────風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹
────水の呼吸 肆ノ型隻式 打ち潮
暴風と水流がぶつかり合う。交わった二振りの木刀の衝撃が大気を震わせた。硬く重い音が間断なく続く。
木刀を手に向かい合うのは、片や壮年の男、片や隻腕の細身の子供。風柱邸で見られる立ち合いの最高峰、風柱・伊藤清繁と継子・東出明の試合である。
伊藤の
────風の呼吸 漆ノ型 勁風・天狗風
────水の呼吸 参ノ型隻式 流流舞い
身軽な跳躍、続けて放たれる剣風の数々。身の丈、腕の長さの分、伊藤の方が間合いが広い。その上、風の呼吸の剣技は剣風を飛ばす。確かな威力を伴って襲いかかる剣風の全てを掻い潜って伊藤の間合いの内側に入り込むのは至難の技だ。それをこの継子は当然のようにやってのける。
────炎の呼吸 弐ノ怪 輪入道
斬撃を繰り出す直前の剣筋を、東出の剣撃が捉える。力強く上へ弾きあげられた伊藤の木刀、無理に曲げられた剣筋。がら空きの胴体が東出の木刀の下に晒される。決定的な隙が生じていた。勝負有りである。
隊服を掠めた東出の木刀を、伊藤は甘んじて受け入れた。
東出は風柱邸に来た時から優秀な剣士だったが、継子にしてからは更に実力を伸ばした。伊藤と明の両名が屋敷にいる日はこのように二人だけで朝稽古を行なっているが、今月に入ってからの東出の勝率は十本につき二本か三本。柱の中でも経験豊富な伊藤を相手にこれだけ戦えているのは、言うまでもなく異常である。一年弱前に殉職した継子・野沢は生きていれば一年か二年後に柱になれただろう才覚の持ち主だったが、伊藤相手にこれほど勝ち星をあげることはなかった。
末恐ろしい剣才だ。これほどの逸材が片腕なのが心底惜しまれた。
間合いの外に出て仕切り直し、油断なく木刀を構えている東出と向き合う。寒風に靡く東出の白髪は冴え冴えとした月光か鋼に似ていて、いかにも冷たく硬質に見えた。精悍さすら感じる顔立ちと、骨や筋の目立つ棒のように長い手足は、少女ではなく少年そのものだ。それを見ながら、伊藤は奇妙な心地に浸かっていた。
伊藤は今まで、一度も女性隊士を継子にした事がなかった。
理由は言うまでもない。女性隊士はそもそもの絶対数が少ないのだ。加えて、柱になれそうな程強い隊士となると更に珍しい存在になる。
男に比べて体格、膂力共に劣りがちな女が剣士として大成するのは非常に難しい。よって、女性の柱というのは、頭抜けた才を持つ者に限られる。例えば、鳥の呼吸の剣術を二刀流として新たに編み直した、双翼流剣術開祖である現鳥柱・安西紗栄子のように。
そして、このように頭抜けた才を持つ剣士は、柱に見出されて継子になるよりも早く階級を駆け上がり、入隊して間もなく柱に就任するようなことも珍しくない。
そういうわけで、東出明と篠原小夜は、伊藤が初めて継子あるいは部下として風柱邸に住まわせた女性隊士だったのである。
稽古を始めた時には日が昇りきらず薄暗かったが、いつのまにか太陽は見上げる高さになってた。抜けるような青空の下、樹間を渡る冷風が汗ばんだ二人の体に涼をもたらした。伊藤の合図で二人は稽古を終え、心地よい疲労感と共に食卓へ向かった。屋敷からは隠の用意した朝食の匂いが漂っていた。
隣を歩く東出、そして先に居間で隠と共に食卓の用意をしていた篠原に視線をやる。このところ、この二人が会話をしているのを見ない。挨拶や事務的な言葉を交わすばかりで、以前のような和やかさはなかった。伊藤は人の機微に敏い方ではなかったが、ここまでのあからさまで唐突な変化は見間違えようがない。この変化はあの日、東出に実験場の事を話してからのように思う。そこはかとない居心地の悪さを感じながら、伊藤は並べられた朝食の前に座った。
──そもそも、彼女ら二人を屋敷に招いた理由は隊士の怨恨による傷害事件を防ぐためである。二人の実力とは関係がない。しかし、奇しくもその彼女ら二人ともがそれに相応しい「頭抜けた才」というものを持っていた。
