狼が書いた日本史   作:木島別弥(旧:へげぞぞ)

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帝国時代
我ら幕末のことは何も知らず


  1、黒船来航

 

 1853年、日本の浦賀にアメリカの鉄製蒸気船四隻がやってきた。世にいう黒船である。

 それを見た日本人は驚いた。

「あんなでかい船、どうやって作るんだ」

 やがて、黒船が、中国清朝をアヘン戦争で倒した西洋列強の船だと知れるにつれ、脅威は大きくなっていった。

 これは、そのうち、日本もやられるのではないか。いわずとも、その危機を感じずにはいられなかった。

 当時、日本の江戸幕府は鎖国していて、オランダ以外の来航を禁止していた。しかし、黒船の提督ペリーは、日本に二百五十年続いた鎖国をやめて、開国することを要求した。

 もちろん、ただ巨大な船がやってきただけで日本が譲るわけがない。

 日本の武士もいろいろな手を打った。

 忍者沢村甚三郎は、江戸幕府老中の密命を受けて、黒船に侵入して、艦隊の長ペリー提督の姿を見て帰った。沢村甚三郎五十三歳。

 長州藩の吉田松陰などは、許可がないにも関わらず、アメリカの黒船に密航を企てて逮捕された。吉田松陰ニ十歳である。

 土佐藩の坂本龍馬もこの時、江戸に居て、警備を兼ねて黒船見物をしていた。坂本龍馬十七歳。

 黒船来航から始まる十五年を幕末と呼ぶ。

 人類の歴史は、産業革命からずっと激動であるけども、日本も二百年遅れてそれに参加する。当時の日本は、江戸などは人口百万人であり、これはロンドン、パリと並ぶ大都市であった。

 忍者がペリー提督の姿を見て帰ったのは、大きな意味がある。見知らぬ国の人に会う時は、もしかしたら人外が相手かもしれないと考えるものだ。少なくても、同じ人間であるとわかれば、自分と相手のちがいもわずかなものだと思うものだ。西洋人はサルよりは日本人に近いと幕府老中は思っただろう。

 「いや、サルのが日本人に近い」などという人もいるかもしれないが、ここではそれは取り扱わない。

 江戸幕府は次々と手を打つ。

 幕府は、黒船来航に対して、海防の意見を全国から広く募集した。こういう意見の募集は、くだらない意見が九割方だが、ちゃんと目を通せば、これはと思うものが少しはあるものだ。幕府のこの時は、勝海舟がそれにあたる。

 勝海舟は、海防の意見の募集に対して、「江戸幕府に必要な海軍は二百七十隻、海兵六万人。」と書いて送った。この数字は机上の空論であり、そんな大艦隊を日本が備えることはなかったが、勝海舟の論理的な思考は幕府に気に入られたのだろう。勝海舟は下級武士から取り立てられて、急出世していく。もちろん、この出世は勝海舟の実力である。勝海舟、この時、三十一歳。

 1855年、江戸幕府はオランダから木造蒸気船・観光丸を買う。

 太平の眠りから覚める日本。どうなる、幕末風雲急。

 

  2、大老はおれに任せろ

 

 この頃、日本全体で3400万石。

 幕府直轄領の天領は400万石。

 禁裏(天皇領)は3万石である。

 幕府直属軍の旗本は八万騎。

 旗本の大将を旗頭(はたがしら)というが、旗頭は代々井伊家がやっていた。

 異国の様子がおかしいということで、旗頭の井伊家が幕府大老(幕府最高幹部の五人の老中より偉い臨時職)になった。

 それは井伊直弼である。

 しかし、いざ大老にしてみると、お偉い人たちの意にそぐわないということで、1860年に大老井伊直弼は暗殺されてしまう。幕府の大老を殺すとは、犯人たちは、自分ならもっとうまく国家の大事をやれると思っていたのだろうな。

 勝海舟は、幕末を回顧して、戦乱に巻き込まれたことは九回以上あったが、生き残ったのは運がよかっただけだといっている。

 日本人同士による斬り合いも、西洋人殺しも、何十件とあった。

 1860年、勝海舟は妻に「ちょっと品川へ海を見に行ってくる」といって、そのまま渡米して二年間帰って来なかった。妻は「あの人はいつまで海を見ているのかしら」と、ぶつぶついいながらも勝海舟の帰りを待っていた。

