直後、鼓膜を震わして轟然と鳴り渡る威嚇音。数人の魔女教徒が新たな餌食となった喧騒の中、すぐ傍のスバルには空気を切る音が聞こえた。
何かを強く振った時に聞こえる、風のような鋭い音だ。それが耳元を通り過ぎたかと思うと、次は随分と遠い場所から響いた。
同じ風切音、ではない。
「ぁ、く──っ!?」
少女の呻き声と、何かが砕ける鈍い音。
驚愕に見開かれた少女の目が己の胸を見やる。か細い柔肌を、刃物で抉り取ったらそうなるだろうか──薄い胸に、風穴がぽっかりと空いていた。支柱となる骨が乱雑に折れ、取り返しのつかないほどに損傷を来した筋肉と贓物。赤く染まり続けたそれが区別も出来なくなるのに時間はあまりかからなかった。
それだけでなく、彼女の足は地を離れ、首元を軸に体ごと浮いていた。喉が圧迫されているのか、声もまともに出せずにえずく。あの惨状で意識を保っているのがスバルには不思議でたまらなかった。
「がっ、ぉ、ごほっ、ぇおっ……! ぁが、ぐ……」
「『見えざる手』。アナタの怠惰なる行いの、報いなのデス」
悲しみを湛えた声音でペテルギウスが呟く。対して、スバルは何も出来ずにただ座っていた。
苦痛に叫び散らすより、息を詰まらせてむせる方がよっぽど苦しそうだった。
少女の舌は酸素を求めて動き回り、伸ばし切った腰と脚がビクンと小刻みに痙攣する。その揺れは捩れる前兆だ。血が浮かび上がると同時に、張り詰めた筋繊維がブチブチと千切れる。しばらくして「ひゅぅ」という空気の抜けたような音と共に、口からも血を吐き出した。
まるで洗濯物でも干しているかのように、絞られて宙吊りにされた全身から赤い水が滴り始めた。
「おい……」
なんだこれは。なんだよこれ。何が、どうなっているんだ。
横にはスバルを庇って死んだ魔女教徒。前には今まさに死にかけている少女。どうしてこうなったのか、直前のことも思い出せない。視界が暗い。思考が塗り潰される。考えても考えても目の前の闇に呑まれてしまう。
スバルは何を見ていて、見てきたのだったか。闇の中に感じるのは、ああそうだ、サテラのしなやかな、細い手──、
「──ナツキ司教! 教徒の懐からナイフを取り出して、あの少女に突き刺すのデス!」
「え、は?」
どれくらいそうしていたのだろう。気絶でも、失神でもない。ただ途方に暮れて、沼底に沈んで、ぼーっとしていた。
しかしスバルの意識外で時間は進んでおり、ふと、ペテルギウスの声で気を取り直した。数秒遅れて言葉の意味が脳に浸透し、処理し切れなかった疑問が口端から漏れる。
ペテルギウスは、四肢を全て失って横たわっていた。四箇所から血を流し、動けずにそれぞれの血溜まりを作っている。傷跡はいずれも犠牲になった魔女教徒と同じく、平たい切断面が特徴的だった。
そして、それをしただろう少女の姿もまた変わり果てていた。胸に空いた風穴はもう見えない。その位置にあるはずのない骨と贓物が穴を埋めていたからだ。彼女の肢体に正しい方向を向いた箇所はもはや見えない。
「突き刺すって、この子はもう……」
「マナの流れが激しく乱れていマス! 大規模な魔法の兆し……まだ、彼女は息絶えていないのデス! 反撃される前に! トドメを、刺すのデスよ! ワタシのことは気にせず、どうかアナタのために献身してくれた、敬虔なる信徒の仇を! 神聖なる試練を妨害する、悪しき鬼に鉄槌を」
「────」
「ナツキ司教! 愛に、報いるの、デス!!」
あらゆる関節が歪み、折れ曲がってもなお少女の眼光は炯々と燃えている。そして血に塗れたその不完全な手を、こちらへ向けるのだ。未だ燃え尽きぬ闘志を以てこちらを射抜く双眸。もたついていたら、ペテルギウスの言った通り少女に反撃を許してしまうだろう。
