鬼子の剣士は夜明けを望む   作:安代圭

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第20話 片腕……〇

 このごろの明は、無理をしているように見える。

 手元の書類から視線を上げ、小夜は庭で型演武を繰り返す明に目をやった。

 風柱邸に移住してしばらくが経っていた。ようやく、この広い家で寝起きするのにも慣れてきた所だ。明は小夜よりも早く順応したようだった。ここと同じく立派な屋敷であろう煉獄家で幼少期を過ごしていたからだろうか。

 小夜は手の中の万年筆を揺らした。鮮やかな菜の花色の胴軸が目を引く。少し前に明から贈られたものだ。

 明の様子がおかしくなったのは、彼女の育手の訃報が届けられたあの日からだったか。一見普通にも見えるが、反応が僅かに遅かったり、浮かべる笑みがどこか空虚に感じられたりと、違和感があった。これは多分、今まで共に過ごしてきた小夜だからこそわかる変化だ。現に、伊藤は何も引っ掛かりを感じていないようだった。

 任務時間外、この屋敷で過ごすわずかな時間すらも、明は寝食を忘れ長時間ひたすら炎の呼吸の型演武を繰り返すようになった。声をかけても反応がないほどの没頭具合だ。何も考えずに体を動かしていたいのだろう。その気持ちは小夜にも覚えがある。

 かと思えば、唐突に小夜にこの万年筆を贈ってきたりもした。

 初めこそ慣れぬ書き心地に戸惑ったが、インクを内蔵できる万年筆は大変に使い勝手が良かった。

 最近の小夜は日夜大量の書類と格闘しているから、それを気遣って買ってくれたのだろう。決して安くはないものだろうに。

 手の中で万年筆をくるりと回す。

 このように気遣いもでき、察しも良く、歳の割に気丈な明が動揺を滲ませているのを見るのは、痛々しいものがあった。

 しかし、小夜に出来ることがあるわけでもない。

 手元の書類に視線を戻す。

 本部から持ち出しを許された記録類の他、風柱地区の討伐報告書、隠や藤の花の家紋の家からの情報提供まで、この屋敷でも様々な書類の整理、分析を任される事になった。未だ片腕を吊ったままなので、正確には「それしかできない」という話ではあるが。

 思えば本部に討伐記録の閲覧と整理分析の許可を申請した時も、意外なほど早く承認された。その上、隠か鎹鴉の監視下であったとは言え、要求したよりも遥かに多くの書類に目を通す事が叶った。

 単に人手を遊ばせておくのを勿体無いと考えたのかもしれないし、変わり種の隊士に新しい視点を期待したのかもしれない。ほぼ顔を合わすことのなかった当主の思惑は窺い知れないが、何にせよ小夜には都合の良い環境だった。当初の目的を完遂するには十分すぎるほどに。

 勿論、限られた期間でできた事はさほど多くはなかったので、今も記録類を一部持ち出して作業を続けている。紙に埋もれる生活にも慣れたものだ。

 単純な鬼の発生推移の他、異能の鬼に絞った各地の発生率や、地形と遭遇率の相関など、思いつくままに主題を変えて記録の収集、比較をするのは予想外に楽しいものだった。

 その他、隊士の人数の変化、殉職率、歴代の柱の経歴などの分析をするのも興味深かった。この地区で実際に働きながら感じていた事と合致する数値が出てくる事もあれば、予想外の事実を示唆するものもあった。

 ──明の出自について知れたのも、討伐記録を漁った副産物だ。

 育手の墓を参りに、明が鬼殺隊の共同墓地に赴いた日の翌日のことだった。

「恩人の所で入隊希望者に剣の指導をする事になった。これからしばらく、任務の合間にも頻繁に外出する事になるので、承知しておいて欲しい。当主と風柱様の許可は取ってある」