 1861年頃から、大久保利通は京都の朝廷へ開国を進言していたようだ。

 公家の岩倉具視も開国派であり、将軍家茂に和宮を嫁がせたのは、開国に将軍の心を向けるための工作だったという。そういう動きが少しづつあったのだ。

 異国の動きが騒がしくなってきた幕末に、では、仏教勢力はどうしていたのか気にかかる人もいるだろう。日本の仏教界はたくさんの権威筋があるが、高野山が黒船来航に対して何をしたのかはおれは知らない。モンゴル来襲の時は、全力で加持祈祷をしていたというが、その辺りはいろいろと複雑な事情があるのだろう。

 おれが知っている限りでは、幕末の時には、「あほだら経」が流行っていた。つまり、仏教は幕末には笑い飛ばされていたのである。なかなか、民衆には大うけだったと聞く。人を笑わせるのが仏教だというなら、これは幕末における仏教の成功だ。

 坂本龍馬は、この時はまだ「天下のことは何も知らず」だった。

「不思議でしょうがねえぜ。なぜ世の中がこうなってるのかがよお。」

 坂本龍馬は首をひねった。

 ひょっとしたら、戦乱になるかもしれないと、武士の間で剣術が盛んになっていた。剣の極意とは、間合いの取り方のみであるのだが、それは剣豪の話であって、そこまでには至らない剣客たちは間合いをつかもうにもつかめない。結局は、長い刀の方が勝つということが知られていき、幕末には江戸武士の間で長い刀が流行った。

 坂本龍馬は、短い刀の方が小まわりが効くといって、短い刀を使っていた。坂本龍馬は、江戸の流行には流されない男だったことがここからうかがえる。

 そもそも、幕府の秘密とは、合戦では、剣術ではなく、銃によって勝敗は決まるというものであったため、長い刀でも短い刀でもどっちでもよかったのだが、「むしろ、短い刀の龍馬に可能性を感じる」という。

 江戸や京都で外国人打ち倒すべしという尊王攘夷が叫ばれるようになった。黒船に臆してなるものか。祖国を守るために異国と戦わなければならない。そういう風潮が日本で高まっていった。

 坂本龍馬はいった。

「みんな、異国が攻めてくるかもしれないというが、おれには、異国どころか、自分の国がわからねえ」

 勝海舟がアメリカから帰ってきていたので、坂本龍馬は押しかけた。

「斬るか、斬らないか、試してみるさ」

 ちょっとした腕試しのつもりで勝海舟の屋敷へ入っていった坂本龍馬だった。坂本龍馬は千葉道場免許皆伝の塾頭。故郷の土佐には、漂流してアメリカへ渡って帰ってきたジョン・万次郎がいて、アメリカのうわさを聞いていた。

「おい、おまえさんはおれを殺しにきた刺客かい。近頃は刺客が流行っていてな、おれのところにも毎日来るよ」

 勝海舟はそういって龍馬を迎えた。

「勝先生は、いったいこの国をどうするおつもりですか」

 竜馬がたずねると、勝海舟は答えた。

「おまえさんは知っているか。イギリスは、大英帝国といって、千隻の船で世界中で商売をしている。そりゃあ、すげえもんだ。日本も遅れちゃなんねえ。日本も世界中で商売するようにならないとな」

 それを聞いた龍馬は、すぐさま、尊王攘夷から開国和親に変わってしまった。

 

  3、尊王攘夷の脚本

 

 1863年、黒船密航の罪で獄中に居た吉田松陰の死刑が執行された。まだ三十歳だった。二十歳で黒船に密航してから、十年間耐えてこの仕打ちだった。

 吉田松陰は、欧米から大砲を買うのではなく、日本で大砲を作らなければ負けると主張していた。

 庶民は、今までの日本はなかったことになり、自分たちは神代の人間ということになり、新しく時代を始める御一新(ごいっしん)がなされるということで、歌い踊り始めた。

 

 ええじゃないか。ええじゃないか。ヨイヨイヨイヨイ。

 躍る阿呆に、見る阿呆。同じアホなら踊らにゃ損損。

 

 世にいう「ええじゃないか騒動」である。

 多くの刃傷沙汰を気にもせず、日本人は踊りつづけた。数カ月はたっぷりと踊った。

 やがて、踊り疲れると、武士たちはいよいよ本当に尊王攘夷をやろうということになった。天皇の親政により幕府を倒し、異国を打ち払うのだ。

 京都に有志が集まり出した。

「尊王攘夷か」

「ああ」

「尊王攘夷の目的は何だ」

「もちろん、西洋列強に日本が対抗するため」

「ならば、京都を占領できる兵ではなく、幕府を倒せる兵でもなく、西洋列強に対抗できる兵を集めなければ、事は成らない。そこまで備えて初めて日本が勝つんだ」

「そうだな」

「では聞くが、京都や幕府を討つのに斬るか。西洋を倒すための仲間でもあるだろう」

「迷ってしまうな」

「ああ。今から考えておいた方がよい」

 ある男は嘆いた。

「自分の国がどうやってできているのかもわからないのに、外国のことまで解決できるかよ」

 もっともである。

 尊王攘夷の脚本を書いたのは清河八郎という男だ。この男は、派手で身振りがよく、大衆の心をよくつかんだ。清河八郎は人を使うのがうまい。幕末の日本を尊王攘夷一色にしてしまった。清河八郎は、二年間の日本を操った。思い通りに動かした。

