「──それで、朝に言っていた頼み事とは何だろうか」
清掃と点検を終えて稽古場を出ると、松田は見計らったように切り出した。
「と、聞きたいところだが、……まずは、柱就任おめでとう」
「知っていたのですか」
「鴉達は情報に敏感だからな」
松田は屋根の上から二人を見下ろしている鴉に視線をやった。彼の相棒の鎹鴉だ。
柱合会議で他の柱に承認された後に現地区の隊士へ周知する予定だったが、耳の早い鴉は先んじて知らせてしまったらしい。柱と言っても、今はまだ引き継ぎの最中だ。
「伊藤様の後釜として力不足だとは分かっています。未熟なところも多々あると思うので、お力添えをお願いしたいです」
おそらくは一年もしないうちに松田も柱になり、他の地区を任されるようになるのだろうが、それまでは彼を頼ることも多いだろう。希少な歴戦の甲の隊士だ。本来ならば炎柱の継子になっていてもおかしくない。実力面も人格面でも信頼のおける松田がこの地区にいる事を、明は心強く思っていた。
「そんなにかしこまらなくていい。……そもそも、上官は君の方だ」
「歳と勤続期間では貴方の方が上です。鬼狩としての実力も私とさほど変わりませんでしょう。貴方が次期炎柱と目されているのは私でも知っています」
「買いかぶりだ」
「私の目を疑うのですか」
松田は軽く笑った。
「君が言うなら確かなのかもしれないな」
君以上に剣術を見る眼のある人間はそうそういないだろう、と松田はしみじみと言った。
「この若さで柱になるとはな。これでもう、君を表立って否定する事は難しくなった。多少は煩わしさも減るだろう」
「……それは、どうでしょう」
その松田の言葉に関しては、賛同しかねた。
復讐者の多いこの隊で、私怨よりも隊の秩序を優先できる者がどれほどいることか。
産屋敷による印象操作によって多少はなりを潜めているものの、些細なきっかけさえあれば鬼子への疑念や不信感は簡単に吹き出すだろう。今の安泰は、その程度のものでしかない。多くの隊士は明と直接言葉を交わしたことすらないのだ。彼らにとっての明の印象は、他の隊士や鴉の語る噂話によって作り上げられる、脆く曖昧なものであることを承知している。
「まあ、新人に舐められないようにするためにも、腰は低くしすぎない方がいい。統率するには適度な威厳が必要だ。君は伊藤様と違って見た目が若い分、態度で示すようにすると良いだろうな。実力主義の剣士の組織だから、行儀の良い者ばかりではないのだし」
「そうですね。ありがとうございます」
一介の隊士と、地区の頂点に立つものとでは、求められるものも変わる。必要とされる統率力も、負うべき責任も段違いだ。そういった点に思い至る松田は、自分よりもよほど長という立場に向いているのだろう。今日も松田は、最後まで残って稽古場の清掃と点検の手伝いをしてくれていた。細やかな気遣いのできる人だ。──そういう人だからこそ、松田に頼もうと思えた。
「それで、本題、ですけど……」
明は松田から目を逸らしかけ、意識的に彼の顔に視線を戻した。今更、及び腰になってどうする。
「煉獄家長男、煉獄杏寿郎の指導を、松田さんにお願いしたく思っています」
松田は困惑したような顔で口を開きかけ、また閉じた。やはり、予想外の頼みだったらしい。
「私が定期的に煉獄邸に訪れていたのを知っていますか」
他に隊士の気配はない。稽古を終えてから時間が経っている。屋敷にいるのは伊藤と数名の隠だけだ。近くにいる鴉も、松田の担当の鴉と晴彦だけ。明たちの声が届く範囲には他に誰もいない。
「いや、初耳だ」
「……現炎柱は、息子への指導を放棄しました」
覚悟はしていたのに、口に出すのが重かった。
「明確な理由はわかりません。奥方が亡くなったのが関係しているのかもしれませんし、任務で何かあったのかもしれません。家を出、煉獄姓を捨てた時にあの家との縁を切った身ですが、見過ごすことができませんでした。それで、ここ一年以上、定期的に煉獄家を訪れて杏寿郎に指導をしていました」
松田は僅かに口を開けたまま固まっていた。夕暮れの冷えた風が松田の髪を揺らした。
「杏寿郎には炎の呼吸への高い適性があります。あれは隊士になるべき器ですし、本人もそう望んでいます。しかし、これから柱の業務が増える以上、私が頻繁に地区外へ出て指導を続けるのは難しくなると思われます。松田さんは私の知る限り、炎柱の次に炎の呼吸に精通した剣士です。頼むなら、貴方をおいて他にいません。──どうか」
