コロシアム。騎士見習い同士が各々の研鑽を示し、その門出を占う場所。そこでの結果は後の進路にも影響するのだから騎士見習い達はそれはもう必死に鎬を削り合う。その様は観ていて白熱もすれば、滑稽でもあり、だからこそ見世物としての価値もあるので暇な貴族連中も騎士学校の生徒と共に唾と野次を飛ばすのに躍起になっている。そんなこんなで外は非常に喧しいことこの上ない。
それに対して此処は比較的静かだった。外の喧騒がどこか遠くのものに感じられる此処は闘技場の入り口だった。ここを通って、騎士は自分の闘うべき敵と相見える。だからなのか、闘いの場に向かう者の最後の憩いの場として有るここは、コロシアムにあって精神を鎮めるにはもってこいの静謐さを保たれている。
そこに、彼女はいた。選手ではない。ここに来る誰かを待って、彼女は石造りのひんやりとした壁にもたれかかっていた。
ある衝動に駆られて、彼女はここに居る。だからといってもう直ぐここに来るであろうあの女になにを言えばいいのか、まだ分からずにいる。
心の整理がついていない。それでも、実際に相対せば自ずとその目的は果たされるであろうという確信があった。そして、はたしてその時が来た。
カツン、と。異様にその跫音は響いて聞こえた。思わず顔を跳ね上げる。来たと、そう思った。姿も未だ見えていないというのに、彼女は得体の知れないプレッシャーを感じて底冷えするような不吉な予感を覚えた。
ソレはずるりと、通路の奥の影から這い出て来たように見えた。実際はそんなことはないのだろう、そうやって現れたその女はきっと、ただ向こう側からただ歩いてやって来ただけなのだ。それでも、凶兆を思わせるその女の粘ついた不気味さが、彼女を得体の知れないバケモノのように幻視させていた。
ビビるな!
鼓舞するように両頬に平手を打ち付ける。気付けだ。乾いた痛みが呑まれかけていた自我を覚醒させる。そうしてやっと、壁から背を離して、彼女は女に向き合うことが出来た。
死人のような白い肌を貼り付けた女だった。とてもではないが血が通っているようには見えない。肩まで伸びた頭髪があまり見かけない漆黒であるからか、余計青白く見える。
そして、目。その眼だ。それが何より彼女は恐ろしかった。女の髪と同様、真っ黒な目玉だった。だけれど、そこに感じられる意思は黒よりももっと黒い。コールタールよりも粘着質で、どす黒くて、絶望的な双眼がそこにはあった。彼女にはそれが、肥溜めに溺れ掛けているドブネズミが孕んでいる色と同じモノに感じられた。それが精巧な人形のような細面の上に乗っかっているのだから、不気味なことこの上ない。
ソレが幽鬼のようなふらついた足取りで近付いてくる。その視線は胡乱げで、足元を向いてはいるが何処を見ているのかはさっぱり分からない。
「あ?」
やっと彼女の存在に気付いたのか、女の視線が持ち上げられる。
視線が交差する。相変わらず、光沢のない眼だと思った。こちらを覗くその眼には、とてもではないが自分の姿が映っているとは思えなかった。ただ、底無し沼のような闇が広がっているだけだ。
先に視線を切ったのは彼女の方だった。なんとなく、再び呑み込まれかけた雰囲気を感じ取ったから。
「ええと、私を待ってたの?」
気さくに話掛けてくるソレに、あまりにもイメージから乖離したその声音に怖気を感じつつ彼女は「ええ」と返した。
それに対して女の方は頬を掻きながら困った様に肩を竦めた。
「ああ、ごめんなさいね。悪気はないんだけど、どちら様だっけ」
期せぬ言葉に、思わず歯噛みする。面識はある。何しろついこの間、この先の闘技場で自分らは確かに闘ったのだ。結果は彼女にとって惨憺たるものではあったが、まさか歯牙にすらかけられていなかったとは。
目に見えて膨れ上がった敵愾心に、女の方はバツの悪そうな顔をするだけだった。
「いや、顔は覚えているのよ? ただ、私ってあまり物覚えがいいほうじゃないから。顔と名前が一致しないのよねぇ。悪いけど改めて教えて貰えるかしら」
「セリカよ。下の方は.........覚えてもらわなくてもいいわ。この前、貴女と闘った」
「うん、覚えてる。それで? 私になにか用?」
用。用か。用ならある。でも、何かして欲しい事があるとか、お願いがあるとかそういうことでは無い。伝えたい思いがあった。どうしても言わなければならない言葉があった。だからセリカはここに居る。
そして、一瞬の躊躇いの後、セリカは毅然として言い放った。
「貴女のやり方は間違っている」
「.........ふぅん」