網膜を焦がす殺意に炙られて、目の奥が痛くなる。頭がおかしくなりそうだった。どうにかなってしまいそうだった。
でも、自分の置かれた状況が分からなくても、一つだけ確かなことがある。それだけを頼りに、スバルは少女から目を逸らす。
──いつの間にか、地面に置かれた白い福音書。
紙が捲れ終わり、開かれたその頁に文章が一つだけ書かれていた。
『殺される前に、殺すべきである。』
不思議と、なぜとは思わなかった。
「ごめん」
「────」
「ごめんな。……ごめんな。俺のせいで、ごめんなぁ……」
ナイフはすぐに見つかった。手の届く距離まで近付くと、少女の視線がこちらへ向いたのを感じた。視線を合わせればスバルの目が焼けてしまいそうな大熱。目蓋を閉じてもなお防ぎ切れない熱さだ。
もう余裕も何もあったものではなかった。両手でナイフを持ち直し、一息に振り下ろす。せめて一撃で死んでくれと、心からそう願って──。
「ごっ」
──そのナイフが、唐突に手から弾かれる。
何かが目の前を物凄い速度で通り抜け、トドメを防がれたのだ。金属同士の摩擦音に次いで空気を引き裂く破裂音。容易く手を離れたナイフは、そのまま木にぶつかって落ちる。持ち手だけが本来の形を残しており、粉々に砕けた刃の破片の一部は手の中を切り裂いていた。皮膚と血管の切れる音がした。血が吹き出る。
呆然と見下ろしてふと思った。
指まで一緒くたに千切られた音は、割と地味だったと。
「あ、あ、あああ!? お、俺の……ゆび、指が、ぁあっ!」
左手の三本と、右手の二本。実感が湧かない指の喪失に、喉の奥から込み上がって来た悲鳴を吐き出す。
痛い、痛い。熱い。痛い熱い熱い痛い痛い痛い痛い熱い痛い痛い。痛い。
「痛い、痛い、痛い、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ」
「ああ、あああぁぁ、ああぁぁぁあああああぁ────ッッ!!」
それが、遠吠えのような金切り声に打ち消される。
肩を震わせ、声が聞こえた方向へ首を回した。痛みよりも驚きが先行した原因は、二つ。
一つ。半円を描いた黒い塊が森の木々を薙ぎ倒し、その向こうから小さな人影が出てきたこと。
一つ。粗く削れた指の感覚がなくなり、傷跡からピキピキと罅割れながら凍り付いたこと。
「あ、ぁぁ、あ、あ、ああああ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あぁ……よくも、姉様を。よくも、よくも、よくもよくもよくもよくも、あぁ、姉様、を! ぁぁあああああっ、魔女教徒ぉ……魔女、ごっ、教徒ぉぉおおおおっ!」
デジャブを思わせるメイド服の少女が、けれど今度は青い双眸に殺意を煮え滾らせて姿を現した。この世全ての怨嗟を取り込んだが如く鬼気迫った顔に血管が浮き上がり、激情は体内で荒れ狂い骨を軋ませる。
特筆すべきは両手から垂れ下がった鎖だ。冗談みたいに長い鎖の先端に繋がった鉄球、その無機質な鈍色に血の赤が付着する様は想像に難くなかった。それが自分の血になるだろうことも。そして──、
「──角」
そう呼ぶに相応しい突起物が少女の額から生えていた。魔獣と同じく禍々しい燐光を纏ったその角を中心に、ぶわりと旋風が巻き上がる。
悪寒が全身を巡り、生暖かい違和感が肌にひり付くこの感じは、恐らくペテルギウスの言っていたマナの流れだ。目に見えない不可視の激流が辺りに吹き荒び、森を揺るがしているのが分かる。地響きも錯覚ではないだろう。
だが、酔いは来ない。なぜなら、周囲のマナはスバルを素通りして一目散に角を持った少女へ──否、あれは鬼だ。
青い鬼が、棘棍棒ならぬ棘鉄球を携えて他でもないスバルを射抜く。天変地異の災害すらその細い背に負って、ナツキ・スバルただ一人を狙っているのだ。