真っすぐに松田を見つめてから、深く頭を下げた。
この頼み方は卑怯だろう。松田の実力を評した言葉は本心だが、それを口にしたことに打算が混じっていたのは否定できない。その上、松田には明の左腕を斬ったという過去がある。松田が今も明に罪悪感を抱いていることを、明は知っていた。
しかし、他に頼むあてがなかった。そもそも、炎の呼吸の剣士は水と比較して少ないのだ。その上で、松田は後輩への剣の教え方を心得ているようだった。明も、松田の言い回しや伝え方などを参考にしている。また、対人でのそつのなさも信用できた。彼ならば養父を無闇に刺激する事なく杏寿郎に指導ができるのではないかと期待していた。
「…君にそれほど信頼されている事、光栄に思う。わかった。引き受けよう」
重々しく頷いた松田の顔を見上げながら、明は胸に沸き上がった安堵と僅かばかりの罪悪感を持て余していた。
「……君も、無理はするなよ」
「無理をしているように見えますか」
「
「通夜をさせていただけただけでも十分です」
心底痛ましげに言う松田の声に、やはり、この人は私よりも長く生きた人間なんだな、とぼんやりと思う。私への負い目もあるのだろうが、彼の態度の端々に、明を「鬼混じり」でも「甲の継子」でもなく「年下の子供」として見ているらしいことを感じることがあった。
「優秀な剣士でも、心と刀を完全に切り離すのは難しい。迷いや自暴自棄な精神は剣に出るものだ。──君に言うのは釈迦に説法かもしれないが」
深い悲しみの滲む声だった。松田が自分を、かつて彼が見送った同僚と重ねているだろうことに、唐突に気付く。ひどく奇妙な心地がした。
「我武者羅になって死に急ぐ隊士を、俺は何人も見てきた……」
──花は桜木、人は武士。
桜を見上げながら、
柱合会議に出席するためにまたも本部を訪れた明を、今度は満開の桜が出迎えていた。
思えば、初めて小夜と真菰と三人で食事をした日も、丁度、今のように桜の綺麗な時期だった。今になって考えてみれば、あれは明のために開かれた食事会だったのだろう。あの時の自分は精神的に参っていた。心配をかけていて不思議はない。──私には勿体ない友人だった。
ずきりと罪悪感が胸を刺す。
明の知る小夜は、優しさと苛烈な覚悟の両方を持ち合わせた人間だ。優美な桜の印象とは似ても似つかなかったが、散り様の寂寥が今だけは重なって見えた。
潔さは武人の美徳だと養父は言った。桜は短い間だけ咲き誇り、枝の上で腐る前に散る。桜のような死に際の潔さは武士の誉れだと。
──しかし、桜は儚すぎる。
入れ替わりの激しい隊の状況を、私は否定しなければならない。桜のようにすぐに散らせてはいけないのだ。小夜は殉職率を下げるためにあらゆる事をした。私にどこまでできるかわからないが、小夜の後を追おう。拒絶をして尚、友と呼んでくれた小夜に対して、せめて顔向けのできる柱にならなければ。
風に舞う白い花弁が雪のようだった。その中を、明は白い羽織を靡かせて歩いていた。血塗れの戦場に身を置く明にとって、桜の舞うこの景色の美しさはどこか非現実的に思えた。
神経を尖らせれば、遠くに人の気配を感じとることができた。武人の気配、それも強者の気配だ。自然と、体の奥に力がこもる。自分は柱の中で相当な若輩者だろう。気張って参加しなければ呑まれてしまいそうだ。
今日、初めて顔を合わせる柱は多い。水柱は以前に一度だけ顔を見たことがあったが、鳥柱、木柱、霞柱は伊藤から話を聞いただけで、実際に会ったことはなかった。
上手くやれるだろうか、と明は右手を握った。嫌われれば円滑な業務が難しくなる。それはできれば避けたい。親しくしたいなどとは望まないが、同僚として最低限の会話ができる程度になる必要があるだろう。今日はできる限り、仕事仲間として認められるように努めたい。
集合場所には、人影が一つあった。先ほど感じた気配の主だ。大柄なそれを見て、明は内心で首を傾げた。事前に伊藤から柱の特徴を聞いていたが、合致する人がいない。水柱も霞柱も、伊藤とさほど変わらぬ背丈だと聞いていた。この男は大きすぎる。しかし、この圧倒的な武の気配は、柱のもので間違いない。
明が人影を認識してからすぐに、その人影も明を振り返った。
「──お初にお目にかか……」
鉄球が頬をかすめた。
「────っ!」
全力で飛びのいて避ける。
──罠か。
産屋敷は私を始末することにしたのか?
