彼は、英雄とは呼ばれずに   作:トド

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特別編 『日頃の感謝と一緒に』(後編)

「よぉーし、みんな、準備はできたわね。久しぶりの『バルネアさんのお料理教室』を始めるわよ。今回は、年に一度のバレンタインチョコレートの作り方よ」

 バルネアは心底楽しそうに、笑顔で料理教室の開始を宣言する。

 

「はい!」

 エプロン姿のメルエーナはしっかりとした声で応え、

「はい! やってやります!」

 同じくエプロン姿のリリィは、少し興奮気味に応える。だが……。

 

「……あの、私も参加しないと駄目なんですか、これ?」

 一人のりが悪いイルリアが、嘆息混じりにバルネアに尋ねる。

 

「もちろん参加してもらうわよ。もう、私、聞いちゃったのよ。リアちゃんが、お爺さんへのチョコを買って済ませようとしているって」

 バルネアはそう言って、頬を膨らませる。

 

「日頃、私のお料理教室に参加している生徒さんには、きちんと手作りチョコを作れるようになってもらいたいの。やっぱり、市販のものを貰うのと、手作りのものを貰うのでは、嬉しさが違うもの。

 それに、リアちゃんのお婆さんにも、『花嫁修業として、是非やらせて欲しい』とお願いされたんだから」

 バルネアは得意げに胸を張る。それが、なんとも言えず可愛らしい。

 本当に、この人が母と大差がない年齢だとは、メルエーナには思えない。

 

「ああ、なるほど。お婆ちゃんが、『今日のお仕事はお爺さんが張り切ってやるから、メルちゃん達と遊んできなさい』と言っていたのは、そういうわけですか……」

 まんまと祖母の術中にハマり、<パニヨン>に来るや否やバルネアに捕まったイルリアは、自分の置かれた状況を理解して、再び嘆息する。

 

「すでに退路も塞がれているわけですか、そうですか……」

 イルリアは渋々、一人だけ手に持ったままだったエプロンを身につける。

 

「もう、そんな顔しないの。大丈夫よ。市販のチョコレートを使った簡単なレシピだから。でも、味は保証するわよ」

 バルネアは楽しそうに笑顔で言うが、イルリアはやはり乗り気ではないようだった。

 

 しかし、そこで思わぬ人物がイルリアを窘めた。

 

「駄目ですよ、イルリアさん! バレンタインは戦場です! そんな気持ちでは大怪我をしますよ!」

 そんな声を上げたのは、黒髪の少女、リリィだった。 

 

「どっ、どうしたんですか、リリィさん?」

「えっ? ちょっと、リリィ、何をそんなに鼻息を荒くしているのよ?」

 リリィの迫力のこもった声と表情に気圧されながらも、メルエーナ達は尋ね返す。

 

「いいですか? もう一度言いますが、バレンタインは戦場です。その日、その場所で役に立つのは、チョコレートという武器だけです! 自分の運命を預ける武器の手入れを疎かにしていいわけがないじゃあありませんか!」

 リリィはそこまで言うと、バルネアの方を向く。

 

 正直な話、その鬼気迫る表情をメルエーナは少し怖いと思ってしまった。

 

「バルネアさん、いえ、バルネア先生! どうか、どうか私に、バレンタインでも強く生きるための武器を、絶品のチョコレートの作り方を教えて下さい!」

「ええ。もちろんよ。やっぱり、バレンタインは、女の子にとって重大なイベントですものね」

 

 噛み合っているような、そうでもないような返答をし、バルネアは嬉しそうに微笑む。

 

 何か、自分だけこの会話の行間を読めていないのではと不安になったメルエーナだったが、イルリアの方を見ると、彼女も困惑した表情を浮かべていたので、少しだけ安心した。

 

「ええ、重要なイベントです! 今後の人生を変える可能性のある戦いですから!」

 リリィは気合が入りすぎるほど入っている。

 

「どうしたのよ、リリィ? 貴女らしくもない。もしかして、シアさんに何か言われたの?」

 イルリアは心配して声をかけたのだが、その一言に、リリィの体が小刻みに震え始める。

 

「ははっ、そうですよね。私の場合、誰か好きな人ができたとか考えられないですよね。お師匠様と何かあったと思われるのが先ですよね。……あはは……。そのとおりだから、何も反論できないんですけどね」

 リリィは乾いた笑いを浮かべ、がっくりと肩を落とす。

 