東出明は言うまでもなく、剣術の怪物だ。隻腕で、しかも十代前半の子供でありながら、柱に迫るほどの剣技を修めている。その実力、精神力ともに柱になるに不足なく、まさしく剣士となるために生まれ剣士として育てられた、生粋の武人であると言えた。その言動からは、彼女が幼少期を過ごした煉獄家の家風が色濃く感じられる。
そして恐らく、お館様も東出の事を買っている。去る十二鬼月討伐戦において、部隊が上弦の参との接敵により壊滅し、東出一人だけが生還した時、お館様は東出の処罰に反対した。そして今も、この地区には鬼による被害を受けた事のない隊士が優先的に配属される傾向がある。育手に引き取られた孤児の出自は様々であるので、鬼とは関係のない経歴の隊士もさほど珍しくはないが、この一年はその割合が明らかに高かった。これは間違いなくお館様の配慮によるものだろう。鬼に似た東出の容貌に抵抗を感じにくい隊士を選んでいるのだ。
しかし、真に恐るべきは篠原だ。
猟師の家の出であるため、猟の技術を鬼狩りに利用しようというのは自然な思考だろう。そこまでは伊藤の理解の範疇にあった。
しかし、風柱邸に移住してからの小夜の行動は、常軌を逸していた。討伐記録等の各種資料の解析を行い、出身地の猟師と交渉する傍らで、篠原は幅広い分野の書籍に手を出して貪欲に知識を収集した。医術、薬学、兵法、科学、算術など、この屋敷にあった本を全て読みこなし、自分の給金の大半を使ってまで新たに書籍を取り寄せる始末。しかもその半分以上が洋書ときた。良家で教養を授けられた子供ならいざ知らず、ただの猟師の家出身の小娘である。尋常小学校と育手の指導で多少の勉学の素養は身につけられたのかもしれないが、そうであったとしてもあまりに飲み込みが早かった。
そして、それらの膨大な知識を鬼狩りに転用しようとしていた。発想の柔軟さも行動力も、伊藤が舌を巻くほどのものだった。何故今までこの娘がただの隊士の地位に甘んじていたのか、そちらの方が不思議に思えるほどだった。
『──上位の隊士の方々は、最終選別用の鬼の捕縛をなさっていると聞きました。それはどれほどの負担があるものなのでしょうか。負傷したりする人はいらっしゃいますか』
あの日、改まって切り出された言葉を思い出す。この屋敷に来てから半年以上経っているが、篠原は一度も伊藤への口調や態度を崩すことがなかった。
「いや、安全に捕縛を行える実力を持つ隊士だけに任じられている仕事だ。捕縛を行うか否かも、隊士の判断に任せられている。鬼の捕縛で負傷した隊士は、この一年ではいない」
「……では、余分に鬼を捕縛していただくことは、……選別に必要な分の余剰を回していただくことは、できますか」
「数によるが、可能だろう。何に使うつもりだ?」
「幾つか、鬼の生態について確認したいことがございます。地区内に使用されていない山小屋があるので、そこで実験をさせていただければと。現段階での実験計画はこちらの書類にまとめてあります」
猛禽に似た瞳が伊藤を見上げる。穏やかな態度や性格と食い違う印象の篠原の目。その思わぬ鋭さと力強さが、今は不気味に見えた。
受け取った紙束を
丁寧に書かれた文字、簡潔な文章。要点をまとめられた計画書自体は一見にして無味乾燥だ。しかし、少し想像するだけでその内容を実際に行えば酷く凄惨なものになるだろうと予想できた。
日々鬼を斬り殺している自分が言えたことではないのだろうが、さすがにここまでの拷問じみた計画を企画、実行しようとしている目の前の少女の正気を疑いたくなる。
猛禽の瞳は、ただ黙って伊藤の返答を待っていた。
迷った末、伊藤はいつものように許可を与えた。篠原が要求した設備も、検体の鬼の数も、地区の運営にさして負担となるものではなかった。
その時の自分の判断が正しかったのか、今も自信が持てない。
鬼殺隊への猟師の導入がひと段落して、篠原の仕事に余裕ができたのは知っていた。空いた時間で他の事に手をつけようとするのも理解はできる。──だが、これは、あまりに。
篠原は有能な隊士だ。次の柱合会議には、猟師部隊──『昼伐隊』の総責任者及び、討伐記録の解析者として、特別に出席させることにもなっている。
