「ごめん、明。明だとは思わなくて……」
真菰は泣きそうな声で繰り返した。
明の問いは否定しなかった。無言は肯定に等しい。
「いい。わかってる。初めてじゃない。怪我も深くはないから、問題ない」
初の合同任務でも隊士に斬りかかられている。左腕の時だってそうだ。明を鬼と間違える人は少なくない。
それでも、見ず知らずの隊士に刀を向けられることと、選別を共にした同期に斬られることの痛みには大きな差があった。
深く、深く、息を吐きだす。やり場のない感情を吐きだそうとして、しかし、肺の奥の汚泥のようなそれは一向に消えてはくれなかった。
血払いをした紫紺の刀身に、己の姿が映っている。白髪に散った血の赤が鮮やかで、鬼のように禍々しい。
「────なあ、止血だけでもしておかないか。包帯ならある」
見上げた小野塚の顔には、困惑だけでなく怯えがあった。自分が今、どんな顔をしているのかわからない。
「気遣い、感謝します……けど、呼吸術で止血したので、処置は下山してからで平気です」
強く噛んだ唇から出血しているのに気が付いた。
納刀して、強く目を瞑った。──感情を御せない者は、未熟。
ざくりざくりと地面を踏みしめて山を下りる。四人の雰囲気は異様に重い。
真菰に鬼と間違えられた。
その理由に、痛いほどの心当たりがあった。
──自分の体は、鬼に近付いている。
明は硬い隊服の上から左腕を強く握る。
前兆はあった。
鬼から「お前も鬼なのに」と呼ばれるようになったのは、入隊から一か月が経ってからだった。
二か月が経ったあたりから、獣に避けられるようになった。
晴彦が明に近付くのを厭うようになったのも、そのあたりからか。
今月に入ってから、何人かの隊士が異様に明の事を避けるようになった。
最終選別を経て、鬼殺隊士の感覚は鋭敏になる。神経を極限まで張り詰めて鬼のいる山で過ごす七日間は、鬼の気配の察知能力を飛躍的に高めるのだ。明もそれを、身をもって知っている。
だが、選別の最中に他の隊士に襲われかけたことはなかった。疲労により判断力が落ちる最終日でさえも、明の事を鬼と間違える者はいなかった。
──そして何より、ここ最近、藤の花の香が悪臭にしか思えなくなった。
最初から、こうではなかったのだ。入隊前は、これほどに鬼に近い気配などではなかった。この四か月で、自分の体は急速に鬼に近付いた。
明は深く息を吐く。
左腕が治る兆しはない。だから自分は鬼ではない。隊服の上から断面を掴んで、言い聞かせるように頭の中で繰り返した。
真菰による刀傷は浅かった。隊服が頑丈であるおかげもあっただろう。
与えられた三日間の療養期間のうちに傷跡一つ残らず完治した。これほどの浅手で三日もの休養を与えられたのが不思議だった。
少し久しぶりに感じる任務に、気負うことなく夜を歩く。今回は単独の任務だ。自分の身一つを考えればいい気楽さが、明の心を凪がせていた。
鴉に導かれて来たのは辺境の村。民家は少なく、かわりに広大な田が広がる。周囲を照らす光源は頭上の月だけ。月光に照らされた稲穂の鈍い金色が風に揺れて音を立てていた。
軽い足音を立てて歩く。
白髪の頭は闇夜に目立つ。あえて隠さず晒しているのは、自分の体を鬼寄せのおとりとして使うためだ。
「────ここは俺の縄張りだ」
乾いた声が聞こえた。壮年の男の姿をした鬼が、堂々と真正面から歩いてくる。
抜刀。
鬼の気配が尖る。
「……お前、かたわか」
明の左腕に目を留め、意外そうに鬼は言った。
その鬼の見た目はほぼ人に等しかった。黒髪も肌の色も目の形も、人と変わるところはない。
