道化の問いに、スバルは雁字搦めにされた視線をなんとか動かし、無理解を示すしかない。
ベアトリスも、エミリアも、スバルからしたら全く記憶に無い名前だった。だから泣かせるも王にするも、まるで理解の及ばないこと。状況を思い返して、迷路の原因であり孤独に泣き喚くあの少女がベアトリスだと仮定しよう。
ならばエミリアとは何者か。王都、魔女教拠点、アーラム村、そしてこのロズワール邸に至るまで、そのような人名は耳にしなかった。スバルが今はっきりと思い出せるのは、サテラとペテルギウス、そしてメイザースの三名のみだ。
道中何人か会ってはいたが、優先順位のせいか酔った頭では人物の想起が上手く固まらない。底の見えない沼に手を突っ込む感触。掴めそうで掴めない、ドロドロした気味の悪い手応えだけが返ってくる。
「こんなはずは! こんなはずでは! こんなはずではなかったのデス! たかが小賢しい精霊ごときを相手に、この怠惰なる『見えざる手』が届かないはずがないのにのにのにのにぃぃぃぃ! ワタシは魔女教大罪司教『怠惰』担当っ、ペテルギウス・ロマネコンティなのデス! 嗚呼、魔女よ! 愛しき『嫉妬の魔女』サテラよ! ワタシは、ワタシはこの愛を如何にしてお返しすればあああぁぁぁぁぁぁぁ……!?」
その瞬間、男の意識がスバルから外れた。直後に信じがたいことが起きた。
ペテルギウスが、全身から火を噴いたのだ。
「あ!? が、ぐばっ……ぁお、ごごぐぇっ! ご、ごぉ、ごぼぼぼぼぼおおおぉぉぉぉっ」
「ぺ、ペテルギウスっ!?」
唐突に発火したペテルギウス。舌が燃え、喉が焦げ、唾液が蒸発し、歯と歯茎が溶けて血と共に混ざる。しかし、吐き出す余裕も抑える力も失くしたため、口の中の熔解物が喉に流れ込んで詰まってしまう。
かと思えば喉も溶け始めたようで、顔を始点に、上半身の中身が溶けて下半身へ。既に声どころか音を発する構造も残っていない。聞こえるのは、かつて人だった肉塊が沸騰してボコボコと泡を立てる音が唯一だ。
やがて爛れた皮膚が下部に溜まり、萎んだ風船のようになる。炎はそれだけで収まらず、ペテルギウスの身体を灰すら残らないまでに燃やし尽くしてから消えた。
「外野は黙っていろ。お前のような輩が、軽々しく愛を語るんじゃない──驕るなよ」
その後付けの言葉で、今の惨状を彼が招いたのだとようやく確信した。
急激な温度上昇に、いつ死に絶えたのかも分からないほどの激変を辿った死骸。時間として、一分かかったかどうかの僅かな間。
視線ではない。ほんの一瞬、男の意識が向こうへ切り替わっただけだった。蚊の羽音に気付いた──例えるならその程度の意識の逸れで、彼は人一人を文字通り蒸発させたのだ。
「お、前は……」
「んーん、何かな?」
「お前は、何者だ」
立ち上がったはいいものの迂闊に後ずさりすることも出来ず、スバルはやや屈んだ姿勢で問い掛けた。その言葉に彼はしばし考える仕草を見せてから、
「私の名はロズワール・L・メイザース。この屋敷の主だとも」
と、サテラの関係者と思しき人物を名乗った。スバルが聞きたかったのは今さっきの行動を含む諸々についての説明だったが、そんなことを知ってか知らでか、ロズワールは空中に座るようにして続ける。
「さて、早々に本題に入らせてもらうよ。君の目的に関して、だ」
スバルはこれに答えず、沈黙で次の言葉を促す。膝が震え、体が固まって動けないというのも理由の一つだった。
スバルとしては、緊張であることを祈るのみだ。もし魔法なんかでも使われていたらこの会話はただの茶番に過ぎないのだから。
「私は、今、君の到達した場所がどこなのかを知りたい。さっきも聞いたよねーぇ。屋敷に侵入してベアトリスを泣かせるのと、エミリア様を王に仕立て上げるのと、一体どちらを求めて来たのかな?」
