まだ日の高い時間帯、一羽の鴉が風柱邸に舞い降りた。翼は大きく損傷し、胴体にも深い裂傷を負っていた。その鴉は今際の際に地名だけを伝えて生き絶えた。
明の手の中で鴉が力を失い、ぐったりと脱力する。血で濡れた羽が掌に張り付いていた。
その鎹鴉は小夜の相棒の紫苑だった。
それに気が付いた瞬間、ぐらぐらと地面が揺らいだ。常中しているはずの呼吸が苦しい。酷い耳鳴りがしていた。
柔らかく生暖かい鴉の肉の感触は、現実味を欠いていた。
──今は昼間だ。この時間帯に、一体、何が。
日輪刀を片手に、転がるように屋敷を出た。混乱と焦燥で脈拍が上がる。乱れ飛んだ律動で血を送り出す心臓が痛い。陽光眩しい昼日中に悪夢を見ているようだった。乾いた冬の大気の中で、溺れているかのような錯覚を覚える。
辿り着いた山からは、鬼の気配が濃く漂っていた。隊士一行が踏み入ったらしい山道には、重なり合う足跡が残されている。この足跡の人数と、歩幅から察せられる行軍速度から、間違いなく隊士の痕跡だ。その中には小夜のものと思しき足跡もあった。
小夜の足の大きさ、歩き方、足跡のつき方。一番多く見てきた足跡だ。他の隊士の跡から浮き上がって見えるほどに、それは明の記憶の中のそれそのものだった。一刻の猶予もないこの状況で、何故か耳元に在りし日の小夜の声と息遣いが鮮明に思い出された。共に山野に分け入り、猟師の技術の手解きを受けた日々の記憶が。
小夜から伝えられた技術に導かれて、明は迷いなく鬼を目指して山を登った。小夜の足跡、後続の隊士のために彼女がいつもつける目印。それらの示す方向と鬼の気配は完全に一致していた。
──あの人は猟師だ。機転も利くし退き際も弁えている。その辺りの判断を間違える人ではない。隊士だって他に何人もいたはずだ。最近の班構成は新人二人と熟練一人が基本だから少なくとも四人で応戦できたはず。何人か逃げ延びて気をうかがって潜伏していてもおかしくはない。
戦闘音の聞こえない山は異様な静けさを保っていた。鬼が戯れに隊士にとどめを刺さずにいるのでない限り、この状況で生存者はいないと考えた方がいい。冷静にそう判断する理性をねじ伏せるように、頭は小夜の無事を信じるための言い訳をまくし立てる。
枯木ばかりの、寒々しい景色のはずだった。葉の落ち尽くした木々の下を走っていたのに、ある地点を超えた瞬間、唐突に辺りの色が変わった。この気温、あからさまなほどの冬の気配とは似つかわしくない、青々と葉の繁った木々が明を取り囲む。鬼の気配はもう、取り違えるはずがないほどに濃厚だった。
視界を遮るほどの緑の中に、隊士の腕が落ちているのが見えた。耳奥の血流の音が煩い。進む速度を上げる。
一刻の猶予もない。いや、"猶予もない状況"であってくれ。
気づけば、明の周りには遺体が散乱していた。細切れになった手足が、肉片が、隊服の切れ端が、赤黒く染まって地に落ちている。むせ返るような血の臭気があたりに満ちていた。少なくとも二人分の遺体を通り過ぎた。
折れた刀の破片が、木漏れ日を弾いて鈍く光っていた。血による変色を免れた柄巻の一部を見て、明は目を見開く。──小夜の刀だ。
そしてその近くには、彼女が任務中にいつも持ち歩いていた形見の山刀も落ちていた。
──生存は絶望的だ。
ずしり、と胸に重い何かが落ち込んだ。
鬼の気配の発生源を探しながら、広域に散らばった遺体を確認していく。季節感が異常なこの一帯は、間違いなく血鬼術によるものだ。そのせいで鬼の気配がこの地域全体に薄く偏在しており、正確な場所を掴みにくい。
脛から千切られた足があった。臓物の一部が血の海の中に浮いていた。雑に剥かれたのであろう破れた隊服が無造作に打ち捨てられていた。血塗れの隊服のボタンが弾け飛んで転がっていた。
