鬼子の剣士は夜明けを望む   作:安代圭

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第2話 隻腕

「次こそ姉上から一本取ります!」

「来な、杏寿郎!」

 溌溂とした声が屋敷の庭に響く。続いて、木刀の打ち合う硬い音が爆ぜた。

 幼い声とは裏腹に、間断の無い木刀の音は硬く、鋭い。加えて独特な呼吸音が二つ重なって二人の子供の間を満たしていた。

「明、少し腰を落とせ。杏寿郎は手元が浮きがちだ。気をつけろ」

「はいっ!」

 槇寿郎の声に応える子供の声が二つ。いずれも素直な大声だった。

 庭には木々が青々と茂る。日差しを弾く白髪と金髪が眩しい。白と黒の稽古着は、ところどころ土で汚れていた。

「──あ、」

 金髪の少年──杏寿郎の木刀が弾かれる。次の瞬間、喉元に突きつけられる切っ先。木刀が地面に落ちる音が聞こえた。

「参りました」

 その声には悔しさが滲んでいた。

「……今のは結構、上手くできたと思ったのですが!」

「ああ、型の形は崩れていなかった。剣筋も立っていたしな。……明の方が年上なんだ。体格も稽古年数も異なるんだから、そう躍起になるな」

「そうそう、私の方が二年長く剣術やってるんだ。そう簡単に勝ちは譲れないよ。──師範、私の方はどうでしたか」

「……そうだな、左脇が少々甘い。加えて、体勢が崩れると型の精度が落ちる。動きの中で型を使う練習をするといい」

「はい、師範!」

 彼らが稽古しているのは普通の剣術ではない。鬼を殺すための特別な剣技である。

 鬼。──それは、人を喰う怪物を指す。

 公にこそ認められていないが、鬼は古くから存在していた。この明治の世でも、鬼は夜の闇に紛れて人を喰らい続けている。

 主食は人間。いつどこから現れたのかは不明。身体能力が高く、傷などもたちどころに治り、斬り落とされた手足を新たに生やすことができる。血鬼術と呼ばれる妖術を扱う鬼もいる。更には太陽の光を浴びるか、日輪刀と呼ばれる特殊な刀で首を落とされない限り死ぬことはない。

 人類の天敵、理不尽の塊のような鬼に人間が対抗するためには、身体能力を底上げする『全集中の呼吸』と呼ばれる技術が必須だ。この呼吸法を用いることで、人は鬼のような強さを得ることができる。

 明と杏寿郎は、この特殊な呼吸法の一つである炎の呼吸と、これに合わせて用いる剣技を学んでいた。

 

 

 任務中に拾った赤子を育てるように指示されて、九年が経った。

 槇寿郎は鬼を狩る鬼殺隊の中でも、剣士の頂点である『柱』の一人である。炎の呼吸を扱う柱、炎柱。

 明を拾ったのは、ちょうど炎柱の地位を戴いてすぐのことだった。

 鬼子を保護したものの扱いに困った槇寿郎は、任務後すぐに鎹鴉に報告書を持たせ、鬼殺隊の最高権力者──産屋敷家の当主に指示を仰いだ。

 その日のうちに戻った鎹鴉から、鬼子を連れての本部出頭を命じられた。身支度もままならぬ状態で参じると、当主は異形の赤子を物珍し気に検分して曰く、

「鬼について新しいことがわかるかもしれない」

「君の家ならば育てられるだろう」

 そう言われれば従う他なく、仕方なくその不気味な赤子を育てることになった。

 鬼殺隊には鬼に親兄弟を殺され、身寄りのなくなった者が多い。普通は、そのような出自の者が隊士になる。

 この鬼殺隊において、煉獄は特殊な家系であった。数百年も産屋敷家に仕え、代々炎柱を輩出している、由緒正しい剣士の家門。この煉獄家の者は他の柱と違って多くの者が家庭を持っており、実際に、槇寿郎も一年前に妻の瑠火を娶っていた。

 槇寿郎に任されることになったのは、拾ったのが彼だというのも大きな理由だろうが、彼の家庭を当てにしたというのが最大の理由だったのだろう。

 最初は妻と共に気味悪がっていたが、瞳以外は普通の人間と変わることはなかった。加えて大人しく、性質も人懐っこいとなれば、情が移るのも早かった。

 拾い上げたときに見た夜明けの空に因んで『(あかる)』と名付けた。瑠火と二人、初めての子育てに戸惑いながらも、近所の人々の手を借りながら世話をしてみれば、明はすくすくと成長した。