「意味が、分かんねぇよ。泣かせるとか、王に仕立てるとか、俺にはまるで理解出来ないことだらけだ」
「おっと、文字通りに受け取ってもらっても困るね。私の言い方が駄目だったのかーぁな? じゃあ言い直そう。君は、何をしにここまで来た? どうか──」
「俺はサテラに会いに来た」
「──具体的に、頼む、よ……ん?」
それは、口を衝いて出た、という表現に最も近い反応だったと思う。それほど自然に、衝動的に、何なら聞かれる前から予感を持っていた気さえする。
一方のロズワールは言葉が遮られたことで口をつぐみ、返答を聞いて更に戸惑っているようだった。それから眉間に皺を寄せて足を組む。
「サテラ、サテラだと? 銀髪のハーフエルフ……エミリアではなく?」
「さっきから何度かその名前聞いてるけど、悪ぃが知らない人だ。心当たりも、王様にするつもりも一切無い。そもそもこの国、この世界自体分からないことだらけだし……今、俺が探してるのはサテラ、ただ一人だ。あの悪夢から生き返ってくれれば上等、顔が合わせられればなお良しで、会話なんか出来たら最高だな。……ああ、そうだ。俺はサテラに会いたい。サテラに会いたい。会いたいよ」
「サテラが生き返ってくれれば、上等……ね」
段々と焦点の沈んでいくスバルに、それを反芻するロズワール。彼の周囲には鬼火にも見えるマナの塊が浮遊していた。室内に淀んだマナを高密度で圧縮し、手玉のように扱う姿はまさにピエロだ。おかげで眩暈もかなり良くなった。
しかし現在、彼の白化粧に滑稽さは感じられず、拭い切れない疑念が目元に表れている。それは両者における認識のズレによるものだ。この会話には、どうやら根本的なところで齟齬が生じている。
「……最後に、一つだけ聞こう。君は、大切な一人だけを想って、それ以外の全てを削ぎ落とすだけの覚悟があるか?」
「それ以外の、全て……ああ、そうだ。俺は他の何を失ってでも、サテラに会いたい。俺の手が届く範囲にいるなら、何だってするさ」
「それはつまり──」
「でも、一度失ったものは二度と取り戻せない。もし間に合わなかったら、もし一秒でも遅れたら、きっと俺は立ち直れなくなる。俺にはサテラしかいないから……それが、一番、怖い」
「────」
「だからお願いだ、メイザースさん。サテラのこと知ってるなら、会わせてくれないか。取り返しのつかなくなる前に。せめて居場所だけでも……」
少女ベアトリスは迷路を解くつもりがない。これ以上の前進は不可能に近かった。
ゆえに、ロズワールが手掛かりを得る最後の機会だとスバルは判断した。彼が情報を握っていれば僥倖、そうでなければ振り出しに戻ってしまうだろう。ペテルギウスを二度失った今、魔女教からの援助も期待しづらい。
そうなればサテラの捜索は、スバル自身の生活が安定するまでしばらく中断せざるを得なくなる。場合によっては振り出しより酷い底の底に成り下がるかもしれない。その状態で生きているかどうかも不明な一人の少女を見つけるなんて、それこそ星を掴むような奇跡の域だ。
無言が続いた。スバルは様子を窺いながら、己の命運を分ける返答が来るのを待つ。
魔法の空気椅子から立ち上がり、足下を見ていたロズワールが近寄って来る。そして肩に手が置かれた。
時間が彼女を奪う前に、どうか。
そう念じたスバルの鼓膜を、待ち望んだ答えが軽く震わせる。
「──人違いだったようだ」
小石を投げ込まれた湖面が如く粛然と浸透した言葉は、直後、全身の震えによって掻き消された。
猛烈な寒気と強烈な熱気、相反する二つの衝撃がそれぞれ背筋と右肩に走り、スバルは歯を食い縛る。全身をくまなく襲った痙攣、声を出すには数秒遅かった。
視界が傾ぐ。硬直した体は後ろに倒れていた。当然、受け身もままならず──、
「ぁ……」
「やはりお前も、ベティーに背を向けたのよ。──ウル・シャマク」