右半分が砕けた頭部を目にした時、息が止まるかと思った。血に濡れた髪は、明のよく知る癖のある茶色。首をもがれたのか、少し離れたところに血塗れの胴体と、同じく見覚えのある破れた背嚢が転がっていた。
恐る恐る首に近づき、損傷の少ない左側に触れる。虚空を見つめて動かない瞳は、濃く鮮やかな菜の花色をしていた。
無音の絶叫が明の体内で爆発した。
──許さない。
──この鬼だけは、絶対に私が。
──相打ちになってでも殺す。
わだかまりが何だ。仁道がどうした。相手に勝手に理想的な道徳を期待して、勝手に失望して信頼を焼き捨てた。馬鹿なのはどちらだ。
──私は小夜に酷い仕打ちをした。
奥歯を強く噛み締める。燃え盛る呼気が歯の隙間から漏れる。後悔と懺悔と、八つ当たりのような怒りと憎悪が膨れ上がって覆い尽くす。
──それでも、小夜は私にとって何より大切な友人だった。
親友だった。
震える指先で小夜の右目を閉じさせた。小夜の顔を汚す血を、己の隊服の袖で拭う。頬はまだ暖かかった。
ゆっくりと力なく下ろされた明の指先に、地面に散らばっていた
ゆらりと立ち上がり、荒い呼吸で柄を握る。全身を駆け巡る血流は洪水のように逆巻いて、燃えるような熱を手足の末端まで行き渡らせていた。
「……いるんだろう、鬼」
自分の喉から、酷く低く冷たい声が溢れた。
「出てこい。早く。私は一人だ。仲間はいない」
一番鬼の気配が濃い方向にあたりをつけて、そちらに刀を向ける。
「このまま私から逃げるか、増援が来る前に私を殺すか、どちらかを選べ」
風もないのに木がざわめく。地面の下に動きを感じる。膨れ上がった敵意が返答だった。
枝葉が見る間に繁り、影を濃くする。重なった葉が陽光を遮り、明の周囲は日没後のように暗くなった。
──これが昼間に隊士がやられた原因。
この鬼はある意味で太陽を克服したのだ。血鬼術の使用により、昼間での活動を限定的ながら可能にした。これは、小夜が殺されるわけだ。
地面から槍のように突き出た根を跳ね飛んで避け、刀を構え直した。
────風の呼吸 肆ノ型隻式 昇上砂塵嵐
上方へ向かう乱撃。剣風が枝葉を切り刻んで吹き飛ばす。天蓋に穴が空き、束の間陽光が降り注ぐが、その光源はすぐに伸びた枝によって閉ざされた。
──やはり、本体を叩かなければ意味がない。
木々を操る血鬼術をいなしながら、鬼の弱点を探る。皮肉なことだが、守るべきものがいないのが好都合だった。自分の身の事だけ考えていればいい。憎悪のためだけに刀を振るう事を、状況が許していた。
大蛇のように枝がうねる。明を押しつぶして殺そうとする幹を避け、矢のように鋭く伸びて貫こうとした枝を斬り捨てる。
────炎の呼吸 伍ノ型隻式 炎虎
皮肉な事に、戦闘に入ってからの方が明の呼吸は安定していた。肉体と思考の全てが、ただ目の前の鬼を斬る事のみに集中している。胃の腑を焼く憎悪だけが熱かった。
根も枝も、木であることが信じられないほどに硬い。岩か鋼を斬りつけているかのような感触だった。刀と枝がぶつかり合うたびに火花が散る。刀の消耗を抑えるため、攻撃は極力避け、あるいは正面から受けるのではなく後ろに受け流すように立ち回りを変える。
──持久戦か。
できれば、夜になる前に殺したい。今、天蓋を作るために回されている力を攻撃に回されたとき、その全てを捌き続けられるかわからない。
丹田でぐらぐらと血が煮立ち、沸騰する。吐いた息は炎のように熱い。
────水の呼吸 参ノ型隻式 流流舞い
襲いかかる根の群れを、硬さを確認するためにあえて斬る。このような広域に渡る血鬼術の場合、本体に近づくほどに性能が上がるものだ。この鬼ならば、本体近くの根は硬いはず。
しかし、曲がりなりにも昼を克服した鬼にその常識が通用するのか。鬼の気配、血鬼術の強度さえも、欺瞞のためのはったりである可能性。この鬼に血鬼術の強度を調整するだけの狡猾さと精度があるならば、明も小夜と同じく地に伏す事がありうる。それだけは許せない。この鬼を殺すまでは死ねない。怨憎が刀の鋭さを増させていた。