腰に差した刀の柄に手を伸ばしかけ、握るのを躊躇う。
──もし私が人間に攻撃意思を見せれば、処刑の口実を与えることになる。
一瞬の思考で抜刀を諦めて、続く二撃と三撃を身を捻って躱した。目の前の男は間違いなく柱に相当する実力の持ち主だが、鉄球を使う柱の話など聞いたことがなかった。
──この男は何者だ?
鉄球自体の速度は目で追うのが困難。鉄球と斧を繋げる鎖、そしてそれを手繰る男の腕の動きから剛速の凶器の軌道を予測する。半身になって戦斧を躱し、右から薙ぎ払うように飛んできた鉄球を上に跳んで避ける。
────岩ノ呼吸 伍ノ型 瓦輪刑部
距離を詰めようと走る男、畳み掛けるような攻撃。その全てを紙一重で避け続けながら慎重に距離を保つ。流流舞の足運びと、風の呼吸の軽い身のこなしを織り交ぜて、できる限り動きの予測を困難にするように努めた。
まともに鉄球が当たれば、明の体は容易く抉れるだろう。場所によっては即死だ。
──逃げるべきか、無力化すべきか。
逃走したところで逃げ切れるか。追手が増える可能性は? 隠に連れられてきたため、この場所の正確な位置を知らない。明がここに訪れたのは二度目だ。この広大な敷地と屋敷の中で、まだ訪れたことのない庭や部屋の方が多い。もし彼がここで明を待ち構えていたのならば、地の利はおそらく相手にある。狙うべきは無力化だ。殺さず、相手を制圧するか気絶させる。鎖の間合いの内側に入り込み、近接戦に持ち込むべき。
────岩ノ呼吸 壱ノ型 蛇紋岩・双極
────雷の呼吸 撃ノ型 紫電一閃
戦斧と鉄球に繋がる鎖の両方がたわんだ瞬間、明は地面を蹴った。足元で雷鳴が爆ぜる。白い残光を帯びて、明の細い体が一気に男の懐に入り込む。
勢いのまま、渾身の力で男の鳩尾に肘を叩き込んだ。前のめりになる男の巨体。そのまま明は流れるように男の顎に膝蹴りを入れようとしたが、男はすんでのところで体を捻って避けた。
太い腕の一方が鎖を手放して明の首に伸びる。その手首を掴んで関節を極めようとしたが、剛腕の勢いに負け不発。足払いを仕掛けても動ぜず。重い。その間に手元に手繰り寄せられていた戦斧を振りかぶられ、明は紙一重で間合いを離脱した。今までの男の動きへの違和感が確信に変わる。
「──なぜここに鬼がいる!」
男が吼える。怒りと焦りに混じる困惑が聞き取れた。相手も同じく違和感を抱いたらしい。追撃はなかった。
「私は、先日混柱に任じられた者だ。貴方の職位を問う」
「鬼風情が柱を騙るな」
怒気の滲む声で、男は唸るように言った。
「鬼は昼間に活動できぬことは貴方も知っているだろう。重ねて問う。『白髪隻腕の剣士』について聞いたことはあるか」
男の気配が揺れた。
「ある。だが、──」
「──貴方の目は見えていない、で合っているか」
数秒の間をおいて、男は頷いた。
蓋を開けてみれば簡単な話だった。この男は盲目だ。近接戦闘の最中で、男の顔の向きの違和感に気づけた。男は視覚ではなく、聴覚で明を認識していた。見えていないならば、明の白髪や隻腕など、本来は目立つ身体的特徴を判別できない。聴覚と気配だけを頼りに鬼を探すこの男にとって、伝聞で聞いただけの明を鬼と区別する事は不可能だ。
武器を下ろし、殺気を収めた男に対し、明も臨戦態勢を解いた。
「……先程の攻撃を詫びます。体に異常はないでしょうか」
鳩尾に叩き込んだ攻撃には、相応の手応えがあった。
「問題ない。……君の方こそ、怪我はないのか」
「ありません」
頬の傷の出血は呼吸で止血している。他に攻撃を受けたところはなかった。
「──改めて、自己紹介を。私は東出明です。風柱の元継子で、混柱としてこのたび柱に昇格しました。これからは同僚としてよろしく頼みます。……声で、私と鬼の区別はつくでしょうか」