 任務から帰った小夜を出迎えた明は、少しばかりやつれた顔でそう切り出した。

「……もしかして、煉獄家の?」

 その時の小夜は疲労で(ろく)に頭が働いていなかった。

 反射的に言ってしまってから、はたと口を(つぐ)んだ。一方的に、それも隠していただろう過去を知られて、いい気はしまい。

「それはどこで……」

 珍しく驚きを露わにした明は、問いを口にしかけて止めた。

「……討伐記録か」

 やはり、明は(さと)い。誤魔化すわけにもいかず、小夜はうなずいた。

「明の名前自体があったわけではないけど。当時の炎柱が、妊婦の鬼を討伐、腹から出てきた赤子を回収、当主の命で監視、養育を任された、とあったから。明の歳とも合致していたし」

 そう答えれば、明は不快そうな顔をすることもなく肯定した。他の人には言わないでほしいと、それだけを言い添えて。

 ──煉獄家で何かあったのだろうか。

 思えば、明が稽古量を急増させたのは、煉獄家に通うようになってからだ。

 あそこは代々炎柱を出している一族だと聞く。明が炎の呼吸に執着しているのにも、煉獄家での過去が関係しているのかもしれない。

 ──明に話す気がないなら、無理に詮索するべきではないのだろうけど。

 明は立場も出自も複雑だ。自分は彼女について、あまりにも無知だった。何ヶ月も寝食を共にしてきたのに、私はあの子の事を碌に知ってはいなかった。

 今の私も、彼女の苦悩の理由を完全には把握できていない。生い立ちについても、大部分は推測の域を出ない。

 明の少し低い、凛とした声を思い出す。

 明の来歴を知ったとき、およそ普通の女子らしからぬ彼女の口調に、ようやく合点がいった。

 あの子は元から女子として育てられてはいなかったのだ。鬼を殺す刀となるべく育てられてきたのだと突きつけられた気がして、薄ら寒いものを覚えた。

 まともな女子としての未来、幸福など、明には端からなかった。以前、辛ければ隊を抜けてもいいのだと言った自分の浅慮はどれほど明を傷つけただろうかと、小夜は目を伏せる。

 ──今は黙って、側にいよう。

 明が頼りたいと思ってくれた時に、応えられるように。味方の少ない明の側にい続ける事だけでも、多少は慰めになると信じよう。

 

 

 煉獄家の庭に、今日も炎が踊る。

「……惜しいな。呼吸と斬り込みの拍が僅かにずれている。息を吐き切る事を意識するといいかもしれない」

 最後の一振りを終えた杏寿郎の刀から、炎が解けていく。

 弟は玖ノ型に苦戦していた。

 型そのものの概形はできている。威力も、その歳にしては十分すぎるほどに乗せられている。

 しかし、父の型の足元にも及ばない、荒削りなものだ。より洗練されたそれに近づけようとしても、踏み込みを修正すれば剣筋が僅かに歪み、剣筋を修正すれば重心の位置がずれる。完全に調和した型の感覚を掴むのに苦戦しているようだった。

 ──あと僅か、ほんの少しの差なのだ。

 その少しが、あまりに難しい。神は細部に宿ると言うが、杏寿郎はその神をまだ降ろせずにいる。

 もどかしい思いで、明は指導を続けていた。

「──姉上の玖ノ型を見せてくれないか」

 型演武と講評を三十は繰り返しただろう時、杏寿郎は唐突に口を開いた。

「手本が見たい。姉上のを見たら、何か掴めるかもしれない。久しく父上の型を見れていないから、外から型を確認したい」

 炎の色の瞳が、期待と信頼の籠る眼差しで明を見上げた。

 ──私に恥を晒せと言うのか。

 胸の奥がちりちりと炙られた。

 ──本物の炎の使い手を前に、形ばかりの紛い物を見せろと?