──それなら別の方法を探せばいい。まずは最も可能性の高いものから潰す。
水流を纏った刀が回転する。
────水の呼吸 肆ノ型隻式 打ち潮
鬼の攻撃は依然として明の体に掠りもしない。稽古場で複数の隊士を同時に相手取っていたおかげで、多方向からの攻撃への対処技術は磨き抜かれている。山全体を動かすかのような大規模な血鬼術を以てして、鬼は明に有効な攻撃をできずにいた。苛立ちや焦燥があるのか、時間が経つにつれて明を攻め立てる木々の動きは益々苛烈になる。
────風の呼吸 参ノ型隻式 晴嵐風樹
しかし、攻めあぐねているのは明も同じだった。硬さの違いが、血鬼術の強度の変化なのか、単に枝の太さによるものか。太さも形状も異なる枝の嵐の中でそれを判断するのは困難を極めた。加えて、この空間全体を埋め尽くす血鬼術のせいで、鬼本体の気配を探りにくい。縦横無尽に駆け回りながら、鬼の居場所の手がかりを血眼になって探す。
耳の奥で血潮が轟轟と唸っていた。呼気が、全身が、炎そのもののように熱い。胴より太い枝を斬る度に、腹を焼く怒りが燃え盛る。際限なく溢れ出る怨嗟と憤怒が燃えるような血流に乗って全身を満たしていた。
常人が踏み入れば即座にすり潰されるような戦場が出来上がっていたが、状況は膠着していた。矢継ぎ早に向かってくる枝と、前触れなく地中から襲い掛かる根の大軍。動きを予測されないように、出来る限り多様な呼吸法と型を使って攻撃を凌ぎ続ける。上昇した体温で汗が滲み、隊服の下のシャツが肌に張り付いていた。
────霞の呼吸 伍ノ型隻式 霞雲の海
────風の呼吸 捌ノ型隻式 初烈風斬り
────花の呼吸 陸ノ型隻式 渦桃
腎臓を狙った低い攻撃を、身を
──不味い。
時間がかかりすぎている。
焦燥は明の側にもあった。基本的に、鬼殺において時間は鬼の味方だ。疲労も負傷も、人間にしか蓄積しない。消耗が激しいのは隊士の側だ。一方的に削られることこそ、最も避けるべき状況。胃を焦がし肺の中の息を焼く憎悪と赫怒とは裏腹に、剣士としての頭が冷静に現状を分析する。
────炎の呼吸 参ノ型隻式 気炎万象
上段からの斬り下ろし。頭上で
燃え盛る火炎の幻影を伴った刀を振り下ろす。赤い残光と、枝を斬った瞬間に散った火花だけが現実のもの。
──
他の根よりも、明らかに硬い手応え。
見つけた。
右の口端を釣り上げる。剥き出した歯の隙間から、一際強く呼吸の音が漏れた。
────水の呼吸 拾ノ型隻式 生生流転
捻れた水流が龍の形を成す。明の扱う技の中でも最高峰の斬撃力を持つ型を以って、その根を切り刻みながら全力で根元へと突進した。
この場に鬼がいるならば地下だ。血鬼術で陽光を遮れるとしても、日を厭う鬼なら地上を根城とする事を避けるだろう。
刻むごとに根は強度を増した。明の周囲、ほぼ全方向から枝と根による殴打が畳みかけられる。しかし、数は多いが精度が低い。鬼の焦りが見える血鬼術が、明の確信を裏づけた。
回転する紫紺の刀と、金剛のように硬い根がぶつかり合う。明の目元にまで長く火花が散る。
──硬い。
進むごとに斬るのが難しくなっていく。根や枝の強度の上昇は、生生流転の回転による斬撃力の向上を僅かに上回っていた。それを理解して歯噛みする。
以前より筋肉がついた体。小夜の背を越えて尚、伸び続ける背と手足に増えた目方。入隊当初よりも遥かに強くなっているはずだ。それでも、隻腕ではやはり力不足。
──ならば技術をつければいい。そうでなければ他の策を使えばいい。
今の私には、その〝策〟がある。
