鬼子の剣士は夜明けを望む   作:安代圭

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第35話 水柱邸

 咥えた割り箸の片端を、右手でつまんで軽く引く。ばきりと割り箸の割れる衝撃と音が、歯を伝って耳に響いた。

 割った箸を親指と人差し指の間に挟み、明は食事に対して礼をとった。

「……いただきます」

 目の前の男──松田も、両手を合わせて同じ言葉を口にする。彼が一口食べたのを見計らって、明も天ぷらに箸を伸ばした。

 さくさくと、天ぷらを噛み砕く音が骨を伝って耳奥に響く。

「……忙しいところ、わざわざ来てくださって、すみません」

 明の向かいに座る松田は、気にするなとでも言うように箸を持つ手を軽く振る。昼時よりも早く入ったため、蕎麦屋はまだ空いていた。明と松田の他に二人の客がいるだけだ。

「俺の息抜きにもなってるから、気にしなくていい。久しぶりにここの天ぷらを食べたかったから、むしろ丁度良かった」

「そう言っていただけると、ありがたいです」

 こしのある麺をすする。噛み応えのある麺が明の好みだった。

「柱の仕事には慣れてきたか」

「はい。……伊藤様のおかげで、なんとか。今まで稽古場を任せていただいていたのは、多分、これを見越してのことだったんでしょうね」

 柱になってから、今までの伊藤の行動の意図に気づくことがあった。その最たるものが稽古場での指導を継子にやらせていることだった。あの経験のおかげで、部下へ指示を出すことに多少は慣れることができていた。

「そちらはどうですか」

「……杏寿郎の指導は順調に進んでいる。と言っても、型そのものに関しては、教えられることは少ないな。最近はずっと試合稽古をしている」

 松田に杏寿郎の稽古を任せる様になってから、明は一度も煉獄家を訪れていない。明と煉獄家の接点は二つ。一つがたまに杏寿郎から届く近況報告の手紙で、もう一つが松田からの指導報告だった。

 皮肉な事に、杏寿郎に炎の呼吸の指導をする事をやめてから、肺を塞ぐ息苦しさが少しばかり軽くなった。会うこともなく、彼我の才と適性の差、不具のない肉体の差を突きつけられることもなくなれば、嫉妬に焼かれることもない。

 距離を置いて初めて、明は穏やかに煉獄家を想うことができるようになった。

 この距離こそが自分には丁度よかったのだ、と思う。

「一人で稽古している時間が長かったんだろう。型単体での完成度は非常に高い。だが、型が手段でなく目的になっているきらいがある。臨機応変さに不安があるな。崩れた状態から型を使う、あるいは敢えて崩して型を使うとなると、少し鈍る。対人稽古の場数を踏ませたい」

「たしかに、以前からその傾向はありました。私が煉獄家に行ける日数も限られていたので、半分以上は独学で剣を修めていたようです」

「……型の変形は君の得意分野だったな。今は忙しいだろうが、余裕ができたらあの家に行ってやるといい。杏寿郎も喜ぶだろう」

「そうですね」

 明は曖昧に笑む。

 よほどの理由がない限り、煉獄家を訪れるつもりはなかった。

 健やかな義弟の顔を見る喜びよりも、煉獄家に足を踏み入れる度に臓腑を焼く炎の痛みの方が何倍も辛かった。

 煉獄の家族は明を金行に(なぞら)えて桃を植えた。彼らの見解は、奇しくも正しかったのだ。あまりに正しすぎた。

 五行には相生相剋の概念がある。相生は生み出す関係、相剋は傷つける関係だ。例えば、木が燃えて火が生じることから、火行は木行から生み出される関係とされ、これを『木生火』と呼ぶ。これに対し、金属の斧は木を切り倒して傷つけるので、金行は木行の勢いを削ぐ『金剋木』の関係にある。そして火行と金行の関係は『火剋金』、火は金属を溶かし、傷つける関係にあるとされる。まるで、金行の自分が火行の煉獄家で安らげない事を表しているかのようだった。