 明の玖ノ型は限りなく養父の型の形に近いが、実戦的ではない。手本にするには充分だが、中身を伴うものではなかった。

 ただの陽炎、ただの紛い物。煉獄の火炎とはとても呼べない。

「──ああ、わかった。少し離れて。……うん、その角度なら見やすいだろう」

 だが、その動揺を隠せるほどには、明は世に擦れていた。感情の機微に敏感な弟にすら隠し通せるほどに。

 平然として、腰の刀を抜き放った。紫紺の刀が陽光を弾く。

 ────炎の呼吸 玖ノ型隻式

 体を捻り、刀を構える。炎の呼吸で肺を満たす。深く、深く、息を蓄え、手足の末端にまで熱を行き渡らせる。

 ────奥義 煉獄

 噴き上がった炎が渦を成す。

 爆発的な踏み込みが地面を抉った。

 火炎は捻れ収束し、熱の奔流となって大気を裂く。

 明の刀が描く赤い残光に、杏寿郎は炎の龍を見た。

 手首の動き一つ見逃すまいと、杏寿郎は食い入るように明を見つめた。その視線が刺すように痛い。屈辱と苛立ちが明の肉を焼く。

 刀が風を斬り裂いてうなりを上げる。荒れた内心を吐き出すように、それでいて型の精緻さは損なわれることなく、炎を纏った連撃が目の前を焼き尽くす。

 渾身の斬り下ろしを最後に、明は刀を止めた。炎の幻影が霧散していく。

 ──私も、この家に生まれていたなら。

 身をもたげかけた暗い感情を、明は呼吸で押し留める。

 ──鬼子の身でありながら、この家で過ごせたことが幸運だった。意味のないことを考えるのはやめろ。

 私は幸福だ。

 家族を鬼に喰われたわけではない。小夜達のように、唐突に平穏を奪われたわけではないのだ。

 最愛の弟に敬意を抱かれ、刀の指導をもできている。

 ──これを幸福と呼ばずして何と呼ぶのだ。

 杏寿郎に視線を向ければ、(ほむら)色の眼差しが明を射抜いた。太陽のように輝く瞳が、明の剣技への純粋な称賛を映している。

 ──立派な義弟を持てて光栄じゃないか。

 頭の中で己の声がささやく。

「やはり、姉上の型は美しい! 父上のものと見紛うほどだ」

 ──それ以上言うな。

「俺も姉上のような強い剣士になりたいものだな!」

 ──やめてくれ。

「少しは参考になっただろうか」

「勿論だ!」

 勇み足で、今度は杏寿郎が庭の中央に陣取った。先ほどまでと同じように、構えをとる。

 弟の纏う炎が、耐え難いほどに目に痛い。──だが、指導をすると決めたのは私だ。これは私の義務だ。

 多少の休憩をとりつつ、型稽古と試合を続ければ、いつしか日が暮れていた。

「今日もありがとう!」

 眩しいほどの笑顔で、杏寿郎が家を発つ明を見送る。

「こちらこそ。次は三日か四日後に来よう」

 一刻でも早く、明はその場を去りたかった。

 夕焼けを背景に鎹鴉が飛ぶ。

 あれほど恋しかったはずなのに、今やこの家を訪れる度、義理の家族を思う度に胸が軋む。

 贅沢な悩みだ。

 明は息を吐く。

 私は、他の隊士に比べれば幸福な部類なのだから。

 ──母が死んだ。

 ──鬼に喰われたわけではない。

 ──父は私に見向きもしない。

 ──父のおかげで生かされた。顔を見れるだけで幸せだ。

 ──弟は私よりも才と肉体に恵まれている。

 ──指導ができているだけでも喜ぶべきだ。

 耳の奥に、己の炎の呼吸の音が聞こえる。

 ──幸福の、はずだ。

 

 

「もうしばらくで、昼餉だそうだ。……今日は何を?」

 書類の散らばる一室に足を踏み入れて尋ねると、小夜は弾かれたように顔を上げて目を瞬かせた。

「もうそんな時間? ……今は、鬼かもしれない情報の整理と分類。隠と藤の花の家紋の人から、結構な量の報告が上がってきているから。

 行方不明者が連続しているとか、猟奇死体が発見されたとかから、これみたいな『一夜にして竹林が生えた』っていう怪事件まで。これなんかは血鬼術じみているから、周辺の行方不明者の情報を確認しつつ、って感じかな」

 小夜は手元の紙を明に見やすいように傾けた。

 報告書の山の奥に、小夜の左腕が見えた。もう負傷して一ヶ月は経っているのに、まだ完治はしていないらしい。己とは違う人体の脆さをまざまざと見せつけられるようで、明は小夜の腕を見るたびに複雑な気持ちになった。

