鬼子の剣士は夜明けを望む   作:安代圭

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第24話 風光る、風薫る、風爽か

 以前に小夜が招いた猟師を筆頭に、三名の猟師が風柱地区に家宅をあてがわれた。試験的な導入であるためこの地区のみ、人数も限られているが、猟師が正式に鬼殺隊に雇われることになったのである。

 小夜ははじめに、猟師達を彼女の昼の警邏に引き連れ、鬼が残す痕跡の特徴や鬼の行動傾向を事細かに伝えた。「追う」ことを生業としてきた猟師達は、獲物としての鬼を認識してから、驚くほどの速さで鬼追跡技術を身につけた。今では新人隊士を中心として、地区内の多くの隊士に跡追い技術を指導している。

 昼の狩猟技術指導時の班構成も決まった。猟師一人に対し新人隊士が一人か二人、そして非常事態に備えて隊歴一年以上の隊士が一人つく。戦力が少々過剰なようにも見えるが、戦闘要員ではない猟師を鬼のいる前線に送り込む以上、この慎重さは妥当なものだろう。この班構成は人員に余裕ができた最近だからこそ可能になったものであり、数年前なら不可能だったと伊藤は語った。

 警護として同行した手練れの隊士達にも、狩猟技術は好評だった。夜間任務中の索敵でも有用だったらしい。狩猟技術の広まりと共に、地区内隊士からの小夜の評価は急激に上昇した。

 まだ正式に決まったことではないが、権限などの都合上、企画責任者が(かのと)では不便が多いので、近々特例として小夜の階級を上げるらしい。明としても、小夜の功績は甲の自分よりよほど大きいと思っていたので、推薦状を書いてでも後押しするつもりだった。

 翻って明の方は、隊士への剣術指導の効果が上々だった。真菰からの助言も参考にしながら連携訓練を導入したところ、隊士の負傷が目に見えて減少した。

 連携訓練をするにあたり、(きのえ)の松田隊士は積極的に稽古に協力してくれていた。あれほどの無礼をしてしまったにも関わらず、明の事を避けも毛嫌いもしていない。松田の方でも思うところがあるらしく、互いにあまり踏み込まず、一線を引いて関わっていた。

 松田は優秀な剣士だった。柱になっていないのは、槇寿郎が炎柱の席を埋めているからだろう。血鬼術との相性にもよるだろうが、下弦の鬼を斬れるだけの実力を有しているように見えた。

 明も小夜も真菰も、それぞれ仕事が多く忙しい毎日ではあったが、互いに予定を合わせては定期的に食事会をしていた。初回と場所を変えて真菰の地区に集まったり、都会に出てみたりと、任務から離れて思うさまに足を伸ばすのは良い息抜きになった。

 書籍を読み漁っている小夜は西欧の科学や文化に詳しく、毎度興味深い話を聞かせてくれた。真菰とは仕事内容が共通している事もあり、そちらの話が弾んだ。連携訓練の試行錯誤がうまくいっているのも、真菰と情報交換できているのが大きいように明は思っていた。

 私服を纏い、あの日に贈りあった小物を身につけるだけで、「今日は特別な日」なのだと実感する。自分が送った簪が小夜と真菰の髪を飾っているのを見るたびに、胸が暖かくなった。

 任務への息苦しさは晴れないが、束の間の穏やかなひとときが、明の唯一の拠り所になっていた。

 

 

 

 

 

 

 御高祖頭巾を目深に巻いて、明は風柱邸の門を潜る。まだ日のあるこの時間帯は、白髪を晒すよりも頭巾をしている方が目立ちにくい。

 昼夜逆転の生活故か、それとも日が高くなってきた季節故か、この頃は直射日光がどうも眩しい。その意味でも、日除けになる頭巾は便利だった。

 頭上に名を知らぬ鴉の影があった。最近、よく鴉の視線を感じる。風柱の鎹鴉でも小夜の鎹鴉でもないので、産屋敷から明の監視に遣わされた鴉だろうと推測していた。特に何を言ってくるでもなく、ただ明の同行を見ているだけなので、明も鴉からの視線を受け流して過ごしている。

 しかし、今監視されるのは少々都合が悪い。煉獄家での指導を知る鴉を増やしたくはなかった。

 あの鴉が現れるのは、主に風柱邸付近と明の警邏中だ。それも長時間監視するのではなく、大抵は明がいるのを確認するだけで去っていく。いつも使う道を外れ、遠回りの経路に移れば、ほどなくして鴉の気配は消えた。