「玖ノ型の完成度の方はどうですか」

 話題を稽古の方に戻せば、松田は軽く目を閉じて思い返すような素振りをする。

「……試合稽古でも安定して使えるようにはなってきたな。ただ、一度崩されると後が脆くなる」

 明が質問をするたびに、松田は簡潔に答えた。いくつかの質問には間が空き、いくつかの点では「次の稽古で見てこよう」と言われた。

 松田との会話には小夜や真菰との会話のような気やすい楽しさはなかったが、明は彼との会話が嫌いではなかった。曲がりなりにも同じ少数派の呼吸を使う者同士、「杏寿郎の稽古」という枠を越えて、剣術に関する話題で盛り上がることもある。

「……それにしても、君の公私の区別は徹底しているな」

「敬語の方が楽ですから」

 そう言って明は薄く笑う。下手に出ておいた方が、無用な衝突は避けられる。関係性によって口調を変えるよりも、年上に対して一律に同じ敬語を使う方が楽だった。だから明は、仕事以外の場では主として敬語を使っている。松田は明がどのような言葉遣いをしようと咎めはしないのは知っていたが、明としては敬意を払いたい相手だったので、任務外では他の年長者に対するのと同じように敬語を使っていた。

「使われる側からすると、妙な気分になるもんだが」

「松田さんが柱になったら、公私共にこの口調になりますよ。それまで辛抱してください」

 少しばかり冗談めかして言えば、松田もそうだな、と軽く応えた。

「俺が柱になるよりは、杏寿郎の入隊の方が早いかもしれないがな」

「順調に行けば、今年中に入隊できそうですからね」

「まあな。君と同じで、あの子も並の隊士よりも剣歴が長い。煉獄家の名に相応しい才もある。入隊したらすぐに階級を駆け上がるだろう」

「そうでしょうね。杏寿郎には、私よりもはるかに優れた剣才がありますから」

 義弟ならば炎の呼吸の極みに至れる。私では手の届かない域に到達できるのだろう。

 声に滲んだ羨望の色に気が付いたのか、松田は不可解そうに明の顔を見る。

「……それは流石に言い過ぎだ。君を越える怪物がごろごろいてたまるものか。杏寿郎もそうだろうが、君の才は相当だぞ。その歳で柱になった人間が過去に何人いたことか」

 失言をした、とすぐに気がついた。

「そう、ですね。……方々(ほうぼう)に失礼な発言でした。すみません」

 松田より後に入隊しながら先に柱になった自分が無才を主張することが、どれほど無神経なことだったかを理解して、明は白い頬をさらに青白くさせた。

「やはり私は、柱に値しない未熟者のようです……」

「自信を持て、と言ったんだがな」

「……はい」

 恐縮して肩を窄める。

「剣に関しちゃ心配はしてないんだがな、……まあ、伊藤さんがいれば大丈夫か」

 蕎麦を啜る音。また会話に間が空く。

 松田には色々と世話になっていた。明と隊士の間を取りなしてくれたこともあった。地区の隊士達とうまくやっていけるようになったのも、風柱や小夜だけでなく、松田の影響も少なくなかったように思う。

 その彼に未だ心配をかけさせてしまっている自分が、不甲斐なかった。

「せっかく互いに空いているから、久し振りに試合でもするか? 最近は指導ばかりで鍛錬の時間が取れてないだろう。これからは会える機会も少なくなるだろうし」

 松田は来月から他の地区に異動することになっていた。異動先も炎柱地区と隣接した地区なので、杏寿郎の指導を続けるにあたり支障はない。その地区は現在、直接管轄する柱がいない地区だった。

 今回の異動の理由は、彼が風柱地区に配属された時の理由と少し異なる。あの時は単純に不足した戦力を補填するためだったが、今回は柱候補としての異動だ。先日、彼の討伐数が四十五に届いた。柱就任に必要な五十が目前になった次第である。甲の隊士の中で最も柱に近い者として、柱就任時に任される予定の地区に先んじて配属された形だ。就任してからの業務を円滑にするために、地区の隊士や隠たちと関わっておけということらしい。

「……誘ってもらえたのはありがたいのですけど、残念ながら、今日は予定がありまして。またの機会に、お願いします」

 

