鬼子の剣士は夜明けを望む   作:安代圭

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第22話 以津真天……〇

 駆ける。駆ける。駆ける。

 何か、ひどく恐ろしいものに追われていることだけを理解していた。

 手元に刀はなかった。隊服もない。丸腰の状態で、手も足も出せぬ相手に追われ続けていた。

 ぜいぜいと、息の音が煩い。耳の奥に血流の音が聞こえる。

 足が重い。

 体が異様に重かった。まるで泥の中にでもいるかのように、鈍い速度でしか走れない。

 急に上体が崩れた。遅れて、自分の足がもつれたのだと理解する。

 追手の足音はもう、すぐ近くにまで迫っていた。

 地面についた己の手が目に入る。赤黒く尖った爪は、明らかに異形のものだった。

 諦念の混じる恐怖が全身に満ちていた。

 足音がすぐ後ろで止まる。もう、逃げられない。観念して顔を上げる。

 追手の姿が視界に入った瞬間、愕然として目を見開いた。

 それは何よりも敬愛する、金色と赤の混じる篝火の──────

 

 

「──異能ノ鬼! 異能ノ鬼! 新人隊士二名ガ接敵! 応援ヲ求ム!」

 鴉の大声で、明は跳ね起きた。

 隊服のまま風柱邸の離れで仮眠を取っていた明は、すぐさま脇に置いていた刀をベルトに差し、伝令の鴉を呼び寄せる。

 明の腕に迷わず舞い降りた鎹鴉は、右の羽の一部が焼け焦げていた。息も絶え絶えの様子、明に近づくのに躊躇しなかった余裕のなさからしても、この鴉に戦地まで案内させるのは不可能だった。

 どうにか、鴉が気絶する前に隊士の名前と地名を聞き出す。地区の中でも僻地というわけでもなく、隊士が粘れるならば明の足で間に合うかもしれない距離だった。傷ついた鴉を部屋の中に横たえ、明は全速力で隊士の元へ走り出す。状況に一刻の猶予もなかった。

 柱は九席あり、それに対応する九つの地区が存在する。

 しかしながら、柱が九人全員揃わないことは珍しくない。今の鬼殺隊には、風柱、炎柱、鳥柱、水柱、木柱、霞柱の六名の柱しかおらず、三つの地区が柱不在の状態である。

 この場合、事務は最高位の隠が執り行い、各地区の甲を始めとする上級隊士を差配して運営することになる。しかし、最高戦力である柱がいないことには変わりない。よって、難敵と思しき鬼の報告があれば隣接する地区の柱が度々出張するものだった。特に風柱や炎柱、鳥柱は古参の柱のため、柱不在の隣接地区まで警邏することも珍しくない。

 明が風柱邸に常駐するようになってから、風柱の伊藤は明に地区を任せて他の地区の応援に行くことが多くなっていた。

 鴉の応援要請は風柱へのものだったが、今日のように伊藤が不在の時は、明が代理で向かうことになっていた。

 救援に行く隊士の名前を出せば、明と並行して飛行する晴彦は彼らの警備担当地区を知っている様子で、先導するように速度を上げた。最短の道に切り替えるらしい。

 ──間に合ってくれ、と祈る。

 応援を要請した二名の隊士、金原と照井は、どちらも稽古場で面倒を見た覚えがあった。礼儀正しく、指導をよく聞く、人柄の良い隊士だった。

 経験の浅い新人である彼らの実力を知っているからこそ、異能の鬼との接敵に焦りを抱いた。彼らはまだ異能の鬼と戦った事がないはずだった。

 目的地に着いた時、戦闘音は聞こえなかった。

 街に近付いてようやく捕捉できた鬼の気配を頼りに、明は鬼の居場所を探り始めた。晴彦を上空へ飛ばし、上からの捜索を頼む。

 ほどなくして、気配の源に行きついた。

 街外れの廃屋から、濃厚な鬼の気配が漂っていた。家の裏には山。鬼が身を隠すには都合の良い場所だ。

 廃屋の後ろから、水っぽい音が聞こえていた。濡れたなにかをかき混ぜるような音。──その音の意味を察して、明は顔を歪めた。

 極力足音を殺して、明は壁伝いに忍び寄った。抜いた刀の弾く月光で悟られないように、刀を体の後ろに隠すようにして持ったまま、じりじりと距離を詰める。

 壁の端まで辿り着き、明が鬼の姿を捕えた瞬間、鬼もまたぐるりと頭を回転させて明の方を見た。

 ──勘のいい鬼だ。

 間髪入れずに迫った攻撃を避けて、明は後方へ跳ね飛んだ。

 その鬼は異形だったが、顔だけは辛うじて人の形を留めていた。

 それも薄汚れた髪に覆われていて、殆ど見えない。乱れ髪の隙間から見える、目があるはずの場所には、黒々と虚ろな眼窩が空いているばかりだ。鼻から下は異形で、巨大な嘴の中に鋸のような歯が覗いている。