 二年後には息子の杏寿郎も生まれ、煉獄家は子育てに忙しくなった。

 ある程度育ってからは、煉獄家の慣習に則り、己と同じ『炎の呼吸』を教えた。二人とも、地面が水を吸うように、面白いほどによく吸収した。非常に教え甲斐のある弟子たちだった。

 ──特に、明は器用な子供だった。

 呼吸の飲み込みが良く、この歳で常中と呼ばれる、一日中全集中の呼吸を維持する技術まで習得し始めている。剣術に関しても才覚が感じられ、型を覚えるのも頭一つ抜けて早かった。

 息子の杏寿郎もまだ七歳だが、これからよく伸びるだろうという気配が感じられる。明を教えた経験がある分、その伸びようが期待されて嬉しかった。この手ごたえなら、立派な剣士に育つだろう。

 

 

 明は上機嫌で米をよそっていた。今日の夕飯は好物の牛鍋だ。

 杏寿郎と共に母・瑠火の指示のもと食卓の準備をしていると、門を叩く音が微かに聞こえてきた。

「──母上、客人のようです」

 明は耳を澄ました。屋内に足音は聞こえない。書斎の父は気が付いていないようだ。いつものように、過去の炎柱の手記を読むのに集中しているのだろう。

 明は手を止め、同じく聞こえていたらしい母の顔を見上げる。

「私が出迎えてまいります。杏寿郎、後は任せた」

「ああ!」

 威勢のいい義弟の声を背に、明は足早に玄関へ向かった。既に日が沈んでだいぶ経っており、辺りは暗い。客人を待たせすぎてはいけないと、雑に下駄を履く。門越しに少々お待ちください、と声をかけ、閉ざされていた門に手をかけた。

「お待たせいたし────」

 重い門を開いた瞬間、白刃の剣筋が眼前に迫った。

 

 

 明は反射的に後方へ跳ね飛んだ。続く第二の斬撃を紙一重でかわし、身を翻して庭に逃げ込む。

 混乱のままに庭の木の間を駆け抜け、そのまま奥の蔵を目指した。

「──何故、鬼がこの屋敷にいる!」

 後ろから響く怒号。暗くてよく見えなかったが、父と同じ隊服を着ていた。帯刀していたのだから、まず間違いなく隊士だろう。しかし、何故、私を?

 蔵に辿り着いた明は気配を断ち、息を整える。

 左腕が熱い。視線を落とす。────腕が無い。

 明は目を見開いた。

 前腕の半ばから先が失われていた。断面から血が零れ落ちている。

 欠損を自覚した瞬間、痛みが一段重くなった。呼吸が早くなる。心臓が痛い。

 ──死ぬ。

 ぐ、と歯を食いしばった。

 呼吸を止めるな。集中しろ。

 耳鳴りがしてきていた。目の前が点描のように不自然な色彩になり、見る間に白く染まっていく。心臓が痛い。呼吸。呼吸を。呼吸を続けなければ。視界が白い。

 倒れ込みそうになる体を、蔵の壁に押し付ける。

 師範は言っていた。全集中の呼吸を極めれば、止血すら可能になると。

 強張る肺と喉を叱咤して、息を大きく吸い込む。できる。可能だ。軽い切り傷の止血ならば試したことがある。

 己にそう言い聞かせた。

 傷口を袖の上から圧迫し、呼吸に集中する。傷口が服に擦れる激痛と、布が生暖かく濡れていく感触。痛みで体が縮こまりそうになるが、襲撃者を前にして隙を見せるわけにはいかない。

 ぼたり、ぼたりと血が滴り落ちて、蔵の床を濡らしていく。

 歯を食いしばりながら、腕の筋に神経を集中させた。筋肉を膨張させ、血管を圧迫する。

 ──止まった。

 強張る体を引きずって蔵の中を歩く。目的のものを見つけた明は、躊躇なくそれを手に取った。

 

 

 剣呑な気配を感じ取った槇寿郎は、抜刀して庭を駆ける隊士に怒声を上げた。その隊士は見覚えのある容貌をしていた。あれは確か、数か月前に自分の警備地区に配属された少年だ。