「柱代理の任務もするからには、私も情報に通じていた方が良いのだろうけど。……これ全部に目を通すのは大変だな」

 思わず顔を顰めれば、小夜は驚いたように明の顔を見つめた後、軽く笑った。

「伊藤様でも全部は読んでないよ。いつもは隠の方たちがまとめて報告しているんだって。今私がやらせてもらっているのは、曲がりなりにも任務経験のある隊士の視点で何か気づくものがないかっていう試み」

 小夜は机の上の万年筆を手に取った。

「万年筆、ありがとうね。使い勝手が良くて助かってる」

「気に入ってくれたなら、私も嬉しい」

 任務で各地を飛び回る道すがら、文具店で見つけたものだった。

 小夜には随分と迷惑をかけている。負傷時の世話もそうだし、自分と同居しているというだけで、隊士から厳しい目で見られていたようだった。

 感謝とお詫びの意味を込めて、何か役に立つものを贈りたいと考えていた時にそれを見つけた。

 濃い黄色の軸が猛禽に似た小夜の瞳を思わせて、気がついた時には手に取っていた。

「……ここは本が多くていいよね。この仕事がひと段落したら、読んでみたいのが何冊かあるんだ。明も、気分転換に本棚でも眺めてみたらどうかな」

 些か唐突にも思える小夜の言葉に、明は曖昧にうなずいた。

 小夜の言う通り、風柱邸宅には多数の書物が蓄積されていた。歴代の記録書の他には兵法書や医術書が主だったが、武家らしい思想書もまた多かった。──煉獄の家に似て。

「私は先に食事の準備をしてくる。区切りが良くなったら居間に来てくれ」

 当初の目的をすませ、小夜の部屋を後にする。背に小夜の了承の声を聞きながら、明は廊下を歩いた。

 食欲は全く湧いていなかった。

 

 

 ────炎の呼吸

 熱い息を吐いて、明は刀を握り込む。

 ────壱ノ型隻式 不知火

 目の前を斬り裂く炎。

 今迄は、どんな時でも、この炎を見れば心が静まった。

 真菰に斬られた後も、同僚を根こそぎ殺された後も、刀だけは明の味方だった。柄を握れば頭が澄み、型を演ずれば心が温まった。

 体と型の調和。父の刀と重なる剣筋。それを感じるだけで安らげた。

 いつだって、刀は明の救いだった。

 ──それなのに。

 今は、どれほど型を繰り返しても、──否、型を繰り返すほどに、内臓を焼かれるような心地になる。

 ────炎の呼吸 弐ノ型隻式 昇り炎天

 天へと炎が吹きあがる。

 風を裂き、円を描く炎が、明の身をも焼いていく。

 ────炎の呼吸 参ノ型隻式 気炎万象

 斬り下ろされる刀。それに追随する業火。──紛い物の炎。

 喉の奥で濁った唸り声をあげる。

 師と母を喪った嘆きを鎮めたいのに、己の身への怒りを納めたいのに、目の前の炎は明の心を焼くことしかしない。

 鬼を殺すことへの苦い思いも、隊士から非難の目で見られることへのやり切れなさも、胸の内に黒く渦巻き続ける。

 ──どうして。

 手の中の紫紺に、赤い光沢に、どれほど救われてきたか。何度も共に死線をくぐった。自分にも炎の呼吸への適性があるとわかった時の、身の震えるような喜びを、今も鮮やかに思い出せる。

 命を救い、心の支えとなってくれていた刀が、剣技が、今は目にいれるのも厭わしいほどに憎い。いっそ投げ捨ててしまいたいほどに、明は荒んでいた。

 それでも、刀を手放せない。

 明にはそれしかないのだ。──刀だけが、明の執着だった。存在意義だった。己の生存を許す、ただ一つの技術であり誇りだった。

 ──このごろは寝つきが悪くなった。

 布団に倒れ込むほどに肉体を疲れ果てさせなければ、眠ることもままならない。

 だから、手の中の刀が重く感じられるようになるまで、今日も刀を振るう。胸に巣食う痛みが一晩中苛む夜を過ごしたくはなかった。

 食欲も失せた。味のしない食事を、無理に噛んで腹に収めるばかりだ。

 ──この炎に感じていた暖かさを、もう、思い出せない。

 