 体は蛇に似て、全身を覆う鱗はいかにも刃物を拒絶するかのように硬質な輝きを帯びていた。ひときわ目を引く翼は、凡そ一丈六尺、一度の羽ばたきで人体を吹き飛ばせそうなほどに大きい。その翼の下から垣間見える足には刀のように鋭い爪が生えていた。

 ここまで人型から外れた鬼と対するのは初めてだった。

「──いつまで?」

 幼い少女の声が聞こえた。

 鬼が小首を傾げる。眼窩の虚空が明を見据えている。

「いつまで、まてばいいの?」

 鬼は嘴をかちかちと噛み合わせた。喉の奥から、その体からは考えられないほどに幼気な声を発しながら。

「いつになったら、帰ってくるの?」

 その問いが明に向けられているわけではないのは明らかだった。返事を期待しないうわ事を、手近な動く物体に向けているだけ。

 鬼の足元には人間の身体が転がっていた。血塗れて、てらてらとした光沢を帯びているが、一目で隊服の残骸だとわかった。顔は見分けるのも不可能なほどに損傷しているが、二人分の遺体は、間違いなく明に救援を求めた隊士達のものだった。

 ──間に合わなかった。

 食い荒らされた遺体が、無言で明を責める。あの日、上弦の参に食い荒らされた野沢や小野塚達の遺体が脳裏に蘇った。

 しかし、目の前の鬼は懺悔の時間すらも与えてはくれない。

 がばりと大きく開かれた鬼の嘴から、目の前を覆うほどの炎が噴き出た。横に避けて間合いを詰めようとした明を、今度は翼の羽ばたきによる暴風が打ち据える。

 ──異能の鬼ではあるが、それ以上に『異形の鬼』だな。

 いずれにせよ、難敵なのは間違いない。明には相性の悪い、厄介な相手だった。

「いつになったら、帰っていいの?」

 迫る鋭い鉤爪を斬り飛ばし、そのまま鬼の首筋へと刀を振りかぶる。

 ────炎の呼吸 壱ノ型隻式 不知火

 渾身の力で振り抜いた刀は、しかし、鬼の首を切断し切れなかった。半ばまで斬って進行を止めた刀を引き抜き、二度目の斬撃を加える前に、前触れなく横から火炎を浴びせられる。辛うじて避けて鬼の背に飛び乗る。炎は明の眼前を舐め、髪の毛先を焼いた。

 鬼の首からは血が噴き出ていたが、一呼吸もしないうちに傷が塞がるのが見えた。

「お母さんじゃないんだね」

 幼児(おさなご)の声は歌うように語る。

「じゃあ、食べないと」

 一言も返さぬ明を意に介さず、鬼はうわごとのような言葉を発し続ける。

「お腹が空いたんだもの」

 明の周りに炎が踊る。

 火を操る血鬼術を相手にするのは初めてだった。

 ──鬼火。

 鴉の焦げた羽から予想はしていたが、何たる皮肉だろう。

「お家にはご飯がないから、食べてから帰らないと」

 炎を避けて鬼の背から飛び降りる。勢いをつけて蹴った鬼の体がぐらりと傾いだ。

 鬼の言葉の意味を考えないようにしながら距離をとり、なおも向かってくる六つの炎の塊を(かわ)す。

 近づくだけで炙られるように熱く、隊服の表面から焦げたような匂いが漂う。

 ──この炎、数が多くて厄介。

 炎は刀では斬れない。

 無理に接近しようにも、首が硬すぎて一撃では断ち切れない。

 明の強さは、並外れた動作予測と型の選択肢の広さという、極めて技巧的な部分によって支えられている。故に、武術を扱う相手、特に剣士が相手の時は最大の能力を発揮するが、このように「物理的に硬い」鬼には弱かった。

