彼は、英雄とは呼ばれずに   作:トド

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㉖ 『回想 失われた温かな手』

 私には、優しいお父さんがいた。

 

 大商会の跡取りだというのに、商才はあまりない人だったらしい。でも、幼い私にはそんなことは分からなかったし、それはどうでもいいことだった。

 いつも笑顔で、私をとてもよく可愛がってくれる、そんなお父さんのことが、私は大好きだったのだから。

 

 特に、お父さんと手をつないで散歩するのが好きだった。温かくて大きな手に、自分の小さな手が包まれていると、すごく安心していたのを覚えている。

 

 家に帰れば、優しいお爺ちゃんとお婆ちゃんがいて。そして、たまにしか帰ってこられないけれど、私達家族のために一生懸命働いてくれるお母さんもいた。

 

 私は、自分がこの上なく幸せな女の子なんだって思っていた。

 

 ううん、違う。本当に幸せな女の子だったんだ。あの日までは……。

 

 

 

 それは、いつもと同じように、昼食までの時間を使って、お父さんと散歩をしていた時のことだ。

 そろそろ夏になるということもあり、その日は海まで足を伸ばしたのだ。

 だが、これが運命の分かれ道だった。

 

 突然、女の人の悲鳴が聞こえた。

 

「何があったんだろう?」

 お父さんは、私の手を引いて声のする方向に歩いていく。するとすぐに、若い女の人がお父さんの元に駆け寄ってきた。

 

「どうなさったんで……」

「助けて下さい! 私の、私の娘が!」

 お父さんの言葉を遮り、その女の人は目の前の海の方を指差す。

 そこには、私と同じくらいの女の子が溺れていた。

 

「気がついたら、あんな遠くまで流されていて……。お願いします、助けて下さい! 私、泳げないんです!」

 女の人は、私のお父さんにそんな事を言う。

 

 お父さんは私の顔を見て、私を抱きしめた。

 

「……イルリア……。ここで待っているんだ。お父さんはすぐに戻ってくるから」

 そう言い残し、お父さんは海に向かって駆け出していく。

 

 私はお父さんが私を置いて走り出した瞬間に、嫌な予感がして声の限りに叫んだ。

 

「お父さん、だめ、行かないで!」

 

 でも、私のその言葉を聞いても、お父さんは止まってくれなかった。

 

 

 そして、私の悪い予感は当たってしまう。

 

 お父さんは、それほど泳ぐのが得意でもないのに、懸命に見ず知らずの女の子を助けようとした。

 その結果、なんとか女の子は、後から助けに来た別の男の人に託して救うことが出来たものの、自分は体力を使い果たして、溺れて……。

 

 私は、その日、大好きなお父さんを永遠に失ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 お父さんが死んでしまって数日が経っても、私はしばらくの間それを受け入れることが出来ずにいた。

 朝、目を覚まして隣を見ても、お父さんの姿がない。ぬくもりがない。

 お爺ちゃんとお婆ちゃんが代わりに私と一緒に寝てくれたけれど、やっぱり、違う。

 私はただ泣いて毎日を過ごした。

 

 私がいくらお父さんの生きていた時に戻りたいと願っても、時間はそれを許してくれない。時間は冷徹に前に進んでいくだけだ。

 

 そして、お父さんのお葬式が行われた。

 私は、棺にすがりついて、何度も何度も、お父さん、って叫んだけれど、決して返事は返ってこない。

 

 そして、涙も枯れ果てた私の前に、一人の女の子が花を持って歩いてきた。

 私はその女の子の顔は覚えていなかったけれど、彼女と一緒にいる女の人には見覚えがあった。

 父に助けを求めてきた、あの時の女の人だ。

 

「この人が、お前を助けてくれたんだよ……」

 きっと、この女の子のお父さんだろう。若い男の人がそう言って、女の子に花を手向けて礼を言うように促す。

 

 女の子は言われるがままに花を手向けて祈るような素振りを見せたが、飽きたのか、すぐに立ち上がって父親の元に戻り、彼の手を握る。

 

「…………」

 その時に、心に湧き上がってきた気持ちが何だったのかは、幼い私には理解できなかった。でも、許せないと思った。

 

 どうして、どうしてこの子には、お父さんがいるのだろう? 

