濃姫
1
わたしは極悪人の娘に生まれました。父は平気で人を殺す人で、初めは僧侶だったのですが、仕えていた長井家の家督をのっとりました。お侍となった父は、さらに、仕えている美濃の国の城主である土岐さまの一族を毒殺し、内乱を起こして、土岐さまを滅ぼしてしまったそうです。父の悪名は世間に広がり、蝮の道三と呼ばれたそうです。そう、蝮の道三こと、斉藤道三がわたしの父でありました。
わたしは、美濃の国を奪いとった新参大名の娘だったのです。父は、血を好み、また、女と毒を好んでいました。幼かったわたしは、女は男に奪われるものと思い育ちました。父の娘であるわたしに誰も手を出さなかったですけれども、いつも、男の手を恐れていました。いつ誰がわたしを手篭めにするかわかりません。そうしたら、激昂した父にわたしまで殺されるともしれません。わたしは、父を恐れていました。何の、この時代、お上の治世も乱れているという。なんと、浮ついた世の中でございませぬか。わたしの人生など、男たちに嬲られる蜻蛉のようだと思っておりました。
十四になったばかりのわたしを父は呼んで、こうおっしゃいました。
「濃よ、おまえは尾張の国の織田信長のところへ嫁に行け。そして、隙を見て、信長を毒殺して来い」
わたしはまだ生娘でしたから、嫁に出るのもわかるのですが、夫を毒殺して来いとは、いったいどういうことでしょう。それでわたしが幸せになりましょうか。いや、わたしの幸せなど、父は考えてはおらぬ。父はわたしに不幸に生きよと命じられたのです。わたしの命など、手鞠のよう。儚く散る落葉のよう。
そして、わたしは信長という男に嫁ぐことになりました。わたしは父に逆らうことはできません。聞けば、信長は尾張一のうつけ者と評判の阿呆者らしいです。不幸なわたしは阿呆に嫁ぐのでしょう。何も不思議ではありません。
婚礼の日になり、実際に会ってみた我が夫は、女のようなひょろ長い顔をしておりました。いつ毒殺すればよいのか、わたしははらはらしておりました。愚かな男を一人殺して帰れば、父が喜びましょう。それだけがわたしの望みでした。
我が夫は、配下のものたちにあそこが悪い、ここを直せと叱られてばかりです。なんともはや、情けないことです。
「おまえが我が妻となる者か。この信長で不満はないか」
「いえ、ございませぬ。不束者ですがよろしゅう」
「うむ」
これが夫との、初めての会話でした。この男、わたしに殺されるとも知らずに。
うむ、とは、威張っておりましょう。なんでしょう、この男。うむ、などと申して。
「ふふふふっ」
思わず、わたしは笑ってしまいました。いったい、どうやって殺してくれよう。
2
我が夫は、国いちばんのうつけ者らしいです。さて、どうやって殺しましょう。うつけの首など、すぐとれるでありましょう。この十四の娘の手でも。
いっそ、初夜にでも殺しましょうか。すでに毒は持っております。隙を見て、そっと、夫の食事に毒を盛るだけ。飲み水に混ぜても、殺せましょう。わたしは殺すのは初めてですけど、いとも簡単に毒殺などできるように思えます。
婚儀が終わると、寝やとなりました。わたしは父の命令に従わなければなりません。夫も初夜にたじろいでいる様子。この殿様は、他の女に手を出したことがおありでしょうか。わたしは知りませんし、聞くこともできません。
「濃」
わたしに抱きついてきた夫は泣いているようでした。
「濃や、どうかおまえだけはこの信長を見捨てないでおくれよ」
何を泣いているのでございましょう。わたしにはとんとわかりません。
わたしが戸惑っていると、夫はいいました。
「返事をしてくれないのか、濃よ」
「ああ、どうでしょう。男と女の仲など、時のうつろい行くまま。あなたさまの心が先にわたしを離れませぬか」
いっそ、ここで殺してしまおう。
「それより、少し飲み水が欲しいです。殿様も召し上がれば」
「うむ。飲み水をとってこよう」
