉や仕草をして。気がつけば、彼を好きになっていた。
一つ下の幼馴染の千歌や曜にも懐かれていて、それを見て強烈な嫉妬心が芽生えたり、言葉一つで勝手に傷ついたり喜んだり。
そして、そんな心を抱えながら高校を卒業して、海外に単身で留学している最中、祖父が亡くなった。私は家業であるダイビングショップを継ごうと決意して一年で留学を切り上げて帰ってくると、
『俺にも手伝わせて欲しい』
そう言われた時はすごく嬉しかった。私の事を見ていてくれる。そして、少しでも一緒に居られると思い、いつでも大歓迎とそう言い彼に家の合鍵を渡した。
そして彼は大学に通いながら私の家を手伝いに来てくれた。
それから2年が経過して、私は彼に想いを打ち明けた。
好きな人でも居たらどうしよう。
断られたらどうしよう。
何日も何日も悩み、勇気を出して私から告白した。
『俺も、果南の事が好き。その…こんな俺でよければ、俺からもよろしくお願いします。』
そう言ってくれた時、感情を抑えきれなくなり、目一杯に抱き締めたのを覚えている。
そして、その日にキスもして、身体も重ねた。
付き合ってすぐだったけれど私はそんな気はしなかった。ずっと一緒に居たから、早く彼の全てが欲しかった。
彼は、大学卒業後、地元の沼津市役所の職員になった。育った地元に恩返しがしたいと言っていた。とても誇らしかったし、彼らしいなとも思った。
それから1年が経ったある日。定期健康検診で私は子供が産めない身体だと言われた。所謂不妊症と言うやつで、その前年から疑いがあると言われていたのだ。大きなショックを受けたと同時に、ある事が頭をよぎった。
もし、彼に愛想を尽かされたらどうしよう。
そんな事、彼が言うはずも無いとは心では分かっていたけれど、とてつも無く怖かった。もし、女としての価値が無いと彼に捨てたれたらどうしようと彼に打ち明けられないでいた。
けれど、数日悩みに悩んで私は打ち明ける事にした。私は、子どもが産めない身体なの、と。
何を言われるのか、どんな顔をするのか怖かったけれど、私のその心配は杞憂に終わる。
『辛かったね。悩んでたのに、気づけなくてごめんね。』
あぁこの人となら私は何処へでも行けると確信した瞬間だった。私が好きな彼は、私の事を1番に考えてくれる。こんな幸せな事があるのかと。
不妊症の治療も続けながら、いつか彼との子ども産めたらなと、前向きに楽観的な考えが出来るようにもなった。
その後すぐ、彼は突然に私にプロポーズをしてくれた。
彼が社会人になって、気付けば同棲していた実家のダイビングショップの何気ない食卓で、急に改まった顔をして真面目な顔をして頭を下げて。
私の返事に怯えていたのか、身体が震えていたのを見て少し笑ってしまった。
だって、私の答えなんてとうの昔から決まっているのだから。
私は彼の手を取った。
彼は喜びで少し涙ぐんでいた。
これから、何にも変え難い私の幸せが続いていくのだと疑わなかった。
その数日後、私は最愛の人を、少年法と言う箱に囲われた未成年の不良少年達に理不尽にも奪われた。
少女は何も言わずに黙って歩く。
少し話し過ぎてしまったかなと、後悔した。
「優しい、人だったんですね。」
「うん。そう言えば、海の話で一つ思い出したよ。」
「え?」
彼女は私のその言葉に声を少し裏返して反応した。
「彼、昔中学生くらいの時にさ、一緒に海でダイビングしてる時に私に言った言葉があって。何気なく言った言葉なんだろうけど、それが何故か嬉しくて。」
「何を言われたの?」
「ーー人魚みたいだねって」
背丈は負けても泳ぎでは負けないとか、そんな風に見栄張ってた時期だったかな。
感心した目で、何気なくボソリと言った彼のその言葉。人魚、美しく綺麗な人魚。何だか嬉しかった。