 

 

 

 久しぶりに会った明は、見覚えのない白い羽織を纏っていた。

 ──「喪服」だ。

 見た瞬間に、その羽織の意味を直感した。

 近頃は黒が主流になりつつあるけれど、少し前までは白い喪服が主流だったことを、真菰は知っている。あれはきっと、古い様式での喪服を模しているのだ。

 誰の喪なのかは、言われずとも理解できた。

「──書庫が見たいんだったよね。水柱様の代わりに、私が案内するね。せっかく来てくれたのに申し訳ないって、水柱様が言っていた」

 屋敷の入り口で所在なさげに立っていた明を玄関に招き入れ、草履を脱ぐように促す。

「ああ、よろしく頼む。霜山様には、書庫を開けてくれてありがとうと伝えて欲しい」

 明からは濃厚な鬼の臭気が立ち上っていた。匂いも気配も、鬼そのものと言っていいほどだ。任務中に後ろに立たれでもしたら、うっかり攻撃してしまいかねない。前に会った時はこれほどだっただろうか。

「民間人から上がってきた報告書類を棚から引っ張り出しておいたんだ。とりあえず一年分だけ出しておいたんだけど、あまり整理されてないから読みにくいかも」

「助かる。ありがとう。もし可能なら、他の書類も見てもいいだろうか。せっかく来たのだし、書き方とかの参考にしたい」

「多分、大丈夫。私もまだどの棚に何があるのかわかってなくて、探すのに手間取るかも知れないけど。……伊藤様のところには、あまり記録が残ってないの?」

「別に、伊藤様の書類が悪いわけではない。でも、手本は複数あった方がいいだろう、剣と同じで」

 廊下を歩くたびに、彼女の白い羽織がふわりと揺れる。ゆったりとした羽織は、以前に着ていた群青の羽織と同じく、明の左腕を隠すのに役立っているようだった。

 鬼殺隊の制服は黒い。隊服に限らず、隠の服も黒だ。血や泥などの汚れが目立たないようにというのも理由の一つだろうが、もう一つ、夜の闇に紛れやすいという理由がある。

 これに関しては、隊士なら肌で実感している。戦場において、相手より先に発見するというのは、大きな有利になる。鬼殺隊の暗い色の隊服は、夜間の戦闘に適していた。きっと狩人だった小夜ならば、より巧妙に身を隠す術を知っていたのだろう、とちらりと思う。

 対して白は、夜は非常に目立つ。浮き上がって見える、と言っていい。遠くからでもよく見えるのだ。白を纏うことは、鬼に向かって「見つけてくれ」と叫んでいるのと同義だった。

 ゆえに、白の羽織はよほどの実力を持つものでないと着ることができない。その意味では、柱が着るのにふさわしい色であると言える。見つけやすいというのは、鬼だけではなく味方についても同じだ。増援を待つ隊士たちの目に、闇夜に鮮烈な柱の白い羽織はどれほど心強く映ることだろう。以前に炎柱の火炎を模した白い羽織を見かけた時にも、同じことを思ったものだ。

「……錆兎と義勇、この地区に配属になったんだ」

「ああ、前に手紙に書いていたな」

「昨晩は警邏だったから今は寝ちゃってるけど、ここに住んでるんだよ」

「二人とも継子になったのか」

「そう。三人まとめて継子にしてもらえた」

「……その人数の継子を持てるのは、すごいな」

 その言葉に、いつもよりも感情が乗っていた気がした。

 確かに、明が感嘆するのも無理はない。柱はただでさえ多忙なのだし、その中でも水柱は古参であるから、他の柱不在の地区にまで駆り出されることも少なくない。継子一人の面倒を見ることすら大変だろう。

「稽古をつけてもらえる時間はそう長くないけどね。忙しくて時間が足りないから、三人まとめて相手にされてる。どちらかといえば、地区の隊士と稽古している時間の方が長いぐらいだし」