ベアトリスの手のひらからどす黒い闇が放たれ、無防備なスバルを包んだ。
霧でも煙でもないそれは、視覚的にも意識的にも光を閉ざす性質として、文字通りの様々な比喩を内包している。有り体にいうなれば、意識を肉体から切り離して常闇の中に放り込む──およそ自由意志に必須である二つの一方的な乖離。
生を受けてから常に一体だったものが半身を失った。その果ては死と同義だ。
ベアトリスとロズワールの眼下、二度と起きることのない健康体が転がっていた。中身が空っぽの抜け殻だ。数日も経てば、勝手に餓死するだろう。それまでの状態を生きているとするのも些か可笑しな話だが。
黒髪黒瞳に、見慣れない服装。魔女教と行動を共にする割には、彼らと異なる狂気の色を纏っていた。戦闘面における素質も経験もまるで無く、ベアトリスのマナに一定の反応を見せていたが術式は問題なく通った。
奇怪でありながら外面だけは平凡を着飾った少年。スバルに対する二人の印象は、そう締められた。
死体のようだという表現が皮肉にもならないその抜け殻を見下ろし、若干の無気力さを感じるロズワール。
「そういえば」ともう一人、燃やし尽くした男をふと思い出した。愛だの魔女だの口を酸っぱくして言っていた狂人のことだ。あの時は、大きく開けたその口に火のマナを放り、体内で爆発させたのだった。
約百年前より世界中に蔓延る不穏分子、魔女教の幹部格である『怠惰』の大罪司教、誅伐。結果として歴史的快挙を遂げた状況だ。しかしスバルの処理にマナを引き寄せようとした刹那、ロズワールは舌打ちした。
「さすがに、一筋縄ではいかないか」
呟きが風に乗り、ロズワールは咄嗟に前へ飛び出た。遅れて元いた場所に何かがぶつかり、床を抉る。人よりも獣の爪痕に近いそれは前兆が無く、影も形も無い。ロズワールがベアトリスを抱いて離れると、そこも透明の爪の餌食となり引き裂かれた。
「──嗚呼。嗚呼、嗚呼、ぁ、あああああぁぁ……素晴らしい。素晴らしい身体なのデス」
禁書庫に反響するのは狂人の声。一度のみならず、二度も命が潰えたはずの男の声だ。
そして驚くべきは、声の主がスバルだということ。意識を放棄され抜け殻と化していたスバルが、声音はそのままに、ペテルギウスの口調で言う。
「信じられないデスね! これほどまでによく馴染む身体は初めてなのデス! なんと、なんと恵まれていることかかかかかか! 今度こそ違わない。今度こそ、ナツキ司教の分まで『怠惰』を返上させてもらいマス! アナタの『傲慢』も引き継いで、ワタシはやっと魔女に届くのデスから! 『見えざる手』ぇぇっ!」
「一緒に待ってくれないくせに、手を取ってくれないくせに、まだいたのかしら。目障りでしょうがないからさっさと消えるのよ。ウル・シャマク」
吐き捨てた言葉を皮切りに、見えない何かが禁書庫の中で荒れ狂う。速度や色の問題ではなく、それ自体が不可視の性質を帯びた攻撃だ。それも十を下らない数で、常人の目には、いつどこからどれだけ襲い来るのかを知る術など皆無に等しい。
ゆえに、大精霊ベアトリスと宮廷魔導師ロズワールの取った手段は常識を凌駕する。
先述した通りあらゆる闇の具現化であるウル・シャマクだが、一応の外見上は黒い霧だ。光の介入を許さず距離感まで塗り潰してしまうので、影とも言えるだろう。
ともあれ闇を含んだ魔法は相手への接触が前提であり、形状は可変性を持っているということ。その一点が本来の活用法からはやや外れた副次的効果をもたらす。
ペテルギウスの見えざる手もまた、接触を必要とする力だ。ベアトリスとロズワールを攻撃するにはウル・シャマクの霧の中を抜けなければならない。霧は手の形を残し、そこだけ空洞になる。
更に、ロズワールが己の周囲に浮かべていた手玉を前方に配置した。鮮やかな色彩に空気が染まっていく。術式に変換する前の純粋なマナの塊は、魚群を捉える網のように手の接近を察知し、それを着色した。