咄嗟に視線を戻すが福音書は消えていた。スバルのしるべは、もうどこにも無い。
故に、次の瞬きをする時間が許されたのは、彼女が倒れた薄紅色の少女に駆け寄ったからでしかない。
「姉様! 姉様!」
「…………れ、ぅ」
「はい、姉様のレムです。ですからもう喋らないで。いま、今治します。治します、から。だから、お願い……水のマナよ、おねが、ぃ、姉様を……姉様を助けて。死なない、で……しんじゃ、やだよ、おねえちゃん……っ」
必死に、彼女は嗚咽に懇願を重ねて手をかざす。淡い光が薄紅色の少女を包み込み、遠目にも治癒をしていることが窺えた。
それでもさすがにスバルを近付かせる気などあるはずもなく、半径数メートルを膨大なマナの渦が囲んでいた。魔法一つ使えないスバルには到底無理だ。この様子では、きっと話し合いも不可能だろう。
疎通は諦めて藁にも縋る思いでペテルギウスを抱き起こす。手足を欠損した彼は軽く、抱き上げた体に命の熱は感じられない。魂以外にも多くのものが抜けたような喪失感が襲った。こちらには治癒の手段も皆無だ。蘇生など夢のまた夢。
「これ、お前がやったのか」
目を向けたのは彼の背後に迫り上がった無骨な壁。道幅を大きく覆っており、魔獣の追っ手を食い止めるために土を固めて作ったのだろうが、今では退路を塞ぐ障壁と化していた。
どちらにしろ、魔獣に喰い千切られるか鬼に八つ裂きにされるかの差だ。最期に迎えるのが碌な結果でないことは確実だった。
姉と呼ぶ少女をマナでやさしく包んでから、鬼の少女が紅涙を絞って問い掛ける。
「……魔女教徒。答えても、答えなくても、出来るだけの苦痛を与えてから死んでもらいますが……一つだけ、聞きます。なぜ、また姉様を……いえ。ここに、何の用で来たんですか?」
「う、や、俺は魔女教徒だけど、お前たちと争うつもりはなくて……そう、サテラ! サテラに会いたいだけなんだ! 会って、話が出来れば他に何も要らない! 分かってくれ! 魔獣のせいでパニクったけど、本当に、これは何かの間違いで……」
「──この期に及んで、何を言うかと思えば」
荒い息に言葉が乱れた言葉で、少女は声を震わせた。叫びたい衝動を精一杯抑え込み、ふたをした理性の裏側で憤怒が歯軋りしている。
やがて危なっかしい足取りのまま体を起こし、低い姿勢で立ち上がった。影の落ちた表情が虚空を眺めている。自分と同じだから、スバルにはその瞳が何を見ているのかが分かった。
何も見ていない。
胸中を塗り潰した感情以外、何も見えていない。
なぜなら必要がないから。
他の何かに目を逸らす余裕なんて、あってはならないから。
「あ、ああああぁぁ、あ、あ、ああ!」
張り詰めた空気に人の声域を越えた雄叫びが迸る。満を持して溢れ出したどす黒い殺意がマナと混じりつつ、気象をも捻じ曲げて黒雲を成していく。
「あああ、ぁああああぁぁあああああ、あぁ、あ、あ、あ、ぁ──」
血の涙は突風に巻き上げられて角を濡らし、それの放つ光を濁った暗紅色に変える。見たところ、その角がマナを取り込む鬼の器官だ。ただでさえ異常な密度で溜まっていた村中のマナが一点に引き寄せられて、角は罅割れ、許容量を超過した血管は破裂する。
「あぁ、魔女教徒! 狂い死ぬまで……楽に死ねると思うなあァァッ!!」
そうして文字通り身を削った彼女の頭上に現れる、氷の塊。血煙を纏い、不気味な輝きを内包したその魔法が黒雲を突き破って降下。乱暴な氷結に空気が悲鳴を上げ、狙い違わずスバルに影を落とす。影は所々から突出した棘によって歪な形をしていた。
彼女はああ言っていたが、狂うまでもないだろう。掠っただけでスバルは死ぬ。
死ぬはずだった。しかし──、
「──彼の狂気は、すでに本物デスよ」
