その日は梅雨の晴れ間だった。
隠に来客を告げられて、明は眼帯の少女を出迎えた。彼女が鳥柱から推薦状を送られた新人だった。
少女は髪を短く切っており、一見して少年のようないでたちをしていた。艶のある黒い短髪の中に、右目を覆う眼帯の黒い紐が埋もれている。身の丈は明より三寸ほど低い。女性の隊士としては平均的な体格に見えた。
「……
にこやかとは言い難い顔には、緊張の色が滲んでいる。初対面の隊士がよく明に向ける表情だ。明を軽く見上げる左目に、荒んだ鋭さが垣間見えた気がした。
「混柱の東出明だ。これからよろしく頼む」
明は握手を求めて右腕を差し出した。──これで握り返さないようなら、弟子に取るのはやめておこう。それが互いのためだ。
鏑木のように、どうしても明を受け付けられない人間もいる。そのような人間を弟子にするのは、互いを不幸にするだけだろう。
明の思惑を知ってか知らずか、橘は特に躊躇した様子もなく握り返そうとした。しかし、彼女の手は大きく明の手を逸れ、明の小指を掠って空振った。
「──、すみません」
慌てたような声。第一声とは異なり、橘の声にはっきりとした感情が滲んでいた。
仕切り直すように、橘が明の手を握った。今度は寸分狂わず、明の手の中に橘の手が収まる。少し荒れた手触り。剣だこのある、皮の厚い手だった。──剣士の手だ。
「歓迎する」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
返答の抑揚はまた薄くなっていた。けれども、敵意は感じなかった。少なくとも、彼女は望んでここに来たらしい。鳥柱に渋々追いやられたのではなく。
少しばかりの安堵とともに、明はわずかに緊張を解いた。この分なら、弟子にしても大丈夫だろう。どことなく青沼に似ていて、指導がしやすそうな気がした。
黒い瞳が明の顔を覗き込むように見上げている。
ざわりと木の葉を揺らした風が、水溜りを波立たせた。
あぐりを右隣に連れて、明は屋敷の廊下を歩く。前の地区での様子などを聞きながら、明は事前に鳥柱から送られていた書類を思い出していた。
鳥柱の書簡に橘あぐりの受け入れの返事を出してすぐ、彼女の経歴に関する書類が送られた。その中で明の目を引いたのは、最終選別の記録だった。
──選別四日目、他の参加者を庇って右目を負傷。
その下には『庇われた参加者は、翌朝棄権し、現在は隠として鬼殺隊に勤めている』と註がついていた。
四日目、というのが興味を引いた。隠になった参加者のように、橘も棄権することができたはずだ。深刻な負傷をした状態で選別を続行する判断を、「冷静さに欠ける」と評価することもできるだろう。逆に、執念と胆力を評価することも。
しかし、それよりも大事なのは、彼女が三日間、重症を負った状態で選別を生き延びたという事実だった。鬼から隠れ続けて夜をしのいだ可能性もなくはないが、新鮮な血の匂いを纏う人間を鬼が見落とすとは考えにくい。むしろ、誘蛾灯のように鬼を引きつけていたはずだ。不具を抱えた状態でそれらの鬼の全てから生き延びたのならば、驚嘆に値する。
そして、不具を抱えてなお剣士を志す姿が、かつて遠藤に引き取られた時の自分に重なって見えた。「片手の剣術は教えられない」と養父に匙を投げられた自分のために、共に試行錯誤して戦い方を考えてくれた師に。
──もし彼女が私を必要とするならば、協力しよう。
そう決意するまで、さほど時間はかからなかった。
荷物を部屋へ移動させたのち、明は橘を客間に入れた。橘を卓を挟んだ向かいに座らせ、急須で緑茶を淹れる。
経験のある流派や、明の元に来た経緯について、軽く話を聞いた。加えて、この屋敷での生活に関する注意点なども簡潔に伝えておく。
「……悪いね、相部屋になってしまって。少し狭いだろう」
「いえ、大丈夫です。実家でも兄弟が多かったので、慣れています」
澄ました顔で橘が答える。
橘は鬼に家族を殺されたのではなく、女中奉公をしていたところを育手に見初められて引き取られたという経歴の持ち主だった。それ故か、鬼殺隊では珍しく、血縁に関する発言に躊躇が全くないようだった。
「もし嫌であれば、他の部屋を空けるか、出来るだけこの屋敷に近い宿舎に空きがないか探すこともできる。他人がいる空間で休みにくいようなら、遠慮なく言って欲しい」