品行方正。問題行動を起こしたこともなく、事務処理から担当地域の藤の花の家紋の人からの情報収集まで、完璧にこなす。およそ剣術以外の全てにおいて、篠原はこれ以上なく優秀な隊士だった。
討伐記録の整理も分析も、掛け値なしに称賛したいほど役に立っていた。一年近く側に置く中で、片腕とまではいかないものの、かつての継子の野沢とは違った意味で、能力ある部下として信頼していた。
だが、これを認めてしまっていいのか。あの実験に許可を与えてしまって、検体として鬼を与えて、良かったのだろうか。
篠原の日々
体調が悪いのかとそれとなく聞いてみても、否としか言わない。自分より一回りも年下の隊員の私的な事に踏み入るのも憚られ、それ以上は追求できなかった。激務で体に不調を来しているのかもしれないと、休暇を取らせる事も考えた。今、少しばかり事務が滞ることよりも、倒れられて貴重な人員が抜けることの方が差し障りがある。
昼頃、隣接地区への遠征の要請を受けた東出が出立前に伊藤の居室を訪れた時も、篠原の懸念は頭の隅にあった。
その数刻後、事務仕事を終えて稽古場に顔を出そうかと屋敷の中を歩いていた折、来訪者の気配を感じて伊藤は足を向ける先を変えた。隊士の気配ではない。武の匂いのしない気配は入り口で立ち止まっていた。隠ならば堂々と出入りするだろうし、新人が来るならば連絡があるはずだ。不審に思いながら近づいてみると、門の前には鬼殺隊専属の刀匠がいた。
伊藤の刀はもちろん、折れてなどいない。東出からも篠原からも、刀を損傷したという報告はなかった。伊藤の訝しみをよそに、刀鍛冶は篠原の所在を聞いた。曰く、「頼まれていたものを試作したので見てもらいに来た」と。
常のように実験場にいるだろう篠原を呼び寄せるために鎹鴉を向かわせた。一声鳴いて飛び立った鴉の後ろ姿を見ながら、伊藤は不吉な予感に襲われていた。
同席したいと言えば、刀鍛冶は
篠原は実験の過程で、鬼に有効な毒を作り出したらしい。殺すまではいかないものの、その毒を塗った刃物を刺すだけで鬼は一時的に麻痺し、首を斬り落とすのに十分な隙を生み出せるという。
この毒とこれを使うための刀を実用化、量産できれば、隊士の消耗を減らせるだろうと、篠原は炯々とした眼差しで語った。毒の調合の仕方は詳細に書きつけられており、それに従って調合すれば、篠原だけでなく誰でも作ることができると言った。
「私がいつ死んでも問題ないようにしてあります」
表情一つ変える事なく口にした篠原の言葉を聞いて、伊藤の胸の中に嫌に冷たい何かが広がった。
毒の作成に、どれほどの鬼を要したのか。自分は彼女にどれほどの検体を与え続けていたのか。いちいち記録を取ることはしていなかった。余剰の鬼を引き渡す行為は習慣化された日常の一部になっており、その数など覚えていない。実験そのものに関しても篠原に一任していたので、その詳細など知るはずもなかった。
だが、鬼に有効な毒を作ったとならば、相当な数の鬼を犠牲にしたのは間違いない。ただ刀で命を奪うだけではない、
ここに至って、ようやく伊藤の中で点と点が線で繋がった。篠原の顔つきの変化と、彼女がしてきただろう行動の意味が結びつく。
その瞬間、伊藤の背筋に寒気が走った。
──自分の判断が、未来ある優秀な隊士を壊したのではないか。
自分が軽率に許可を出し、鬼を提供しなかったならば、篠原はこうはならなかったのではないか。
いかに優秀と言えど、篠原は未成年だ。たった十七歳の子供である。身体は成熟していても、人格や価値観、倫理観が形成途上の、若くしなやかな芽であったはずだ。
篠原は今まで、鬼に対する憎悪を見せたことがなかった。復讐者の多い鬼殺隊においては、鬼を憎む者が主流だ。その中で、篠原の鬼殺やその他の仕事への取り組み方は、事務的で私情の匂いのしないものだった。篠原の仕事の丁寧さ、落ち着いた態度は、鬼殺へ向ける感情の薄さに起因していたのかもしれない。篠原はおそらく煉獄一族や東出のように、復讐ではなく義務として鬼殺を行っていた。
そのような子供が、怒りも憎しみも無いにも関わらず、ただ目的のためだけに残虐非道な行為を行い続けたらどうなるか。