「何のために戦うのかということだ。戦争は大義だよ。納得する理由がない戦争で、誰が本気で戦うものか」

「何のためにというなら、それは日本を守るためだろう」

「そこだ。おれは日本を守るためではなく、日本を幸せにするためだと考えているのだ。ここのところは小さいようでいて大きくちがうぞ」

「おれなんかはそのどちらでもない。西洋の文明の発達しているのを見て、本当に我らの国がまちがっていたのか、それを確かめたいのだ。そのために尊王攘夷に参加した」

 幕末志士たちは同意して深くうなづいた。

「へえ、みんな、いろいろ考えているんだね。おれなんかは、女が何を考えているののか知りたくて、尊王攘夷をやってるんだぜ」

 ある男はそんなことをいった。

「何をくだらん」

「いや、今の発言は国家の基盤に関わることだぞ」

「バカいえ」

 幕末志士は、みんな、笑った。

 幕末志士のひとりが清河八郎の前に来ていった。

「中国インドを倒した敵と戦うのだぞ。その準備と覚悟がおありか」

「もちろん」

 清河八郎は答えた。

「なぜ倒幕するんだ。おれには、中央集権化をして、政府の効率を上げるためだという以外に理由が浮かばない」。

「それは、その方が何かと好都合だからだ」

「なぜ、尊王忠義なのだ。西洋に国がとられるかもしれないのに、将軍や天皇に頼めば国が守れるとでもいうのか」

 そして、清河八郎は殺されてしまった。

 尊王攘夷の脚本を書いた男は死んだ。

 どうなる。幕末日本。

 

  4、坂本龍馬の脚本

 

 1863年、薩摩藩が鉄製蒸気船・安行丸をイギリスから購入する。値段は七千八百両。千両箱が七つでも足りない。この船は、最終的に坂本龍馬が手に入れて、乗りこなしているうちに幕府の船にぶつけて沈んでしまった。

 攘夷志士が鉄製蒸気船を手に入れた頃、江戸幕府もまた鉄製蒸気船を手に入れていた。第一長崎丸といい、まだ将軍になる前の徳川慶喜が使った。

 黒船来航から十年で、日本は鉄製蒸気船を購入することができた。

 さらに、日本で鉄製蒸気船を作れるようになろうと、1864年から横須賀に造船所を作り始めた。

 1864年、尊王攘夷の気運が高まりすぎて、長州藩が京都の禁中に押し入った。

 そして、第一次長州戦争が起こったのだ。

 日本の海路の要所である関門海峡を西洋列強の艦隊が攻めた。表向きは長州藩が戦ったことになっているが、長州藩だって、自分たちが任されているのが日本の交通の要所なのは百も承知である。ここが攻め落とされたのだ。恐れていた異国との戦いが始まってしまったのだ。

 1865年には、そのまま西洋列強は艦隊を兵庫の港に並べ、兵庫港の開港を要求した。朝廷は仕方なくそれを受け入れた。

 幕府と朝廷のどちらが偉いのかわからなかった日本人だったが、この時、日本の外交の権限は、幕府ではなく、朝廷にあることがはっきりした。禁裏三万石の方が、天領四百万石より偉かったのである。

 幕末志士はここまで追い詰められてようやく本気になった。

 西洋から木造蒸気船・乙丑丸を買い、その船に七千個の西洋式ライフルを乗せて、船と銃で五万両を払って最新式装備を購入した。薩摩藩の名目で長州藩が購入した。

 尊王攘夷と寝言をいっていた武士たちの訓練もようやく本格化した。

 息せきつかぬ激動が始まる。

 このように西洋の艦隊によって朝廷が開国させられたが、さらに1866年、再び西洋の艦隊が長州の下関の関門海峡を攻めた。日本も抵抗した。高杉晋作は西洋から購入した鉄製蒸気船オテントウサマ丸で、長州藩海軍総督として、西洋の船を砲撃して沈めた。