「いったいどうされたんですか、リリィさん?」

 普段では考えられないあまりの奇行に、メルエーナが心配してリリィに歩み寄る。すると、彼女は、メルエーナの胸に飛び込んできた。

 

「メル! 私も彼氏が欲しい! そして、お師匠様を見返してやりたいの!」

 そして、リリィは心からの叫びを口にしたのであった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 朝から晩まで魔法の勉強と雑務に追われるリリィは、毎日を懸命に頑張っている。

 今も、年の割に健啖なお師匠様のために、夕食を真心込めて作っていた。だが、そんな彼女に、料理を手伝いもしようとせずに、ただ完成を食卓のいつもの席に座るこの白髪の老婆――エリンシアは、

 

「華がないねぇ~。年頃の娘が、年に一度のイベントにも参加しないなんて、私以上に枯れているとしか思えないよ」

 

 聞こえよがしにそんなことを言うのである。

 

「ああ、寂しい青春だねぇ。私が同じ年頃のときは、たくさんのロマンスが、それこそ枚挙の暇もないほどあったっていうのに」

 と嘆息混じりに言うのである。

 

 それらを懸命に聞き流していたリリィだったが、あまりにもグチグチ続くエリンシアの嫌味に、流石に我慢の限界を迎えた。

 

「ああっ、もう。いいじゃあないですか! 私は魔法の勉強とお師匠様のお世話で忙しいんです! それに、あのイルリアだって、まだ彼氏の一人もいないっていっていたじゃあないですか!」

 イルリアは、師匠伝いに知り合った友人である。

 

 なんでも、彼女に頼まれて、魔法を溜めておく事ができる魔法道具に、定期的にお師匠様が魔法を込めているのだとか。

 

『ありがたいお得意様さ。若いのに、金払いもいいからね』

 と、エリンシアにとっては一番の上客であるらしい。

 もっとも、リリィは「あんたにはまだ早い」と言われ、魔法を込めているところをみたことはないのだが。

 

 まぁ、そのおかげで、自分にもメルエーナに続いて新しい友人ができた。

 それに、驚いたことにイルリアは、メルエーナともすでに友人だったのだ。そのおかげで、たまの休日に三人で買い物にでかけたり、遊んだりする仲のいい友人同士になることができたのである。

 

「あのねぇ。あのイルリア嬢ちゃんは、いいよってくる男が多いけれど、『あえて』彼氏を作っていないだけなんだよ。あれほど器量良しでスタイルもいいんだ。そりゃあ、男たちが放っておかないだろうさね。でも、あんたの場合は……」

 エリンシアは、リリィの頭から足元まで一瞥し、「ふぅ~」とため息をつく。

 

自分が、容姿もぱっとしないばかりか、イルリアのような魅惑のプロポーションを持っていないことは重々承知の上だが、流石にこういう態度は腹が立つ。

 

「余計なお世話です! 私が異性にモテナイのは自分がよく分かっています! いいじゃあないですか。私は魔法を使えるようになるという目標に向かって、脇目も振らず頑張っているんですから!」

「それじゃあ、駄目なんだよ。そういった逃避は、性格を捻じ曲げる原因になってしまうんだ。それが分からないようでは、まだまだ魔法の基礎の練習にも進ませられないよ」

 

 お師匠様の駄目だしに、リリィは「そんな!」と抗議の声を上げる。

 しかし、エリンシアは腹の立つ笑顔で、

 

「悔しかったら、好みの男にチョコの一つでも渡してみるんだね。まぁ、あんたには敷居が高すぎるかもしれないけどね」

 

 そう言って、「ああ、我が弟子ながら情けない」と天を仰ぐ。

 

 ……ぶちっ、と頭の部分の何かが切れたような気がした。

 

「いいですよ! チョコの一つや二つ、渡してみせますよ!」

 リリィは調理の手を止めて、お師匠様に啖呵を切る。

 

「ああ、義理チョコを渡して、ハイ終わりってわけだね。……って、あんたは、そもそも義理チョコを渡す相手さえいないんじゃあ……」

「私を馬鹿にしすぎです! 義理でもなんでもなく、本命チョコを渡したい相手くらいいます!」

 憐憫の目を向けてくるエリンシアに、リリィは激怒する。

 

「ほう、それは意外だね。それじゃあ、あんたの覚悟を見せてもらおうじゃあないか。本当に、そんな相手がいるんならね」

 リリィにとって、そう言って笑うお師匠様の顔は、憎らしことこの上なかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「それは、辛かったですね、リリィさん」