「私は悲鳴嶼行冥。同じく、新しく柱に任じられた者だ。君の気配は覚えた。これ以後、君を攻撃する事はないと誓おう」
他の柱が集まるまで待つ間に、互いの経歴をぽつぽつと話した。伊藤は『先にお館様と話すことがあるから』と言って、昨日の時点で先にここに来ていたはずだが、まだその姿を見せていなかった。
悲鳴嶼の気配から敵意は消えても、会話の間中、悲鳴嶼の態度にぎこちなさは残り続けた。先程まで本気で殺しかかっていたのだから無理もない。視覚の情報に乏しい分、気配に鋭いのだろうから、尚のこと明が鬼に近い存在に感じられるのだろう。彼が明に慣れるまで時間がかかるかもしれないなと、悲鳴嶼の巨躯を見上げながら思案した。
しばらくして霞柱と木柱が到着した。さほど時間をおかず、水柱と炎柱、そして鳥柱も指定されていた屋敷の一角に足を踏み入れる。柱達から新人の柱二人へ、物珍しげな視線が向けられていた。その中には炎柱からのものもあったが、明が視線を返すと、すぐに養父からの視線が逸れた。互いに無言を貫き、伊藤とお館様を待った。
足音が聞こえた。
三人分の気配。一つは伊藤、残る二つは武人のものではない。
柱達が片膝をついて頭を垂れる。明と悲鳴嶼もそれに倣った。
襖が開く音。
「──よく来てくれたね」
少年の声が降ってきた。つい最近聞いたばかりの特徴的な声の響き。一声聞くだけで誰のものかわかった。
悲鳴嶼を挟んで二つ隣にいた水柱が代表して挨拶をする。その口上が終わると、耀哉は「顔をお上げ」と言った。
「お早う皆。前回の会議から誰一人欠けることなく柱合会議を迎えられたこと、嬉しく思うよ」
歴戦の剣士達の顔ぶれを見渡しながら、耀哉は穏やかに笑む。その後ろには伊藤と、白い髪の若い女性の姿があった。当主の奥方だ。
「新たに、二人の柱が加わることになった。岩柱の悲鳴嶼行冥と、混柱の東出明だ。東出の方は、引退する清繁の後任になる。清繁の方は、皆も話ぐらいは聞いただろうと思うけれど、これからは昼伐隊の総責任者として働いてもらうことになった。行冥も東出も二人とも、柱として頼もしい隊士だ。これからの任務で顔を合わせる事もあるだろうから、仲良くしてほしい」
明が他の柱に向かって頭を下げると、悲鳴嶼も同じく会釈をした。
「──畏れながら」
垂れた頭の向こうから若い男の声が聞こえた。位置と声質からして、おそらく霞柱だろう。
「悲鳴嶼殿に関しては、異論はありません。彼の実力と人望の程は、私の地区でも耳にしています。しかし、東出明の柱就任には反対いたします。鬼混じり、しかもこのような子供を柱にするとは理解しかねる」
剣呑な口調に、明は伏せたままの顔を僅かに強張らせた。この状況は予想していたが、実際に拒絶されるのは気分の良いものではない。
「──吉川」
咎めるような声を発したのは伊藤だった。
「東出を柱に推薦したのは私だ。そして、お館様はこれを了承した。討伐数からしても、十二鬼月との戦闘経験からしても、東出はとうに柱昇格の条件を満たしている。柱とするに不足はない。確かに歳若いが、東出は非常に優秀な剣士だ。柱就任の決定を覆すには、相応の根拠がなければならん」
明はおずおずと顔をあげる。伊藤の言葉に、この場の人間の中で最も驚いていたのは明だった。寡黙な伊藤は、口に出して明を評価することがほぼなかった。だから、明自身も、実際に彼からどう思われているのかよく知っていなかった。
「伊藤殿。私は、古参の柱である貴方を尊敬しています。しかし、遠慮せずに申し上げるならば、……内通の容疑すらかけられた異類混じりを柱に据えるなど正気の沙汰ではない」