「やはり、そうなるよな。なんと言っても、水の柱だから。どれほど頼りにされているか察せられる」

 最も使い手の多い流派の、頂点。水柱はいつの世もおり、その歴史が途絶えたことはない。炎柱と並ぶ、歴史ある職位だった。

 他の柱と比べるものではないと思いつつも、真菰はその水柱の弟子にしてもらえたことを誇りに思っていた。敬愛してやまない鱗滝先生が高名な水柱であることも、同様に誇らしいことだった。

「明も柱になってから忙しくなったの?」

「それほどでは。前とあまり変わらない。事務系は伊藤様が補助してくださっているから、私は前線の仕事に専念できている。新人の研修をやり始めたことの方が大きいな。これは私だけでなく、地区の多くの上級隊士もだけど」

「選別制度の改良、だっけ。…………そういう話、食事会の時にしたこともあったね」

 慎重に、その言葉を発した。明の方が小夜と親しかった。明の方が自分の何倍も、小夜の死に傷ついているだろう。避けるべきかと躊躇したせいで間が空いてしまったが、いつかは直面する問題だ。私と明との会話で、小夜のことを避けて通ることはできない。

「ああ。小夜の手記の中に、詳細な案が書いてあってな。少し手を加えて整えて、本部に提出してみた。小夜とのことを、ただの思い出にはしたくないから」

 その強い目を見て安心する。明の目は悲嘆に暮れるものではなく、力強く前を見据えているものだった。

「……うん。私も、できることがあれば手伝うよ」

 

 

 

 

 小夜と過ごした日々を、ただの思い出にはしない。

 小夜が残したものを、鬼殺のために役立てる。それがきっと、私にできる最大の弔いだ。

 そう決意して、明は柱になった。小夜の生きた痕跡を鬼殺隊の中で活かし続けること、自分が死ぬまでに柱と同等の戦力を複数育てること。この二つが、柱としての明の指針になっている。

 けれども未だ、小夜が残したものの全てを活かせているとは言い難い。特に小夜が手がけた毒刀計画は、事実上凍結されている。仕込まれた細工のせいで通常の日輪刀よりも手入れが難しくなっていること、毒の大量生産と隊内での流通の目処が立っていないこと、そして先月、西地区で討伐隊が壊滅状態となり、隊内の人材がそちらの被害の補填に追われていることが主な理由だった。

 小夜が残した実験記録は、黴が生えたり虫に食われたりしないよう、屋敷内の重要書類とともに丁重に保管している。これの使い方は明にはわからない。貴重な資料なのはわかるが、これを元にどう応用できるかは皆目検討がつかなかった。これに関しては、自分で何かするよりも、利用できる人を探して託す方が望ましいのだろう。

「……ん、着いたよ」

 真菰が足を止めて、引き戸を開く。

 狭い部屋だった。書物の日焼けを避けるためだろう、日はほとんど差し込んでおらず、中は薄暗い。壁の一つに面した机の上には、綴じられた報告書が積まれていた。

「ここが書庫。……明かり、要る?」

「いや、平気だ」

 真菰は二方の壁を埋める棚の中で、鍵のついたものに近づいた。古びた錠前に、懐から取り出した鈍い金色の鍵を差し込む。軽い金属音で、鍵が開いたのがわかった。

「去年のが読みたければ、この中にあるから」

「わかった。ありがとう」

「……本当に、一人でいいの?」

「ああ。真菰も忙しいだろう。終わったら鍵を返しに行く。その時にもし手が空いていたら、一緒に稽古でもしよう」

「うん。私も、明と稽古できるのは楽しみにしていたから。……待ってるからね」

 気遣わしげに明の顔を見てから、真菰は書庫を後にした。軽い足音が遠ざかっていく。

 その足音が完全に聞こえなくなってから、明は細く長く息を吐いた。落ち着かなげに指の腹に爪を食い込ませながら、手元の書類を流し読んでいく。

 

 同一路地での連続失踪事件──解決済

 

 竹林の異常発生報告──保留

 

 鳥獣の不審死大量発生──調査中

 

 他の地区との連携や情報交換も、柱の仕事の一つだ。

 今日の明は水柱地区の未解決案件の書類を読むためという口実で水柱の屋敷を訪れていた。縄張りを持たない鬼が地区を跨って移動することはよくある話であるし、もし手口の近い事件──鬼の仕業と思しき殺人事件があれば、その鬼の足取りを追う手がかりになる。