 薩摩と長州は同盟を結んだ。戦う相手は西洋列強だ。味方同士で争っている場合ではない。

 将軍徳川家茂が謎の急死。

 孝明天皇が心労による急死。

 さらには、明治天皇が十四歳で即位。

 幕末志士は話し合った。

「国をとられるかもしれないんだぞ。おまえら、どう思っているんだ。例えば文武についてだ。文は武より尊いものだといわれてきたぞ。おまえたちは文を信じるのか。祖国存亡の時こそ、武より文ではないのか」

「何を愚かなことを。戦いに負ければ、すべてをとられる。そこを外すわけにはいかないだろう。文などと愚かなことをいうな」

「文武、どちらも大事だ。結局は、そういう凡庸なところに落ち着くよな」

 また、こんな会話もあった。

「戦うしかねえだろ」

「いや、戦争に詳しいものは戦争の勝利で国が栄えるなどといってはいない。国を富ますのは、戦争の勝利ではなく、殖産興業である」

 また、こんな会話もあった。

「薄気味悪いなんてもんじゃねえ。国をとられてみろ。こんな屈辱はないぞ。立ち上がるしかねえよ」

「力だけではダメだ。知恵だ。知恵がいる」

 そして、すべての会話は次の一行に集約された。

「志のあるものは一兵でも欲しい」

 坂本龍馬は、考えに考えた。

 尊王攘夷は西洋列強と戦うために行うものだ。幕府との内乱で日本を疲弊させてはならない。

 坂本龍馬は船中八策を幕府に渡した。

 朝廷も幕府も、上層部は開国和親で固まっている。いまだに攘夷だといってるのは下っ端ばかりだ。

 

  5、明治新政府

 

 二条会議で、将軍になったばかりの徳川慶喜が大政奉還を決意。

 王政復古の大号令となった。

「俺らを暗殺にくるとは、刺客も偉い奴だな、勇気がある」

 中岡慎太郎は京都にいる時、坂本龍馬にいった。

 幕末の争乱は一刻の油断もならず。

 坂本龍馬は京都見まわり組によって暗殺された。

 

 1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い。新政府軍一万人対幕府軍二万人。

 一万人の幕末志士が二万人の幕府軍を倒した。

 幕末志士には、西洋から買った七千個の西洋式ライフルがあった。

 

 3月3日、江戸城無血開城。

 新政府軍の総大将西郷隆盛も、江戸城代勝海舟も、開国和親なので特に話し合うこともなく江戸城受け渡しとなった。

 

 江戸幕府の貴族たち七百人は、日光東照宮に行って抵抗した。

 滅びゆく幕府に最後まで忠誠を誓って戦ったものもいた。江戸の新選組や会津の白虎隊たちだ。

 新政府軍は追撃。

 江戸幕府軍の海軍総帥榎本武揚は、幕府の海軍を率いて北海道の五稜郭に移動。抵抗した。

 二年間の追討戦で幕府軍残党を討伐。

 幕府軍は破れ、新政府軍は勝利。

 明治維新となった。

 幕末志士は、殖産興業を重視した。

 行われた改革は主に七つ。

 廃藩置県。地租改正。電線の敷設。鉄道(陸蒸気)の敷設。洋服の普及。給料を米の支給から金属貨幣の支給に変更。

 さらに、明治政府は教育を重視。明治維新からの七年間で五万軒の小学校を日本に建てた。江戸時代の日本の識字率は男児が40%、女児が15%だったが、明治維新の小学校建設によって、日本の識字率は男女ともに90%になった。

 徳川家は、天領四百万石から、駿府七十万石へ減易。

 1871年11月から1873年9月まで、岩倉具視、大久保利通ら岩倉使節団107名(女性5名を含む)は、アメリカとヨーロッパの視察旅行をした。アメリカの鉄道を見た驚きは大きかったという。岩倉使節団は、オーストリア・ハンガリー帝国まで行き、東洋に起源をもつ民族の国ハンガリーまで視察して帰った。

 文明開化の音がして、日本の夜明けが見えてきた。

 文明開化の音がして、日本の夜明けが見えてきた。

 明治維新を成し遂げたのは、幕末志士一万人の団結によってである。

 勝海舟がさ、薩長同盟も大政奉還も、あれは坂本龍馬が一人でやったことだなんていうんだぜ。わかってねえよな。日本は忍びの国でよ。日本は本来、上忍は忍んで名を残さない。明治維新でも同じさ。本当の上忍は名前を残していない。そうだろ。

 そういえば、大久保利通は最初から最後まで開国和親派でした。

 

終わり。

 

参考資料。

遠山茂樹「明治維新」。

岡義武「明治政治史」。

鶴見俊彦「戦時期日本の精神史」。

司馬遼太郎「竜馬がゆく」。

勝海舟「氷川清話」。

吉田松陰「留魂録」「幽囚録」「回顧録」。

ウィキペディア。

 

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