 普段は煉獄家へ向かう道中は足が重く、息苦しいものだったが、今はそれよりも見慣れない景色への興味の方が勝っていた。たまには、違う経路を使うのも悪くない。

 田園地帯に入り、一気に視界が開けた。上空には巻雲が白く薄い筋を描いている。長閑な春の空だ。

 人気のない田舎道を駆け抜け、明は煉獄家のある住宅地を目指す。徐々に重くなる足の重さを極力無視した。(はらわた)が軋む。

 杏寿郎との手合わせでは、炎の呼吸を中心に、最近は水や風の呼吸も混ぜて使うようにしている。しかし、「怪」と名付けた鬼火の型だけは、父にも弟にも見せていなかった。

 煉獄の正当な炎を扱う剣士に自身の歪な炎を見せる屈辱に、耐えられる気がしなかった。

 見慣れた門構えを前にして立ち止まり、浅く息を吐く。頭巾を外し、息を詰めて門を潜った。いつものように中の気配を探る。今日は養父はいないようだ。いるのは杏寿郎と千寿郎、それから────

 見慣れない気配を捉えて、明は足を止めた。来客──と言うには、やや幼い。杏寿郎よりも小柄。もし取り込み中ならば出直した方が良いかと、明は逡巡した。

 しかし、その見知らぬ気配の子供は物音で明の来訪に気づいたらしく、軽い足音を立ててこちらへ向かってきた。

 どうしたものかと思案しているうちにそれは玄関を開け、

「──────っ!」

 明を見た瞬間、その子供は腰を抜かした。尻餅をついた子供は目を限界まで見開き、荒い息で明を凝視する。

 ──どうした、と駆け寄ろうと一歩踏み出した途端、子供の肩がびくりと跳ねた。

 それを見て、明は全てを悟った。──この子は、鬼災の遺児だ。

 踏み出した足を一歩、戻す。もう一歩、後退る。子供は明を見つめたまま、目を逸らさない。恐怖で歪んだ顔。半開きの口はわなわなと震えていた。もがくように足を動かし、少しでも明から遠ざかろうとする。

 すまない、と言おうとした。しかし、その一言さえもその子供を刺激してしまいそうで、明は口を閉じた。

 髪の長い子供だった。小柄で華奢な印象で、口元に巻いた包帯だけが異様だった。少女のように見えるが、この年齢の子供は性別の区別がつきにくいので、少年かもしれない。

 これ以上怖がらせないようにゆっくりと背を向け、門を抜ける。怯えた子供の息遣いが鮮明に聞こえていた。

 明が煉獄家にいた時分にも何度か、鬼殺の任務の過程で保護した子供を煉獄家で預かっていた事があった。ある意味では明もその内の一人と言える。彼らの多くは、最終的に育手の元に引き取られていた。そのうちの何人が、今、鬼殺隊士として生きて任務に従事しているかはわからない。

 狭い通りを歩き、角を曲がる。日の当たらない薄暗い路地裏に寄り掛かるように座り込んで足の間に顔を埋めた。

 ──鬼災の生き残りなら、私の姿を恐れて当然だ。

 ──この髪も目も、青白い肌も、全てが鬼を連想させる。

 頭ではわかっていても、やりきれなくなる事はある。

 目を固く閉じる。常中している己の息遣いの音に集中して、心を鎮めようとした。力強い炎の呼吸に、必死で聞き入る。私は、かの一族の門弟として名を連ね、教えを受けた剣士だ。いくら鬼と間違われようと、私は鬼殺隊士として認められている。鬼ではない。滅殺されるべき悪鬼ではない。人を傷つけてなどいない。

 母は人としての矜持を持ち続け、誇り高い人間として行動する限り、人であれると語った。

 遠藤師は何であるかではなく、何でありたいかを重視せよと遺した。

 己の有り様を決めるのは、他者からの評価ではなく、己の認識と行動だ。どうありたいかを考え、それに従って行動することこそが肝要なのだ。──わかっている。

 けれども、この心臓の痛みは、どう誤魔化せばいいのだろう。

 

 

 

 

 夏の日差しは強い。雑踏の足元に、輪郭のくっきりした濃い影が落ちる。

 人通りの多い大通りに面した小洒落た洋食店の中で、着物姿の少女が三人、談笑しながら前菜を食べていた。

 明は目の前の二人の会話に聞き入る。小夜と真菰はいかにも年頃の娘といった風情で、とても物騒な生業で身を立てているようには見えない。

 もっとも、話の内容はやや普通の娘とは異なっている。もし他の客が聞き耳を立てれば、任務やら負傷やら剣術やらと、およそ少女達が口にするのにそぐわない単語を聞くことになっただろう。