瞬間、伊藤から鋭い怒気が発せられた。
「それについてはあの時に結論が出ただろう。東出は鬼の血を引いているが、それだけで内通を疑うのは早計だ。東出が鬼と接触をした記録はない。記録との照合もしたし、鎹鴉の証言も聞いただろう」
「しかし、
最高峰の武人二人による言葉の応酬。場に満ちた殺気で、明の喉は完全に乾ききっていた。初めて参加する慣れない場で口を挟むこともできず、押しつぶされるような重圧の中で、息苦しさにただ耐える。
「──その前に、一ついいだろうか」
張り詰めていた空気の中に、女性の凛とした声が投げ込まれた。
「私が最初に聞いた話では、伊藤さんの地区の隊士が昼伐隊の代表として紹介されるというものだったのだが」
声の主の方に顔を向ける。鳥柱の安西だ。二名いる女性の柱のうちの一人。柱としての勤務歴が長いらしく、伊藤との会話の中で何度か話題に上ったことがあった。実際に会ったことはなかったが、伊藤の口振りからして実力、人格ともに篤く信頼されているらしかった。伝聞上の存在でしかなかった彼女が目の前で話していることに奇妙な感慨を抱く。
「どういう経緯があったのか聞かせて欲しい」
鳥柱が伊藤に顔を向ける。
「貴方が風柱を降りて昼伐隊代表になるというのも、継子が柱に就任するというのも初耳だ」
耀哉の後ろに控えている伊藤が答える前に、明は口を開いた。
「──それに関しては、私の口から説明します」
向けられた全員の視線に竦みかけながら、明は小夜の殉職から柱就任までの経緯をかいつまんで説明した。
「……ふむ。伊藤さんが引き続き地区に在籍するなら、東出さんが柱になっても問題なさそうだが。少なくとも剣の実力は申し分ないようだし、その他の面で不足があっても伊藤さんが補助できる体制が整っているなら、構わないと私は思うがね」
鳥柱は、君らはどう思う、と他の柱に目配せした。彼女の発言で、殺気だっていた空気は収まりつつあった。
「俺も東出の柱就任に異論はない。俺の継子も、東出は信頼のおける剣士だと評していた。その上で伊藤さんとお館様が認めたのなら、何も言うことはない」
水柱の言だった。彼は真菰の上司だったなと、武骨な顔つきの水柱の顔を眺める。ほとんど縁のなかった彼が、真菰を通して間接的に明を認めているのは、少しばかり奇妙な気分だった。
「私は、……伊藤さんとお館様がどうしてもって言うなら、仕方ないとは思うけど」
続いて口を開いたのは木柱の小國だった。十代後半の若い女性の声は、
「仲間の柱を疑うのは嫌だから……あんまり、不確定要素のある人を柱にするのは気が進まない、かな」
「煉獄さんは?」
名指しで呼ばれた槇寿郎は、渋々と言った態度で答えた。
「柱だろうが柱でなかろうが、東出が裏切れば斬ることに変わりはないだろう」
まず無いとは思うがな、と養父は気怠げに鼻を鳴らした。
「その上で、鬼殺隊は万年人手不足だ。今も柱の席が埋まっていない。使えるものは使うのが筋だ」
他に言うことはないとばかりに、槇寿郎は口を閉ざした。全員の意見を聞き終えて、伊藤が吉川に言葉を向ける。
「過半数の柱が東出隊士の柱就任に賛成しているようだな。吉川さん、小國さん、今は我々に免じて彼女の事を認めてはくれないか。それでも受け入れ難ければ、次の柱合会議まで半年間様子を見てから、改めて判断しよう」
「……わかった。会議の時間も限りがあるからな。今日のところは認めよう」
多少不満げな響きはあったが、吉川は意外なほどあっさりと引き下がった。
最初に集められた場所にいたのは僅かな時間で、顔合わせと議題の確認を終えてすぐに屋敷の一室で昼食を振る舞われた。柱には健啖家が多いらしく、卓の上一杯に並べられた食事は瞬く間に消えた。