その影から伸びた手が、スバルの背を押してくれた。
たたらを踏んで前に出ると、思いの外鬼は近くにいた。俯いていた顔を上げれば目が合う。突然のことに二人揃って愕然としていた。
ただ、スバルのほうが若干背が高い。だから、目より上の角が──罅の入った角が、とてもよく見えた。
特に何か考えていたわけではない。ここで殺されるのだと、直前まで諦めていた。
でも不思議と、スバルは彼女との距離が近いことに気付いて、また気付く。
『殺される前に、殺すべきである』
鬼の身体すら崩壊させるほどに膨大なマナ、その連結部分が壊れればどうなるかなんて、さしたる知識の無いスバルにも分かる道理だった。
福音書は消えたが、それをしるべが無いとするのは誤解。
しるべは、導きはまだ続いていたのだ。新たに示す必要性が無かっただけ。もう一度、さっきの言葉を刻み直せ。
「殺される前に」
スバルは死ねない。何があってもサテラに会うと決めた。
もしスバルが死ぬとしたら、それはサテラが死んだ時だろう。
「魔女きょ──」
「殺すべきである」
血塗れたナイフの破片を、健在である三本の指で角の罅に刺し込み、そのまま力を込める。
ケタケタ、ケタケタと。
悪辣な笑い声が背後に聞こえた気がした。
†
酷い有様だった。
森は隆起した土壁と抉られた裂傷、そして季節感を狂わす霜に蹂躙されていた。淀んでいたマナが乱雑に動き回り、近くに生き物などいないだろうにどこか騒々しい。頭上の黒雲は局地的な雪を降らせており、先ほどの嵐の激しさに反して雪が舞う速度は花びらより緩やかだ。
そうして、この場を音の無い白に閉ざしていく。
少女二人分に盛り上がった積雪を通り過ぎ、降雪地帯を抜けた先にスバルたちは立っていた。
ここも嵐の影響を受けた箇所──氷が部分的に崩れて出入り可能になった、メイザース邸への通り道だ。
「入り口を探す手間が省けたのは僥倖……ただ、身体を失ったのは痛いデスね」
そう言って悲しげに目を伏せる、一人の人物。両手を閉じたり開いたりしながら身体の感覚を確かめている。軽く揺らす彼女の身体は五体満足で、肌の艶や血行などを見るに健常者そのものといえた。
しかし、聞き慣れた口調から思い浮かべる顔と実際の顔はまったくの別物だ。緑色の髪も痩せこけた肉付きも、性別までの全てが別人のそれに変わっている。
事実として、彼女は別人といって差し支えない。
だが当たらずとも遠からず、といったところだ。
「それと『憑依』の際、一帯のマナに直に触れて分かりましたが、これは精霊魔法なのデス。火の大精霊が造ったものでしょう」
「氷漬けなのに、属性は水とか氷じゃなくて火なのか?」
「ええ。生じる現象が同じであれば魔法名に区別は無く、属性の分類はその過程によって決められるのデス。この場合、別途に氷を製造する水魔法に対し、火の魔法は温度調節により対象自体を凍らせることが出来マス。もっとも、この精密さに規模となると、他の属性も扱える可能性が高いデスがね」
「なるほど……」
魔法の説明はさておき、今しがた言及した『憑依』──それこそが、ペテルギウス・ロマネコンティ生存の秘密であり存在の根幹だ。
彼女、もとい彼は『指先』という部下を複数人従えており、自らの肉体が使えなくなるとその内の一人に乗り移るのだという。つまるところは精神の移動と上書き。組織の利を使い、擬似的な不死を成しているのだ。
だが正直言って、性別も声音も、それが聞こえる高さも違うと、いくら口調が同じでもこちらの感覚が狂う。鬼姉妹の襲撃を乗り切り、事情を聞いた今もまだ、スバルは彼女がペテルギウスの振りをした一般教徒ではないかという疑いを晴らし切れていない。無論心の中でのみだ。