 真菰が身振り手振りを交えて話すたびに、ゆったりとした着物の袖が揺れる。水浅葱色の絽紬(ろつむぎ)が目に涼やかだ。

 あの日に買った小袖(こつむぎ)を着る機会は三人での食事会ぐらいしかなく、隊服と比較して走りにくいこの格好は多少落ち着かないところもあるが、明はこの小袖に袖を通す日が好きだった。

「……それでね、この前その人に杖術を見せてもらったんだけど、水の呼吸と足の使い方が似てて、」

 前菜を食べ終わった真菰は、この前の任務先で知り合った武術師範の話をいきいきと語る。真菰が首を傾ければ、以前に明が贈った簪が垣間見えた。

 普段とは違う装いで、普段とは異なる場所で異なる料理を食べる。それだけで非日常を味わえるのだから、安上がりなものだ。

 ──もっとも、私達の非日常はこの人達の日常なのだろうが。

 視界の中の他の客達は、血腥い事とは全く縁のないような、安穏とした顔つきをしていた。

 私達の日常と非日常は逆転している。我々の常識は、彼らの非常識だ。だが、それでいい。彼らが平和を享受してくれている事こそが、私たちの仕事の意義なのだから。

「明も南地区に出張することが多いって言ってたよね。最近はどう?」

「そうだな、特に問題はない。この頃は隊士との合同任務もうまくやれている」

 鬼殺隊当主との邂逅から、半年近くが経った。この期間の間に、稽古場で会う機会のある風柱地区のみならず、他の地区の隊士までもが明への敵意を散じた。合同任務で明に敵意を表すこともなく、指揮をとっても反発するものはいなくなった。

 ──悪いけれど、私の隊士(こども)たちの恐れを払拭するのに、もう少し時間がほしい。この立場でできる限りの事はしてみるけれど、隊士(こども)たちにとっても君を受け入れるのは難しいだろうからね。

 彼はその言葉通り、隊士に明の存在を受け入れさせたのだ。当主の情報操作以外に考えられる理由はなかった。

「そうなんだ。良かった。最近は隊士は増えるし負傷も少ないし、どんどんいい方向に向かっているよね」

「ああ」

 明は曖昧に笑った。

 ──わずか半年でここまで。

 自分の見聞きしていないところで起こっているあまりの変化に薄気味悪いものを感じていたが、それを口にするのは避けた。

「連携訓練の方もうまくいっている。我々の側としても、他対一の戦闘訓練はいいものだな。一対一では見えなかった発見があった」

 多方向からの斬撃を捌く稽古のおかげで、血鬼術への対応力が跳ね上がったのを実感していた。身のこなし方、視線の動かし方、複数の気配への気の配り方など、一対一の立ち合いとは異なる状況下での戦い方を反復してその都度修正できる稽古は、指導者側の明にも想像以上の利益を与えてくれていた。

「色々な形式で稽古をやるのは楽しいよね。この前話していた乱戦形式もやってみたのだけど、あれもたまにやる分には実戦的でいいよ。

 他には、何人か参加させずに見取り稽古をさせるのも良かったな。外から攻め方や動き方を見ると、当人にはわからない良し悪しがわかるものだから。何人かはそれで動きが変わったよ」

「それはいいな。こちらでも試してみよう。……ああ、そうだ。先週、風柱様にも稽古に参加してもらう機会があったんだが、その時に……」

 身を乗り出し、稽古の方法について本格的に話し出す。忙しい身の上で娯楽に費やす時間もない三人の共通の話題は、やはり仕事に尽きるのだ。

 小夜は二人とは立場が違うため同じ視点から語ることはできないが、一般隊士の視点からの意見は重宝されていた。明と真菰は剣才に恵まれており、入隊当初から優秀な剣士であったため、普通の人間の感覚をわかっていないきらいがあった。

「……小夜の方も、この前の報告書に面白い図を描いていたな。あれは初めて見た」

「『蝙蝠の翼』の事だね。あれは英国の統計資料を参考にしたんだ。考案したのはフローレンス・ナイチンゲールっていう女性で、死亡原因ごとの死者数を視覚的に把握するために描いたんだって。色で種類分けして、面積で死亡者数を表したんだとか。多忙な女王様が一目で把握するには、表よりも図のほうがいいからって。あれを参考にして、最近の討伐記録を図にしてみたんだ。次はウィリアム・プレイフェアっていう経済学者が使ってた手法も試してみようと思っていて、……」

 真菰が詳しく聞かせて欲しいと言えば、素人の付け焼き刃だけれど、と前置きしつつ、小夜は統計学について楽し気に語った。使用する算術、資料から抜き出す要素の見極め方、統計図表の種類などを、門外漢の明と真菰でもわかるように説明していく。