「何をしている!」

「──煉獄さん、鬼が!」

 その形相にびくりと身を震わせた客人──松田は、なおも大きな声で訴えた。

「この屋敷に鬼が潜んでいます! 今、庭の奥に駆けていきました!」

「──は?」

 鬼の気配など感じられない。集中して神経を砥ぎ澄ましても、あるのは家族の気配だけ──不意に、悟った。

「お前の言う『鬼』とは、まさか白髪の子供か⁉」

 槇寿郎は青筋を立てて怒鳴る。その剣幕に絶句した少年の顔を肯定と取った。

 ──松田が持つのは、血の滴る日輪刀。

「────あれはうちの娘だ!」

 

 

 娘の気配を辿り、槇寿郎は蔵に駆け込んだ。

 瞬間、叩きつけられる殺気。

 暗がりに白い髪と顔が浮かび上がる。闇の中で、猫のような瞳孔は真円に開ききっていた。手には抜き身の刀。切っ先は入り口の槇寿郎を捉えて離さない。

 槇寿郎は息を呑んだ。

「落ち着け、明。俺だ」

 声で気が付いたのだろう。殺気が霧散した。明が構えを解くのを確認して、槇寿郎は駆け寄った。

「おい、明。怪我は────」

「父上、隊士と思しき人物に斬りかかられました。私は大丈夫ですので、そちらの対処をお願いします」

 明は全身から脂汗を滲ませていた。血の匂いが濃い。特に濡れている左腕に腕を伸ばし──動きを止めた。

 腕が、ない。

「……お前」

 槇寿郎の視線に気づいた明は、歯の隙間から炎の呼吸を漏らしながら答えた。

「止血は、できております。ですから、早く。……母上と杏寿郎になにかあってはいけません」

「もう大丈夫だ。話はつけてある……」

 槇寿郎は明の細い腕に手を添える。新たに血が流れ出ている様子はなかった。──しかし、紐などで縛っている様子はない。呼吸による止血か。

 ──九歳の小娘が?

 腕を斬られた子供が、逃げ、泣きもせず、呼吸で止血をし、その上に刀を手に迎撃しようとしていた?

 槇寿郎は子を目の前にして立ちすくんだ。

 胆力、呼吸の才覚、精神力。どれをとっても異常だ。……確実に、良い剣士になっただろうに。

「……医者に行くぞ」

 槇寿郎は明を抱き寄せた。

「呼吸を止めるな。続けなさい。腕が治るか、見てもらわなければ……」

 

 

 再生する気配のない腕、血濡れの着物。歯を食いしばって荒い息をする小さな体。

 松田は明の姿を見て立ち尽くした。

 ──目の前の子供は、「人」だ。

 己の所業を思い出し、心臓を掴まれたような痛みが走った。

 自分は、年端もいかぬ子供の腕を斬り飛ばしたのだ。

 槇寿郎に抱えられ、医者のもとへ連れていかれた少女を声もなく見送る。

 顔面蒼白の少年に対して、瑠火は淡々と明の生い立ちを説明した。瑠火の顔からもまた、血の気が失せていた。その後ろに控える杏寿郎の顔も硬い。

 近所の人間に対し、明の事を煉獄夫妻は「煉獄家の親戚の娘を養女に向かえた」のだと説明していた。もとより、煉獄の家は金に紅の散る珍しい頭髪の持ち主だ。炎のような瞳の色も他に類を見ない独特さである。そのような家系の親類であれば白髪赤目で猫の瞳孔もありえなくはないと、おおらかに受け入れられていた。

 だからこそ、明は自分の見た目の異様さをさして気にかけることなく育っていた。容姿を晒すことに対して、あまりにも無防備だった。

「……姉上はご無事でしょうか」

 杏寿郎は自分の袴をぐ、と握りしめた。その声にいつもの覇気はなかった。

 瑠火は杏寿郎の肩に手を乗せ、毅然とした口調で答えた。

「明は強い子です」

 その声に含まれていたのは、祈りだった。

 

 

 ──明の手は繋がらなかった。

 止血処理のみをされて、明は屋敷に返された。

 担当した医者は不自然に止まっている血と、脂汗をかきながらも気丈に振舞う子供を見て目を丸くしていた。こんなことは初めてだ、としきりに繰り返した。

 屋敷に帰った明を、土下座した客人の背中が出迎えた。丸まった隊服の背には大きな滅の字が刺繍されていた。

 謝罪の言葉を聞く気力はなかった。帰り道では辛うじて歩けてはいたが、極度の緊張と失血で明の体は限界を迎えていた。槇寿郎に支えられながら、ふらつく足で寝所へ移動し、失神するように意識を手放した。