 

「東出。今日は君が仕切れ」

 唐突な風柱の言葉に、明は面食らった。

 先程まで型稽古に勤しんでいたところを、説明もなく稽古場まで連行されたばかりだ。状況がわからない。

「今いるのは新人と穏健派だけだ。まずはここから始めるといい。……君もこの屋敷で私の部下という立場にある。いずれはこの稽古場を任せたい。──野沢のように」

 低められた伊藤の言葉に、胸を衝かれた。

 風柱から継子を奪ったのは、私だ。この地区の隊士たちから、頼れる上官を奪ったのは私なのだ。

 拒否権など、あるはずがない。

「──承知、致しました……」

 頭を下げ、粛々と従う姿勢を見せれば、伊藤は稽古場の隊士に向けて声を張り上げた。

「東出隊士は私の継子だ。東出への侮辱は私への侮辱と心得なさい。午後の稽古は東出に任せる。彼女に従うように」

 なるほど、と明は嘆息した。継子という扱いにすれば、行動の自由度も増えるし、隊士への抑止にもなる。鬼子への疑惑はあれども、明の実力はこの地区の隊士ならば知る所だ。

 少々強引ではあるが、継子に関する事は各柱に一任されているので、伊藤の独断で明を継子の立場に置くことは可能だ。もともと監視対象者という名目で風柱の直下に置かれていたため、急な立場の変化に反発する隊士もいなくはないだろうが、この実力主義の鬼殺隊では珍しくはあってもありうる事ではあった。

 そして、伊藤の言った通り、その場には明に明確な敵意を見せる隊士はいなかった。

 深呼吸をし、明はその場の隊士に軽く礼をする。

 ──野沢さんは、どうやっていたか。

 煉獄家や遠藤の元で行っていた修業とは勝手が違う。自然と、野沢のしていた稽古を辿るような形になった。

 多くの呼吸に通じていたおかげで、明は隊士の個別の指導そのものは元々得意だった。型の崩れの指摘、戦法への助言は問題なく行えているはずだ。

 伊藤は初日は様子見のためか、指揮は明に任せながらも終日稽古に参加していたが、徐々に稽古人によっては完全に稽古場を明に任せるようになった。

 任務、風柱邸での稽古監督、煉獄家での杏寿郎の指導。

 さすがに稽古場の監督は毎日ではなく、伊藤や、当日来た隊士の中で最も階級が上のものが行うことも多かったが、明の体感では風柱邸での時間の殆どを稽古場で過ごしているように感じていた。

 目の回るような忙しさだった。どうにか倒れることなく回せているのは、伊藤や小夜が任務量や稽古の監督日数、家事の持ち回りなどの調整をしてくれているからだろう。余計な事を考える暇がないという意味では、多少は胸の軋みが薄れた気がした。

 矢のように過ぎ行く日々の中、()が訪れたのは、明が稽古場を任されるようになってから二週間が経った頃だった。

「君、は────」

 その隊士は、稽古場に踏み入って明の顔を見た瞬間、表情を強張らせた。

 見覚えのない顔に、明は内心で首を傾げる。憎悪でも敵意でもなく、どちらかというと恐怖に近い表情。

 同じく稽古に参加していた伊藤に視線をやった。彼もまた、その隊士の表情に不可解なものを感じているようだった。

 なおも隊士の様子を見る。年は成人前後あたりだろうか。常中は身に着けているようだ。佇まいも、新人ではなく歴戦の隊士のものに近い。おそらくは明と同じ(きのえ)。どれほど低く見積もっても(ひのと)以上なのは確実だ。

