鬼子の剣士は夜明けを望む   作:安代圭

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第25話 罪業

 ──突き放してただの数として見てもいい。

 その言葉にぞっとした。

 それと同時に、納得もしたのだ。紙上で命を数える小夜には、命は温かなものではなく、無個性な数値でもあるのだと。

 会ったこともない隊士の数を、遺体を見ることもない民間人の犠牲者の数を、繰り返し数え上げ比較検討する小夜にとって、命が数に見えるのは道理だろう。討伐対象である鬼の命なら尚更、言うまでもなく。

 小夜に限らず、殺生が日常になっている私達の感覚は、きっと危うい。

 己の魂を傷つける痛みが鈍り始めた頃に、その事実を唐突に突きつけられる。そうして、もはや一般人とはかけ離れてしまった己に恐怖するのだ。

 人型のものを斬る習慣がついてしまった己に。刀で斬り殺すという選択肢が自然に浮かんでしまう己に。命を消耗品として数え始める己に。元人間を斬り殺し続ける中で、人と鬼の境までもが曖昧になっていく己に。

 その繰り返しの中で、私達の感覚は鈍磨していく。

 そして、時折罪の意識に苛まれては、まだ痛みを感じられる己に安堵するのだ。

 現実感のない背中の重み。蠢く肉の塊と、布に染み出す液体。──鬼の血液。

 慣れたはずの肉を斬る生々しい感触がいやに鮮明に手のひらに残っている。

 以前に小夜にかけられた言葉、それに対して思った事。今になって、それが思い出されていた。

 柱代行として、一定以上の実力を持つ上級隊士としての任務の一つに、『選別用の鬼の捕獲』というものがある。

 成り立ての鬼を発見した場合、明は討伐ではなく捕獲することを命じられていた。

 だから、この状況に直面することは、ある意味で当然のことだったのだ。

 

 

 

 

 日が沈んだばかりの空の下を歩きながら、明は重いため息をついた。

 今日は煉獄家での稽古を終えてから、直接、地区の警邏に向かう予定だった。

 ──私はどうすれば良いのだろう。

 明を真っ直ぐに見つめる杏寿郎の瞳を思い出す。心臓に刺すような痛みが走り、明は隊服の胸元を握った。

 このごろは清廉な義弟の言動を見るたびに、責められているようで息苦しくなる。弟の才に嫉妬し父の態度を軽蔑してしまう自分は、呆れるほどに薄汚い人間だと、嫌でも自覚させられるのだ。

 やるべき事、己の務めは理解しているつもりだ。隊士として人を守り、後進を導き、自分が知る限りの炎の剣技を義弟に教える。それが私の責務だ。多少の粗、不手際はあれど、その大方はこなせている自負がある。行動そのものの殆どは制御下に置けているはずだ。

 だが、思考や感情というのは、どう律すればいいのだろう。

 あの養父の態度に、失望と苛立ちを感じずにはいられない。隊士として働く中で支えとしてきた父への尊敬と憧れが、今に至ってがらがらと音を立てて崩壊していく。それを成す術なく受け入れることしかできない。

 その傍らで、杏寿郎はまだ父への尊敬と期待を失わずにいるのだ。義弟は眩しく無垢で清廉なまま、変わることがない。明に対する当て付けかと思えるほどに。

 いや、当て付けだったなら、糾弾してくれていたなら、どんなにか良かった事だろう。明を非難しているのは明自身だ。実際の杏寿郎は、明のことを非難するどころか、純粋な尊敬と信頼を向けていた。それが一層、苦しさを増させる。

 杏寿郎は明の理想とする身体と精神性の両方を体現していた。

 ──集中。

 明は短く息を吐いた。雑念を振り払うように、軽く(かぶり)を振るう。仕事に集中しなければ。

 深まっていく夜の中を、常のように気配に意識を尖らせながら歩く。

 今日の仕事は警邏だ。鬼発見の報を受けて向かう任務とは異なり、定期警邏は主に発生初期の鬼や潜伏している鬼の炙り出しのために行うものなので、鬼と遭遇する確率はそう高くない。故に、そうそう鬼と出会うことはないだろうと油断していた。