進んだ先に見えたのは、何の変哲もない木の根元。他の周りの木と比べても、太さも大きさもさして変わりはしない。しかし、近づけば鬼の気配を感じ取れた。これほど接近しなければわからぬほどに完璧だった鬼の隠伏技術は賞賛に値する。
硬い音を立てて最後の一刀が太い根に食い込む。薄暗い樹冠の下で、火花が眩しいほどに激しく散った。根は深く抉れたが、切断には至らない。
引き抜いた刀を口に咥える。次の瞬間、横から殴りつけた巨大な枝を身を捩じって避けた。自由にした右手で胸元の
それを、刀で抉った裂け目に投げ入れる。間髪入れずに口に
硬い音と共に、爆ぜる火花。
大きく散った火花が、火薬玉に引火する。根の内部で炸裂した火薬玉が、爆音と共に木端を吹き散らした
球状に大きく抉れ、吹き飛ばされた木の根元に、
──殺せる。
確信と斬撃が同時だった。
────炎の呼吸 壱ノ型隻式 不知火
低い軌道で振りぬかれた紫紺の刀が、鬼の首を斬り飛ばした。生暖かい返り血が明の頬に散った。
その瞬間、熱く、ひどく騒がしい何かが、臓腑の中を駆け巡った。荒れ狂う炎そのものが奔流となって体内を流れ、渦巻く。
勢いのままに、再度、刀を振るう。紫紺の残光が鬼の顔を縦に割った。
もう一度。木に融けた鬼の肉体の断片を、風の呼吸の壱ノ型で抉るように斬り刻む。
──もう一度。
──もう一度。
荒々しい紫紺の斬撃が、目の前のものを斬り尽くそうと、幾度も、幾度も、重ねられていく。
血鬼術による木の動きは、とうに止まっていた。無理に変形させられていた枝や根の一部が崩れ、音を立てて地面に落ちる。
続いて、青々としていた葉も枝から離れ、はらはらと一斉に舞い落ちていく。同時に、葉の雨の隙間から、細い日の光が差し込んできた。風に
全身を日の下に照らされて、ようやく、明の刀が止まった。
剣先が下がる。
荒い息が肩を上下させる。体中に苦しいほどの熱が残っていた。呼気が喉を焼くように熱い。
もはや灰に成り果てたそれが砂塵に混ざっていくのを、明は刀の柄を握りしめてただ見ていた。裸木の間を吹き抜けた突風が、全てをかき混ぜてさらっていく。
呼吸も心拍の数も、なかなか収まろうとしない。
砂塵が舞う。
ずたずたに斬り裂かれた木だけが目の前に残っている。
息の音と血流の音だけが聞こえる。
冷たい風が、唯一露出している頬と手の甲を叩く。
「────」
手のひらに痛みがあった。鬼を斬った硬い感触が、まだ腕と手に残っていた。柄を強く握りしめていた右の手はまだ強張ったままで、刀を離そうとしない。
「────小夜」
うわ言のような声が漏れた。
明は緩慢に、冬木の間を振り返った。ずるり、と足を踏み出す。剣先を青い落ち葉の上に引きずって、来た道へと引き返した。
その先に小夜がいるはずだった。
もう一歩、踏み出す。
「────小夜、」
なおも明の口は名前を呼ぶ。答える者がいないことを知っていながら。
足を運ぶたびに、
「小夜────」
目が熱い。視界が滲む。瞬きすると生暖かい液体が頬を伝い落ちたので、ようやくそれが涙だったのだと気付いた。返り血と同じ温度だった。
それを
強張る手で刀を握り直し、血を払う。刀身を鞘に納めて、明は隊服の袖で乱暴に目元を拭った。
何故、今、自分は泣いているのだろう。彼女を弔う資格など、自分にあるはずもないのに。今更彼女を喪って悲しむなんて、なんと都合のいい愚かしさか。
それでも、苦しかった。
遠藤師匠の訃報を聞いた時と同じ、胸の内に穴が空いたような、痛いほどの空虚さが。ありもしない胸の空洞から、暖かな血液が流れ出て行くような
後悔に意味はない。喪った人は帰ってこない。そんなことはわかっていた。──わかっていた、のに。
彼女にしてきた態度への悔恨。受けた恩、楽しかった日々、語り合った未来のこと。過去の記憶ばかりが取り留めなく頭に浮かんでは流れていく。
戦闘の残り香のような熱に浮かされたような思考を、寒風が徐々に正気に引き戻していく。