夫は竹の椀に水を入れてわたしに渡しました。わたしは一口、きれいな水を飲み込みと、体を返して、裏で竹の椀に毒を入れました。これを飲めば、夫の命はそれでお終い。
わたしは竹の椀を夫に差し出しました。わたしの腕は震えていたようです。夫は、竹の椀から水を口に含みました。わたしがやったと喜ぶと、夫は水をぶっと吹き出しました。
「この水には毒が入っておる。濃や、大丈夫か。さっき飲んだのではないか」
「いえ、わたしは飲んでおりませぬ」
わたしは殺されるかもしれないと思いました。この夫、思ったより頭が切れる。いや、舌が肥えているのか。
殺されるよりは、わたしが毒を飲んで死のうか。
「そうか、濃のいうことは絶対じゃ」
夫はひとことでわたしを疑うのをやめた。この夫、妻を疑うことを知らぬらしい。
3
父から手紙が来ました。
「信長殿はまだご健在のようだな、濃」
と書いてありました。毒殺の催促です。
「父上、夫の毒殺は容易なことではないようです。五年、十年と待つつもりでお願いいたします」
と返書いたしました。返書は万が一にでも、見られてはなりません。わたしは直接、父の家臣に手渡しました。決して、夫の家臣の手を介さないように。
わたしの手紙を、父の家臣は平気で開いて見ました。そして、目がとび出るほどにその内容に驚いておりました。ああ、父の家臣にも知られてしまった。わたしはいつ殺されるのかもわからぬ。
夫には毎日、会います。初夜の日から、連日、夫はわたしの寝所を訪れました。
どうやって殺してくれよう。わたしはいつ殺されるのであろうか。
「濃は、梅が好きか、桜が好きか」
「いえ、濃は、落葉が好きでございます」
わたしと夫の命は、いつまでつづくのか。
国いちばんのうつけ者と噂される我が夫。その妻のわたし。わたしは毎日、夫の命を狙いました。憎かろうて、やがて、好きとなりと申しましょうか。わたしは夫のどこがうつけなのかわかりませんでした。
実際に会ってみた我が夫は、わりと良い男だったのです。
夫の命を奪わねばならぬのか。わたしは、日がたつうちに苦しくなってまいりました。
「我が君、我が君」
「なんだ、濃よ」
「もし、濃に命を狙われたらどうします」
お遊びで聞いてみました。わたしはもうどうなってもよかったのです。わたしの命など、煙のように消えてもよいのです。
我が夫は涙を流しておいででした。
「濃よ、そのようなことを申すな。おまえだけはこの信長を裏切ってくれるな。と申したであろう」
ああ、そうであった。この夫、わたしを露ほども疑っておらぬ。
聖も邪も、道を行くもの、さだめでしょう。
4
数年たち、父と兄が戦争を始めました。我が夫は、父の援軍に出かけました。ああ、いけない。父も兄も、わたしの秘密を知っていよう。
しかし、夫の援軍もむなしく、我が父、斉藤道三は戦死しました。大間抜けの我が夫は、己を毒殺しようとしている我が父に援軍を出したのです。しかし、父は死にました。
ああ、これで、もう、わたしを縛る父との密約はなくなりました。
我が夫、信長よ。わたしがあなたさまを毒殺に来た女だと知っておいでか。
「濃よ、濃よ。おまえだけはこの信長を裏切ってくれるな」
生きて帰ってきた我が夫が申すのでございます。
尾張の国に、三国を所有する今川義元が攻めてきました。その軍勢、二万とも四万ともいわれ、迎え撃つ我が夫には四千の兵しかございません。
これは、我が夫の負け戦であろうと、わたしは思いました。
しかし、桶狭間の戦いにおいて、我が夫、織田信長は、攻め寄せる今川義元の十倍の兵に奇襲で攻め勝ったのでした。
わたしの目に、涙が流れました。
「天下のおおうつけが、まぐれを当てましたな」
などと、周りの者が申しております。
「我が夫のどこがうつけか」
わたしは怒鳴って、叱りつけました。
「我が夫のどこがうつけか申してみよ」
家臣は平伏いたしました。
ですが、わたしは、その夫を毒殺に来た悪女でございます。これを知ったら、わたしは信長に殺されよう。ならば、せめて返り討ちにでもしようか。我が夫の心は読めず。