心地よい満腹感で比較的に穏やかになった雰囲気の中、控えていた隠達から資料が配布された。明は紙束の表面を親指で軽く撫でながら、小夜もよくこのような資料を作っていたなと思い出す。少し癖のある小夜の筆跡が恋しかった。
柱合会議はまず、伊藤と、遅れて参加した高尾による昼伐隊組織の説明から始まった。昼間の鬼殺専門の部隊として、所属している猟師及び隊士、隠の規模を具体的な数を出しながら解説する。将来的には市街地での情報収集と鬼の潜伏場所特定を専門とする人員の育成も視野に入れている、と締めくくった。
続いて、各地区の現状報告がなされた。鬼の発生数や隊士の階級分布などを確認し、配属人数の調整などが論じられた。
当主や他の柱の口振りから察するに、今回の会議は手早く進んだらしい。日の高い内に会議が終わり、当主に続いて続々と柱達が退室していく。養父はついぞ、明に個人的に声をかけることをしなかった。
「東出さん、初めての柱合会議はどうだった?」
会議資料をぱらぱらとめくっていると、不意に声をかけられた。鳥柱だ。
「……半年後に報告すべき事項は、把握できました。改善のための提案ができるかどうかは不安ですが」
「報告ができれば十分だ。初めから完璧にこなせる人間などいない。若いうちは話を聞いてやり方を理解するのに努めるといい。勿論、言いたいことがあれば遠慮なく言って構わないし、疑問があればその都度聞いていい。若者の特権を存分に使いなさい」
随分と好意的な鳥柱の物言いに、明は目を瞬かせた。
「今夜は仕事はあるかい?」
「いえ、特には」
「なら、私の屋敷に寄ってみないか。君は珍しい剣術を使うと聞いた。是非とも見せてほしい。悲鳴嶼さんには用事があるので来れないと言われてしまったが」
判断に迷い、ちらりと伊藤の方を見やる。明の視線に気がついた伊藤は、行ってこいとばかりに頷いた。
「……では、お言葉に甘えて。私も、鳥柱様の剣術には興味があります。鳥の呼吸の二刀流の創始者と聞き及んでおります」
明の返答を聞いて、鳥柱は軽く笑った。
「同じ柱なんだ、そんなに固くならなくていい。私のことは安西とでも呼んでくれ。これからは同僚としてよろしく頼むよ」
促されるままに屋敷の正門まで連れていかれた。安西が明の担当の隠に目的地の変更を伝えているのを、軽い戸惑いを覚えながら見る。了承した隠は、何故か明と安西の二人を置いて去っていってしまった。
この前と同じように、すぐに隠に背負われるものとばかり思っていたので、軽く戸惑う。安西に視線を向けると、「少し待とうか」と平然と言われた。どうやら彼女にとってはこの状況は予想の範囲内らしい。
待つこと数分もかからず、重低音が体に響いた。地面に重々しい振動を感じる。
──車か。
驚きと同時に納得があった。この屋敷に来るのは、明のように隠が背負える体格の者ばかりではない。悲鳴嶼のような大柄な人間もいる。車なり馬なり、他の交通手段が存在すると考えるのが自然だった。今回は二人の柱を同じ場所へ連れていくため、効率を考えて車を使用することにしたのだろう。
耳栓と目隠しをされ、腕をとった隠に導かれるままに乗車する。入った瞬間に、油か何かの匂いがした。腰を下ろした隣には、先に乗せられたらしい安西の気配があった。
席の振動が発車を告げる。明は身を硬くしたまま、慣れない車に揺られた。隣には今日会ったばかりの柱。背もたれに体重を預ける気にはなれなかった。
──何故、この人はこんなにも自分に好意的なのだろう。