 隻腕故に斬撃の重さに欠ける明にとって、この類の鬼は最も苦手とする相手だ。

「いつまで待てばいいのかな」

 負ける気はしない。鬼の攻撃は避けられている。

 後はいかに血鬼術を封じ、あるいは隙を作り、あの硬い鱗で覆われた首を断つか。

 見た限りでは鬼は盲目のようだが、血鬼術は明を正確に捕捉している。あの鬼がいかにして周囲の状況を感知しているかにも気を配る必要がある。

 ──盲人は音に敏いと聞くが。

 わざと足音を立てて、誘うように裏山の中に駆け込む。

 狙い通り、その鬼は明の後を追いかけた。

「お母さん」

 鬼の声が明の胸の内をがりがりと引っ掻く。

 ──けれども、この鬼は隊士を殺した。

 ──これだけの異形だ。多くの人を食べたはず。

 ──そうとも、私が間に合わなかったせいで、金原と照井は死んだのだ。

 ぎり、と歯を食いしばる。

 任務に余計な心情を挟むな。刀に余計な感情を乗せるな。動きと思考を鈍らせてはならない。冷徹な刃として任務を遂行しろ。

 ────木の呼吸・裏 立ち木

 互いの所在の方角しかわからない程よい距離、木の生い茂る場所で、明は唐突に呼吸の調子を変えた。足運びも切り替えて音を消し、頑丈そうな木の上に飛び乗って気配を殺す。

 別名を『狩人の呼吸』とも言う、木の呼吸の裏、立ち木の呼吸。極限まで気配を消せる、待ち伏せに特化した呼吸だ。

 耳に敏い鬼を相手するなら、これが最適のはず。

「お母さん、ねえ、お母さん」

 鬼の言葉に耳を貸すな。

 あれは鳴き声だ。生前の言葉を繰り返しているだけ。

 もはや、何の意味も持たない。

 鬼が惑うように足を止めたのが聞こえた。次いで、ゆっくりと探るようにこちらに向かってくる音も。

 鬼は人の世の安寧を脅かす害獣だ。元は人間であったとしても、どれほど善人であったとしても、鬼となれば人を喰らわずにはいられない。

 元が虐げられた弱者だったとしても。

 庇護すべき存在だったとしても。

「おなかがすいたの」

 極力息の音を殺し、明は刀を構える。

 木の葉の隙間から鬼の姿が見えた。大きな翼を揺らして、のそりのそりと向かってくる。

 ──まだだ。もう少し。

 明は食い入るように鬼の動きを見つめる。血の色の透けた瞳が眼下の鬼を睨む。鬼は明に気付かぬまま、明の立つ木の枝の下に差し掛かった。

 ────木の呼吸 漆ノ型隻式 唐竹割

 水の呼吸の捌ノ型・滝壷を原型とする、上段からの渾身の斬り下ろし。

 ──しかし。

 木から飛び降りた瞬間、鬼の首がぐるりと回転して明を見る。

 落下と共に全体重を乗せた斬撃であれば、いかに硬い首であろうと断ち切れたはずだった。しかし、枝から足が離れている今、狙いを変えることは不可能。動いた首に対して斬撃の軌道を修正しきれず、また、鬼の首を断ち損ねる。