結果、現れたのは色とりどりの腕。
「魔女教徒から道化師に転職かい? 先輩として一言だけ言わせてもらうと……精彩に欠けるね」
不可視のベールが剥奪された。こうなってしまえば、完全に露出した腕を避けるなど造作も無い。二人の徹底した安全策に権能は根本から攻略され、逆にペテルギウスは文字通り魔法攻めに対抗する手を持たない。手の一部を防御に回してもジリ貧に過ぎず、いずれ押し負けることは火を見るよりも明らかだった。
「馬鹿な! これでもまだ、ここまでやってもなお、アナタには届かないというのデスか……魔女よ!」
追い詰められたペテルギウスは、思わず胸元に手をやる。しかしそこにはスバルの奇妙な上着の感触だけがあり、いつものローブも、ましてや福音書も無い。
往くべき道を見失った気分だった。魔女の導きが消え、一人ぽつんと取り残された戦場でかつてない絶望を感じる。
権能が封じられ、魔法の才能も熟練度も二人には遠く及ばない現状。閉鎖された環境で戦力の増援は望むべくもない。
──しかしながら、そこで諦めるペテルギウスでもなかった。
「福音書なら、ナツキ司教が持っていたのデス」
それも、とっておきを。一般的に教徒に配られる物と違い、無論ペテルギウスのそれともルーツの異なる特別製。
『傲慢』の権能と思しき、白く光り輝く不可視の福音書があるではないか。
そう思い至ったのだ。
見えざる手の全てを防御に集中させ、僅かな隙にペテルギウスは頭を回転させる。
彼の精神は現在スバルの体内に宿っている。どこか遠くへ飛ばされたスバルの代わりに意識の操縦桿を握り、継承に成功した。
ならば、権能の継承も同じく可能だろうか。スバルの福音書を、ペテルギウスでも見ることは許されるのだろうか。
前例のない試みだった。願いの結晶である権能を他人が扱うなど、聞いたこともない。
不透明なイレギュラー、それでも魔女の為ならば構わない。必死の攻防戦の最中、ペテルギウスは意識を内側に向けた。
「嗚呼──『傲慢なる怠惰』であれ」
精神と肉体の親和を深める。空っぽになったナツキ・スバルの奥底へと沈んでいく。
暗い暗い、暗闇があった。深い深い、深淵が見えた。
そこは心の領域だ。本来なら他人の干渉などあり得ない場所がゆえに、当然侵入者に対して一切の配慮も施さない。一歩間違えれば帰り道は永遠に閉ざされるだろう。
果てしない無明へ踏み込むのに逡巡、決意を新たにして挑む。
ペテルギウスには見えていたから。
奥底から覗く、愛しき魔女の手が。
「これは……福音書は、権能ではない? 他人の意思を代弁させて合理化するため、無意識に幻覚を見ていたようデスね。……しかし、彼に魔女因子があるのは確かなのデス。寵愛は確かに宿っている。ならば、本当の権能は一体……?」
全ての根幹である心の理、願望へ手を伸ばす。
そして理解した。
真相を。
狂気の所以を。
魔女の愛の行方を。
嫉妬の矛先の不条理の彼方の運命の観覧者の世界の遊戯の日陰の大罪の愛の愛の愛の愛の形の愛の愛の意味の言葉の愛のあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあい──。
あいのまえでは、いかなるしょうがいぶつもひとつのせんたくしにすぎない。
「──それが、『死に戻り』デス」
目を開けた時、ペテルギウスの目の前に死が突きつけられていた。
向けられたベアトリスとロズワールの手のひら、そこに膨大なマナが渦巻いている。見上げるペテルギウスはいつの間にかうつ伏せになっており、見えざる手も消え、息をするだけで全身が軋む。
それこそ虫の息にもかかわらず、二人はトドメを刺そうとしない。憑依を警戒しているのかとも思ったが、どうやら違うようだ。
「────」
「────」
