4章完結には至りませんでしたが、年始まで連続投稿することに致しました。
年の瀬に楽しんでいただければ幸いです。
【登場人物】
東出明:主人公
篠原小夜:明の同僚。一番の友人。
伊藤清繁:風柱
第29話 半身
──幽鬼のようだ、と思った。
伊藤の足音に反応して上げられた顔の異様さに、一瞬、気圧された。
乱れた白髪にはまだらに血の赤が散っていた。表情の抜け落ちた虚ろな白い顔の中で、赤い瞳だけが獣の目のように
如何なる鬼と対峙した時とも異なる緊張感が、伊藤の体を硬直させた。獰猛な鬼と言うよりは、薄気味悪い
その衝撃のせいで、
東出の腕の中に収まる赤褐色の何か。血に塗れた赤と茶の塊が────伊藤のよく知る娘の頭部だということに。
「……小夜は殉職しました」
伊藤の視線に気がついたのか、東出が口を開いた。抑揚の無い声だった。
「
じりじりと線香が燃える。
香炉に立てられた一本の線香。
上端から静かに赤く光りながら焼けて、白い灰が残される。時折、音一つ立てずに灰が崩れて香炉に落ちるのを、明は黙って見つめていた。
蝋燭が灯るだけの薄暗い部屋の中には、香の匂いと隠しきれぬ血臭が充満している。線香の先の柔い光は、暗がりの中で赤い蛍のようによく目立っていた。
馴染みのある匂いが明の鼻をくすぐる。本能的な嫌悪感を掻き立てる、じっとりとした甘ったるい花の匂い。
鬼殺隊の線香には藤の匂いが混じっている。死者への手向けには鬼を退ける藤の香を使うのが、この隊の習慣だった。鬼殺のために生きる彼らにとって、それが殉職した彼らへの最上の敬意の示し方なのだろう。この匂いを嗅ぐたびに覚えてきた疎外感も、もう、あるかなしかに薄れてしまった。
今はむしろ、藤の匂いは小夜を思い起こさせるものになっていた。鬼狩りの時に鬼の住処を藤で燻すこともしていたし、いつからか彼女は、藤毒の精製もしていた。髪や隊服からふわりと香る藤の残り香が、明の覚えている小夜の匂いだった。
──小夜。
深く息を吐いて目を瞑る。
目の前に棺があるのに、未だに現実感がない。痛みよりも衝撃の方が大きかった。
隣から、溜息のような寝息が聞こえた。
先ほどまで船を漕いでいた真菰の頭は、今や完全に
──任務続きで疲れていたのだろう。寝落ちてしまうのも無理もない。
香炉の線香が根元まで燃えたのを見計らって、明は新しい線香の先を蝋燭の火にかざした。
本来であれは、今晩も明は夜間警邏の予定だった。今こうして夜通し灯明ができているのは、伊藤の配慮のおかげだ。
夜通し灯明──故人の枕元で一晩中、蝋燭と線香を絶やさずに寝ずの番をすること。
休みなく夜を駆ける鬼殺の隊士にとって、故人を偲ぶためだけに丸一晩を使うことは、ある意味で贅沢なことなのだろう。
同じ鬼に殺された他の隊士たちも、彼らと特別に親しかった隊士や隠によって線香を供えられていた。
けれども、真夜中を過ぎた今、起きているのは明だけだ。
いつからか、明の睡眠時間は減っていた。一日、二日連続で起きていても問題はなく、布団に入って目を瞑れば、数刻で疲労が完全に回復する。
人間としてはおかしいのだろう。おそらく、これは鬼としての形質だ。人間の枠から半歩踏み外したような肉体を忌々しく思うこともあるが、これに限って言えば、利点しかなかった。増えた任務を全てこなせているのも、今こうして小夜を夜更けまで弔えているのも、この体質のおかげだった。
真菰もおそらく、無理を言って寝ずの番に参加したのだろう。今日はここで過ごすと言った彼女の顔には、鬼気迫るものがあった。縋るように明の隊服を掴んだ手が震えていたのを見て、明は突っぱねるのを諦めた。
寝落ちた隊士達が供えていた線香は、とうに燃え尽きている。一呼吸分の
煙が
細く白く立ち上る煙が、明の息に揺られて乱れ、掻き消える。極力音を立てぬように気をつけながら、明は遺体の枕元に並ぶ香炉に線香を一本ずつ立てた。
鬼殺隊の人間の
縁者を持たぬ隊士たちは、同僚によって弔われる。互いに身寄りがない人々が、過酷な環境を共にし、志を共有し、時に背中を預け合っているのだ。彼らの結束が血縁や配偶者に劣らぬほど強固なのは当然の事なのだろう。
けれども、彼らは明にだけはよそよそしかった。稽古の合間に雑談を交わすこともあったが、隊士にとって明はいつまでも異物のままだった。良くて兵器、悪ければ討伐対象の鬼。彼らは明が同じ人間だと認め難いようだった。
──小夜と真菰だけだ。
結局、私生活まで共に過ごしてくれたのは、この二人の他にいない。
──それなのに、私は。
明は隊服の胸元を強く掴んだ。香の匂いのきつい空気が息苦しかった。
ふと、遠くから足音が聞こえた。その音はこちらへと近づいているようだった。聞いているうちに、土を踏む草鞋の音が、床板の軋む音に変わった。
襖が開く。
その人間の入室と共に、
伊藤だった。
彼の顔を見上げた明は、何か言おうと口を開きかけ、また閉じた。言葉が何も浮かばなかった。