明自身、人のいる部屋の中では眠ることができないので、念を押すように言い添えた。部下の生活環境はなるべく整えたい。それは任務の効率や負傷率に直結している。
もともとは、相部屋の予定ではなかった。
青沼、鏑木、笠田の三人がこの屋敷に住んでいたのは、明が稽古をつけるにあたり、同居していた方が都合が良いからだった。彼らが正式に隊士として認められ、師弟ではなく上司と部下の関係になった以上、彼らがここに住む理由はない。
ゆえに、彼らがこの屋敷を離れる前提で部屋割りを考えていたのだが、三人の引っ越し先の当てが見つからなかったため、急遽この屋敷に残ることになったのである。
今まで空いていた部屋も運悪く昼伐隊や隠たちからの利用申請があり、新しく入る橘の寝所として使える場所がなくなっていた。結果として、橘と笠田は相部屋になった。
できれば、仲良くやってほしい、と思った。
女子同士という部屋割りの都合で小夜と知り合えたのは、あまり長くない自分の人生の中でも一、二を争うほどの僥倖だったと思っている。
歳の近い新人同士、共有できるものも多いだろう。良い出会いになってくれたら嬉しい。
橘は湯呑みを口にした。中には先ほど明が淹れた緑茶が注がれている。温度は大丈夫だったかと、明は橘の口元を見つめた。
「…………あの、東出様」
湯呑みを卓に置いた橘は、少々の迷いを見せて口を開いた。明は先を促すように頷いた。
「片眼でも、強くなれますか」
明を見上げる瞳には、切実な光が宿っていた。胸の中を何かが掠める。
「強くなるように指導するのが、私の務めだ」
安心させるように明は軽く笑んだ。
「片腕の私が柱をやれているんだ。それに、岩柱殿は盲目の武人だぞ。欠損があるから強くなれないということはない」
見せつけるように、明は左の着物の袖をまくった。奪われた部位こそ違うものの、明と橘は「欠いた者」という立場を共有している。自分が剣士としてやっていけていることが、彼女の希望になれば良いと思った。
「君はどうして、剣士を続けることにしたんだ? 君は復讐者ではないだろう」
かねてから、聞きたかったことを口に出した。橘と明の違いは、人生の途中から剣を志したという点だ。その彼女にとって剣とは何なのか、何故体を損なった後も剣を握ることにしたのか、純粋に疑問に思った。鬼に身内を奪われたわけでもない、復讐者ではない彼女が、そこまでするほどの理由は何なのか。
「だって、ここで剣士を諦めたら、何のために命懸けの稽古に耐えてきたかわからなくなるじゃないですか」
橘は当然のことのように言った。
「……兄弟子たちは、剣士になれずに隠になりました。剣士になれる人の数が限られるなら、なれる人間が簡単に諦めていいはずがない。……違いますか」
「ああ……そうだな。……そうか。君は随分、責任感の強い人なんだな」
言い回しが違えども、聞き覚えのある理由だった。持てる者としての責任を果たそうとしている彼女を前にして、恥いるような気持ちが芽生える。
──私は、単に剣への執着が強いだけの人間なのに。
せめて彼女の志の手助けをしたい、と思った。
「……私からも一つ。これからは、『東出さん』ぐらいで呼んでくれないか。仮にも同じ家で同じ窯の飯を食べる仲間だ。規律のためにも、最低限の礼節はあった方がありがたいが、そこまでかしこまらなくていい」
かしこまって座っている橘に、明は苦笑してみせた。
「様づけは、私には少し重すぎる……」
不安が確信に変わったのは、二階の物置を案内した時だった。
「ここは物置として使っている。もし何か必要なものがあったら、まずはここを探してみて欲しい」
「はい」
中を一瞥しただけで、明と橘はすぐに階段に引き返した。
降りている途中、後ろに続くはずの足音が妙に遅いことが気にかかった。降り終えて振り返ってみれば、橘はまだ階段の中ほどにいた。彼女は手すりに掴まって覚束なげに足元を探っていた。明に見られていることに気づく余裕もないようだった。
──この階段は急な方だろうが、そこまで慎重になるほどのものか?
初対面の握手の時の違和感が脳裏をよぎった。
──残った方の目にも視覚に異常があるのか?