 私にはもういないのに……。もう、あの温かな手を握ることは出来ないのに……。

 

 この子が溺れたりなんてしなければ、お父さんは死んでしまうことなんてなかったのに。

 それなのに、それなのに……。

 

「返して……。私のお父さんを返してよ!」

 

 気がつくと、私は女の子に掴みかかっていた。

 女の子は私の剣幕と叫び声に泣き出したが、そんなことは知ったことじゃあなかった。

 

「どうして、どうしてよ!」

 私はそう叫びながら、何度か女の子の頬を引っ叩いた。

 すぐに大人たちに取り押さえられてしまったが、私は「どうして」を繰り返して、暴れ続けた。

 

 

 私が別室に隔離されている間に葬儀は進み、棺は地中に埋められて、その上に墓石が置かれてしまっていた。

 

 私は、お母さんとお爺ちゃんとお婆ちゃんの四人で、改めてお父さんの冥福を祈る。

 そして、四人で帰ろうとしたのだが、そこに一人の男の人が現れた。

 

「シャーナ様。すみません、このような時に……」

「……時と場合を……。いえ、いいわ。すみません、お義父様……」

 お母さんはお爺ちゃんに頭を下げる。

 

「仕方がない。気にせんでくれ。むしろ、こんな時に申し訳ない」

 お爺ちゃんはそう言うと、お母さんは頭を下げてその男の人と一緒に、教会の中に入って行ってしまう。

 

「イルリア。少しだけお母さんを待っていようね」

 お婆ちゃんが優しく私の頭を撫でてくれる。

 

 そして、私達はしばらくお母さんを待っていたが、なかなか戻ってこない。

 

 私は、堪えきれなくなって、お婆ちゃんの元を離れて、お母さんの居る教会に走り出す。

 

「あっ、イルリア!」

 

 お婆ちゃんとお爺ちゃんは私の名前を呼んだが、追いかけては来なかった。

 父親を失った私には、母親のぬくもりが必要だということを分かっていたからだろう。

 

 でも、私はその教会の前で、信じられない言葉を聞いてしまったのだ。

 

 

 

「はい。そういう訳ですので、今回の契約は……」

「痛いわね。この契約のために、何年も下準備を進めて……」

 母は教会から出てこようとしていたようで、歩きながらこちらに近づいてくる。

 

 だが、小さな私が動かなかったことで、母も男の人も私が近くにいるとは理解していなかった。だから、あんな事を言ったのだ。

 

『まったく、よりにもよってこんな大事な時に死ぬなんて、使えないにもほどがあるわ』

 

 母の口から漏れたその言葉に、私の思考は凍りついた。

 そして、それが動き出した瞬間に悟った。

 

 お母さんは……。いや、この女は、お父さんの死を微塵も悲しんでいないことを。

 

 私は母に背を向けて祖父母のもとに駆け出す。

 

 ……この日、私はお父さんに続いてお母さんも失った。

 

 

 

 

 それから数年間は、件の女の子と彼女の家族は献花に訪れていたが、ある時を境にプッツリと来なくなった。

 別段、引っ越しをしたなどという理由ではない。

 向こうはまったく覚えていないようだったが、私は何度もあの子とその家族の姿を街で見かけたことがある。

 

 だけど私は、今更それを恨むつもりはない。

 命を救われようが、所詮は他人の事だ。あの人達にとってはそれだけのことだったのだろう。

 

 そう、所詮は他人のことだ。愛を誓いあって私を生んだはずの女すら、その事を微塵も悲しんでいなかったのだから。

 

 私は、私を生んだあの女を絶対に許さないと決めている。

 

 そして、私はお父さんのことも許せないでいる。

 

「どうして、あの時、私の手を離して他人なんかを助けに行ったの?」

 

「どうして、私を残して死んでしまったの?」

 

 その問に答えてくれない限り、私はお父さんのことも許せない……。

 

 

 

 他人のために何かができるなんて、素晴らしいことなんかじゃあない。

 

 自分を犠牲にしてまで、見知らぬ誰かを救う価値なんてない。

 

 そして、そんな自己犠牲の行いは、本当にその人を大事に思っている人こそを悲しませてしまうのだから。

 

 

 だから、私は……。

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