何度も命を救ってもらった立場で言いづらいが、これからまた命を預けることになる。どうせ後戻りは出来ないのだ。何も振り返らずに、進もう。
「それでは、最終確認をしマス。魔女からの『試練』を無事に乗り越えた我々は、ついに本命である半魔への『試練』を執り行うのデス。アナタが見つけた半魔が器として魔女を降ろすに相応か否か……ワタシは、今回が運命の時だと、そう感じているのデス!」
「魔女を、降ろす」
「そうデス! 魔女を、『嫉妬の魔女』を降ろす歴史的瞬間がすぐそこに! 悲願の成就! 勤勉の応報! 魔女教が長きに渡って追い求めてきた偉大なる魔女が、完全なる姿で再臨するのデスよ! 嗚呼、脳が、脳が、脳が脳が脳が脳がのうがのうがのうがのうがうがうがうがうがうがああああぁぁ……ふる、えるぅっ」
話の内容はほとんど分からないが、サテラが生きていると信じてくれてみたいで安心した。
彼の歓喜の叫びはまだ続く。
「長く遠い道のり……しかし、一瞬たりとも後悔や退屈を感じたことは無かったのデス! さあ行きましょう──この身を捧ぐことに一片の迷いもない、愛しき魔女に永遠のあらんことを!」
適当に相槌を打ちながら、スバルは片手に福音書を確認する。ペテルギウスが言うには『傲慢』の証らしいそれを広げると、真っ白な頁に文章が浮かび上がる。彼に付いて行けば良いと書いてあった。
いざ目の前にすると氷漬けの屋敷から放たれる威容が尋常ではない。薄着のせいで、より寒く感じられた。
「……そういえば、ローブどこにやったっけな」
一時の安寧に思い浮かんだ疑問は、ペテルギウスの号令で消え去った。
──それから十数分が経った頃だろうか。窓の外を眺めながら二人は歩いていた。
外の景色が氷で歪み、太陽の位置を写してくれない屋敷内部では時間の把握が難しい。外見通り広い廊下を黙々と進むスバルたちは、一階から順に探索して三階へ上っているところだ。
屋敷の中は閑散としており、人っ子一人いない。明かりが点いていないため視界も暗く、まるで肝試しに心霊スポットを訪れている気分すらしてくる。
状況としてはサテラのいる可能性がかなり低くなったが、スバルもペテルギウスも弱音を吐かずに探索は続いた。可能性の話をするなら、そもそもこんな氷漬けの建物で人探しをしている時点で無謀だろう。それでも挑む理由があるから挑んでいるのだ。
確信と紙一重である妄信。期待というには不純すぎる欲望。俗に狂気と呼ばれるそれらが、原動力として二人の心に薪をくべていた。だが──、
「──また、二階だ」
階段を上り切った先に見えた同じ高さの景色に、スバルは呟いた。
その目に映る窓の外の景色は、今さっき痕跡無しと判断した二階からの展望と全く同じ。階段の位置や廊下の幅と長さ、部屋の配置などが同じなのはそういう構造だからと目を瞑っても、物理的な問題である以上高さは誤魔化しがつかない。
上れど上れど三階に辿り着けない階段。ゲームならば条件を達成しない限り前に進めないシステムとして組み込めるが、この場合は都合が違う。有り体に言えば、魔法に類する超能力の関与だ。
「どうやら、空間が歪んでいるようなのデス」
「迷路を造る魔法もあるのか。こういうのって、闇雲に強行突破しようとしても意味が無いパターンだと思うんだけど」
「そうデスね……元となる術式や発動者を探して、根本的な原因を断ち切るのが賢明でしょう」
つまり、誰かがこの屋敷にいるのだ。最低でもループ階段の仕掛け人、あるいは氷漬けの要塞内を迷宮にしてでも近付かせたくない保護対象か。実は何も無く足止めのための罠という線もあるが、考えただけで口にはしなかった。
生憎と異世界の魔法に関して知識不足であるスバルは、現状、ファンタジーでのお約束や直感に頼るほかない。常識に囚われない考え方というものは極々限定的な状況下でのみ有用となる視点だ。素直にペテルギウスに任せるのが得策だろう。
