Call me “Brando” - 1
1
ああ今となっては、お嬢様と過ごした、あの穏やかな日々ばかりが思い起こされます。
宝石よりも輝かしく、黄金よりも価値のあった、あの美しい日々。
この方のために生きて、そうして死んでいくのだと、わたくしはわかっていたのでしょう。
2
「アニエス・オーリアってけっこう好きなのよ。
神様と男を天秤にかけて、男を取った女でしょ。人間臭くって良いわよね」
お嬢様は親オーリア派閥の貴顕たる一家にお生まれになりました。
無論のこと敬虔な正教徒──の筈──でございましたが、時折、いやさ頻繁に、こういったご冗談をおっしゃって、周囲をひやひやさせることがありました。
わたくしが貧しさのために売られ、煙突掃除人として王都にやってきたのは、
王都にたどり着いた、しんしんと雪の降る、あの夜。
天を摩するかの如くそびえたつ鉄塔、それを不死の塔と呼ぶことを知ったのはずいぶん後のことでございました。
夜を徹して明かりの灯る家々に高揚を覚えことを今でも鮮明に思い出すことができますが、そのように浮き足だった気持ちでいられたのも、ほんのいっときのこと。
すぐにわたくしは、これから自分を待ち受ける過酷な日々を思い、暗澹とした気持ちで胸が重くなっていくのを感じました。
一年のほとんどを雪で覆われたこのエタルニアで過ごすには、ストーブは不可分なものでございます。
このストーブを不備なく使うため、煙突掃除人もまた、この国にとって不可分なものでございました。
煙突というものは大変に細く、大変に長いものですから、煤を払うのも大変な苦労が要ります。
さてどうするかと申しますと、答えは簡単で、子供を使います。
背丈の小さな子供が、体を小さく折り畳んで、煙突に入り込み、掃除をします。
危険を伴う仕事です。
煙道に挟まれて骨を折ったり、窒息して死ぬことがございます。
火を焚いたままのストーブを掃除することもざらですから、焼け死ぬこともございます。
ですけれど、ご安心ください。
煙突掃除人は、いくらでも代えがございます。
郊外に足を延ばして、貧しい寒村を覗いてみましたら、一山いくらで手に入ります。
一山いくらの無数の子供たち、そのうちのひとつがわたくしでございました。
あるいは、生い茂る木々の、その枝葉の一枚とでも申しましょうか。
冬のおとずれとともに、あえなく散っていくわたくしを拾い上げたのが、他でもないお嬢様でございました。
「あったかくなってきたわね」
気づけばお嬢様が、まぶたを重そうにしていらっしゃいます。
春のおとずれを感じる日の午後のことでございました。
3
エタルニアにも四季がございます。
短い春、短い夏、短い秋、そして、長い長い、冬。
屋敷はエタルニアが誇る科学技術と魔法技術の粋により、夏は涼しく、冬は暖かに保たれていましたが、それでもお嬢様は季節の移ろいに合わせて、まるで野生の獣のようにその居住まいを変えておりました。
お嬢様は夜、お眠りになるとき、身じろぎひとついたしません。いびきや歯ぎしりは無論のこと。
その青白い肌と相まって、まるで身罷られているようですから、私はいまだに寝ているお嬢様を見ますと、吐息のかかるような距離まで近づいて、その身がまだ熱を持っていることを確認せずにはいられません。
反面、午睡を取られているお嬢様は、不思議なほど柔らかな生命の力を感じるのです。
春の暖かな日差しの中、ロッキング・チェアを揺らしながら読書をされていたお嬢様が、いつの間にやら眠りに落ちていて、すうすうと穏やかな寝息を立てられているのを、かたわらに控えて、ただじっと見つめておりますのは、わたくしの人生におきまして、最も幸福な時間だと言っても過言ではございませんでした。
こんな日のわたくしの務めは、お嬢様が安らかに眠れるよう、そっとおそばに控えていることでございます。
とはいえ、体を動かす仕事は少ないものですから、どうしても、あれこれと詮無いことに思いを巡らせてしまうものです。
ずっと未来のこととか、あるいは、行き過ぎた過去のことだとかを。
煙突に潜り込んでいた頃も、様々なことに思いを巡らせたものでした。
そうはいっても、それは、辛く、苦しく、そして退屈な作業を紛らわせるためのものでしたから、あまり楽しいものではありません。
楽しくない中でも、取り分け過去を振り返ることはつまらないことでしたから、大抵は未来のことを考えます。
具体的な将来の話ではございません。
煙突掃除夫の未来はいつも決まりきっております。
まず、大人になる前に死ぬ。
これが大半。
もし運よく、あるいは不幸にも生きおおせた場合、男は人夫に、女は娼婦になります。
学がありません。技がありません。伝手もありません。
なので、人夫が娼婦になります。
そういうことでございますから、どこかで死んだほうが幸福という気もいたします。