「ねえ、遅いよ、お母さん」

 図体に似合わぬ俊敏な動きで鬼が身を翻した。太い蛇の尾が明目掛けて振り下ろされる。

 ────木の呼吸 伍ノ型隻式 柳風

 迎撃用の型で受け流す。硬い鱗は刀を弾き、甲高い音を立てた。

 またも、鬼の周りに怪火が浮かぶ。

 ────水の呼吸 拾ノ型隻式 生生流転

 ここで距離を取り、仕切り直すことはしない。この鬼の隙を突くことは不可能だ。

「お母さん」

 ならば、無理にでも連撃を加える。肉を切らせてでも骨を断つ。

 水流は渦をなして龍へと転化する。捻れ、うねる斬撃を回転させながら、鬼の首元へと迫る。

 一撃、二撃、三撃。

 行手を遮る翼と尾を切り刻み、炎は最低限だけ避けて特攻する。

「ねえ、」

 痛みとともに、肉を焼く嫌な匂いが鼻先を掠めた。肩に直撃した炎が頬をも炙る。

 しかし、痛みだけでは明の刀を鈍らせることはできない。

「わたしがめくらだからすてたの?」

 四撃。

 地面からの反動を使った斬り上げが、鬼の首の半分を断つ。

 ──転じ、

 水流が青白い炎へと取って変わる。

 ────炎の呼吸 参ノ怪

 炎の呼吸の「怪」の型。──それは、狭霧山での修行以降、試行錯誤の末に編み直した炎の呼吸の剣術の亜種である。

 水の呼吸を主軸に据えるにあたり、併用する炎の呼吸に求めるのは、呼吸の切り替えの中でいかに素早く完全な型を出せるかだった。生生流転を除き、炎の呼吸の型は、明の扱う型の中でも最高峰の威力を誇る。斬撃に乗せる力をこれ以上に高めるのは難しく、その他の方向性を探る方が現実的だというのもあった。

 呼吸の切り替えによってできる僅かな隙や溜めを極限まで削る。どんな体勢、どの型の後からでも、瞬時に火力を引き出せるように、基本の基本、足運びや重心の動かし方までも考え直し、独自の解釈を加えて編み直した。

 その他、明の体に合わせて諸々の調整を行なった結果、闇夜を照らす篝火であったはずの炎の呼吸は、捉え所のない鬼火のような炎へと変じた。

 幻の如く、現れては消える狐火。

 火力そのものは元の型に劣るところもあるが、反応速度が比ではない。

 呼吸法自体は炎の呼吸そのものであり、斬撃の種類も元とした炎の呼吸の型からほぼ変わっていない。けれども、型の風合は別物のごとく変化しており、これを炎の呼吸と呼ぶことには後ろめたさがあった。

 明の研鑽の結実、刀にかける誇りと苦い思いの全てを含んだ鬼火が、紫紺の刀身を包んで揺らめく。

 ────釣瓶火

 青白い燐火を伴った剣撃が、上段から鬼の首へと吸い込まれた。

 今度こそ、完全に斬った手応えがあった。

「……お母、さん」

 斬撃の音の中に、掠れた鬼の声を聞いた気がした。

 異形の首がごろりと地面に転がる。

 次いで、重い音を立てて鬼の体が倒れ伏す。その身体が焼け崩れていくのを見守る。

 全てが灰塵に帰したのを確認した明の口から、ぽつりと言葉が零れ落ちた。

「……すまない」

 この言葉が隊士二人に向けられたものなのか、鬼に向けられたものなのか、明自身にもわからなかった。

 

 

 白髪を翻して駆ける。

 次の午前は煉獄家での指導の予定だった。

 最低限の処置だけ済ませ、灯りも少ない夜の街を足音を抑えてひた走る。

 自分が煉獄家に出入りする姿を極力見られないようにするため、日の沈んだ時間帯に家を訪うのが常だった。今となっては、昼よりも夜の道の方が目に慣れてしまった。

 勿論、気配の探知なら任務で慣れている。昼間でも人とすれ違うことなく煉獄家を出入りすることなど、造作もないことだったが、慎重を期しておくに越したことはないし、人の気配にいちいち神経を尖らせてその都度道順を変えるのも面倒だった。

 物慣れた様子で煉獄家の塀を飛び越え、太い木にもたれる。

 屋敷の中からは三つの気配を感じ取れた。養父、杏寿郎、そして千寿郎だ。珍しく、今日の父は非番のようだった。灯りもなく、気配も薄いので、皆寝ているらしい。

 鬼との戦闘での負傷と疲労は決して軽いものではなかったので、明も杏寿郎が起きるまで仮眠を取ることにした。

 木に寄りかかって座り、刀を抱えて目を閉じる。今はただ、何も考えずに眠りたかった。

 疲弊していた体は、そのままゆったりと意識を揺蕩わせたが、完全に手放すことはできなかった。

 明は気配に敏感だった。風柱邸の離れに部屋をあてがわれているのはそのためだ。人の気配があると眠れない。

 戦場ならば、眠っていても気配を感じ取れ、隙を見せずに済むのは利点だろう。しかし、安全なはずの家でまでその調子では体が休まらない。初めは小夜と同じく本邸に部屋を与えられていたが、不眠による不調を見かねた伊藤によって離れに部屋を変えられた。

 初めからこうだったわけではない。上弦の参との接触後、隊士に明確な敵意を向けられるようになってから、一定の距離に人が入り込むと、意識が覚醒するようになってしまった。