 こういった地区間での情報の照合は主に隠が行っていることだったが、地区の長として柱が出向くことも珍しい話ではなかった。柱同士での稽古のついで、あるいは稽古をするための口実に、柱同士での情報交換が行われるのだと元風柱の伊藤が教えてくれていた。

 水柱は出張のため屋敷にはいなかったが、明ならば「継子の真菰に会いに行く」だけでも十分に自然な「本音」になる。この地区に真菰がいたのは明にとって都合が良かった。

 真菰も水柱も、仕事を建前に友人に会いにきたのだと思っているのだろう。

 念には念を入れ、小夜が残した書き付けのことは、真菰にも伊藤にも話していない。彼らを巻き込むつもりは微塵もなかったし、もし彼らが知る必要のあることだったならば、小夜はそのように話していたはずだ。少なくとも、詳細がわかるまでは無闇に話すべきではない。

 「他の柱の仕事を見ておきたい」。その一環という口実だった。実際、建前そのものもあながち嘘ではなく、今日の収穫にするつもりは十分にある。それが明の話す言葉に真実味を持たせてくれていた。

 ──『絶対に明に伝えると誓う』

 かつて、亡くなる数日前に、小夜は明にそう言った。小夜が約束を(たが)えたことは一度もない。状況からしても、万が一の事態が起こっても明に伝えるために万年筆に紙を仕込んだと考えるのが妥当だ。

 小夜は何を知ったのだろう。あんな周りくどい方法を使ってまで、何を伝えたかったのだろう。遺書に書けないようなこととは、何か。

 頃合いを見て、明は鍵の開けられた棚に向き合った。今日の本命はここにある。

 ──議事録。

 小夜は昼伐隊関係の業務と、鬼の情報の解析のため、度々他の柱の屋敷を訪れていた。この書庫の報告書を読み漁ったこともあったのだろう。かつて小夜が手にしただろう綴本の背に触れる。

 一冊目を手に取った。表紙には筆で『隊員名簿』と書かれていた。──これではない。

 明は綴本を元の場所に戻した。

 表紙を見ては戻し、見ては戻しと、棚の捜索を行う。討伐報告書──違う。帳簿──違う。取引目録──違う。藤の花の家紋の家──違う。……。

 片手しかないのは、こういう時に不便だ。引っ張り出した綴本を片腕に抱えておくのが難しい。肘から下の大部分も残っているため、できないわけではないのだが、手がないので安定性に欠けた。

 ──議事録 明治三十八年

 それを見つけた瞬間、腹の底がずしりと重くなった。

 ──これが。

 報告書の山を脇に退けて、明は机の上に議事録を置いた。

 錆びついたような手で、紙をめくっていく。

 それはすぐに見つかった。

 

 ── 二月十六日 

 

 明の手が止まる。

 明は極力息を潜め、文字の列を目で追った。

 それは一見、何の変哲もないただの記録に見えた。明の名前があるわけでもないし、当主が関わるほどの重大案件があるわけでもない。

 注意深く、一行ずつ読み進める。──それは議事録の後ろの方に書かれていた。

 

 隊律違反ニ関スル報告案件

  遠藤良平ノ殺害疑惑ニヨリ、二月八日ヨリ█████隊士ヲ勾留シ事情聴取ヲ行ッテイタガ、証拠不十分ノ為、二月十三日ニ釈放。

 

 息が、止まった。

 音が消える。

 目の前の文字が、信じられなかった。

 ──殺害?

 ──事故ではなく?

 静寂の中で、自分の心臓の音だけが(うるさ)い。

 ──師匠は人の手で殺された?