任務で命懸けの殺し合いをするのと、縛られ、抵抗する術を奪われた鬼を相手に実験を繰り返すことにかかる心の負担は、その種類を全く
篠原は今までと変わらぬ言動を続けてはいるものの、少し痩せた体と顔つきには、はっきりと負担の色が見えていた。
止めるべきか。しかし、ここに来て止めるのは、篠原のこれまでの実験の全てを否定するに等しい。これほどの負担を受け入れてまで得た成果を否定すれば、それこそ篠原の心身がどう転ぶかわからない。その上、毒の実用化は隊に革命を起こす可能性すらある計画だ。篠原の生み出した仕事の意味と成果は非常に大きい。これをふいにするのはありえない。
だが、この篠原をこのまま放置して良いものか。いつか取り返しのつかない何かが起こるのではないかという予感が伊藤を捕らえて離さない。
炯々と光る目で刀を検分する篠原を横目に、伊藤は不吉な胸騒ぎを持て余していた。
「……明。少しいい?」
久しく聞いていなかった声に、しばし、反応が遅れた。
普段は誰も近寄らない離れだ。訪れる者は鎹鴉以外におらず、たまに感じる人の気配も離れの近くを通り過ぎるだけ。近寄ってきた気配の目的がまさか自分だとは思いもしなかった。
「……何?」
任務から帰ったばかりの、まだ寝巻きにも着替えていない状態だった。開けた戸の外に、有明の空に浮かぶ冷ややかな残月を背負って小夜が立っていた。
あの日以来、明と小夜は必要最低限にしか言葉を交わしていない。同じ風柱邸に住みながら、ほとんど顔を合わせない日々が続いていた。元々の任務時間が異なっているため、むしろ敢えて会おうとしなければ、会わないのが普通なのだ。
ここ数ヶ月、明も小夜も忙しくしていた。夜の長い冬は鬼の活動が活発になり、警邏の時間自体も増える。真菰も水柱の地区の方で人員不足があって任務が立て込んでいたらしく、女子三人での食事会は久しく開いていなかった。今、小夜と真菰と食事の席を囲もうにも、どのような顔をすればいいのかわからない。忙しくて会えない現状が幸運なのか不幸なのか、明には判断できなかった。
あの日、鬼に対して実験を行う小夜の姿を見て嫌悪感を覚えた。知性ある存在としての尊厳を踏みにじる行動と、鬼を『物』として見ているようだった冷たい眼差しが目に焼き付いて離れない。明自身、自分の体が鬼に近い事を自覚しているからこそ、拒否感が強かった。
猛禽のように鋭い小夜の瞳にあの日の冷酷さをもう一度見ることが怖くて、明はついと目を逸らした。
「人か鴉の気配はある?」
潜められた小夜の声に、明は別の緊張で背筋を伸ばした。それほどまでに内密にしたい話とは何か。気まずさに躊躇している場合ではないということだけはわかった。
「ない。声の届く範囲には誰もいない」
同じく小声で返し、家の中に招き入れる。おずおずと戸口をくぐった小夜の姿を、どこか妙な気分で迎えた。
よく見てみれば、小夜の顔色はいつにも増して悪かった。目元に浮いた隈と鋭い眼光の対比が痛々しい。
離れに入った後も、小夜は
「……当主のことは信用しない方がいいかもしれない」
聞き取るのも難しいほどの小さな声だった。喉を震わせることなく、息の音だけに乗せられた無声音。唐突な小夜の言葉の内容に、明は虚をつかれて押し黙った。
「まだ、確かなことは言えないけど……確認が取れたら、必ず伝えるから。少しだけ、待ってて欲しい。貴方に関わることだから」
「……今、詳しく聞かせて欲しい」
そそくさと部屋を出ようとした小夜を引き留める。小夜との間には依然としてわだかまりがある。しかし、小夜が根拠なくこのような危険な発言をする事はありえない。それぐらいには小夜について理解している自負があった。
「憶測を言うには、繊細すぎる事柄だから、確実な事しか言いたくない」
小夜は明の言葉を跳ね除けた。小夜は慎重な方だが、いつにも増して頑なな態度だった。
「絶対に明に伝えると誓う。……だから、今言ったことだけ覚えておいて」
胸元に差した万年筆を触れながら、小夜は硬い声で言った。これ以上の追求は不可能だった。
「……わかった」