 その変化に気がついたのは、狭霧山での修行中だった。鱗滝の家では寝付くことができず、滞在中は山の中で野宿を続けていた。鱗滝の気配が、子供二人の息の音が、明の神経を刺激し続け、眠る事を許してくれなかった。

 例外はただただ二つだけだ。小夜と、鎹鴉の晴彦。重傷を負った明を気遣い、世話をしてくれたこの二人の気配だけは、明の体は敵とは見なさなかった。

 ──故に、その気配が明の意識を浮上させたのは、至極当然のことであった。

 重い足音が明の意識を呼び覚ます。

 この体重、気配は、間違いなく父のものだ。

 重い首を上げ、薄目を開ける。そのわずかな動きすらも億劫だった。隊服に帯刀している養父の姿を捉え、「あの夢のように首を斬られるのだろうか」と思っても、何の感情も湧かなかった。

 ──私が間に合わなかったせいで、二人死んだ。

 ──私がもっと上手く指導できていれば、彼らは死なずに済んだのではないか。

 ──私が斬ったのは、子供、それも恐らくは盲目であったために口減らしで捨てられた幼児の鬼だった。

 うんざりだった。

 どれほど心を砕き、仕事に打ち込んでも、取りこぼしてはいけないはずの無辜の命が指の隙間をすり抜けていく。

 人を殺した事があるかないか、零と一の差は果てしなく大きい。

 しかし、背負う者にとって、百と千の間の違いはさほどではないのだ。どちらももはや一人の人間が背負える大きさでないという意味で等しい。

 この手で屠った命の数も、この手から溢れ落ちた命の数も、既に明に背負える数を越えていた。

 ──否、一人の人間に背負える命は、自分自身のものだけだ。他のいかなる人間の命も、責任を取ることなどできない。

 神も仏も、天国も地獄も、存在するとは思わない。世界は人間に都合良くできていないし、善人を愛し庇護する超越者がいるならば、理不尽に奪われる命があるはずがない。

 だから、地獄があるとするならば、それはこの世だ。

 じりじりと明の心身を蝕むこの現実こそ、明の地獄に他ならなかった。

 もはや焼けるものなど残っていないこの心を擦り減らしても、現実は明を嘲笑うかのように更なる痛みを突きつけてくる。

 煉獄の炎に殺されるならば、他のどんな終わりよりも幸福かもしれないとすら思った。焦がれ続けた、何よりも美しいと憧れ続けた炎ならば。欠けたこの身ではその真髄に至ることは叶わないが、最後に見るのが父の炎だというのは、悪くない。

「……お前、その(なり)で杏寿郎に稽古をつける気か」

 明の前に立ち止まり、長らくその姿を見つめていた槇寿郎は、低い声で明に問うた。

 ── その(なり)

 言われて、己の隊服に視線を落とす。

 父の言う通り、明の姿は無惨なものだった。

 炎の直撃した部分の隊服は完全に焼けており、爛れた右肩の肉が露わになっていた。左の脇腹から腿にかけても、似たようなものだ。

 今の今までそれが気にならぬほど、明は疲弊していた。どうせ、数日もすれば跡形もなく治るのだ。鬼の混じるこの体の回復力は、人のものを遥かに上回る。

「弱いくせに剣士など続けるからそうなる」

 ──弱い。

 事実だろう。私は父には及ばない。

 けれども、私より強い人は、一体どれだけいる?

 鬼殺隊の中において、明は間違いなく上位の実力者だ。その私が戦場から逃げるなど許されない。私より弱く剣士歴の浅い隊士が命をかけているのだ。

 力を持つ者は、その力に対する責任を負わねばならない。無責任に死ぬ事は許されない。

 ぐ、と力を込めて父を見上げる。奇しくも、父の軽侮の言葉が、明に生家での教えを思い出させた。

 明の表情の変化を見た槇寿郎は、苦々しく顔を歪めた。

「……井戸で清めておけ。救急用具の場所はわかるな。包帯ぐらい巻いておけ。余っている稽古着は好きに使っていい。……休みたければ部屋に上がっても構わん。お前の部屋はそのままになっている」

 それだけ言うと、槇寿郎は踵を返した。去っていく父の背は、昔と同じように広く大きい。炎の羽織が夜風にはためく様が、まるで揺らめく炎そのもののように見えた。

 夜更けの暗い空には、月ばかりが凄絶に輝いていた。

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