 何故、という疑問に、すぐに脳が答えを返した。

 ──あれは上弦の参による討伐隊壊滅の直後だった。確実に、私のせいだ。私が鬼の仲間だと疑われたから、師匠が殺されたんだ。

 鬼殺隊には、『剣士が鬼になった場合、その剣士に呼吸術を教えた育手は切腹しなければならない』という隊律がある。私の罪を育手に求めることは、鬼殺隊においてそれほど突飛な発想ではない。

 小夜には、あのとき当主に言われた言葉を話した覚えがあった。「師匠の死に私は関係ないらしい」と言った記憶がある。

 小夜は私よりも聡い。間違いなく、今の自分が考えたことは、小夜も考えたはずだ。

 隊士でなく当主を警戒せよと言ったのは、容疑をかけられた隊士の名前までは探りきれなかったからだろう。辛うじて名指しできた相手が、明に虚偽を述べたであろう当主だったのだ。この調書がある以上、遠藤の死と明の関係を否定することはできないはずなのだから。あの当主はわかった上で明に「関係ない」などと述べていた。

 胸が穿たれたように痛んでいた。

 ──他の、記録は。

 明はよろめくようにして棚の前に戻った。この地区で勾留されていたのなら、他にも書類が残っているはずだ。

 焦燥感に追われながら、隊律違反の始末書や、供述調書を探した。──けれどもそれは徒労に終わった。書類はほぼ黒塗りされているか、破棄された痕跡が残っているだけだった。

 冤罪と結論されたのなら、隊士の名誉のために記録が消されることもあるのだろう。あるいは、あの当主が記録の破棄を命じたのかもしれない。

 ──けれども、本当に冤罪だったのか?

 証拠不十分から無罪を信じられるほど、明は隊の人間を信用していない。──否、自分への敵意を信じている。他ならぬ自分が、隊士への警戒のおかげで生き延びられているのだから。任務中に少なくない回数、鬼諸共に斬りかかられた。未だ無事でいられているのは、明が鬼だけではなく隊士のことも警戒していたからだ。

 既に明は、遠藤の死は事故でなく殺人だと、半分以上確信していた。

 それを前提として、思考が進んでいく。

 ──もし。

 ──もし、煉獄家にまで犯人の魔の手が及んだら?

 その瞬間、心臓が凍りつくような心地がした。

 もし犯人が執念深い人間だったなら、もし犯人に明の身元を調査する気があるならば、必ず煉獄家にたどり着く。小夜が見つけられるほどには、「公開された書類」の中に明と煉獄家の繋がりを示す手がかりが残ってしまっているのだから。つい数ヶ月前まで煉獄家に通っていたことを、これほど悔やむことになるとは思っていなかった。

 ──松田に杏寿郎の指導を任せてよかった。

 脳裏に金色と紅色が浮かぶ。私の黄金時代、愛おしい過去、清廉潔白な剣の名家。──大恩ある家族。

 どうしてあの時、煉獄家との関係性をもっと徹底的に隠そうとしなかったのだろう。

 遠藤が明の育手であったことを知っていたぐらいなのだから、そもそも容疑者は明自身の事情に多少は詳しかったのだろう。明と面識がある可能性が高い──もしかしたら、身近な人間。

 ──真菰?

 ──それだけは、ない。

 即座に否定する。その発想が浮かんでしまった己を恥じた。真菰だけはありえない。心情的にもそうだし、動機にも心当たりがない。そもそも、もし真菰が容疑者だったなら、棚の鍵を開けたままここに明を一人にはしないはずだ。

 ──では、誰が。

 明と遠藤の師弟関係を知っていた人間は、果たしてどれほどいただろう。この地区の隊士であるならば、真菰の口から聞いた可能性もなくはない。

 明は広げていた紙束をまとめ、強く目を瞑った。

 この地区の隊士の中に師匠を殺した人間がいるかもしれないと思うと、どうにかなってしまいそうだった。

 ──どうして私は、遠藤師匠の言葉に甘えて、弟子であることをちゃんと隠そうとしなかったのだろう。

 師匠に禍が及ぶ可能性を、承知していたはずなのに。

 師が死んだのは私のせいだ。私がもっと振る舞いに気をつけていれば、あの人が死ぬことはなかった。

 心臓は痛いほどの収縮を繰り返し、耳の奥で轟々と血潮が唸る。

 ──私のせいだ。

 ぎり、と唇を噛んだ。破れた皮膚から血が滲む。口の中に血の味が染みた。

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