ゆっくりと、右手を握って開く。指先は微かに震えていた。
長時間の戦闘を終えた体は疲労を訴えている。けれども、その手足の倦怠感よりも、胸の痛みの方が切実だった。
手と腕に残る、じんじんと痺れるような痛みは、どこか遠くて現実感が薄く────
────ひゅう、と喉が裏返った息の音を漏らした。
足が止まる。その場に立ち
記憶が直近の記憶へと巻き戻る。
──跳ね飛ばした鬼の首。
──それを更に斬り刻んだ己の刀。
──幾重にも重なる紫紺の剣筋。
──憎悪のままに叩きつけた、ただの暴力でしかなかった型の数々。
心臓が、嫌な感覚で跳ねた。
私は────
激流のように思考が荒れて乱れる。揺れた瞳が一点を凝視する。
──私は、
はくはくと、口が音にならない言葉を紡ごうとする。
──殺しを、喜んでいた。
脳内で形になった言葉が、明を断罪した。
──私は、鬼を斬ったことに高揚を覚えていた。
──否、それだけではない。
──憎悪に任せて刀を振るい、あろうことか遺体までも斬り刻んだ。
臓腑を駆け巡った熱い何かには、『歓喜』すらも含まれていた。小夜の仇を討ったことに対する、喜び。それはあの鬼への憎悪と表裏一体のものだった。
罪悪感と恐怖が湧き上がる。ざらざらとしたやすりが、胸の内の肉を削り、抉るような痛み。
──あの瞬間、私は、殺すために殺した。
人のためでなく、食べるためですらなく、ただ怒りと憎悪のままに刀を振るっていた。
──何が「私は鬼じゃない」?
──何が「人の為に尽くせ」?
あのとき、私はもはや鬼以下の化物だった。
鬼殺隊の剣士としての立場を言い訳に、復讐のためだけに鬼を殺した。憎悪のままに刀を振るうことに快感を覚えていた。
煉獄家の教えを受けた者として、人を守るための神聖な剣技を受け継いだ者として、決してあってはならない背信行為だ。日輪刀を握る者は野蛮であってはならない。それは人を守るためだけに刀を抜く人格者のみに与えられるべきものであるから。どの呼吸の型も、全て、人を守るために伝承され研ぎ澄まされた、先人たちの祈りの結晶だ。それを踏みにじるような行為を、自分は。
息が苦しい。
──母上は、『人と獣を分かつのは、誇り』だと言っていた。
誇り高い人間として行動し続ける限り、人であれるのだと。
──今の私のどこを、『誇り高い人間』と呼べるろうか。
隊服の胸元を強くつかんだ。騒がしいほどだった全身は、完全に静まり返っていた。末端から急速に血の気が失せていく。
──私は鬼ではない。
──鬼になりたくない。
──人でありたい。
人の為にあると、そう、誓ったはずなのに────
「────小夜」
すがるような声が、ひどく虚しい。
「師匠…………母上────」
ぎり、と歯を食いしばった。
鬼殺を罪深いものだと認めた。大義はあれど正義であるはずがなく、罪穢として背負うべきものだ。
そしてこれは、職務としての罪だ。必要に駆られて為されるものであり、私情と切り離されたものであるべきだ。
その対象が如何なるものであったとしても、殺生は厭われなければならない。強奪が例外なく悪であるならば、命を奪う行為はその最たるものなのだから。
その意識こそが殺しを生業とする自分を、少しなりとも真っ当な存在に引きとどめてくれるのだと──そう、思っていたのに。
まして、その行為を喜び、衝動のままに遺体の尊厳すら踏みにじるなど。
それはもはや鬼や畜生よりも劣る外道だ。この残虐な心の何処を人と呼べばよいのだろう。
小夜の行為を拒絶しておきながら、自分の方がよほど残忍な鬼だったじゃないか。
──心を殺せ。
憎悪は私を鬼に堕とす。
感情が私を鬼にするならば、私はそれを滅するべきだ。
もう二度と、己のために刃を振るわない。
私の刀は、責務のためだけのものだ。
──武器に、徹しろ。