鬼殺隊士でなければ、彼を鬼と見抜くことは不可能だったろう。
「君がここの鬼だな」
「鬼と呼ぶ奴もいるな。角も金棒も持ってはいないが」
明と鬼の間に、乾いた風が吹いた。
「今出ていくなら見逃してやる。お前を喰っても旨くはなさそうだ」
「それはできない。私は君を斬りに来た」
明は刀を正眼に構える。見た目は人と変わらぬ鬼に向けて。
「人を喰うからには斬らねばならない」
鬼は馬鹿にしたように嗤った。
「喰わねば生きられん。生き物はみなそうだろう」
奇妙な鬼だった。
鬼の言葉は、今まで明の聞いた中で最も理知的な響きを伴っていた。
会話を続ける必要はないと理解しつつも、明は問わずにはいられなかった。
「獣を食べればいいだろう。何故、人ばかりを喰う」
「そりゃあ、人の方が腹にたまるからさ。獣三匹よりも、人ひとりの方が滋養になる。人を喰った方が効率的だし、殺す数も少なくて済むだろう。多くを殺すよりは道理にかなってるんじゃないか?」
鬼は話が通じるはずのない相手だった。今までの任務で、鬼との会話が成り立つことはなかった。彼らは支離滅裂な主張をわめきたてるばかりだった。
だが、目の前の鬼は、明の言葉に対して明確な返答をした。濃厚な鬼の気配を纏っており、おそらくは多くの人を喰ってきた存在であるはずなのに。
「……言葉を話す相手を殺すことに、何も思わないのか。それに、君も元は人間だっただろう」
「元は人だと言われても、覚えていないからなあ。お前こそ、俺も『言葉を話す相手』なのに斬る気満々じゃあないか」
鬼は不思議そうに首を傾げた。
「鬼を斬って食い扶持を稼ぐことと、
返答に、詰まった。
「……鬼は、人を喰う。即ち罪人だ。鬼殺隊は処刑人と同じく、鬼の首を狩っているだけ。無軌道に無辜の人を傷つけてはいない」
鬼は軽蔑のこもった顔で明をにらんだ。
「鬼殺隊というのは、命に貴賤をつけるのか。人の命は獣の何倍も価値があるといい、鬼は存在自体が悪と宣う。正義やら道徳やらを題目に掲げながら、ちゃんちゃらおかしいことだ」
前に喰った剣士も鬼は悪だとわめいていたなと、鬼は懐かしそうに言った。
「私は人だ。剣士として、鬼殺隊として人を守るのは当然の事」
聞いた瞬間、鬼は今までにない大声で笑った。
「────はっ、ははは!」
心底おかしそうに、鬼は体を揺らした。
「────お前も鬼だろう! 何の冗談を言っている! 自分の体をよく見るといい」
目じりに涙すら浮かべて笑い転げている。明よりもよほど人に近い容貌の顔が、異形の眼を見て嘲笑する。
「愚かだな、お前は。人の言いなりになって鬼を斬っているお前は、いっそ哀れだ」
かっ、と体が熱くなるのを感じた。
「私は私の意志で鬼殺をしている。私は人を喰わない。私は悪鬼ではない」
もはや話すべきことはなかった。
「ならば死ね、茨木童子」
鬼は嘲笑を向けたまま、明を伝説上の鬼の名で呼ぶ。人に腕を斬り落とされた逸話を持つ鬼の名で。
地面から土でできた手が無数に伸び、明に群がる。
────水の呼吸 肆ノ型隻式 打ち潮
腕は斬った端から土塊に戻った。乾いた土砂が畦道に降り注ぎ、砂埃が明の羽織を汚した。
鬼は無数の腕を全て斬り伏せながら突進してくる明の身のこなしを見て、顔色を変えた。踵を返し、逃走に転じようとする。
逃がすものか。
────炎の呼吸 壱ノ型隻式 不知火
地面を抉る踏み込みと共に、夜の稲田に有明の怪火が広がった。渾身の力を込めて振りぬかれた刀が鬼の首を荒々しく斬り飛ばす。
耳の奥に『お前も鬼だろう』と嗤った鬼の声が、残響のようにこだましていた。