動きを止めたまま、じっとペテルギウスを凝視している。信じられないものを聞いたかのような反応。双眸に驚愕を湛えた姿は、どこか恐怖にも相通ずるものがある。
とはいえ、ここは禁書庫だ。地の利から始まり何においても相手の優位は揺るがない。外界から隔絶した空間では、逃げ出そうにも逃げ出せなかった。
しかし、
──コン、コンと。
隔絶しているはずの部屋の扉を、誰かが叩いた。
決して急かすつもりはないと感じられる強さと速さだった。もしこの屋敷が氷漬けでなければ、そして内包したこの禁書庫が異空間でなければ、単なる客人として接することが出来たかもしれない。
魔獣はここまで辿り着く術を持たず、魔女教徒は悠長にノックなどしまい。
「……にーちゃ? にーちゃが来たかしら。にーちゃなのよ、違いないかしら! やっと、やっとにーちゃがベティーに会いに来てくれたのよ! 今すぐ開けるかしら。いま……」
「駄目だ、ベアトリス!」
考えてみれば、運はずっと自分に味方してくれていた。
ペテルギウスは得も言われぬ衝動に身じろぎし、混乱する二人の間を抜けて扉の方へと向かう。
考えてみれば、とは言ったものの、実際のところ彼にまともな思考能力は残っていなかった。今の彼を動かすのが、スバルの深層に潜り込んで垣間見た愛なのか、ペテルギウスの執念なのか彼自身でさえ分からない。ただ、そうするべきだと信じて扉に手を伸ばす。
その指が、鬼との戦闘で数本しか残っていなかった指が、背後から飛来した風の刃に細かく切り刻まれた。
ドアノブを掴もうとした手が空振り、血をぶちまける。ガクリと姿勢の崩れたペテルギウスは無意識に反対の手も伸ばす。
コンコン。
手首が破裂する音に、やや速めのノックが聞こえなくなる。両手を失ったペテルギウスはしかし、視線を扉から離さない。
ずるずると這いずる足が凍り付き、胴体が尖鋭な岩に貫かれ、闇に目が潰れてもペテルギウスは虚ろな顔で扉を見つめていた。
「……ぁ、ぁぁぁあ」
そうして開いた口から、細長い影が飛び出した。
待ち望んだ相手を迎え入れようと暴れるベアトリスも、扉の損傷を恐れて迂闊に攻撃できずにいたロズワールも、それを止めることは叶わなかった。
影は小さな手の形を取り、血塗れのドアノブに指を絡める。ゆっくりと捻ってから引いた。
「さて、ラ……ぁ」
その顔に、光が一筋──否。
冷たく黒ずんだ影だった。影自体に温度などあるはずも無いが、それは確かに見る者を凍らせる何かを持っていた。
影は気体にも似た変幻自在の性質を利用し、禁書庫の中に溢れんばかりに満ちる。煙、霧、雲。どれともつかない黒のインクが空気を染めながら、当て付けのように手の形をしてベアトリスの肩を掴んだ。ロズワールはその接近を完全に見逃した。いつの間にか行われて、気付けばもう終わっていた。
そして彼女の瞳の内の蝶が影と同じ色に染まった時、ロズワールはただ、嗚呼、と息を零した。
自分の両目も既に塗りたくられていることに気付いたところでどうにか出来るものではない。見えないということが見えるようになった彼の目には、もはや正常な世界は映らない。
見る世界が変われば人も変わる。その人をそれまで支えてきたものが、全て崩れて新たなものへと形を変えるのだ。
「にーちゃ、ここは寒いのよ。ベティーが暖かい所に連れて行ってあげるかしら」
「ほら、ベアトリス。あんまり遠くに行くと、また怒られるよ」
真に自由となった二人の視線があるはずの無い何かを捉える。
心が呪縛から解き放たれ、温かいものに満たされて、どこか心地良い。
盲いる目と書いて『盲目』。
物事の影だけを見て、まるでそれが実体であるかのように認識し、誤解する。
もしも世界が影で出来たのなら、そこでは見るもの全てが誤りだ。
それは、夢を見る感覚に似ていた。
波濤の如き影が押し寄せ、最後の光を閉ざしていった。
†
太陽が眩しい。