突然突き付けられた否定の言葉に、女は一時驚いたようだったがすぐさま表情を変えた。眼を蛇のように細めて、どうやって嬲ろうかと獲物を品定めするかのような挑発的な視線に切り替わる。
それを見てやはり先程の一見友好的な態度は擬態だったかとセリカは確信した。こちらが、女の本性。
「なんの事だかサッパリね。何を言いに来たのあんたは」
「力の使い方。貴女のように誰かを傷つけ、貶めるためにそれを振るうなんて絶対に間違ってる。強さの本質はきっと、自分以外の誰かを守るとか、そういう正しさの元にある。それを、この先に待っているアイツが、貴女に教えてくれる。.........言いたかったのはそれだけ」
自分の力量では女にそれを伝えることが出来なかった。だからそれを言葉にしに来た。悔しいが、自分よりもきっと強い幼馴染にそれを託した。こんな負け惜しみしか言いに来れないような自分に恥ずかしさを覚えながら 、それでも彼女は女に一言申さずにはいられなかったのだ。
言いたいことは言い切った。「邪魔したわね」と女に言葉を掛けながらこの場を後にしようとするセリカの背に、「待ちなさいよ」と女の声が投げかけられた。
「力の本質ですって? 私より弱っちいあんたに、一体チカラの何が分かってるって言うの?」
女の挑戦的な言葉に、セリカは足を止めた。女の言葉は、全ては否定しきれない。セリカが彼女より弱いということは、この間の一戦からしても覆し切れない事実だった。一目瞭然の力の差がセリカと女の間にはあった。
それでも、真の正しさが何であるかはセリカにも分かっているつもりだった。
「確かに、私は貴女よりは弱い。それでも正しさがどういうモノかは分かる。そういう風に生きてきた人達を、そうであろうとする者達を知っているからだ。だからこそ、私もそうでありたいと思う」
「へぇ。じゃあその正しさっていうのは誰が決めたの? あなた? 剣聖? それとも神様?」
「分からない。それでも、過去から連綿と誰かが紡いできたソレは確かにある。そう信じている。普通に生きていれば、誰もがそれを理解出来るはずだ」
そのときセリカはなぜだか、きっと気のせいだと思うが、「普通」と口にした瞬間に、女の気配がそれ以前よりももっと酷く冷めたものに変わったような気がした。
「なにが言いたいかは分かんないけど、兎に角あんたは力は正しさとやらの元にあるもんで、正しい奴はみぃんな強いってことを言いたいのね。だから私はその正しい生き方をしてる奴に負けて、そいつを知れって、そう言いたいのね」
言い方は悪いし捻くれてはいるが、概ね合っていたのでセリカは頷いた。それを見て、女の紅い唇が亀裂を思わせる笑みを浮かべた。それに対してセリカは、言い様のない不吉な予感を覚えた。
「ふぅん。それじゃあ聞くけどさ」
あんたのお父さんとお母さんは正しくないから死んだっていうことなのね?
言葉を解するよりも早く、既に身体が動いていた。腰に佩いていた剣を抜刀し、迅速に殺意を実行すべく肉体に染み付いた鍛錬の成果を再現しようとしていた。
だがそれは他でもない抹殺の対象である女に阻止された。
いつの間に近付かれたのか、女はセリカの目と鼻の先まで既に接近していて、剣の柄に手を掛けたセリカの腕に手を添えて抜刀を阻止していた。
動かない。セリカは冷や汗をかいた。思いっきり力を込めて抜刀せんと踏ん張っているのに、その病的な細腕のどこに力が蓄えられているのか、ただ手を添えられているだけなのに、セリカの腕は微動だにしない。
驚愕の最中にいるセリカの耳元に、息が掛かるくらい近くに女の顔が近づく。それから、セリカの耳の中に悪意が注ぎ込まれた。
「そういうわけじゃないんでしょうね。きっと善良な両親だったんでしょう。でも死んだ。そして、それを為した殺人鬼には未だ応報が成されてないときた。何故かしらね。殺人鬼の方が正しかったから?」
「前提が違うのよ。正しいから強いんじゃない。強いから正しいの。あなたの信じる正義の歴史っていうのはね、それ以外の奴を正義の味方とやらが皆殺しにして出来た歴史なの」
「あなたの両親が死んだのは正しくなかったからじゃない。弱かったからよ。あなたの両親を殺した殺人鬼が今ものうのうと生きているのは正しかったからじゃない。強かったからよ」
「そんな暴力の世界を見てきたあなたなら、本当のセカイのカタチっていうのが実は分かってるんじゃないの?」
「知っているでしょう? ___チカラは、全てを肯定する」
*
物心ついたときに俺は私を自覚した。
俺には前世の記憶がある。といってもロクな人生を送って来なかったので、ロクな記憶がなかったんですけどね。なんかやたらと豊富なオタ知識とか薄い本並のエロ知識しかない。この記憶要る?