 小夜の話ぶりはさながら優秀な学生のようだった。聡明な良家の子女にしか見えず、数年前まで猟師の娘をしていたとは想像もできない。もっとも、「良家の子女」とは縁のない生活を送っているので明の想像に過ぎず、実際のところはよくわからないが。

 主食が運ばれてきて、小夜達の口が一旦止まった。挽肉をこねて焼いたというそれは、「ハンバーグステーキ」と言うらしい。これを食べてみたいと言い出したのは小夜だった。

 ソースのかけられた焼きたての肉からは湯気が立ち上っている。

「……美味しい」

 熱いそれを口に含んで噛んだ途端、旨みの詰まった肉汁が吹き出した。三人は揃って顔を(ほころ)ばせ、夢中でナイフとフォークを動かす。片手では多少面倒だが、自分で肉を切り分けるのもこのような食事の醍醐味の一つだ。

 ──肉が好きだ。

 改めてそう思う。他の料理も美味しいが、やはり、肉料理が一番好きだ。焼きすぎないものが美味しい。魚ならば、火を通さない刺身が好きだ。

 この嗜好は鬼のようだと思う。だが、自分の味覚は正直で、嘘も誤魔化しもしてはくれない。

 飛び去っていく鴉の影が窓に落ちて、明は眉を(ひそ)めた。晴彦のものではない。友人との外食まで監視されるのは不快だ。

 軽く息を吐き、目の前の料理を楽しもうと思い直す。

 しかし、先程の鴉の影が瞼の裏にこびりついていた。鎹鴉のしわがれた声が連想されて、明は無意識にナイフを握る手に力を込めた。

 ──鎹鴉は人語を操る。対話が可能なまでの、高度な知性を有する生物だ。

 晴彦は仕事以外では寡黙だが、彼の思慮深さを明はよく知っている。晴彦は各地の鴉の話を聞いては、情報の取捨選択をして明に伝えてくれていた。

 故に、明は鎹鴉を人間に近い存在として認識していた。もし彼らを殺し、その肉を食べるような事があれば、それに対して殺人や食人と同等の嫌悪感を覚えるだろう。

 けれども、鎹鴉以外の生物はどうなのだろうか。

 鎹鴉は「訓練によって」人の言語を身につけた鴉だ。ならば、鴉という種はもともと高い知能を有しているのだと考えるべきだ。であれば、鴉だけが特別だと考える事は都合が良すぎるだろう。

 ──私が今までに食べた豚や鳥、牛は、一体、どれほどの知性を有していた?

 口の中の肉。舌に広がる肉の旨味。豊かな香りが鼻を抜ける。

 人が獣を食べる事と、鬼が人を食べる事の違いはどれほどあるのだろう。

 かつて斬った鬼の言葉が、不意に思い出された。

 ──鬼殺隊というのは、命に貴賤をつけるのか。人の命は獣の何倍も価値があるといい、鬼は存在自体が悪と宣う。

 人と鬼と獣。それらの間にある溝は、どれほどの深さなのか。それとも、溝などないのだろうか。実在しないまやかしの線引きで、己と他者を区切って安心しようとしているだけか。

 咀嚼するたびに味が広がる。舌が歓喜を伝えてくる。

 肉は美味しい。それは否定できない事実だ。

 もし肉が不味ければ、もし人が肉を食わない生物だったならば、悩むこともなかっただろうに。

 

 

 

 

 

 夜の短い夏は、鬼に厳しく隊士に優しい。

 単純に任務時間が減るおかげで、体力的な負担は軽くなる。自由に過ごせる時間も増えた。煉獄家で杏寿郎に稽古をつける機会も、また。

「昨日、小芭内から手紙が届いたんだ。体調も随分良くなって、育手の元での稽古も順調らしい!」

 不恰好に切り分けられた桃を頬張りながら、杏寿郎は友人の事を嬉しそうに語る。

 庭の桃の実が熟したというので、明と杏寿郎と千寿郎の三人で食べてから稽古をすることにしていた。明の記念樹として植えられた桃の木は、数は少ないながら、立派な実をつけていた。昨月の杏と同じように収穫して食卓を囲んで食べれば、ここで過ごした幼少の頃に戻った気分になれた。その分、父母の欠落が寂しい。養父に関しては返事はなかったが部屋にいるのは確かなので、彼の部屋の前に桃を盛った皿を置いた。

 杏寿郎が口にした小芭内というのは、以前に明が煉獄家で会った子供の事だ。姓名を伊黒小芭内という。彼は生まれた時から、鬼の支配する家で鬼に食われるために育てられてきたらしい。