 だから、その気配を感じた瞬間、明の体に緊張が走った。

 巡回経路から少し離れた地点から、微かに鬼の気配が漂っていた。

 ──成り立ての鬼か。

 ──薄い気配だ。異形化はしていないだろう。

 先ほどまで煩悶に囚われていた思考が一瞬で任務用のものへと切り替わる。考えるより先に走り出した体は、流れるように抜刀していた。

 見慣れた道。見慣れた景色。私的に何度か訪れている場所にまで鬼が湧くのは、土足で心に踏み入られたかのように気分が悪くなる。ささやかな日常までも壊されるのは我慢ならない。

 水の呼吸が口から漏れる。視界の中、月に照らされて立ち並ぶ家屋が後方へと流れていく。距離を詰めるごとに鬼の気配は明瞭になった。明は迷いなく最短距離を駆け抜けた。

 ──いた。

 最後の曲がり角を曲がると、倒れ伏した人間に食らいついている鬼の後ろ姿が見えた。

 ──やはり、成り立て。

 気配と見た目で確信する。

 ────水の呼吸 肆ノ型隻式 打ち潮

 水流が鬼の両腕を斬り飛ばす。斬撃の衝撃で鬼の体が被害者から離れた。鬼の脇腹を蹴り飛ばし、被害者から引き離す。鬼が家の壁に衝突する重い音が響いた。

 ちらりと脇に目をやる。倒れた人間は血濡れで肉体が大きく損傷している。生存の目は薄いか。

 唸り声をあげる鬼に視線を戻す。この鬼は成り立てだ。捕縛して藤襲山へ運ばねば────

 その鬼の顔を見た瞬間、明の呼吸が止まりかけた。

 ────定食屋の奥さん。

 飢餓と明への敵意で歪んでいるが、見間違えようがない。見知った顔、何度も顔を合わせた相手の顔だ。薄暗い夜の中に煌々と光る目、唾液の滴る口元は、もはや別人のように変わり果てていたが、その目鼻立ちは確かに明の知る定食屋の夫人その人だった。

 ──何故。

 いや、理由ならわかりきっている。鬼舞辻に血を摂取させられたのだ。

 ──それよりも、今は。

 ──彼女を捕縛しなければ。

 動揺する内心とは裏腹に、明の刀の切っ先は震えもしなかった。

 ────水の呼吸 肆ノ型隻式 打ち潮

 一歩で間合いを詰め、再生しかけた両腕を、続けて両足までも斬り落とす。潰れたような声をあげて、達磨になった鬼が倒れ伏した。二度も欠損を直すだけの体力はなかったらしく、傷口は塞がりかけているが、手足が再生する気配はない。

 鬼の体を刀で貫き、地面に串刺しにする。鬼の動きを封じて安全を確保してから、明は被害者の処置に取り掛かった。──辛うじて、息はある。できる限りの応急処置をしていると、晴彦に連れられて隠たちが駆けつけてきた。どうやら晴彦は、負傷者の姿を見てすぐに風柱邸に隠を呼びに行ったらしい。つくづく、判断の速い優秀な鎹鴉だ。

 負傷者を隠に任せ、明は再度鬼と向き合った。

「……奥さん」

 鬼が明を見上げる。唸り声が返された。その表情に理性は見られない。

 ──藤襲山へ連れて行かなくては。

 刀を抜き、再度斬撃を加えてから懐から出した縄で縛り、専用の袋に詰めて担ぐ。その一連の行動をする自分の手足を、明は半ば他人事のような気分で見ていた。実感のないままに、己の手足だけが淀みなく動いている。今まで何人もの鬼に対してやってきた捕縛の手順だ。明本人の意識を置き去りにして、体だけが経験をなぞっているような錯覚を覚える。