 

 

 遠くで鳥の声が聞こえた。

 明は緩慢に目を開けた。体が重い。身を起こそうとして──体勢が崩れた。体が布団に倒れこむ。何事か、と手元に視線を落とす。

 寝巻の袖が途中から厚みを失っていた。

 ──腕がない。

 左腕の空白の意味を飲み込んだ瞬間、昨晩の事を思い出した。

 物音で起きたのだろう。部屋の隅で仮眠をとっていたらしい槇寿郎が、少しだけ眠たげな眼で明を見ていた。

「明。……調子は、どうだ」

「寝すぎたようで、体が固いです。……特に熱もありませんし、傷口が開いている様子もありません。大丈夫です」

 不安がらせまいと笑って見せれば、槇寿郎は痛ましげに顔を歪めた。

「松田──あの隊士が、謝罪をしたいと言っている。聞けそうか。嫌ならば顔を合わせなくてもいいぞ」

「問題ありません。まだこの家にいらっしゃるのですか」

「ああ」

「では、着替えてから参ります」

 明は着替えようとして、腕を止めた。片腕が使えない上、傷口に当てた布が少し擦れるだけで痛みがあった。悪戦苦闘していると、見かねた槇寿郎が手を貸した。

「ありがとうございます、父上。ご迷惑をおかけしてすみません」

「……うむ」

 

 

 槇寿郎は深く落ち込んでいた。

 ──あれは隊士になるべき逸材だった。

 それを、あの夜、あの蔵で確信してしまった。

 胆力、呼吸の才覚、精神力。どれをとっても遜色ない、剣士になるために生まれたような逸材。

 だからこそ惜しかった。

 隻腕では剣士になれない。

 ──松田よ、なんてことをしてくれた。これは鬼殺隊の損失だ。

 

 

「すみませんでした……っ!」

 畳に額をこすりつける松田の前、姿勢正しく座っているのは十にもならぬ子供。傍らには養父の炎柱が厳しい顔で腕を組んでいた。

「……顔を上げてください」

 静かな子供の声。顔を上げると、赤い瞳と目が合った。瞳孔が縦に裂けた異形の瞳が、松田を見つめている。

 重傷を負わされたにしては、あまりにも静かな瞳だった。憎悪も恐怖も怒りすらもない、感情の抜け落ちたかのような顔。

 静かに問うような視線を向けられて、思わず目を逸らす。居心地が悪い。

 これは本当に九歳の子供なのか。言い知れぬ違和感に、背筋に悪寒が走る。腕を斬られたのに、泣きも、わめきも、怒りもしない子供とはいったい何なのか。

「本当に、とんでもないことをしてしまって……どう謝ればいいか……」

 あまりにも不気味。それに尽きた。罪悪感はあったが、それ以上に恐怖に似た感情が松田を支配していた。怖いと言うよりかは、得体のしれない気持ち悪さ。

 槇寿郎のいう通り、この娘は鬼ではないのだろう。だが明らかに人でもない。これを人の子と呼びたくない。ともかくもまともな存在ではないことは、この異形の目が証明している。

 一刻も早くこの部屋から離れたい。

「……生きてさえいれば、どうとでもなりましょう。それに、隊士という仕事は手足どころか命さえも危ういものなのですよね」

 幼い声が淡々と話す。

「松田様こそ、どうかお気をつけて。……これは、あの時避けられなかった私の未熟の問題なのですから」

 ──この娘は、自分を気遣っているのだ。

 それに気づいた瞬間、松田は息を止めた。

 腕を落とされて、何も思わないはずがない。それなのにこのような態度をとっているのは、加害者である松田の、鬼殺隊士としての仕事を慮ってのことなのだ。鬼殺の任の重さを理解し、尊重したうえでの発言なのだと。

 気持ち悪さは抜けないまでも、罪悪感が重くのしかかった。その勢いのままに、松田は口を開いた。

「……できる限りの責任は取ります。なんでも言ってください」

 

 