 上弦の参との接敵で、風柱地区の(きのえ)の隊士は明を除き全滅した。

 ──ならば、私が狭霧山に滞在していたときに他の地区から応援に派遣された隊士だろう。

 なぜそのような隊士に、敵意ではなく恐怖に近い感情を抱かれているのかは不明だが、稽古場の監督者として放置するわけにもいかない。隊士の動揺を素知らぬふりをして声をかけた。

「初めまして。稽古に参加されるなら、そちらの木刀をどうぞ。私は東出明と申します」

 軽く礼をすれば、隊士はかすれた声で答えた。

「俺は、松田影敏(かげとし)だ。……もし、君が顔を見るのも嫌だと言うなら、今すぐ立ち去るつもりだ」

 ──松田。

 聞き覚えのある苗字に、明は目を見開いた。

 ──私の腕を落とした隊士。

 ようやく、彼の態度に納得した。

 負い目を感じて当然だ。剣士の腕を落とすなど、隊士としての人生を断ち切るに等しい。明が隊士として働けているのは奇跡的な事だ。

 自分が腕を斬った子供が生きて隊士になったと聞いた時には、驚いたことだろう。鬼子の隊士の噂が各地区に流れていたことは把握している。その時の松田の内心は、容易に想像できた。

 不具を抱えた体で最終選別を突破するのは、常識的に考えれば不可能だ。隊士になって、やっと自分の存在の異常さを理解できた。

 しかし、日常的な不便があるとは言え、呼吸の才覚と遠藤の指導のおかげで今の明は剣士としては問題なく活動できている。

 斬られてから数年は過ぎているし、そもそも下手人の顔を忘れるほどに明は事件そのものには頓着せずに過ごしてきていた。今更、顔を見るのも嫌だと言うほどに拒絶する理由がなかった。

 明は歓迎の意を示すために、口の端に笑みを浮かべた。

「……いえ、過ぎたことですので、お気になさらず。手合わせできる方が増えるのも、指導側に回っていただける熟達した隊士が来ていただけるのも、どちらも歓迎していますので」

 本心からの言葉だった。

「────そうか」

 ──彼の構えを見るまでは。

 いつも通り、実力が近い者同士を組ませ、互角稽古を行うことにした。伊藤は全体の見学に回ったので、自然、明は松田と組むことになった。

「よろしくお願いします」

 間合いの外で礼をし、明は切っ先を相手の目に向けた。最も基本的な、正眼の構えだ。

 ──どの呼吸を使うのだろう。

 使い手の多い水だろうか。それとも、伊藤と同じ風か。

 松田も同じく、明と正対して木刀を構えた。脇構えに近い、相手に刀身を見せない構えだ。半身を切り、大きく後ろに剣先を向ける姿には見覚えがあった。

 ────炎の呼吸

 そして、彼の口元からあまりにも馴染みのある呼吸音が吹き上げ、

 ────壱ノ型

 炎の呼吸の型を使うのを見た瞬間、

 ────不知火

 明の身の内が荒れ狂った。

 ────炎の呼吸 伍ノ型隻式 炎虎

 松田の不知火が振り切られる直前、(はらわた)から突き上げた衝動のままに全力の炎虎を叩きつけた。木刀が折れるほどの衝撃が手の内に響く。

 腹の中で蝮がのたうつような、怒りにも似た憎悪が臓腑を焼いた。

 ────炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 ────炎の呼吸 参ノ型隻式 気炎万象

 松田の型は完全に見切れた。杏寿郎の型よりも洗練されていたが、槇寿郎のそれには遠く及ばない。

 狭霧山で元水柱の鱗滝と手合わせをしていた明にとって、松田の型は上手くはあっても身の危険を覚えるほどのものではなかった。

 それでも、松田の呼吸は明の怒りを煽った。

 松田の炎の呼吸は明よりも深く、体に馴染んでいた。適性の差だ。彼の日輪刀は鮮やかな真紅に染まっていることだろう。──父の刀のように。

 ──私から炎の剣技を奪ったこの人が、今ものうのうと炎の呼吸を使っている。

 耳の奥で血潮がうなりを上げる。

 ──腕を落とされたせいで、私の炎は形ばかりの模倣へと堕ちたのに!