 背に担いだ鬼の体が、もがくように蠢いている。その感触が気持ち悪くて、痛々しくて仕方がない。

 鉛のように重い足を一歩踏み出したとき、ようやく、付近にいた民間人の存在に気が付いた。処置を負えた隠の一人が話しかけている男性。──定食屋の主人。

 明からの視線に気が付いたらしい主人は、青白い顔を明に向けた。開かれた口は言葉を発することなく、はくはくと開閉を繰り返す。

 じり、と一歩後退っていた己に気が付いた。

 上弦の参を前にしても退かなかったのに、彼の視線を受け止めることができなかった。逃げるように、藤襲山へ駆け出す。

 無心で走ろうとした。

 鬼の体の、生き物としての柔らかさ。背に感じる、暴れ、抵抗する鬼の動き。それを思考の外に追いやろうとしても、現実から逃れることはできない。

 背中の温もりが悪夢のようだった。

 師と母を喪い、打ちのめされていたあの時、深く聞かずに受け入れてくれた彼女ら夫婦に、あの手の暖かさに、どれほど慰められただろう。

 ──私は何をしているんだ?

 吐き気がした。

 ──突き放してただの数として見てもいい。

 小夜の言葉が脳内を反響する。

 そんな言葉は、相手の顔を知らないから言えるのだ。言葉を交わした相手、人であった時の姿を知る相手を、どうしてただの数として見ることができるだろう。

 風の強い夜だった。身を切るような風が、明の手足から体温を奪っていく。けれど、その風に吹き止んでほしいとは思わなかった。風がなければ、血の臭気は一層濃厚に明と背の彼女に纏わりついていただろう。

 気づけば、藤襲山へと辿り着いていた。今は選別中ではないため、山の中に人の気配はない。弱った鬼の気配が、ところどころにあるだけだ。

 藤の花の咲く山道を登る。悪臭に息を詰めた。背中の彼女の動きは、藤の影響で弱々しくなっていた。

 背から下ろし、袋の口を開ける。這い出た彼女は、未だ言語を解さぬ飢餓状態のままだった。

「────、」

 謝罪の言葉を口にしかけて、無理に飲み込む。酷い味が口に広がっていた。

 それを言う資格は、私にはない。

 もはや話の通じなくなってしまった相手に対して、一方的に謝罪を投げつけて罪悪感を減らそうとは、なんと卑怯な行いだろうか。先ほどまで奥さんを入れていた袋は、彼女の血が染みて重かった。

 

 

 

 

 

 

 そのやつれた顔を、一瞬、認識できなかった。

 所用があり昼の商店街を歩いている時、彼に会った。その男は、明を見た瞬間に憤怒の形相で殴り掛かった。

 ──定食屋の主人だ。

 瞬間、頬に叩きつけられた痛みを、明は無抵抗で受け入れた。

 彼の腕を止める資格も、止める必要もなかった。武術も嗜まない民間人の暴行では、鬼混じりの明に重大な傷は負わせられない。

「美佐子を……っ」

 主人の腕が明の胸倉を掴みあげる。主人の身長は、明とほぼ変わらない。目の前の無精髭が、何故か養父と重なって見えた。

「美佐子を、返せ! 人殺しがっ!」

 突き飛ばされ、馬乗りにされる。なおも明の体に、顔面に、叩きつけられる拳。──荒事(あらごと)とは無縁な人間の、体重の乗らない拳。人間の体を傷つけるには十分だが、鬼や隊士には遠く及ばないそれを、明は抵抗もせずに受け止める。

 ──腫れあがった頬も、切れた口内も、数刻もすれば治ってしまう。

 ──私の罪は(そそ)げないのに。

 人は鬼を化け物と言った。隊士は口々に鬼を害悪だと罵った。私は鬼を斬ることを責務と呼んで憚らなかった。

 化け物は誰だ。人でなしはどちらだ。殺すためですらなく、生簀で子供達と殺し合わせるために彼女を捕えた自分は、一体、何なのだ。

 生きるために食い殺す鬼よりも、忌まわしく罪深い。

 殺しが正義であるはずがない。

 理不尽な暴力が肯定されてよいはずがない。

 元人間の鬼を殺し、(いたずら)にその命を辱めた自分のどこに、正義があるだろう。

 突然の暴行に呆気に取られていた衆人が、ようやく止めに入ろうとしていた。初めに我に返った男が主人を羽交い絞めにしようとして、失敗する。慌てて二人が加勢し、三人の男に取り押さえられて、ようやく主人は沈黙した。