「ううっ。私にだって、チョコレートを渡したい相手くらいいるもん……」

 メルエーナに抱きしめられながら、リリィは全てを吐露し、涙を瞳に溜める。

 

「……いや、その、なんかごめんね。貴女にとってそこまで切羽詰まっているものだとは思わなかったから」

 話を聞いて、思わぬところで自分の存在が、ここまでリリィを追い詰めるきっかけになっていたことを知り、イルリアが謝ったが、「そんな、イルリアは悪くないわ」とリリィは首を横に振る。

 

「そう。そんな事があったのね」

 今まで見守っていたバルネアが、リリィに歩み寄り、彼女の頭を優しく撫でた。

 

「大丈夫よ。私がついているわ。こうなったら、貰った相手が感激してしまうようなチョコレートを作って渡すことにしましょう、リリィちゃん」

「うっ、うううっ、バルネアさ~ん」

 リリィはイルリアから離れ、今度はバルネアに抱きついて涙を流す。

 

 そして、リリィが泣き止むのを待ち、簡単なレシピでの絶品チョコ作りは変更された。

 

 メルエーナ、イルリア、そしてリリィは、それぞれ別の、少し難度の高いチョコ作りをすることに変更となってしまったのだ。

 だが、メルエーナ達はそのことに不服はなかった。

 

 何故なら……

 

「で、誰にチョコレートを上げるつもりなのかしら? 教えてくれないと、どんなチョコレートがいいかわからないわ」

「そうよ。言い辛いとは思うけど、ここには私達しかいないんだから、安心しなさい。他言はしないわ」

 さも優しくさからだと言わんばかりな声色で尋ねる、バルネアとイルリア。

 

 けれど、それを見ていたメルエーナは、二人が好奇心からリリィがチョコレートを渡す相手を知りたいのではないかと勘ぐってしまいそうになる。

 

 だが、正直、メルエーナ自身も気にならないと言えば嘘になるので、止めはしない。

 

 バレンタインと恋の話は切っても来れない関係なのだと、メルエーナは理解したのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 バレンタインデー当日の午後。

 イルリアは、一人歩いてその場所に来ていた。

 

 平日の午後ということもあり、他の人はほとんどいない。

 もともと、この場所が賑やかになるということはない。何故ならここは、墓地なのだから。

 

 今朝、お爺ちゃんにチョコレートを手渡すと、お爺ちゃんは涙を目に溜めながら喜んでいた。

 普段、あまり料理をしない孫の手作りということが、それほど嬉しかったのだろう。

 

 作るのは大変だったし、苦労もした。けれど、あれほど喜んでくれるのであれば、頑張ったかいもあったというものだ。

 

「…………」

 イルリアは目的の墓石の前にたどり着くと、周りの掃除をし、花を供えた。

 普段であれば、後は、神様に祈りを捧げるだけで終わりなのだが、今日は違う。

 

 イルリアは、カバンから取り出した紙の包みを墓石の前に置いて、それを開く。中身は、お爺ちゃんに渡したものとは違うチョコレートが少し入っていた。

 

「……お父さん。私ね、初めてチョコレートを手作りしてみたんだ。だから、お父さんにも食べてもらいたいなって思って……」

 墓石の前に食べ物を供えるなど不作法もいいところだが、幸い周りに人はいないし、年に一度のバレンタインなのだ。神様も大目に見てくれるに違いない。

 

「初めてのバレンタインチョコがこんなに遅くなってごめんね。お父さん、甘いものが好きだったのに……」

 イルリアはそこまで口にすると、後は心のなかで最近の出来事を亡き父に報告した。

 いつもと同じ、一方的な報告。でも、イルリアにとって、この時間はとても大切なものだ。

 

 やがて、イルリアは近況を報告し終え、父の墓石に背を向けて家路に就こうとした。

 

 だがそこで、不意に少し強めの風が巻き起こった。

 イルリアは思わず目を閉じてしまった。

 

「なんなのよ、いったい」

 父との会話の余韻を楽しんでいたイルリアは、しかしそこでとあることに気づき、振り返る。

 

 彼女は、供えたチョコレートが散らばってしまっているのではと危惧したのだ。

 

「えっ……」 

 チョコレートは無くなってしまっていた。けれど、何故かそれを包んでいた袋だけが、墓石の上に残っていた。

 明らかに重量の軽い包み紙だけが残って、チョコレートだけが無くなっていたのだ。

 

 辺りを探しても、どこにもチョコレートは落ちていない。そのことを確認したイルリアは、にっこり微笑んだ。大粒の涙を、ボロボロと零しながら。 

 