「きっと、その人は幸せだったと思うよ。」
「え、?」
「だって、松浦さん優しくて綺麗だもん。それこそ本当の人魚姫みたいにさ。」
人魚姫か。
最後は王子様に気づいてもらえず幸せにもなれずに泡となって消えてしまう物語。
綺麗で美しくて心優しい人魚姫の最後は何とも呆気無い。せめて、天国では王子様に会えてたらいいな、なんて思った。
私も、彼に会えるかな。
会えると良いな。
「着いた、」
そうマリの声が聞こえると、私は我に返って顔を上げた。
開けた場所に、別荘のような木造風の建物がいくつか並んでいた。シーズンオフからか明かりは殆ど付いていない。
「えっと、あの家。」
マリが指差す方を見ると、二階建ての戸建てだった。
日が登る前の時間で明かりは付いていないが中を確認してみなければ分からない。
私はマリの方に向き直し、背負っていたゴルフバックを置いて視線を合わせるように少し屈み込んだ。
「ありがとう。もうここまでで大丈夫。この猟銃も貸してくれてありがとう。もし警察とかに聞かれたらドアが空いていて盗まれてたって言うんだよ?」
「でも、」
マリは私の目をしっかりと見ている。その目は動揺しているようにも見えたけれど、恐らく心配してくれているのだろう。
「もうこれ以上迷惑はかけられない。十分すぎるくらい助けてもらった。」
「私も手伝うよ?どうせ、行くあてなんて無いし…」
この子もこの子で辛い境遇を背負っている。人を殺したと言う点では、私と同じ。でも、この子にも未来がある。環境さえ良ければこの子ならいつかきっと幸せになれると、少しの間一緒にいてそう思えた。
「いい?マリは、私みたいになっちゃダメだから。それだけは覚えていて。あなたならきっと、いつか幸せになれる日が来るから。私が保証する。」
だから、
そう言って、マリの携帯電話をそっと持ち取り操作する。記憶にあるあの子の電話番号をメモ帳に書き写す。その電話番号の持ち主の名前とその人が住んでいる私の家から見えるホテルの名前も添えて。
「何かあったらこの人に相談してみて。」
「おはら…ま、り?」
私はコクリと頷くと、彼女に携帯電話を返した。
「きっと、力になってくれるから。」
そう言うと、彼女はじっと私をみて首を振った。
「やだよ。松浦さんが助けてよ。これが終わったら2人でどこかへ隠れて暮らそうよ。」
私は首を振り返した。
その約束は、できそうに無いから。
「嫌。どこにも行かないで…。こんなの、まだあって数時間かそこらだからバカだって思うけど、松浦さんともっとお話ししてみたいの。私を1人にしないで…」
1人にしないで。その言葉が何故か強くのしかかる。
何故なら、1人の苦しみを痛いほど知っているから。
辛くて心にぽっかりと穴が空いて、何も感じられなくなるあの感覚。
それでも、私にはやらなければならない事がある。この手で、奴を地獄の底へと突き落とさなければならない。私の最愛の人を無慈悲にも奪った奴を、この手で…。
「1人になんかさせない。だから、困ったらその人に連絡するといい。私のよく知る人だから。もしかしたら私ともまた会えるかもしれないし。」
「本当に?」
「うん。」
そう言って頷く。大きく力強く。
マリは少し考え込むと、コクリと首を縦に振り分かったと答えた。
「絶対、またもう一度会おうね。」
そう言って、彼女はゆっくりと来た道を引き返して行った。
その後ろ姿を見送り、見えなくなると私は猟銃の入ったゴルフバックを背負い、奴が居るという別荘を見上げた。
雨上がりの風が少し強めに吹きつけたけれど今の私には寒さなんてものは感じられなかった。
残り2話です。
あと少しだけお付き合いください。