 なんでも言えと言われ、明は目を瞬かせた。

 どう責任を取るつもりなのだろう。そもそも、他人にできることなどあるのだろうか。隻腕の障害は、自分一人で負うしかないものなのではないか。

 純粋に疑問だった。

 できるとすれば生涯に渡る介護だろうか。しかし、鬼殺の剣士という貴重な人材をそんなことに費やさせられるはずがない。

 ──目の前の隊士に要求できる、自分に今一番必要なことは。

「……松田様は、片腕で扱える呼吸の流派をご存じでしょうか」

 考えるまでもないことだった。

「知り合いに隻腕の剣士はいらっしゃいますか」

 腕の喪失を自覚して初めに思ったことは、「これからどうやっていくか」だった。

 怒り、悲しみ、憎悪よりも先に、「この先どうやって剣士になるか」を考えていた。

 怒ったところで意味がない。失われたものは戻ってこない。大事なのはこれからの方策を考えることだと理解できていた。

「……すみません」

 沈黙の末、目の前の隊士が口を開いた。

「あまり顔が広い方ではなくて、隻腕の知り合いはいません。呼吸の流派についても詳しくなくて……」

 松田は心底申し訳なさそうに目を伏せた。

「後で友人に聞いてみます。見つかったら、鴉を飛ばしますので」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 言いながらも、明はあまり期待はしていなかった。欠損を理由に隊士を辞める人間が多いという話は聞いていた。

 だが、隻腕で隊士を続けた者が一人もいなかったというのも考えにくい気がした。片手で操れる型が一つも存在しないというのも、同様にありえない。

 腕が一本残っていれば、刀を振る事は可能だ。必要なのは、隻腕での戦闘を可能にする技術だけ。

 更に言えば自分は、この年齢から「隻腕に特化した」剣術を身に着けられるのだ。途中から腕を失った者よりも、戦いやすいはずである。

 

 

 明は腕を失って三日目の朝から素振りの日課を再開していた。

 ──片腕で振るには、握力が足りない。

 真っ先に実感したのが筋力不足である。剣筋が安定せず、ぶれてしまう。片腕だけでうまく刀を固定できない。

「……姉上?」

 稽古着の杏寿郎が襖の間から顔を出した。

「もう、動けるのか」

「ああ。傷口もだいぶ塞がってきたからね。杏寿郎もこれから稽古だろう? ちょっと打ち込んでみてくれないか」

 二つ返事で承知した杏寿郎は、木刀を持って庭に下り立った。

「手加減はいらない。全力で打ち込んでくれ。現状を把握しておきたいんだ」

「承知した!」

 杏寿郎は素直に頷き、木刀を構えた。全集中の呼吸の音が、静かな朝の庭に広がっていく。

 杏寿郎の木刀の切っ先が、動いた。

 構え、踏み込み、太刀筋。基本に忠実な杏寿郎の動きは、毎日稽古を共にしている中で熟知している。以前は安定して受けられたはずのそれが、明の木刀と交差する。

 ──衝撃と共に、木刀が明の手から離れた。

 重い音を立てて、木刀が地に落ちる。

 あまりにもあっけなかった。

 予想はしていたから、怪我をする前に躱すことができた。そうでなければ、杏寿郎の木刀は明の頭を叩き割っていただろう。

 動揺して目を見開いている杏寿郎の頭を撫で、「ありがとう」と声をかけた。

「握力が足りないね。まずはそこからどうにかしなくては。迷惑をかけるが、これからも稽古に付き合ってくれないか」

「……っ! はい、姉上!」

 明は毎日、ひたすらに木刀を振った。夜には砂を詰めた瓶を振り、ともかくも握力をつけて刀を満足に振れる状態になるように鍛錬を続けた。

 

 

 全く折れる様子の無い明の姿を、槇寿郎は哀れみながら見守っていた。隻腕では剣士になれない。炎の呼吸の型は、片腕では満足に扱えない。隻腕の剣士なぞ、柱の自分であっても、見たことも聞いたこともなかった。

 それでも、「諦めろ」とは言えなかった。剣士になることを諦めず、稽古を続ける少女に現実を突きつけるのは憚られた。もし、それを言ってしまったら、絶望してしまうのではないかと思った。

 隻腕になって苦労しながらも表情に陰りを見せないのは、ひとえに「片腕でも隊士になれるだろう」と思っているからだ。「無理だ」と自分が言ってしまったら、あの子は立ち直れないのではないか。

 だから、槇寿郎は明が自分から諦めるのを待つことにした。それまでは見守ってあげよう、と。

 