「また来年も、チョコレートを作ってくるからね、お父さん」

 イルリアはそう約束をし、踵を返して今度こそ家路に就くのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 お得意様の依頼ということで、自ら足を運んで仕事をしてきたエリンシアが帰ってきた。

 

「やれやれ。疲れたねぇ。お昼を食べている暇もなかったから、お腹も空いたし、散々だよ」

 エリンシアは愚痴をこぼしながらコートを脱ぎ始めるので、リリィは、「おかえりなさい、お師匠様」の言葉とともに、それを手伝う。

 

「もう少しで夕飯ができますから、それまで待っていて下さい。それと、テーブルにお菓子も置いてあるので、お腹が空いているようならそれを食べていて下さい」 

「おやっ? なんだいなんだい。今日はやけに親切じゃあないか。あっ、もしかして、約束のチョコを意中の相手に渡せなかったのかい? それで、機嫌を取ろうと……」

「違います! ちゃんと本命のチョコは渡しましたし、相手も喜んでくれました。その、今まで女の子に手作りのチョコを貰ったことがなかったみたいで、思った以上に喜んでくれて……」

 リリィは顔を朱に染め、尻窄みの声で答える。

 

「いいから、お師匠様は大人しく食事ができるのを待っていて下さい!」

 恥ずかしさから、リリィは少し怒ったように言い、台所に戻る。

 

「おやっ? お菓子っていうのは、このチョコレートの事かい?」

「そうですよ。言っておきますけど、本命に渡したチョコレートの残りとかではないですからね。お師匠様用に作ったものです」

 リリィはそっけない声で言う。

 

「……ああ、これはいいねぇ。ブランデーが入っているんだね」

「ええ。お師匠様、そのお酒が好きですから、バルネアさんに相談して作ったんです」

 リリィはやはり怒ったような声色で言う。

 

「いいねぇ。うん」

 エリンシアは嬉しそうにチョコレートを味わっているようだったが、リリィは何も言わない。

 

「いいかい、リリィ。そのまま手を休めないでいいから、お聞き」

「……はい、お師匠様」

 リリィはエリンシアに背中を向けたまま答える。

 

「何度も言っているが、魔法というものは、特別な才能なんだ。それを使える人間は、今の時代ではほとんどいない。だから、そのことを鼻にかけたり、魔法を使えない人間を下に見る輩も多いんだよ」

 エリンシアの声は普段よりも低かった。

 

「それとは逆に、魔法を使える存在を忌避する人間や、それを滅ぼそうなんて考える輩もいる。けれど、私達みたいな魔法を生業にしている人間はね、そういった連中とも上手く付き合っていかなければいけないのさ」

「付き合っていく、ですか?」

 リリィの問に、エリンシアは「ああ、そうさ」と頷く。

 

「顔を合わせないようにするというのも付き合いの一つだ。今言ったような、魔法を使える人間を滅ぼそうなんて考える輩とは、接触しないに越したことはない。でもね、それだけでは、この世の中で行きていくのは難しいんだよ」

「…………」

 リリィは何も言わずに、鍋をかき混ぜ、その中身を少し味見皿にとって味見をする。

 

「あんたが、魔法を学びたいと一心不乱に勉強していたことも、生活費を稼ぐために働きづめで友達を作る暇がなかったのも知っている。

 だが、今は少しは時間があるだろう? 私だって、あんたに無理はさせないように気をつけているんだよ。これでもね」

「はい。それは、分かっています」

 リリィの答えに、エリンシアは目を細めた。

 

「私の言っていることの意味は、今はわからなくてもいい。だが、あんたはもっと、いろいろな経験をする必要があるんだよ。友達もたくさん作りなさい。恋もしなさい。それは、魔法を学ぶ上では遠回りに思えるかもしれないが、後で必ず役に立つのだから」

「……はい。お師匠様」

 

 リリィは今晩の料理であるシチューを皿に取り分けて、それをエリンシアの前に配膳する。

 そして、自分の分も用意したリリィは、エリンシアの向かいの席に座る。

 

「お師匠様……。私……」

「ふふっ。私が何を言いたいのか、分かったようだね。あんたも少しは大人になろうとしているのかもしれないね」

 エリンシアはそう言うと、リリィの口の前に、人差し指を立てる。

 

「いいよ。何も言わないで。分かってくれたのならそれでいいさ。さぁ、食べようか、リリィ」

「はい、お師匠様。……ありがとうございます」

 

