見た目に似合わず、思わず振り返ってしまうほどに鈴の音色を思わせる澄んだ声音、しかし、眼界を埋めたのは、日常から離れ過ぎた光景だ。
眼前に立つのは、俊の身長を軽々と越えた化け物だった。顔は、仰々しいまでに鬼を連想させ、長い手足は無駄のない筋肉に包まれている。吐き出す息は白い帯となって俊の鼻先を掠めていく。瞠目する俊に構わず、化物は、右手を高々と掲げ、その怪腕を躊躇なく降り下ろす。
「あっ......あああぁぁぁ!!」
咄嗟に両腕を頭上にあげたが、受け止められる筈もない。逃げるにしても、もう間に合わないだろう。
俊には、きつく目を閉じその時間が訪れることを待つことしか残されてはいなかった。どれだけの時間が経過したのだろうか。一時間、二時間、いや、五時間は過ぎたのではないか、死ぬ間際というのは、これほど時間の流れが遅いものなのか。だとすれば、もういっそのこと、この地獄を終わらせてほしかった。生暖かい感覚が右手を包んだ。
ついにその時がやってきたのだ。
「......何してんのよ」
はっ、と意識を取り戻したのは、きつく閉ざした瞼の先で呆れたような声が聞こえたからだ。
全身を冷たいものが覆っていく。それがさきほど化物に襲われた際にかいた冷汗なのか、雨によるものかの判断もつかないが、どうやら痛みはないらしい。あまりの出来事に思考が追いつかない俊が、自分の両手へ視線を落とすと、少女が溜め息をついて言った。
「……賢人さん、本当にこの子なの?」
「ああ、間違いないよ。こちらは良く覚えているしね、目元と顔立ちが父親そっくりだ」
少女の背後から男が現れ、俊は目を剥いて尻餅をつく。雨の中だったからだろうか、少女とすれ違った時には気づけなかった。
男は腰を僅かに落とすと、膝に手をつき中腰の態勢で口を開く。
「本当に……久しぶりだね。迎えにきたよ、俊君」
俊は眼前に突き出された右手を眺め、男を仰ぐように顔をあげた。痺れた声紋へ唾を通し声を絞り出す。
「だ……誰ですか?僕は……貴方を知りませんし……それに、さっきの化物は……」
苛立たし気に水溜まりを踏みつける音がする。
「賢人さん、やっぱり違うんじゃないですか?闇骸も知らない罰の民なんて聞いたこともありませんよ」
胸の位置で腕を組んだまま、俊を睨む少女に賢人と呼ばれる男が困り顔で振り向いた。
「彼にしたら産まれる前のことだからね。それに、真夜ちゃんも二歳だったし、覚えてないことは仕方がない」
「……え?僕が産まれる?」
俊の瞠目に対して、眉を狭めたのは真夜だった。不快そうに唇をあげる。
「何よ?自覚がないのなら口を挟まないでくれない?」
「いや……そうじゃなくて……」
言い淀む俊に我慢の限界がきたのか、真夜は声を張った。
「言いたいことがあるなら、すっと言って!」
「ご……ごめん!……あの……僕が今、17だから……えっと、もしかして、僕より年上……?それにしても……と思って」
俊の視線が、真夜の顔から胸、腰、両足まで下がっていき、爪先にまで到達すると同時に賢人が顔を片手で覆い、俊の頭頂部には、固い棒で打ち付けられたような衝撃が走った。
「小さくて悪かったな!」
矮躯を震わせつつ女性が叫ぶ。それが脳内においてスイッチのような役割果たしたのか、俊は目の前が暗転するのを確かに見た。夜の帳が下りる十七回目の梅雨、優来俊の日常はこの日、地面に引かれた一本の線を、はしゃぐ子供が飛び越えていくような気軽さで変わった。