彼は、英雄とは呼ばれずに   作:トド

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特別編⑩ 『少しの勘違いと大切な思い』(前編)

 夏の盛りは過ぎたが、まだまだ暑い日は続いている。

 そんな中、ジェノは同じ道場で武術の鍛錬をしている先輩のシーウェンと一緒に『特別稽古』に来ていた。

 まぁ、この『特別稽古』というのは符丁に過ぎず、本来の意味は、『二人で夕食を食べる』と言った意味なのだが。

 そして、今日はシーウェンがオススメの、エルマイラムでも知る人ぞ知る隠れた名店にやってきたのだ。

 

「これは、驚いた……」

 ジェノは予想していなかった風味と旨さに言葉を失う。

 心地良喉越しの後にくるほのかな蕎麦の香りがなんとも言えない。

 それにこの清涼感! 暑気払いにぴったりだ。

 

「そうだろう! 俺も初めて食べた時には驚いたものだ」

 相変わらず自分が作った訳ではないのに、シーウェンは自分が褒められたかのように嬉しそうに言う。

 

「蕎麦の食べ方というと、クレープなどが一般的だと思っていたが、こうした麺料理にも出来るんだな。それにこの、つけダレの味の深さは並大抵のものではない」

「ああ。このタレは最高の鰹節とかえしで作られているらしいからな。それに、今は夏蕎麦の季節だから余計に旨いよな」

「んっ? かえし? かえしとは何だ?」

「ああ。かえしというのは……」

 ジェノはシーウェンの説明を聞いて納得したが、そこで今更ながらに兄弟子の料理に対する造詣の深さに驚く。

 

「俺が料理に詳しいのが意外か?」

「……ああ。すまんが料理をするとは聞いたことがなかった」

「こらこら、兄弟子を舐めるなよ。武術というものには常に戦いに身を置く、常在戦場の心がけが必要だ。となれば、生きていく上で欠かせない食事も自分で作れないのは致命的だろう?」

 言葉とは裏腹に、シーウェンは気分を害した様子はなく笑って言う。

 

「シーウェンさんたら、うちのお師匠さんにあれこれ聞いて、自分でそば打ちまで出来るようになったんですよ」

 この店の店員で、足を大きく露出した変わった服装の十四、五歳ほどの黒髪の幼い少女が、蕎麦湯というものを持ってくるなり、そんな事をジェノに告げ口してくる。

 

「こらこら、リャン。俺に振られたからって、ジェノに粉をかけようとするなよ。悪いが、そいつは彼女持ちだ」

「むぅ~。そんな風に、私が男漁りをしているように言わないでよ! なによ。シーウェンさんが私の旦那さんになって、このお店を継いでくれたら万々歳だったのに……」

 リャンはジェノに笑顔で蕎麦湯を手渡し、シーウェンに恨みがましい視線を向ける。

 

「悪いな。俺はもう少し肉付きが良いのが好みなんだ」

「もう! シーウェンさんのスケベ! ふん! だったらシーウェンさんは樽みたいな体型の女の人と一緒になれば良いんだわ! 私みたいなスレンダーで美しい娘を振るなんて、見る目のない人!」

 リャンはそう言って怒るが、本気で怒っているわけではなさそうだ。その証拠に、すぐにシーウェンにもたれかかり、

「ねぇ、シーウェンさん。私はまだまだ成長の余地があるんですから、今からでも考え直しませんか?」

 そんな事を言いながら、上目遣いに精一杯の誘惑をしているようだ。

 

「こらこら、これ以上なにかしたら、俺が親父さんに殺されちまう。ほら、俺たちは男同士の話があるから、あっちに言ってくれ」

「むぅ! 絶対に私は諦めないんだから!」

 リャンはプリプリ怒り、店の奥に消えていった。

 

「騒がしくしてすまなかったな」

「別に構わないが、あの娘の事はいいのか?」

「なに。後で土産の蕎麦でも買ってやれば、機嫌も直るだろうさ」

 シーウェンはそう言いながら、透明な酒を口にし、蕎麦を楽しむ。

 

「……シーウェン。この店では、麺状にした蕎麦を売っているのか?」

「ああ。それがどうかしたのか?」

 シーウェンが尋ねかえしてきたので、ジェノは自分の思っていたことを正直に彼に話す。

 

「なるほどなぁ。だが、必要なのか? 俺はとてもそうは思えないが……」

 話を聞き終わった後に言った、シーウェンの言葉は正しいと思う。

 

「俺も同じ意見だ。しかし、女の考えだ。男の俺たちには分からないのかも知れない」

 ジェノは更に続けて、「すまんが、この店のことを……」と申し訳無さそうに口にするが、シーウェンはさもおかしそうに微笑む。

 

「変わるもんだな。いや、そこまで想ってもらえて、あの嬢ちゃんは。いいぜ、この店のことを話しても。ただし、貸一つだ。こんどは、お前が隠れ家になる店を探しておけよ」

「ああ。わかった」

 ジェノはシーウェンと約束を交わし、蕎麦を口に運ぶのだった。

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