 気づけば、明の周りを人間が取り囲んでいた。大丈夫か、医者の所へ連れて行こうか、と口々に言葉を投げかけられる。その内の幾人かの顔に、見覚えがあった。明は彼らの言葉を断り、立ち上がって取り押さえられている主人の元へと歩いた。

「……恨んでください」

 自分の口から出た声は低く、生気がなかった。

 唸り声をあげて明を睨むその姿は、あの日の彼の奥さんにどこか似ていた。

「恨まれるだけのことを、しました。弁明はしません。……しかし、まだ、私は死ねません。死んで詫びることだけはできません。それ以外なら、如何様にでも」

 深く、深く頭を下げる。私が憎いだろう。殺したいだろう。その気持ちは痛いほどによくわかった。否、"わかった"などと言うのは傲慢かもしれない。それでも、己の命一つでは贖えないほどに重ねられた罪を自覚していた。しかし、手足が動く間は、鬼を殺して人を守らなければならない。鬼に殺されるまでは死ねない。身勝手に死ぬことは許されない。

 明と主人の間に張り詰めた異様な空気に、周囲の人々は押し黙る。

「…………もう、俺に顔を見せるな。出て行ってくれ。金輪際、会いたくない」

 沈黙の後、主人は吐き捨てるように言った。

 明は頭を下げ、踵を返した。引き留める者はいなかった。

 殴られた顔と上体よりも、心臓の方が痛かった。

 ──この呪われた仕事における誇りとは何だ?

 足が重い。体が重い。額から垂れた血が目にかかり、視界を濁らせる。明は乱暴に右手で血を(ぬぐ)った。

 ──母上は知っていたのか?

 ──この罪深さを。

 ──知っていてなお、「誇り高くあれ」、「正しくあれ」と説いたのか。

 初めて、明確に母を恨んだ。

 私が奪っているのは、踏みにじっているのは、知性ある命そのものだ。

 鬼殺隊の仕事は、より多くの人命を救うことだ。小夜の語った最大多数の最大幸福は、これと完全に合致する。

 しかしそれは、義務でもなく徳でもなく、ただより多くの人間に救いを(もたら)せという合理だ。都合の悪い者は切り捨て見捨てろという独善。

 手のひらから零れ落ちる弱者、運の悪かった人間など元から救済の範疇にすらない。鬼となってしまった彼らに、大多数の幸福のためにすり潰されろと宣告するのが我々だ。

 ああそうだ、「人間」のためにはそれが正しい。

 より多くの無辜の民を助けるにはそうであるべきだ。

 ──しかしそれのどこに誇りがある?

 何が正義だ。

 我々は正義の顔をするべきではない。

 死とは喪失だ。殺しとは強奪だ。

 殺しを生業とし、死を振りまいている自分が、正義などと名乗って良いはずがなかった。

 己が独善を知って尚も厚顔でいられるほど、恥知らずにはなりたくない。

 ──鬼もかつては守るべき人だったのだから。

 殺しを生業にする者の仁道とは何か。鬼を殺した手で、弟に何を説くことができるだろう。

 血に塗れたこの身体は何処に行き着くのだろう。

 その果てに穏やかなものなど、今更望もうとは思わない。

 まだ鬼を斬るこの感覚を気持ち悪く思えているうちは、殺しの罪を自覚できているうちは、私は正気だ。殺生を仕事とするうえで、きっとこの痛みだけが自分を「人」として保ってくれる。

 ──もし、あの世があるならば、私は地獄に行くだろう。

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