ここに来てから、正確には屋敷の中に入ってからスバルは僅かながら冷静さを取り戻していた。やけに体が軽い。濃密なマナの空間から離れたということもあるが、それとは別の安心感があった。
なんというべきか、屋敷内のマナはスバルの肌によく合う気がする。
「あっ……」
故に、その心地よさが基準を超えて過剰量に達した時、スバルは無意識に立ち止まった。前を歩いていたペテルギウスが振り返り、「どうしたのデス?」と訝しんで視線の方向を同じくする。
そこには、扉があった。中央階段の一歩手前、廊下に並列した扉の一つだ。何の変哲も無く、もはや見飽きたそれをスバルは瞠目して眺めている。
その先に何かがあると、見ても分からないほどペテルギウスは愚鈍ではない。ゆっくりと近付き、スバルの代わりにドアノブを捻った。
「──新しい、お客様が来たかしら?」
「ぇ、あ?」
扉を開けた先に広がったのは、今まで見たどの部屋とも違う場所だった。面積も内装も全くの別。すぐ横には階段があるはずだが、外と内の大きさが合っていない。まるで、マップの表示上では小さいのに中身は数倍もあるレトロゲームの建物のようだ。
そして、そのほとんどが本棚に占領された不可解な部屋の中に、一人の少女がいた。金色の特徴的な髪を両サイドに巻き、本片手にドレスを靡かせる少女。場所が場所なら幼女にも見えるだろう彼女は、しかしどこか荘厳ささえ感じる異様な佇まいで、じーっと目線と好奇心をこちらに向けている。
「ゲーム……空間の、歪み……じゃあ、もしかして」
「ナツキ司教、これは」
「ああ、さすがに俺でも分かった。つまりはあの子が──」
──ループ階段の仕掛け人。そう考えるのが妥当だろう。
「お前も、ベティーと一緒に遊んでくれるのかしら」
「あ、遊ぶ? よく分からないけど……この迷路を造ったのはお前か? だったら解いてくれ。俺たちは人を探してるんだ」
「ニンゲン探しなんて、ベティーが知ったもんじゃないのよ。それより、遊ぶ気がないならお前たちはベティーに何をしてくれるのかしら? どう楽しませてくれるつもりなのよ?」
「遊ぶだの、楽しませるだの、さっきから何を……」
話が合わない。どうも、スバルと彼女とは今の状況における前提が異なるようだ。
スバルはループの原因である少女に妨害を止めるよう頼み込むが、少女は二人が遊びに来たのだと思っている。階段のループ自体が彼女の遊びだったのかもしれない。だとしたら、原因を暴いたことは説得の材料にならないだろう。やり方を変えられるだけだ。
「アナタはどうやら勘違いしているようなのデス。これは遊びでなく試練……受け賜りし寵愛を返す運命の日! 我らの愛が証明されるかもしれないこの日に、いかなる譲歩も妥協もあってはならないのデス! 真摯に、真剣に、懸命に、熱心に、一途に、直向に、誠実に、勤勉ににににににぃぃぃぃ! ぁあ、怠惰の一切を排して執り行うべきが試練! 生半可な気持ちで臨むものでは、決してしてしてしてててて、無いの、デス!」
「騒がしい奴かしら。それに、無礼にも程があるのよ、ニンゲン。ベティーみたいな大精霊を前に……」
ピタリと少女の言葉が止まり、そこで初めてペテルギウスをまともに見る。激昂する彼を蝶模様の瞳に映し、彼女は眉を顰めてから小さく吐息した。
「……はあ。随分と、馬鹿なことをやっているかしら。愛とも呼べない、そんな筋違いの感情を向けられる相手が可哀想ったらないのよ」
「────」
見た目通り子供っぽかったそれまでとは打って変わって、声の調子を落とした彼女からは妙に貫禄が感じられた。脳が自然と聞き入り、スバルは息を殺す。
しかし、ペテルギウスの沈黙は意味が別だった。