 鬼の家で育てられた人。それを聞いた時、人に育てられた鬼である自分とは真逆だな、と思った。その彼が、自分と同じく鬼殺を生業にすることに、奇妙な感慨を抱く。

 あの初対面から数日後、彼から謝罪の手紙が届いていた。杏寿郎の縁者と聞いて、あの時の態度を申し訳なく思ったらしい。聞くところによれば伊黒の家の鬼は女で、それも蛇のような瞳と下肢をしていたという。明の容貌を見て恐れるのは当然だった。気にしていない、謝罪はいらないと返事を書き、それから後は杏寿郎と彼の文通から、細々(ほそぼそ)と彼の近況を耳にしている。

 杏寿郎の話を聞きながら、明も同じく桃を口に含んだ。

 このごろは小夜への土産以外にさほど甘味を食べない明だが、今日は桃を買って帰ろうかと思うほどには美味しかった。瑞々しく、口の中で蕩けるように甘い。ただ、任務か稽古中に怪我でもしていたのか、口内が沁みた気がしたのが気になった。

 桃を食べ終え、杏寿郎と二人して木刀を片手に庭に降りようとしたとき、「おい」と後ろから剣呑な声をかけられた。

 振り返れば、廊下に槇寿郎が立っていた。ずかずかと大股で歩き、遠慮なく明の間合いに入る。強張った明の顔を、無精髭の生えた顔が見下ろした。

「……いい加減にしろ。何故わからんのだ」

 酒気を含んだ息を吐きかけられ、明は養父を睨んだ。

「どうせ大層なものにはなれない。俺もお前も杏寿郎も、天稟に恵まれなかった有象無象にすぎん。意味がない」

 このごろの養父は顔を合わせる度に、殊更に嫌味を言うようになった。失意と恨みに満ちたような、暗く淀んだ声と視線が明を苛立たせる。ただただやめろと言うばかりで、はっきりとした理由を口にしないあたり、(たち)が悪かった。

「意味とは何ですか」

「凡人がいくら雑多な鬼を殺しても、首魁を斬れぬ限り鬼は増え続ける。だが、柱でさえ、首魁どころか上弦の鬼にすら勝てていない。首魁に届く天稟一人いれば、鬼の根絶も現実味を帯びるだろうが、今の隊には塵芥しかいない。これを無意味と言わずして何という」

 以前、満身創痍で煉獄家に来た時に父からかけられた言葉は幻だったのではないか。そう思うほどに、父の態度は冷ややかだ。

「……鬼の根絶の手掛かりすら掴めておらずとも、我々隊士の刀によって助かる命はあります。与えられた力で一人でも多くの人を救えるならば、それを己の責務と心得よと私に教えたのは師範です」

「お前が他者を気にかける余裕のある強者だとでも? 上弦相手に惨敗して帰還したお前が」

 かっと、臓腑が燃えた。腹を焦がす炎が全身に波及する。

「師範のいう天稟がおらず、他に責務を負える者がいないのならば、多少荷が重くとも私が背負うのは当然のことではありませんか。投げ出したところで被害が拡大するだけです」

 言い返せない事実をわざわざ口に出した養父に憎悪に似た感情を覚えた。明が背負い、今も苦しんでいる過去をあげつらった養父の言葉が信じられなかった。

「俺にすら及ばない力で何ができるんだ。野垂れ死ぬだけなのは目に見えている」

「ならば、なぜ、師範が炎の呼吸を教えてくださらないのですか。私よりも強くあられるのに、なぜ杏寿郎に剣を伝えてくださらないのですか。誰にも天稟がないなどと言いながら、なぜ柱として責務を果たしておられるのですか。柱としての立場に、責務に、誇りがあるのではないのですか」

 腹の底の火を吐き出すように言い募る。眉根に力を込め、父の襟元を掴みたい衝動を必死にこらえていた。

「俺の剣技もただの塵だ。劣化した呼吸を伝える意味などあるものか」

「……私はずっと、師範の剣を追ってきました。師範の炎以上に美しいものを知りません。例え師範本人であっても、その剣を侮辱するのは許さない」

 明よりも一回り大きい体格から発せられる威圧感を撥ね退け、明は養父の横をすり抜ける。

「杏寿郎、行くぞ」

 険悪な空気に声を失っていた杏寿郎を呼ぶ。杏寿郎は慌てたように駆け寄り、明の後に従った。

 今日の稽古は家の外でしよう。あの父と同じ空間にいたくない。稽古ができそうな空き地なら心当たりがあった。

 ──私に対する態度なら、まだわかる。

 上司に命令されて育てさせられただけの、血の繋がらない鬼の子供だ。見限られても仕方がない。今では隊の中で身を立てられている以上、保護者としての責任を負う必要もない。