伊藤も黙って明の顔を見下ろしていた。いつもは
伊藤は数本の線香を手に取り、火にかざして一本ずつ香炉に供えた。送り出す作法への慣れと死者への敬意の両方が垣間見える、落ち着いた所作だった。
彼はひとしきり遺体に向かって
唐突に、目の前に水筒が差し出された。剣だこの目立つがっしりとした手が、明の顔の前で水筒を握っていた。
「何も口にしていないだろう」
「……ありがとうございます」
受け取った竹の水筒は指先に
人肌より低い温度の茶に口をつける。今まで何も感じていなかったのに、飲んだ瞬間に、自分の喉が渇いていたことを理解した。けれども、食欲は未だに湧いてこなかった。手の中の握り飯を無言で見下ろす。
隣に座る体が、
ぽん、と頭の上に置かれた手のひらの感触に、明は硬直した。
無骨で、皮の分厚い手のひらが明の頭を撫でる。剣士の手だ。ぎこちない仕草だった。少しばかり力が強くて、撫でられるたびに明の頭が揺れる。
それでも、嫌だとは思えなかった。
懐かしい養父の手に、よく似ていた。
その手に労りの情を感じて、明は唇を強く引き結んだ。手元の握り飯を見つめたまま、ぎりぎりと歯を食いしばる。そうしなければ何かが決壊してしまいそうな気がした。
伊藤は何も言わなかった。頭を撫でた後も、部屋を出る時も無言のままだった。言葉を交わすことを求めない彼の態度が、今の明にはありがたかった。
伊藤が去った後も、明は長く握り飯を見続けていた。手の中の握り飯の柔い感触は、冷えた粘土を連想させた。冷たく、水気と重みのある物体。丸一日近く何も食べていないので、腹が減っているはずなのに、何故か、食べようという気が起きなかった。
視界の利きにくい薄暗い中にいると、他の感覚が過敏になる。人に比べて夜目が利く明といえど、蝋燭しか光源がないここでは、昼間と同じように見えるわけではない。
聴覚、嗅覚、味覚、触覚。とりわけ今は、嗅覚への刺激が鮮明だった。
香ばしい茶の匂い、冷えた米の匂い、藤の香の悪臭。それらに混じる、──他を塗りつぶすような、血の匂い。
血の匂いが明の鼻をくすぐる。流れて時間が経ち、少しばかり古くなった血の匂い。それはどこか酒精や刺激臭にも似て、他の匂いから浮かび上がるような存在感があった。血の匂い、鉄錆の匂い、肉の匂い──
唾が、湧いた。
「────?」
新鮮な肉の匂い。──食べ物の匂い。
空腹を自覚する。
じわじわと口の中が湿っていく。馬刺しに似た匂いが鼻奥を刺激している。近所で肉料理を作っている家でもあるのだろうか。しかし、ここは鬼殺隊の有する敷地内だ。民家までは距離があるはず────
──美味しそうな匂い。
かっ、と赤い目を見開く。縦長の瞳孔が真円に開き切る。
瞬間、明は後ろに飛び
「……は、……」
困惑、次いで驚愕。
明は自分の口元に手を当てた。竹皮に包まれたままの握り飯が明の座っていた
今の自分の足音で目を覚ました者はいないか、と咄嗟に隊士たちに視線を滑らせる。項垂れて船を漕いでいる彼らの頭の動きに、変化がありはしないかと。
幸いなことに、身に染み付いた足首の使い方のおかげで、さしたる音は立っていなかったようだった。真菰たちの寝息に変化はない。
意識的に深く息を吸う。
部屋の隅に置いていた刀を手に取った。手に馴染むずっしりとした鉄の刃物が、今は妙に重く感じられた。
足音を潜めて、部屋を出る。冴え冴えとした月明かりで、外は部屋の中よりも明るい。とん、と軽い音と共に屋根の上に飛び乗る。夜は高い場所のほうが人目に付きにくい。邪魔が入ることはないだろう。──翌朝に多少の迷惑がかかるかもしれないが。
真っ直ぐに天を見上げる。ここなら多少は空が近い。空の半分を覆う灰色の雲の向こうに、星が瞬いている。冷えた風が明の頬を叩いた。白い髪が突風に靡く。
口から漏れた熱い息が白く煙り、冷たく乾いた空気の中に溶けていく。
目を伏せ、するりと刀を抜いた。鉄の擦れる音が耳を撫で、紫紺の刀身が硬く月光を弾く。
冷えた鉄を首筋に当てる。多くの鬼の血を吸った刃は、軽く当てただけで容易く皮膚の表面を裂いた。
──潮時だ。
裂けた皮膚から血が伝う。
──人を食べ物と認識してしまうなら、それはもう鬼と言っていい。
──鬼は死ななければならない。
──私は、鬼だ。
瞼の裏に小夜の顔が浮かんだ。記憶の中の彼女の笑顔は、光に滲んだように朧げだった。──長らく、彼女の笑顔を見ていなかった。
──この刀を私情で鈍らせてはならない。
強く、柄を握りしめる。手の中で柄が軋む。
──私は武器だ。
──鬼を殺す武器として在ると誓った。
──それが私自身であったとしても。
──人を殺す鬼は、全て殺さなければならない。
──そうでなければ、私が為してきた殺戮を正当化できない。
轟々と耳元で風が唸りをあげる。視界の端に、深夜にも関わらず、明かりのついたままの建物が見えた。障子に写る人影が
──本当に?