清涼な空気を目一杯吸い込めば、自然と顔が空を向く。反らした胸を意識しつつ、目を閉じて徐々に息を吐いた。
体の中を満たす清潔感。元いた地球よりも空気が透き通っていると思うのは、気のせいだろうか。
「にしても、まさか本当に異世界来ちまうとは……夢じゃねぇよな?」
未だ心臓がバクバクと脈打ち、全身の力が漲っている。有り余ったこの体力をどう発散したものか。
興奮を抑え切れず、意味もなしに動き回りながら頬を抓ってみる。痛い。頬も痛いし通行人の目も痛い。
正直ラジオ体操第一でも踊ってやりたい気分だが、人通りの多い広場でそうする訳にはいかなかった。異世界に来て早々恥を晒すのは御免だ。
「つって、事前に確認しておかなかったせいでいざって時に魔法使えないのも困りもんだ。やはり多少の恥は忍ぶのが勇者なのでは?」
誰に向けたのでもなく、強いて言うなら自分を戒めてそう呟く。言葉にすると期待が膨らむもので、根拠ゼロの自信がどこからか湧いてきた。
しかし、敵もいないのに日中の繁華街で魔法ごっこするのは気が引けた。そこで人のいなさそうな路地裏に入る。暗くじめじめした空気が一気に雰囲気を変える。
「──そこのお前、痛い目に遭いたくなきゃ金目のモン出しな」
変わったのは、雰囲気だけでなかった。場所を移せば通行人の傾向も当然変わる訳で、つまるところ日陰に住む人種──不良三人組が行く手を阻んでいた。
「おいおい、どうしたよ菜月昴。脚震えてんぞ。異世界だからって怖気づいてんじゃねぇ。日々の筋トレと妄想で鍛えた俺の戦闘力を信じろ。……それに、今ならチート付きだからな。軽く無双してサクッとチュートリアル終わらせてやるぜ!」
「何言ってんだ、こいつ?」
冗談で場を和ませ、油断している隙に敵に近付き、拳を思いっきり振るう。これぞナツキ家に代々伝わる秘伝の奥義。
骨と骨がぶつかる硬い音が鳴り、殴った拳にも痛みが走るが奇襲は成功だ。仲間の撃沈に、残り二人の不良が愕然とこちらを見ている。
心の中でガッツポーズを決め、慌てず小柄な方に蹴りを入れる。見事回転蹴りが炸裂。相手の体は壁に激突し、そのまま倒れた。
これはもしかして本当に転生ボーナスがあるのでは、そう調子に乗って最後の一人も片付けようとした瞬間だった。
コン、コンと。
「ちぃっ!」
懐から閃く鈍色の光。それがナイフだと気付いた頃には、すでに防衛本能が働いて土下座の構えに至っていた。手足と額の五点を地に擦り付け、自分でも何を言っているのか分からない哀訴嘆願を並べる。当然相手がそれを聞き入れてくれるはずもなく、なぜかダメージの無さそうな二人も加勢して袋叩きに。
どこで間違えたのだろう。一分も経たない内に形勢が逆転していた。
コンコン。
本気で死ぬかもしれない、と思うほどに殴る蹴るの暴行を受けてからようやく静かになった。恐る恐る目を開けると、三人共どこかを見ては絶句している。もしや召還してくれた美少女ではないだろうかと、首を傾げて見やった。
「──愛してる」
†
意識が切り替わる。
傾げた首は柔らかい何かの上に乗っていた。感触と目線の高さから推測するに膝枕──いや、いくらなんでもフワフワ過ぎる。膝枕は膝枕でも猫の精霊、パックの体だ。そしてすぐ隣には一人の少女が立っている。
そういえば、不良に絡まれていたところを救われたのだった。状況を見るにどうやら看病までしてもらったようだ。
「悪いな。なんか、色々迷惑かけちまって。これからのことなんだけど──」
そう言って起き上がろうとした瞬間、声が聞こえた。
「──愛してる」
†
意識が切り替わる。
視界は相変わらず横に倒れており、茶色い床がその半分を占めている。かなり真っ暗な空間で、頭上から小さな光が差しているのが見えた。改めて起き上がろうとした時、力を入れた腹部に痛みが走った。