 ──しかし、杏寿郎に対してあの振舞いはないだろう。

 実の息子の教育を放り出すとは何事か。その上、煉獄家に代々伝わる剣術すらも否定した。鬼狩一族としての誇りも、責務も、息子の前で何もかも否定して見せた。

 明が尊敬していた師範は、もうどこにもいないのだと理解した。

 今はただ、怒りと軽蔑だけが(くすぶ)っている。

「姉上」

「すまない。嫌なものを見せた。師範を諫められず、すまない。……こうなる前に、煉獄家を訪れるべきだった」

 罪悪感と後悔の滲む声に、杏寿郎は面くらったように押し黙る。

 蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。二人分の足音が気まずい。

「きっと、父上にもお考えがあるのだろう」

 しかし、しばらくして口を開いた杏寿郎の声は、異様なほど明るくきっぱりとしていた。

「うむ、邪推するべきではないな! 今はただ鍛錬あるのみ! 実力があれば、父上はきっと認めてくださるはずだ!」

 ──何を言っているんだ。

 絶句して明は杏寿郎の顔を見る。真っ直ぐで透明な瞳が明を見返した。

「才能がなくとも、鬼を斬れれば問題ないだろう! 稽古を重ねて、上弦の鬼をも斬れる剣士になればいいだけの事だ!」

 あの言われようで、まだ、あの父に失望していないのか。今もなお認められることを期待し、前向きに稽古に打ち込もうと考えられる杏寿郎の思考が、理解できなかった。

 ──清廉潔白。

 汚れひとつない真っ白な稽古着と同じように、杏寿郎は些かの瑕疵も穢れもなく、どこまでも真っ直ぐで澄明(ちょうめい)だ。

 ──何故。

 なぜ、このように思えるのか。何故、恨まず、軽蔑せず、父を慕っていられるのか。

 今に至って、ようやく明は弟との断絶を理解した。

 ──わかると思っていたのだ。

 同じ親に育てられ、同じ言葉を聞かされ、同じ呼吸を学んでいた私たちは、きっと同じ胸中でいるのだろうと思っていた。そう、期待していた。

 同じ重みを背負い、同じ痛みを抱えた兄弟だから、分かり合えると思っていたのに。弟への嫉妬は拭えずとも、苦しみだけは共有していると思っていた。

 ──私には、この弟の心を理解できない。

 その正しさ、真っ直ぐさが眩しかった。父を軽蔑する己が薄汚く思えた。弟は幼いながらに、自分よりも優れた人格者だった。

 喉の奥にひりつくような痛みがあった。

 

 

 

 

 

 障子を開け放した部屋を吹き抜ける風が涼しい。顔を上げれば、色づいた木々が目に鮮やかだ。その視界の上に入り込むそれに、明は眉を(ひそ)めた。

 ──だいぶ、伸びたな。

 視界にかかる前髪は、一度気になると鬱陶しくて仕方がない。

 自室で討伐報告書を書いていた明は、その鬱陶しさに耐えかねて、前髪を切ろうと鋏を取り出した。鋏と屑籠を持ち、主屋の鏡台のある部屋に向かう。

 鏡に映る己を見れば、後ろの毛先も随分と伸びているのがわかった。前回散髪したのはいつだったか。半年ほど放置している気がする。どうりで、この頃は洗髪後に乾かすのに時間がかかるわけだ。

 ともかくも前髪だけ切り揃えようと、片手で慎重に鋏を操っていると、足音が通りがかった。

「──私がやろうか?」

 声の主の顔を見上げる。小夜の顔を見るのは久しぶりな気がした。生活時間帯が異なるため、同じ家に住んでいるのに、ここ数日は顔を合わせていなかった。

「じゃあ、お願いする」

 素直に鋏を渡すと、小夜は慣れた様子で明の前に座った。

「後ろも随分伸びたね。もし忙しくなければ、後も切ろうか?」

「……やってくれるなら、ありがたい」

 小夜が明の前髪に手を添える。切りおとされた髪が目に入らないよう、明は目を瞑った。前髪が切られていく音がよく聞こえる。

 瞼の上に手と刃物の気配を感じているのに、何の恐怖も警戒も浮かばないのが不思議だった。

 小夜へこれほど(あつ)い信頼を寄せるようになったのは上弦の参と戦って重傷を負った後からだったように思うが、心なしか、同じ時期から、小夜からの距離感も近くなった気がしていた。