自分の容姿と気配の異常さは、嫌というほどに理解している。大抵の場合、特に鬼殺隊士相手では、最悪に近い第一印象になるものだ。あからさまに態度に出さない人間もいるが、仕草の端々、例えば話している時の体の向きやら声色などで相手の感情を察することはできた。それなのに安西は、一度も明を忌避する素振りを見せなかった。
水柱が真菰を通して明の人となりを知ったように、安西も別の人間から間接的に明についての話を聞いたのだろうか。それならば納得もできるが、その場合は明との共通の知人の名を挙げるだろう。水柱が継子の真菰の話を出したように。
友好的に振舞ってくれるのは、円滑な業務の遂行のためだけでなく、個人的にも嬉しい事だ。
──しかし、距離感を誤ってもいけない。
柱の人々と馴れ合ってはいけない。必要以上に親しくなるべきではない。それは初めて産屋敷邸を訪れた後、己に言い聞かせたことだった。彼らは私を殺さなければならないかもしれないのだ。私に余計な情を抱かせてはいけない。それが互いのためだろう。処刑の刃が鈍るのも、相手の心に傷を残すのも、明の本意ではない。
そしてこれは、霞柱が明の柱就任を否定した要因の一つでもあるだろう。耀哉を信じるならば、柱合会議の前に明の討伐隊編成に関する通達が柱全員に届いているはずだった。事前に『殺すことになるかもしれない』と言われた人間を同僚にするなど、普通の思考では受け入れがたい事だろう。だからこそ、鳥柱の態度は奇妙に思えた。忌避されることに慣れていた明の思考は、受け入れられた嬉しさと同時に疑念を発し続ける。容易に人間を信頼すべきではないという感覚は、度重なる隊士からの襲撃を受けて以来、胸に深く根を下ろしていた。
明の処刑に関してならば、真菰や松田にも同じことが言える。彼らは確実に、近い将来に柱になる人材だ。有事の際には明の処刑に駆り出される可能性が高いだろう。真菰は、任務の忙しさもあり、会う機会や手紙を徐々に減らしている。松田の方は、杏寿郎を任せたので稽古場で顔を合わせる頻度が減った。彼らの精神的負担が少しでも軽くなるように、いつか来るかもしれない日への準備は進めている。
車の振動が止まる。隠が目隠しを外すのを黙って受け入れた。害意がないとわかっていても、頭の近くに人の手があるのは落ち着かない。反射的に隠の手を払い除けそうになる自分の腕を、理性で押し留めた。
明るさに目を細めながら隠に礼を言う。車が停められた場所は屋敷のすぐ前だった。風柱邸や煉獄家に似た、立派な門構えが明を出迎えていた。
「ようこそ、私の家へ」
「お邪魔します」
鬼殺隊の歴史を感じさせる、風格ある門をくぐる。中の間取りも風柱邸と似ているようだった。馴染みのない匂いだけが、明を部外者だと告げている。
「休む? それともすぐに稽古にするかい?」
「安西さんが良いのなら、稽古を」
「よしわかった。稽古場の方は隊士に開放しているから、裏庭でやろう」
悠々と歩く安西の伸びた背筋に、屋敷の主としての威風が見えた。
「……柱合会議では、ありがとうございました。安西さんが取り成してくださったおかげで、就任を認めていただくことができました」
「気にしなくていい。君を後押ししていたのは、私ではなく伊藤さんと煉獄さんだ。私は君と関わりのない中立な柱として意見を言ったにすぎない」
稽古場からは木刀の打ち合う音が聞こえていた。鋭い声の数々、地面を揺らす踏み込みの音は明の耳にも馴染んだものだ。安西は入り口に明を待たせ、中の木刀を取りに入った。
「継子の紹介もしておこう。近いうちに東出さんの同僚になりそうだからね。小野塚要一という。……小野塚、こちらはこの度混柱に就任した東出さんだ」
稽古場から出てきた安西が連れ立っていた人の顔を見て、明は目を僅かに見開いた。