 燃えるように熱い血流が全身に巡る。

 ────炎の呼吸 伍ノ型 炎虎

 ────炎の呼吸 弐ノ型隻式 昇り炎天

 木刀が打ち合うたびに、手の中に木の軋む感覚がした。

 明の木刀はなおも危なげなく松田の攻撃を制していた。今更、感情で剣筋を鈍らせるような真似はしない。燃え立つ呼吸を口から迸らせながらも、明の剣技は依然として寸分の狂いもなく、しかし型に込められる威力だけが通常の稽古を逸脱していた。

 鬼気迫る明の剣撃に、松田が顔を引きつらせる。

 ──届かない。

 もどかしさと赫怒が明の腹の奥を抉る。

 明は普段、稽古場で一般の隊士と手合わせをするときは、木刀に込める力を抑えていた。実力差がありすぎる故、怪我をさせないためにだ。

 その手加減をなくし、全力で呼吸を深めてもなお、型に籠められた力そのものは松田のそれを上回ることができなかった。

 筋力の差、呼吸への適性の差、両腕と片腕の差。

 厳然として横たわるそれが、型の威力という形をとって明に突きつけられる。

 明の身に着けた動作予測のみが、その差を覆しているのだった。僅かな握りの変化や視線の方向から型を予測し、型が完成する前に軌道上に木刀を差し込んで崩す、まさに神がかり的な技術によって明は松田の攻撃を抑え込んでいた。

 異様な気配を纏って炎の呼吸のみを使い続ける明の様子に、傍観していた伊藤は違和感を抱いたようだった。近寄ってきた彼の気配を無視し、明は猛攻を続ける。

 ────炎の呼吸 壱ノ型隻式 不知火

 首に迫る攻撃を紙一重で松田が捌く。彼の木刀の纏う炎が明の憎悪に油を注ぐ。

 ──炎の呼吸だけでは無理だ。

 父の炎の模倣に過ぎない型では、本物の炎の呼吸には及ばない。

 脳が導き出した結論が明を苛立たせる。しかし、明の肉体は些かの乱れもなく、忠実に判断に従った。

 ────水の呼吸 肆ノ型隻式 打ち潮

 唐突に変化した明の剣筋に、松田の木刀は対応しきれなかった。松田の手を離れ、稽古場の床に叩き落とされた木刀が重い音を立てる。

 肌が切れそうなほどの殺気を叩きつけられる中、得物を失った松田は、その瞬間に死を覚悟した。

 少女が振りかぶった木刀に、先ほどとは打って変わった、青白い炎を幻視する。

 ────炎の呼吸 壱ノ怪

 断頭の痛みを予期して、反射的に身を強張らせる。──しかし、木刀は首に届くことなく、風が髪を巻き上げただけだった。

 木刀は松田の首の真横で静止していた。

 見開かれていた赤い瞳が揺れ、松田から逸れる。

「…………すまなかった」

 かすれた低い声と共に、松田の首筋から木刀が引き抜かれた。少女の声に滲んでいた深い悔悟の念に、松田は息を呑んだ。

 今や稽古場は異様な静寂に包まれていた。甲の隊士同士の試合は他の組とは一線を画すものだが、それを考慮しても、今の一戦は異常だった。

 松田の前に立つ少女は、その場の隊士全員の視線を一身に浴びていた。

「時間まで同じ組で互角稽古と言ったはずです。試合に戻るように」

 端的な言葉には僅かばかりの感情も見られない。抑揚の低い声は冷淡に響いた。

 ささくれた気配の中、ゆるやかに他の組が試合に戻っていく。松田は明に促され、落とした木刀を拾い上げた。

「……失礼、致しました。未熟なところをお見せてしまい、申し訳ありませんでした。──仕切り直しをお願いしてもいいでしょうか」

 先程の剣撃からは正反対の、腰が低く硬い言葉。触れられそうなほどの怒りは霧散しており、真摯な謝罪には悔恨だけが滲んでいる。

 不気味なほど平静な気配に戻った少女を、松田は青ざめた顔で見つめていた。

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