 一人では食事もままならず、下の世話までしてもらわねばならない有様だったのだから、当然と言えば当然かもしれない。

 羞恥心まで消え切る前に回復できて良かったと、明は内心で苦笑した。

 

 

 飲み物を取りに行く途中、通りがかった部屋の中に明の姿が見えた。どうやら前髪を切っているようだったが、片腕でやりにくそうにしていたので、思わず声をかけた。

 鋏を小夜に任せ、素直に目を閉じる明を見ていると、不意に妹と弟の顔が思い出された。鬼の襲撃に遭う前は、こうして髪を切っていたものだった。

 ──ああ、いけない。

 ──明は私の血縁でも何でもないのだから。

 ──同僚で、友人。明から見れば、私はそれ以上の存在ではない。

 小夜には、明を亡き下の兄弟に重ねて見ている自覚があった。自分が明に親身になっているのも、おそらくこれが大きい。

 けれども、これは明に悟らせてはならない事だ。

 前髪を切り揃え終え、下に新聞紙を敷いてから後ろの髪に鋏を沿わす。

 ──自分が明に入れ込んでいるのは、身勝手なことなのだから。

 見返りを求めてはいけない。重荷に思われるようなことはあってはならない。

 軽い音を立て、切り落とされた白い髪が新聞紙の上に散らばる。

 珍かな白髪。病人のように青白い肌。血の色の透けた異形の瞳。

 どれ一つとして弟妹と似通ったところはなく、刀の腕も価値観も精神性も、小夜の家族とは何もかもが異なる。

 年下で親しい間柄。共通しているのはそれだけだ。

 伸びた髪を、初対面の時のように肩口で切りそろえていく。傾いた日が柔らかく明の髪を照らしていた。

 ──初めて会ってから、もう一年近く経つのか。

 初対面で敬語を使っていたことが懐かしい。

 きっかけは小夜の技術を認めてくれた事だった。このような技術を必要としないはずの甲、剣士の中の剣士のような隊士が、あろうことか小夜の狩猟技術を絶賛した。

 困惑はした。けれども、誇らしかった。嬉しかった。自分と、それを教えてくれた父や故郷を認められたように思えて。

 だからこそ、小夜は明に初期から好感を持っていた。この人は私を蔑まない。正統な剣士でなくとも、隊士として接してくれることが心地よかった。

 けれども、共に過ごすうちに、剣士として年下の明に劣っていることに引け目を感じるようにもなった。

 亡き弟よりも若い子供が命がけで鬼と戦っているのに、私は安全圏で鬼を炙っているだけ。稽古をしたところで彼女に届く気配は全くなく、不甲斐なくてたまらなかった。──同時に、才に恵まれた彼女が羨ましかった。

 けれども、自分にないものを嘆いたところでどうしようもない。だから、自分にできることを探そうと思った。狩猟技術だけでは足りない。自分を認め、同僚として友として慕ってくれている彼女と釣り合う人材になりたかった。自分は明の友人だと、胸を張って名乗れるようになりたかった。

 明に内通の嫌疑がかけられ、自分にできることを必死で考えた。その結果、討伐記録の分析をしようと思いついた。

 今では当主から高く評価されているので、自分はこれに向いているのだろうと思う。剣才には恵まれなかったが、狩猟しかり解析しかり、戦いとは異なるところには適性があったようだと、このごろは特に実感する。

 自分は強い鬼を斬ることはできない。明のような形で人を守ることはできない。けれども、狩猟技術によって負傷者は減り、任務の効率はあがった。記録の解析結果から隊士の配置場所や班構成を変えれば、それも隊士の消耗や犠牲者数の減少が目に見える数値となって返ってきた。

 私は隊に貢献できている。剣士としてではないけれど、自分にできる形で働けている充足感があった。

 そして、ようやく自己肯定感を得られはじめて、改めて明と向き合ったとき、ようやく、自分が明を亡き弟妹に重ねていたことを自覚した。

 ──私は、失った家族の空虚を明で埋めようとしていた。

 そのことに気が付いてぞっとした。

 明の隣に立とう、明のために何かしなければとがむしゃらに動いていたのは、明を妹に見立てて「姉」であろうとしたからではないか。家族全てを喪った身で、私は未だに「姉」の立場に固執して、身近な年下の人間を「弟妹」の枠に押し込めようとしていたのではないか。