「ぁ……き、が──」
「ペテルギウス?」
「──半端な、精霊、ごときが……ワタシの、ワタシのワタシのワタシのワタシのワタシのワタシのぉっ! 愛を、この揺ぎ無き深愛を、穢れ無き純愛を、嘘偽り無き信愛を否定するというのデスか! 実に汚らわしい! 実に嘆かわしい! あぁあぁ、なんと侮辱的なことか! 権能、『見えざる手』ぇぇ!!」
激怒が膨れ上がり、ペテルギウスは上半身を勢い良く後ろに反らせた。ただ、撒き散らしたのは怨嗟だけでない。屋敷に入る前にも聞いた、あの空気を切る音。それが幾重にも折り重なり、蜂の羽音を思わせる不快な振動となって少女の蝶の瞳を揺らす。
ぶわっと全身の産毛が逆立った。あの時は鬼少女の姉が胸を貫かれた。だが今度は違う。その程度では終わらないという予感がスバルにはあった。
「その頭を地に擦り付けて、這い蹲って、平身低頭して謝るのデス! そして悔やむが良いのデス! 愛に怠惰であった己の過誤を、分不相応であった己の付け上がりを! ──現実を見ようとしない、己の盲目を!」
「────」
高圧的なペテルギウスの言葉に少女の眉が微動する。しかし返事する暇も与えず、殺意が一直線に少女へ降り注いだ。
儚く小さな身が血に塗れ、床を命の破片で汚す一秒後の未来をスバルは錯視した。思わず目を瞑る。視覚だけでも遮断しようと、惨状から目を逸らして──、
「……っ、ぁ、れ? 何も、聞こえない……?」
スバルが恐る恐る目を開けると、そこには驚愕の光景が広がっていた。
まず、直線が消えた。本棚も椅子も、何もかもふにゃふにゃにぐにゃぐにゃに揺らめいている。陽炎よりも激しく広範囲な空間の揺らぎ。この書庫そのものがふやけて硬さを失っていたのだ。
まるで、陸から水の中の世界を見下ろしたかのよう。あるいは、二階から上階へ辿り着くのを拒んだ、あの迷路のような。
言うなればそれは視覚と認識の迷路。
迷彩とは微妙に違う。少女の姿は確かに見えているのに、そこに届くまでの距離、方向、速度、その全てがあべこべだ。
自分の手を動かしても、本来の意思と目に見える結果がまるで合っていない。前に伸ばしたのに途中で直下し、引っ込めると右に折れる。自分自身の感覚と視覚情報のどちらを信じれば良いのか、スバルには判別が出来ない。もし出来たとしても片方に考えが引っ張られて翻弄されるだろう。
「なんと! 我が怠惰なる権能、『見えざる手』を見ずして防ぐとはとはとはははは! その技量、判断、敵ながら当に感服の至りなのデス!」
「お前が何をしようとしたのかは知らないけど、無駄かしら。その力がお前の感覚に依存する限り、この禁書庫でベティーには指一本触れられないと知るのよ」
「いえ! 油断、放心、それ即ち怠惰! 絶対なる寵愛の証に、触れられぬものなど無いのデス! なぜなら今、ワタシの手はあの魔女にさえ届こうとしているのデスから──!」
両者の主張は激化し、ペテルギウスは一層声を荒げて言い返す。
ペテルギウスの言う権能というものについて、スバルが知っていることはほとんど無い。あの白い福音書を彼は『傲慢』の権能ではないかと言っていたが、なぜそこでその単語が出てくるのかも、そもそもどうして自分にそのような力が宿っているのかも、スバルは知らないのだ。
胸中に渦巻く感情に素直に従ってここまで来た。だが現状は、知らない尽くしの異世界で、魔法と権能の戦いに板挟みになっている。されるがままにいるのもさすがに限界だった。
福音書を取り出す。しかし何も書かれていない。
対して視界の錯乱は毎秒酷くなっていく一方で、もう立つことも困難になりつつあった。
「……サテラ」
ぼそっと、スバルの口端からそれが漏れた。
嘆願、諦念、悲哀──色々なものがない交ぜになった一言。