しかし、文字は読めていたはずだ。
その場で本人に聞こうかとも思ったが、込み入った話になるなら、より落ち着いた場で聞いた方が良いだろうと思い直した。
代わりに、注意深く橘の挙動を観察することにしたが、その日の間には、他に妙な動きは見受けられなかった。
翌日、明は一人稽古を始める前に、手拭いを縦に長細くなるように折り畳んでいた。ちょうど良い幅になったそれで右目を覆い、頭の後ろで結ぼうとする。片手での作業に手間取っていると、晴彦が手伝いを申し出てくれた。
視界が左目に限られた状態で、明は木刀を構えた。
──視野は思ったほど変わらないな。
顔の前面、ほぼ同じ方向に目がついているのだから、当たり前と言えば当たり前か。
それよりも大きな差異は、遠近感の喪失だった。
打ち込み台に木刀の
平坦な視界に愕然とする。のっぺりとした絵のように、
軽く踏み込んで、打つ。他に人の気配のないがらんとした道場に、硬い音が反響する。
視覚そのものがぼやけているわけではないので、相対的な大きさは理解できる。動けば当然、見え方が変わるので、そこから距離や形状の情報も得ることができる。けれども、目まぐるしく状況が変化する中で精緻な動きを求められる近接戦において、直感的にそれらの情報を処理できなくなるのは、やはり難しいものがあるのではないか。
今だって、自分は打ち込み台の実物の大きさを元から知っていたから、おおよその距離を知ることができた。もし初見の物品が標的だったならば、また勝手は違っていただろう。
──これで戦えるのだろうか。
橘の姿を思い出す。
全集中の呼吸は、新人としては十分な精度でできていた。彼女に支給された日輪刀の刀身も確認したが、鮮やかな
──どうしたものだろう。
目元を覆う手拭いを外す。明は手の中の手拭いを見つめて、重いため息をついた。
「橘、いるか」
彼女らが起きているだろう時間を見計らって、明は笠田と橘の部屋を訪れた。障子越しに声をかけると、人影が近寄って障子を開けた。笠田だった。
「あぐりちゃんですか? ちょうどさっき、部屋を出て行っちゃったんですけど……」
「そうか」
明は顎を親指でかいた。折角時間が作れたので剣を見ようと思ったのだが、すれ違ってしまったらしい。
「すまない、邪魔をした」
足早に廊下を歩きながら、明は笠田の気配を探った。──人が多すぎて、特定できない。この時間は隊士や隠の出入りも多いため、雑多な気配で溢れかえっている。
──真菰なら、一発で見つけられるのだろうが。
彼女は鼻が利く。鬼の痕跡があれば嗅ぎ逃すことはないし、鬼以外の人間を探すこともできると言っていた。
ふと、上から足音が聞こえた。音につられるようにして、明は顔を上げた。
「──橘」
探していた顔を見つけて、思わず声が出た。
橘は両手で埃を被った小箪笥を抱えていた。剣士として力は十分にあるらしく、重そうな素振りは見られない。
「東出さん?」
柵越しに橘が明を見下ろした。明の顔を認識するや否や、彼女は階段を駆け降りた。
「何か、ご用事ですか」
「……ああ。それを部屋に置いたら、稽古場に来てくれないか」
「……君の流派は鳥の呼吸だったな」
「はい」
明が確認すると、橘は渡された木刀の握りを確かめながら、短く頷いた。風の呼吸の派生、鳥の呼吸。彼女の日輪刀は一振りしかなかったため、鳥柱が開いた二刀流ではなく、より源流に近い剣術を使うのだろう。日輪刀の緑は風の呼吸への適性を示すものだから、その派生の鳥の呼吸にも相性がよいはずだった。
「型はどこまで習得している?」
「陸ノ型までは、実戦で使える程度に」
「漆ノ型は?」
「修行中です」
「そうか」
明は橘の立ち姿を眺めた。漆ノ型は鳥の呼吸の他の型とは難度も方向性も別次元のものだ。習得はできていなくても、取り敢えずは問題ないだろう。
「現状を確認したい。漆ノ型は使わなくていい。打ち込んでみてくれ」
「わかりました」
橘が木刀を構えた。基本に忠実な正眼の構えだ。もとから冴え冴えとした印象の目つきが、射抜くように鋭くなる。
──鳥の呼吸 参ノ型
力強い踏み込みの音と共に、木刀が明の喉元に迫った。雫波紋突きと同じく、速度に優れる突き技だ。
──水の呼吸 肆ノ型隻式 打ち潮
一太刀目の斬り上げで橘の木刀を払い、二太刀目で橘の胴を薙ぐ。視界の悪いだろう右の脇腹を狙ったが、橘が明の木刀を冷静に弾く。右側への攻撃への対処には慣れているらしい。
──鳥の呼吸 伍ノ型
続く、踊るような足運びによる九連撃。橘の斬撃の精度を見るために、後ろに飛びのかず、敢えて木刀で全て受ける。一太刀、一太刀がおざなりになっていない、丁寧かつ重みのある太刀捌きだった。手に木刀の振動が響く。
悪くない。
明はそのまま橘に攻めを続けさせた。
──鳥の呼吸 弐ノ型 燕返し