 リリィの感謝の言葉に、エリンシアは口元を僅かに綻ばせて、美味しそうにシチューを頬張る。

 

 そんなお師匠様の姿を見て、リリィも瞳に涙を浮かべながらも微笑むのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 中々タイミングが合わず、このままでは渡せないのではと危惧をしたが、夕食後、『今日は、私が後片付けをするから、メルちゃん達は休んでいて』とバルネアが助け舟を出してくれたので、メルエーナはついにその機会を得た。

 

「じぇっ、ジェノさん!」

「どうした、メルエーナ?」

 部屋に戻ろうとするジェノを呼び止めて、メルエーナは背後に隠していた小さな箱を前に差し出す。

 

「その、これを! いつもお世話になっていますし、その、あの……」

 勢いのままに自分の気持ちを伝えたいと思ったメルエーナだったが、やはり言葉が出てこない。

 

 今の関係を壊してしまうのが怖くて、拒まれるのが怖くて。

 でも、勇気を出さないと行けないと思いながらも、不安な気持ちがどんどん増大していって、体が震えだす。更には、涙さえ浮かんできてしまう。

 

「……そうか。今日はバレンタインデーだったか」

 いっぱいいっぱいのメルエーナとは対象的に、ジェノは普段と変わらぬ口調で言うと、静かにメルエーナの手から、チョコレートを受け取った。

 

「ありがとう。大切に食べさせてもらう」

 ジェノがそう言ってくれたことに、メルエーナは安堵した。だがそこで、緊張の糸が切れてしまい、メルエーナの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ち始める。

 

「どうした! 大丈夫か、メルエーナ?」

「あっ、その、こっ、これは……」

 メルエーナは何とか大丈夫であることを口にしようとしたが、涙が止めどなく溢れてきてしまい、うまく言葉がしゃべれない。

 

「駄目よ、ジェノちゃん。メルちゃんを泣かせてしまったら」

「あっ、いえ、バルネアさん。俺にも、何故泣いているのか……」

 いつの間にか、台所から近くにやってきたバルネアが、ジェノを窘める。

 

「もう。ジェノちゃんは、もう少し女の子の気持ちを勉強しないと駄目ね。というわけだから、はい、これを受け取って」

 話がつながっていないようにしか思えないが、バルネアは、ジェノに少し大き目の箱を渡した。

 

「これは?」

「ふふふっ。私から、ジェノちゃんとメルちゃんへのバレンタインチョコレートよ。それと、お店の方の奥の席に、ワインなんかも用意しているから、そこでメルちゃんとしっかりと話し合いなさい」

 バルネアはそんな事を言って、ジェノの背中を押す。

 

「その、メルエーナ。大丈夫か?」

「はっ、はい。すっ、すみません……」

 メルエーナもなんとか喋れるようになったが、やはりバルネアに背中を押されてしまう。

 

「ほらほら、早く二人共、奥の席に。私は、洗い物が終わったら先に休ませてもらうから、二人でしっかり話し合いなさいね」

 自分が言いたいことだけを言って、バルネアは再び厨房に戻っていってしまう。

 

 メルエーナはジェノと二人で呆然とするしかなかった。

 

 けれど、せっかくバルネアさんが作ってくれた機会なのだと、弱気な自分に気合を入れて、メルエーナはジェノに話しかける。

 

「ジェノさん。その、せっかく、バルネアさんが用意してくれたわけですし、よければ一緒にチョコレートを頂きませんか?」

 精一杯の勇気を振り絞ってジェノを誘うと、ジェノは苦笑し、「ああ、そうだな」と頷いてくれた。

 

 

 ……夜は更けていく。

 年に一度のその日も終わりが近づく。

 

 

「ジェノさん、私が作ったチョコレートは、実はこのワインを少し入れてあるんですよ」

「なるほど。これはいいな。味もさることながら、香りも素晴らしい」

 

「さすがに、バルネアさんのチョコレートは格別に美味しいですね」

「ああ。だが、俺は……」

「えっ? あっ、その、嬉しいです……」

 

「以外でした、ジェノさんのことですから、他にも……」

「……申し訳ない話なんだが、見知らぬ……」

 

「ジェノさん、私……私は……」

「メルエーナ。来月、必ずこのお返しはさせてもらう。受け取って……」

「はい……」

 

 

 普段の夜は客席に明かりが灯っていることがない<パニヨン>だったが、年に一度のその日だけは、夜遅くまで明かりが灯り続けていた。

 

けれど、その理由を知るものは、当事者たち以外は誰もいなかった。

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