 そんなことは、明にも喪った家族にも失礼だ。

 だから、絶対に気づかれてはならない。

 全て打ち明けて謝罪するには、拒絶されるのが怖かった。

「……小夜」

 髪を切る音の合間に、明の小さい声が聞こえた。明の骨張った肩は緊張していた。

「何?」

「……小夜は、……鬼殺が辛いとき、どうしている? 任務に疲れたりは、しないのか。……姉として、下の弟妹の模範として振る舞うことが、難しかったことはないか」

 迷うような沈黙の末の言葉。

 この子の悩みの一端はやはり任務と煉獄家に関することだったのかと思うと同時に、頼られたことを嬉しく思う自分がいた。

「……そうだね。私は、そんなに立派な姉ではなかったかもしれないな。自分のこと、下の子の面倒を見ることで手一杯だったから、模範としての姿になんて気を配っていなかった。

 辛い時は、暖かい風呂に入って、美味しいものを食べて、早く寝るのが一番だよ。私は出身上、殺生には慣れているから、多分、明ほど辛くないのだろうけれど」

 明は真剣に悩んでいるのに、嬉しく思うなんてあさましい。他人事のような思考が浮かんで消える。

「それに、私は直接手は下していないからね。日光で焼くだけだから、直接斬っている明よりも精神的負担は少ないのだと思うよ。……もし息抜きがしたくなれば付き合うし、一人にしてほしければ人払いにも協力する。友人、なんだからさ。もっと、頼ってくれて大丈夫だから。……ううん。

頼ってほしい」

 後ろ髪を切っているので明の顔は見えないが、明の肩の強張りが解けていくのが見て取れた。

 どうすればこの子の心を軽くできるのだろう。規則的な鋏の音に乗せて、まとまりきらない言葉を紡ぐ。

「……価値というのは、本質的に物に付随するものじゃない。価値は、人間が物事に付与するもの。だから、その人の認識によって変容する」

 様々な書籍を読むようになって、小夜は価値観の多様さを知った。目から鱗が出るような発想の転換の数々を、小夜は書物から学んだ。

「正しさは国によって、教義によって、人によって、変わる。ある場所では美徳とされていることが他の場所では悪徳になることもある。だから、完全な模範なんてのは、そもそも存在しないんじゃないかな。

 鬼殺隊の任務に関して言うなら…………守るべき命を尊ぶほどに、そのために行った殺戮の罪も重くなる。守るために殺生を行う、私達の罪と大義の重さは表裏一体だから」

 人の命を重んじるならば、"元"人間の鬼の命も重くなる。それが明を苦しめているのは、以前から知っている。

「突き放して見るのなら、生命は現象に過ぎない。流れる水が形を変えるように、地球上の物質が作り上げた形でしかなくて、それ自体はいかなる意味も持ってはいない。私達は『何故』生きているのか、原因を探ることはできても、『何のために』生きているのか、意味や目的は自分で生み出すしかない」

 科学という考え方に触れて理解したのは、世界がいかに無機質であるかということだ。神や仏の思惑を経ることなく、世界を説明することができるということ。

 世界には多くの宗教があり、異なる国の人々は、異なる価値観で生きている。そのどれかだけが正しいと考えるのは傲慢だ。他の全てを否定する、その根拠はどこにあるだろう。

「だからこそ、明は好きなように価値を認識していいんだよ。人の命を何より重んじる事を誇りとしてもいいし、より多くの命を掬い取るために突き放してただの数として見てもいい。貴方は自由なのだから」

 絶対的な唯一つの正しさではなく、選び取る自由だけがあるのだと考えた方が自然だ。

 明は何も言わない。彼女が何を思って聞いているのかはわからない。明の思考に一石を投じることができているかもしれないし、もしかしたら明の逆鱗に触れる考え方なのかもしれない。それでも、小夜の言葉に真剣に耳を傾けていることだけは事実だ。

「ある英国の学者はこう言ったらしい。"the greatest happiness of the greatest number"、最大多数の最大幸福をもたらす行いこそが道徳的に正しいものだと」

 全ての髪を切り終わり、小夜は正面から明と向き合った。赤い異形の瞳が、小夜をまっすぐに見つめている。

「彼が正しいのかはわからないけれど、私達がするべきはそういうことだと思う。万人の幸福を実現させる完璧な行いなど、神ではない私達の手に余る。私はできることをするだけ」

 ──私は貴方のように強くない。

 強く繊細な赤い瞳。私よりも強い武人。私よりも若い子供。相反するはずの敬意と愛おしさがないまぜになって渦を巻く。

 狩猟技術だけでも、解析による貢献でも、まだ足りない。明のように命がけの前線任務をこなせないのならば、私は命以外の全てをかけなければならない。

 だから私は私にできることをする。それが道に(もと)ることであったとしても。

 ──必要なのは覚悟だ。

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