とまぁゴミとクズの塊みたいな物の役にも立たん前世の記憶であるが、少なくとも、今世と前世の世界観の違いを理解することには役立った。
今生の俺の舞台は俗にいう剣と魔法のファンタジーってヤツだ。やったね! 魔法が使えるよ! イェーイ。
そうと分かれば早速本とか読み漁ったり身体を鍛え始めるのが前世持ちのサガというものだろうが、慌てて行動に移さないのがニートクオリティ。
先ずやることは容姿の確認である。これ常識。APPの善し悪しは今後長い人生にうんざりするほど関わってきます。もう低APPの人生というのは嫌というほど味わってきたので、これが悪かったらリセット案件ですね。いやリセットせんけど。
「うーん、これは美少女ね。間違いない」
薄々と気付いている人もいるかもだけど、一応説明しておくと俺の前世は男で、今世は女です。なんか口調が性別に引っ張られてるのはそのせい。
にしても、鏡に映る幼女のあどけない美しさのなんたることかよ。まだ幼さはあるけどこれは将来美人さんですね。見ろよこの黒髪の艶やかな煌めき。これはこの先チヤホヤされること請け合い。待ち遠しいぜ。一回美少女に転生してヨイショされまくるのが夢だったんだよぼかぁ。
「なに鏡の前で突っ立ってアホなこと言ってんのさエンヴィ。気持ち悪いぞお前」
鏡越しにひょこっと金髪蒼眼の将来イケメンが確約されたも同然のがきんちょがそんな失礼なことを言ってきた。
こいつはシリウス君5歳児。俺の許嫁らしい。はぁって感じ。糞ガキが、こちとら美少女やぞ?んな口利いていいと思ってんのかオォン?
因みにエンヴィっていうのは俺の事。あだ名だけどね。本名エンビディア・オブセシオンという。家はそこそこ有名なとこの貴族らしく、早速こうして政略結婚紛いなことをさせられている。なんか俺達の親同士が仲良いとかで口約束でこうなったらしい。もうお前らで結婚しとけよと、おっさん同士釣り合ってるよ。
まあそんなことは置いといて、ここは前世込みで年長者である俺からシリウス君を叱らないとだ。不服ではあるが将来の旦那様らしいので、今のような思ったことを直ぐに口に出すようなアホでは貴族社会は恐らく生きていけないであろうから俺が矯正せねばな。
「はぁん? アホって言う方がアホなのよ、そっちこそンな青チョビた顔で私の部屋に入って来ないでくれないかしら。っていうか随分と汚れてるけどまさか外で泥遊びして来た帰りに私のとこ寄ったんじゃないでしょうねこの馬鹿」
「はぁ? アホな奴にアホって言って何が悪いんだよ。ちなみにお前の方が馬鹿だ。アホ馬鹿。あっそうそう、そんなアホ馬鹿のお前に土産があってきたんだ感謝しろアホ馬鹿」
「アホ馬鹿アホ馬鹿連呼すんな、ムカつくんだよアホ馬鹿。___っておまっ、それってまさか」
高度なやり取りをしている最中、両手を丸めて合わせた中身をシリウスは俺に見せつけてきた。
それまでなんじゃらほいと呑気に訝しんでいた俺は、薄らと覗く小さな緑の群れを見て顔を引き攣らせた。
「おまっ、やめろ。それだけはやめろ。落ち着け、話し合おう」
「苦労したんだぜコレ集めんの。こんだけ頑張ったんだから報われるべきだ。そうだろ?」
そう言って、ニヤついた奴はその手を解放した。そしてばら撒かれる飛蝗、総勢8匹。それが私の部屋に解き放たれた。
悲鳴と共に俺は誓った。絶対こいつとの婚約は解消してやると。