思わず顔を顰めて確認すると、触れた手に暗闇でも分かる紅血が付着し、鼻を突く嫌な臭いと、口の中には鉄の味がじわりと広がった。死の予感と不快感が動悸を促し、衝動が喉を震わす。
「サテラ!」
血の張り付いた喉から、自分のものとは思えないしわがれ声が出た。声は闇に霧散していき、次に口を出たのは更なる血液だ。息が詰まる。異臭が淀む。
──少女が倒れる。
赤く汚れた手で、彼女の手を握る。まだ冷めていない熱が伝わってきた。まだ、まだ消え切っていない灯火が肌越しに熱を与える。
今だから分かる。この熱はマナだ。彼女はスバルに、自分も後回しにしてマナを送ってくれていたのだ。
「────」
月明かりがそれを照らし、余熱に胸を焦がしながら決意した。
渦巻く感情が何なのかも自覚できないまま誓う。
誓いが、口を衝いて出る。
「俺が、必ず、お前を──」
繋いだ手から振動が感じられた。身じろぎする気配。
ぎぎぎ、と軋む音。歯車が元の形を無視して緻密な構造に無理やりねじ込むかのような、そんな音がした。
彼女の首が回る。
人体の稼動域を余裕で超えていた。
愛の前では、いかなる障害物も一つの選択肢に過ぎないと。
死さえも通過点でしかないと。
そう、諭すように。
「──愛してる」
†
意識が切り替わる。
溺れてしまいそうな影の海に、スバルは漂っていた。
もはや息もしていないのに、見方によっては生きてすらいないにもかかわらず、『溺れる』ということに関しての疑問は浮かばない。
何故なら、ここは元よりそういう場所だ。
精神世界、あるいは心象風景。いや、こここそが真なる異世界なのではないか、とそんなことを思うほど、この空間はスバルの知る現実から程遠く感じられた。
既存の常識など通用しないが、この場所にはこの場所なりの理と秩序がある。
違和感に思うものも、スバルという存在自体が異物であるための弊害だ。スバルはこの空間に来るべくして来た存在でなく、この空間もスバルを受け入れるべくして受け入れた場所ではない。
スバルの精神は肉体から切り離され、遥か彼方のどこかに投げ出された。
一方的に送りつけた張本人でさえ理解の及ばない領域だ。概念としての表面も底もないだろうに、奇しくも沈んでいくような感覚だけが意識を閉ざす。
──それを、良しとしないモノがいた。
本来ならば有り得ない介入なのだろう。元いた場所やこの空間に限らず、世界を世界たらしめるために必要な『決まり事』を、知ったことじゃないと無理やりに破ってくる影があった。
いつの間にか空間は影に染まり、どちらが元の色だったのか区別も付かないほどに満ちる影。それがスバルの意識に浸透し、染み付き、絡め取る。
沈んでいたはずの意識が引き上げられていた。表面のないはずの空間に終わりが見えた。
影の向こうに、また違う影がある。
──ふと、『洞窟の比喩』というものを思い出した。
暗い洞窟の内部に縛り付けられた囚人。彼らは目の前の壁しか見られない。背後には火が灯っており、それが壁に映す影を見て囚人たちは今まで生きて来た。
彼らの目に焼き付けられるのは影で出来た世界だ。洞窟の外にある太陽の眩しさは勿論、壁に影を落とす物の元の姿を知ることができない。知らないから、想像するという発想にも至らない。
彼らにとってリンゴは丸くて黒い影であり、人間は細長くて黒い影でしかない。物事を一つの目線でしか見ることが敵わないのだ。
リンゴが実際は赤く、時に青くも黒くもなるということを、光と影の両方を見る外の人間は知っている。それでも彼らは、無知ゆえ、盲目がゆえに、影こそが真実だと誤認する。
ならば、今、スバルの目の前に広がった光景のように。
世界から光という光が消え失せ、全て影に染まったなら。
外の人間と囚人の見る世界に、何の差異も無くなってしまったとするならば。
『真実』とやらは、果たして誰に定められるのだろうか──?