──小野塚要一。
彼とは一度、合同任務に参加したことがある。他ならぬ、真菰に斬られたあの日、明の肩の手当をしたのは小野塚だった。──そして、彼の弟は明の目の前で、猗窩座によって食い殺された。
何を言うべきかわからず、迷うように口を開きかけて閉じた。乾いた喉に言葉が引っかかって、震えた息の音が漏れただけだった。
「……東出さん。前に……一度、任務で会ったことがあるのは、覚えているだろうか」
明はぎこちなく、首を縦に振った。
「……は、い。その時は、お世話になりました」
「君達は知り合いだったのか」
安西はぎくしゃくと言葉を交わした二人を見比べた。
「──小野塚、これから東出さんと稽古をするんだ。貴重な機会だから、君も来なさい」
小野塚も参加するのかと思った瞬間に息苦しさが増した。安西の後を歩く己の足が、心なしか重い。
──しかし、その重さは安西と木刀を向け合った瞬間に消え去った。
安西の構える、二振りの木刀。風の呼吸の派生らしく、その立ち姿はどことなく伊藤に近い。無駄を削ぎ落とし洗練された、老練な武人らしい構えだった。
鳥の呼吸自体は明も修めている。だが、安西の二刀流は原型から大きく離れた形になっていた。
────鳥の呼吸 壱ノ型 鶴鳴・双
遠間から飛び込んで首を斬る型。水の呼吸や炎の呼吸と同じく、鬼を殺すための最も基本的な動きが壱の型に据えられている。
通常は一刀のみの型だが、安西の両の手に握られた木刀は、鋏のように両側から明の首を噛もうとした。
見慣れない動きを辛うじて躱す。同時に片方の木刀を弾いて安西の構えを崩そうともしてみたが、それを許すほど彼女は甘くなかった。
二撃、三撃、四撃。初めて見る動きの連続を、細心の注意を払って観察、分析する。その動きの端端に、伊藤との稽古を思い起こされるものがあった。一刀と二刀の差、派生した流派としての差。表面上は全く違うものになっているのに、動きの大元になっている理念は似通っている。
──面白い。
明から仕掛ける度に、安西は明の知らない動きを見せてくれた。多くの剣術を習得した明にとって、未知の剣術ほど興味を惹かれるものはない。
次第に動きに慣れていく明に対して、安西も面白そうに軽い笑みを浮かべる。
安西が一通りの型を出し尽くした後、小野塚との交代を言い渡された。頭の隅に思い出したような気まずさが甦ったが、既に意識の大部分は彼の剣術への興味で占められていた。小野塚は岩の呼吸から鋼の呼吸なるものを派生させたらしい。
立ち合いを始めた瞬間から、安西からの鋭い視線を感じていた。その視線と気配は今までの彼女の言動とは多少異なり、試すような、あるいは疑うようなものが含まれていたが、それが逆に明を安心させた。どうやら、彼女も無条件に明を受け入れているわけではないらしい。ただ、その疑念めいた視線が自分だけでなく、小野塚にも向いているように見えたことが気になった。
しかし、その思考も、木刀を交えている中ですぐに埋もれた。鋼の呼吸の型の足運びには、水の呼吸の影響が見られた。異なる流派の技術を混ぜ、組み合わせ、新しい型として独立させる。それがどれだけ難しいことか、明自身よく知っていただけに、素直な賞賛の気持ちが湧いた。
稽古をしている間に、時間は瞬く間に過ぎた。初見の剣術を攻略することに没頭していたらしい。我に帰った時には日が沈みかけていた。安西の「止め」の声で、深く潜っていた明の意識が浮上する。
ここ最近の稽古の中で、最も充実した時間だった。疲労で多少乱れた呼吸を整えながら、興奮の余韻を噛み締めていた。心から剣術を楽しめたのは、あの日以来初めてだった。