 

 ぶん、と明は刀を振るう。切っ先は空を切り裂いて、鋭い音をたてた。もう、重い真剣も振れるようになった。竹の束に向かって水平に斬りこめば、ほぼ抵抗すら感じずに、刀は竹を両断した。

 そのまま、壱から玖までの型を順に行う。片腕では物理的にできない技もあるが、制限の中では出来る限り忠実に再現できたと思う。

 木刀に持ち替え、庭の隅で素振りをしていた杏寿郎に声をかける。

「杏寿郎、いいか」

「ああ、姉上!」

 杏寿郎は嬉々として明に向けて木刀を構えた。深く息を吸い込み、明の元へ疾走する。

 振りかぶられた木刀が迫る。正面からではなくあえて斜めから木刀を当て、後方へ受け流した。

 二撃目が放たれる前に、明の木刀が閃いた。鋭い斬り込みを、今度は杏寿郎がしっかりと受け止める。

 剣筋を立て、踏み込みの威力を用いた打ち込み。重心の移動によって生んだ威力を余すことなく刀に伝える腕の使い方。

 今迄培ってきた技術を全て注ぎ込む。──動ける。

 ────炎の呼吸 弐ノ型隻式 昇り炎天

 明が放った下からの斬撃を、杏寿郎は半身になって躱した。僅かに崩れた体勢に向け、そのまま薙ぎ払うように不知火に繋げる──と見せかけ、

 ────炎の呼吸 伍ノ型隻式 炎虎

 直前で軌道が曲がった。体の左側を守るように構えられていた杏寿郎の木刀に当たる寸前、明の木刀が跳ね上がる。炎を纏った刀身が、噛むような斬撃となって頭上から振り下ろされ、杏寿郎の額の上一寸で静止した。

 腕を失って後、初めての明の白星だった。

「参りました!」

 杏寿郎は敗者とは思えぬ笑顔で宣言した。

「そろそろ一本取られると思っていた! やはり姉上はお強い!」

 以前と比較しても遜色ない明の剣技に、杏寿郎は目を輝かせ、自分のことのように喜色を浮かべていた。素直な弟の言葉が面映ゆい。口元が綻びそうになるのを誤魔化すように、明は木刀を一振りして杏寿郎の言葉に答えた。

「……ここまで戻すのに随分時間をかけてしまった。付き合ってくれてありがとう」

「俺にとってもよい鍛錬になった! 任務中に腕を負傷した時の為に、俺も片腕で型を使う稽古をしておきたい!」

「そうだな、片腕で扱えれば戦いの幅も広がるだろう。多少コツが要るからな、やりにくいものがあれば私に聞いてくれ」

 

 

 唖然とする槇寿郎を尻目に、明は更に稽古を続けた。

 そして、その日。

 ──明の刀は岩を斬った。

 明の「壱の型隻式 不知火」は、身の丈ほどある岩を斬った。上下に分断された岩は、切り口でいびつにずれていた。

「──父上! やりました!」

 明は弾んだ声で槇寿郎を呼ぶ。その背後で、岩の上部が均衡を欠いて地面に落ち、重い音を立てて砂埃を巻き上げた。

 ──これは。

 槇寿郎は予想外の展開に、しばし、目を瞬かせていた。

「……うむ、明。よくやった。さすがは俺の弟子だ」

「はい!」

 明は嬉しそうに白髪を揺らす。事件前には後ろでまとめて背に垂らしていたが、左腕を失ってからは「結えないから」と、肩口で切りそろえていた。その髪型が十歳の明を一層幼く見せており、年の割に成熟した言動との違和感が増していた。

 槇寿郎は顎を掻きながら思案していた。

 ──俺では、隻腕での戦い方を指導できない。

 隻腕でここまで刀を扱えるようになったのは、明の努力の賜物である。

 しかし、剣術の向上には適切な指導が不可欠だ。明に合った刀の使い方を教えられる人間がいなければ、この才を殺すことになりかねない。

 だが、隻腕の剣士など聞いたこともないのも事実だった。任務で手足を失った隊士は、軒並み引退している。欠損してなお隊士を続ける者はいない。

 片腕で刀を扱う流派はあっただろうか──とそこまで思考を巡らせて、一人の男の顔を思い出した。

 彼の名は遠藤良平。槇寿郎の父の弟弟子(おとうとでし)だった。

 

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