†
意識が切り替わる。
†
意識が切り替わる。
†
意識が、切り替わる。
記憶も切り替わる。感情も切り替わる。
理屈が切り替わり、この世の仕組みが切り替わり、死の終わりと始まりが切り替わり、愛の形が切り替わり、ナツキ・スバルが切り替えられて──。
†
意識の覚醒は、沈んでいた顔を水面の上に出すような──出されるような感覚があった。
ぱちりと目蓋を開くと、見えたのはまず白黒のタイルだ。何があったのだったか、と起き上がろうとして、何故か体が言うことを聞かない。
「……ああ」
それもそのはず、スバルの体は四肢の全てが欠損していた。床を突く手も、立ち上がる足もない。
だから顎を突き出し、肩を揺らして前に這った。しかし、重心がおかしいためか思ったように進めない。皮肉なことに、体重が軽くなったのが幸いだった。
半開きの扉まであと一メートルといったところか。この速度なら十分以内には辿り着くだろう。
「待って」
頭上から声が降りかかった。びっくりして身を捩ると、少女が立っていた。ただ、その青い瞳はスバルでないどこか遠くを見ている。
廊下を颯爽と舞う蝶の後を、少女は追いかける。音も無く窓際に寄った蝶は、迷うことなく外に飛び出て行った。少女もそれに続く。
しかし、窓の上に立って気付いたのだろう。それ以上進んだら落ちてしまう。何度か手を伸ばし、そこからでは届かないと知っておろおろと迷っているようだった。
やがて数十分が経った頃だろうか。少女はとうとう口を開く。
「ベティーはお前を一人にしないから、お前もベティーを一人にしないで。一緒に行くから、置いていかないで」
そう言って、力強く一歩を踏み出した。
途端に少女の姿がスバルの視界から消えた。それきり何も聞こえることは無かった。
しばし悩んだのちに、スバルは階段へ向かった。段差がある分、上るのには相当な体力を消費し、全身が痛みを訴えた。全身と言っても頭と体だけだが。
「ははは」
全く笑えない話だったと思う。
スバルは笑っていた。
笑いながら芋虫のように這うスバルの傍を、長い時間が過ぎて行った。
気付けば辺りは暗い。階段を上り終えた先に、僅かな光が見えたのでそこを目指した。顎を床に突き過ぎたせいか、歯が何本か折れて口端に零れる。だが、この状態で歯が折れることなど今更な話だった。
「はは」
笑えない。
スバルは笑っていた。
そこだけに射した月明かりに、潰れた顎を乗せる。固まってボロボロと崩れる皮膚に冷気が当たった。
氷だ。
巨大な氷が、元は部屋の区切りがあっただろう壁を一直線に貫いて堂々と鎮座している。確認する気力は無いが、廊下の端から端まであるように見えた。
「────」
その氷の中央には小さな人影が。
銀色の煌きを幾重にも反射させた彼女の美しさに、氷越しでも思わず見惚れてしまう。大変な道のりだったが、来て良かったとスバルは思った。
染み透る影が、スバルの引き攣った頬を撫でる。
「愛してる」
「は」
スバルは、笑っていた。
月明かりなどとうに消えて。
彼女の黒い手がスバルの両目を覆い、そして、優しく閉ざされた。