手首の返しを使った二度の斬撃。初撃の直後に急速に翻って明の肩を狙った二撃目を、明は角度をつけて木刀で弾いた。その際にひねるような動きも加えると、巻き取られるような形で橘が木刀を取り落とした。
一瞬、何が起こったのか理解できなかったのか、橘は右目を見開いて己の手を見下ろした。
「……筋がいいな」
正直な感想だった。目立って悪いところはなかった。
「連撃が上手い。柔軟性もある」
一つだけ気になる点を挙げるとするならば、最初の攻撃に橘が突き技を使ったことぐらいだろうか。
鳥の呼吸の隊士なら、壱ノ型の鶴鳴や、弐ノ型の燕返しから始めるのが定石だろうと思っていた。
普通、鬼殺の剣士は斬首のための技を重点的に教え込まれる。戦闘でも首を狙った攻撃を優先するように指導されるものだ。鬼に対して、斬首以外の攻撃は意味が薄い。動きを鈍らせ、弱点の首への攻撃を容易にするという意味では、胴や手足への斬撃にも意味があるのだが、鬼にとって致命となる攻撃にはなりえないため、優先度は下がる。
もちろん、場合によっては他の技を使うこともあるだろう。真菰も雫波紋突きを好んで使っているのだから、突き技を最初に使用するのが不自然すぎるというわけでもない。ただ、明の予想に反していたというだけだ。
「この精度で刀を扱えるなら、任務にも問題ないような気がするが」
橘曰く、最終選別で右目を失ってから療養しており、入隊してからまだ数度しか任務に出ていないとのことだった。本人の口ぶりからして、実戦に不安があるようだったが、明が見た限りでは、実力が不足しているようには見えない。
「……もう少し、続けようか」
「はい」
橘は生真面目な調子で木刀を構え直した。
今度は明が先手を打った。
──水の呼吸 壱ノ型隻式 水面斬り
橘は下がって避けるのでもなく、機を合わせて木刀で弾くのでもなく、明の斬撃の軌道を完全に塞ぐ形で木刀を立てた。橘の木刀の峰に当たる部分が、明の木刀を遮る。ぶつかりあった衝撃が手の内に響いた。
橘はそのまま、明の木刀を押し込むように下に払った。更に一歩踏み込み、斬り上げに転じる。
──上手いな。
橘の攻撃を木刀の中ほどで受け止める。手首の返しが柔軟で、かつ強靭だ。鳥の呼吸の使い手らしく、素早い連撃に長けている。
一歩下がって仕切り直そうとしたが、明が下がった分だけ橘が前に出た。一度獲物に鉤爪を突き立てたら離さない猛禽のように、距離を取ることを許さず、そのまま剣撃を重ねていく。
それから何度も立ち合いをしているうちに、ようやく橘がやっていることがわかってきた。
やはり、距離感が見えていないのだ。だから一撃目は「当てる」ことを優先している。明の水面斬りに対して、やけに慎重な対応をしたのはこのためだろう。
突き技にしても、前後方向の許容範囲が広いという点で使いやすいようだった。
一度木刀越しに触れることさえできれば、微修正が利くらしい。続く連撃の精度は高く、問題なく刀の応酬ができていた。
橘の環境への学習能力は非常に高かった。あるいは、適応能力とでも呼べばいいのか。立体的な認識、記憶の精度に長けているようで、それによって視覚による遠近情報の欠如を補っているようだった。
立ち合いを終え、剣を納めた後、明は橘に率直に聞いた。──距離感に問題があるのは最初だけだろう、と。
「──はい」
橘は残った左目を瞬かせて、明の顔を見た。
「少し木刀を交えただけで、そんなことまでわかるんですね」
「昨日、試しに片目だけで木刀を振ってみた。感覚の違いに戸惑ったよ。──仕切り直しをさせない間合いの詰め方も、一度掴んだ距離感を手放さないためのものだな」
「おっしゃる通りです。距離を取られると、また一から距離を探らねばならなくなるので」
木刀を打った感覚で正確に位置情報を認識するのもそうだが、地形の情報に関しても、彼女は「一度」だけで完璧に把握することができていた。
「さっき階段を駆け降りていたのも、そういうわけか」
「──はい、そうです。一度歩けば、大体は把握できます。その分、地形の変化には弱いのですけど」
「なるほど。なら、任務の時は昼のうちに着いていた方が良いだろうな。戦場候補になる地域の情報を先に頭の中に入れておく必要があるだろう。……夜間や日没直前の呼び出しがかからないようにしておく」
橘が負傷後も藤襲山で鬼を斬り続けられた理由がわかった。右目を奪われたのは選別の中盤だった。それまでに山の中を歩き回っていたから、地形の情報がすでに頭の中に入っていたのだろう。だから、残った山の中で山を駆け回り、鬼を斬ることができた。
「ご迷惑をおかけしてしまって、すみません」
「その分、他の任務をやってもらえればいい」
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