冷えた声が脳裏に響く。
──私自身が人を襲うと、真に確信しているのか?
眼下の明かりを赤い瞳が見下ろす。人間の影。鬼が食べるもの。若い人間の新鮮な肉。明の同僚。
あの影は隠たちのものだ。昼夜問わず働いている、勤勉で実直な鬼殺の裏方たち。
硬く目を瞑り、眉根に皺を寄せた。
──私は先程の遺体を、肉として認識したか。
──是。
──私は先程の遺体を、
──否。
──理性の飛ぶような兆候はあったか。
──否。
──私はあの人影を食料と思えるか。
──否。
首筋に触れていた刃が宙に浮く。冬の風が髪を乱す。人の体には寒すぎる風が、今は頭を冷やすのに丁度良かった。
──衝撃を受けて思考停止し、短慮に走っているのではないか。
──体質の変化を言い訳に、小夜の後を追おうとしているだけではないのか。
動きを止めたまま、明は宙を見つめていた。
唸る風の音は意味を有さない。かつて小夜と歩いた山の音が混じっているような気がするのは、きっと錯覚だ。
夜も明るい隠たちの部屋を見下ろす。思えば小夜も、昼も夜もなく働きどおしだった。睡眠の時間帯は日によって違っていた。情報収集も鬼殺の任務も、昼伐隊の代表も鬼体実験も、全て一人で背負っていた。とても、一人の人間ができる仕事量ではなかったように思う。
──ここで投げ出していいのか?
──責務を放り出すつもりか?
引き結んだ唇が震える。
──小夜は、責務のために全てをかけたのに。
今思い返してみれば、小夜があの所業に何も感じなかったとは思えない。小夜は優しい人だった。人の痛みを感じられる人だった。
あの実験は鬼にとって残酷なものだったが、小夜にとっても自傷行為に近かっただろう。……今更気付いたところで、もう、意味などないのだけれど。
小夜が手段を問わなくなったのは、より多くの人間を救うためだった。
──それなのに、私は責務を放り出して楽になっていいのか?
──それは許されるのか?
私には責務がある。組織に穴を開けるわけにはいかない。野沢の代わりとして、伊藤の継子を──次期の柱を、勤めなければならない。
後進を育て、後釜の柱を用意するまで、自分が柱の役職を埋める必要がある。ただでさえ、柱には欠員がいるのだ。あれだけ現役の柱に目をかけてもらっておきながら身勝手に責務を投げ出すのは、伊藤への裏切りだ。
私の命は私のものではない。この肩には地区の市民や隊士の命がかかっており、この首には斬り続けてきた無数の鬼の命の重みがかかっている。私自身の勝手な判断で終わらせてよいものではないのだ。
──今ここで自決したとして、私は小夜にこの最後を誇れるか。
──胸を張って、小夜に会えるだろうか。
いつになく脚が重かった。彼方の岸の小夜の元へ行くのは、ある意味で救いでもあったのだと、今更ながらに気付く。だからこそ、衝動的にそれをしようとしてしまったのだ、とも。
もう一度、目を固く瞑り、開く。
──まずは確かめなければならない。
重い鉄の刀を鞘に収める。屋根の上から飛び降りて柔らかく地面に着地し、遺体の安置所に戻る。
茣蓙の上に落ちている握り飯を拾い上げた。
匂いを嗅ぐ。嫌悪感はない。唾を飲み込む。
小さく、上の端を口に含む。水気を帯びた米の感触。わずかな塩気。中の梅の香りがわずかに嗅ぎとれた。
咀嚼。
──吐き気はない。
噛み潰された米が喉を通る感触。いつもと変わらない味、匂い、食感。
──もし、これで消化できたならば、私はまだ完全な鬼ではない。
人と同じ食事ができるならば、私はまだ人間の敵対者ではない。人の側で働くことができる以上、死ぬわけにはいかない。
──明日には答えがわかることだろう。