「サテラに会いたい。会って、話がしたい……お願いだ」
結局のところ、スバルに出来るのはサテラへの想いを口にすることだけ。流れに付和雷同することを止めたという即席の達成感のせいで、今度は自己的で盲目的な私情を語っている自覚が曇っていた。どちらも意思疎通において最悪であることには変わりないと気付けず、無理やりエゴを押し付けようとする。
ゆえに、少女は耳を塞いだ。
「もう、いい」
「え?」
「もういいかしら。みんなベティーに背を向けるのよ。──ベティーの手は、誰も取ってくれないかしら」
屋敷での前進を許さず、けれど己への接近をも許さず。
「にーちゃは力を使い果たして、回復するまで屋敷の警護を頼んだけど……一度消えた大精霊が再び顕現するのにどれだけ膨大なマナが必要なのか、その準備と環境が整うのに一体どれだけの時間が必要なのか、ベティーはよく分かっているのよ。なのにそれまで待ってくれ、なんてあんまりかしら。ベティーはずっと待ってきた。でも手を差し伸べてくれる人はいなかった。『その人』も、にーちゃも、みんなみんな、ベティーを独りにするのよ」
今の彼女には、声すらも届くことが許されない。
「もしにーちゃが帰ってきても、それからはあの娘に付きっ切りになるに決まっているかしら。一度死にかけたせいで、にーちゃの過保護は激しくなって、きっと、きっとベティーのことなんてすぐに忘れてしまうのよ。一番じゃないから。誰の一番にもなれないから、ベティーは独りかしら。誰も遊んでくれない。誰も一緒に待ってくれない。誰も選んでくれない。いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもずっと、ずっと待ち続けて──」
共感も拒絶も必要としない言葉は当然、相手からの返事を前提として外していた。人に言い聞かせるのでもなく、自ら戒めるのでもなく、ただただ心の許容量を超えた感情が溢れ出る。
視界が歪み、声が反響し、脳の代わりに鉛を詰め込まれたかのような頭は、肉体の自由を奪う重荷でしかない。そして、間近の経験から思考でなく直感によってその答えを暴く。
「……マナ、酔い」
それは、異常量を感じて扉を開けた時から今までずっと。基準値を超えた少女の黒く暗いマナに晒され続け、スバルとペテルギウスを内側から蝕んでいたのだ。
遅すぎる気付き。足の力が抜けて大きくふらついた体をかろうじて捻る。元々その方向だったのか、咄嗟の行動のおかげなのかも分からないが、スバルは倒れ込む形で扉を開けた。室内のマナと外の空気とが混ざり合い、僅かながら頭が軽くなった気がする。錯乱も和らいだ。
いずれにせよ今がチャンスだ。ペテルギウスを呼んで、ここは一旦撤退を──違う。それも錯覚だ。
この部屋の扉は内開きだった。廊下側から室内へ向かって押さなければ物理的に開かない。
スバルの倒れた方向はその真逆。室内から廊下側へ、だ。つまり、
「──君かい?」
「────」
反対側から扉を開き、丁度そこに滑り込んできたスバルを見下ろす一人の男。片手で扉を押し切った姿勢のまま、彼はそう言って影を落とした。
薄暗い廊下の闇に紛れる暗色の長髪。やや前屈みにもかかわらず、随分と高さに差がある長身。左右の目を妖しく縁取った黄と青の瞳。全体が白く塗られた顔。
それらの特徴を佇まいと雰囲気で道化に溶かし込み、返事の無いスバルを見ながら彼は再度口を開く。バタンと扉が閉められた。
スバルには知る由も無いが、その閉鎖は世界からの隔絶を意味している。
「ベアトリスを泣かせる君かい? それともエミリア様を王にする君かい? ──今の君は、どっちかな?」
「は、ぁ?」
「重要なことだ。本当に、重要なことだよ。私にとっても、君にとってもね」