わたくしは、未来のことを考えるとき、自分が人買いに買われなかったらとか、裕福な商家に生まれて学校に行っていたらとか、ありもしないところから出発しようとして、それは結局自分の過去に思いを馳せていることですから、やっぱりつまらくなって、今の自分の未来のことを考えるわけですけれども、そうしますと、どこかで死んだほうがいいかしらとか、でも痛かったり恥ずかしかったりするのは嫌だとか、そういうところに行き着くわけでございます。
今、振り返ってみると、そんなあわれな妄想が、危険と退屈にすさむ心の無聊を慰めていたのですから、なんとも悲惨な話でございます。
けれどもこの物語は、エタルニアのどこにでも転がっているようなもので、特筆すべきものではございません。
わたくしは主人公にはなれません。
そう、ですから、主人公は別にいらっしゃいました。
その日も煙突掃除を終えると、わたくしは掃除をした屋敷の外、軒先で、主人、つまり、行き掛かり上の、わたくしの飼い主が家から出てくるのを待っておりました。
金銭の授受をしているのか、あるいはお茶の一杯でも振る舞われているのかわかりませんが、ともかく待っておりました。
既に街には冬の足音が聞こえはじめ、木枯らしとともに粉雪が頭上を舞っておりました。
わたくしはかじかむ手足をこすりあわせながら、ただじっと時が行き過ぎるのを待っておりました。
往来にはちらほらと人が行き来しております。
様々な人がおります。
仕事場へ向かうのか、家路を急ぐのか。またあるいは別の何かがあるのか。
努めて意識しないということを意識していたわたくしは、わたくしの目の前に一両の馬車が停まったことに気づくのに、一拍ほどの遅れを取りました。
中からあわただしげな物音と、何かに苛立つような少女の声がして、それから、馬車から勢いよく、本当に飛び出すというのはこういうことをいうのだろうなといった調子で、少女が飛び降りてきたのです。
その勢いといったら大したもので、あわやぶつかると思ったわたくしは、驚いてその場で尻もちをついてしまいました。
美しいかんばせの少女は、わたくしの頭上、その向こう、屋敷を睨むと、しばらくしてから、足元のわたくしに気づいたようでした。
少女はとくに感慨もなく、わたくしをじろじろと見つめました。
年の頃はわたくしとそう変わりはないようでしたが、見た目はまるで違います。
わたくしはとにかく寒さから逃れるために、襤褸切れを何重にも羽織ったような姿でしたが、その少女は、何と申しましょうか、赤い、そう真っ赤な色の外套、鮮烈な、まぶしいほどの、真っ白い雪原にただ一房落ちた大きな牡丹の花弁のような、目を奪われる真紅の外套、そうしてそれが、今では天鵞絨という言葉も存じ上げておりますけれど、そのように艶やかで、触れずともわかるようなふわふわとした材質でできあがっていて、けれどもそうした素晴らしいお召し物に、当の本人がちっとも負けていない、そのような方でして、つまりわたくしとはまるで違う、同じ人間とは思えない、そういうお方でございました。
「ねえあんた。
あんた、あの家の煙突を掃除したの」
わたくしは呆気に取られて、それが自分に向けて言われていることだと、はじめ理解できませんでした。
「あんたよ。
あの家の煙突掃除。
言葉がわからないのかしら?」
それは揶揄ではなく、本当にそうだったらどうやって意思疎通したらいいのだろうという、てらいの無いお言葉でした。
わたくしは慌てて、その通りだと答えました。
「そう。
わかったわ。
じゃあちょっと待ってなさい」
そう言ってわたくしの横を通り過ぎて、屋敷に向かってずんずんと歩き出したかと思うと、きびすを返してわたくしの元に戻り、
「寒いから中で待ってなさい」
わたくしを無理やり立たせると、ぐいぐいと、押し込むようにして馬車の中に乗せました。
馬車の中は風が遮られているのに加え、何やらまじないの力が働いているのか、ほのかに暖かかったのですが、このような薄汚れた風体で座ってもよいものか、わたくしは立って留まるには狭い車内で身を縮こませていたのですが、そうこうしているうちに先ほどの少女が再び現れて、
「やっぱ一緒に来なさい」
と私の腕を引っ張って、またずんずんと屋敷のほうに向かっていったのでした。
彼女は、屋敷の扉の前に立つと、やおらにドアノッカーをがんがんがんと叩きつけます。
「リト・ブランドーよ。
三秒以内に開けなさい」
しかし、三秒でかえってきたのは、何者か、と誰何する声でした。
はあっとため息をついた彼女は扉から二歩しりぞき、指鉄砲を作り、扉に突き付け、何事かをぶつぶつとつぶやきました。
次の瞬間、扉が部屋側に吹き飛んだのです。
彼女の指先から、何か奇妙な力が発せられて、その指先、なめらかな爪が、薄ぼんやりと赤く光ったかと思うと、彼女を中心に熱波のようなものがほとばしり、気づけばそのような仕儀になっておりました。
「リト・ブランドーだっつってんだろ」
今の今まで扉だったものが無残に砕け散り、ぶすぶすと黒い煙が立ち上るなか、横柄で、不遜に、堂々と、鈴の鳴るような声で、その少女──お嬢様、リト・ブランドー様は言い放ったのでした。