51
いつかお嬢様が言った言葉を、一言一句、正確に思い出すことができる。
『子供を買うのは、まあ、黙認されてる』
あの日、あの家で何の相談がされていたのか。
お嬢様は何のために、あの日あの場所をおとずれ、何のために、あれほどまでに怒りを燃やしたのか。
あの出会いは決して偶然ではなかった。
お嬢様が、その悪に立ち向かうと決めたとき、必然になったことだった。
『でも子供の使い道ってのにはルールがあるはずだ──』
あの日行われていたのは、あたしを火薬庫にいくらで売りつけるかという相談。
大人たちが囁いていた、
あたしは悪魔の弾丸。
その名を、ラーズグリーズ。
人殺しのために消費される運命にあった子供。
52
ごうごうと風が吹き付け、ちらちらと降っていた雪は吹雪に変わっていた。
足元は冷たいが、短くなった薬指と、体の芯は燃えるように熱い。
あたしとミナはにらみ合ったまま微動だにしない。
雰囲気が変わった、と思う。
ミナの顔に、警戒の文字が浮かんでいる。
「なんで……」
後ろから、かすれるような声がする。
不躾で恐縮のしきりだが、振り返れる状況ではない。
「なんで、じゃないか。
わかってたのね。
そりゃあ、そうか……」
「そうですね」
幾年もお側で過ごして、考える時間はたくさんあった。
彼女が今もなお続けている悪魔の弾丸との戦い。
そして、あの日あたしが手を差し伸べてもらったこと。
この二つを結びつけるのは、難しいことではなかった。
「知らなくてよかったのに……」
「そう──ですか」
その言葉に、喉がわななく。
話す必要がないから話さないのだろうとずっと思っていたけれど、いつか、この人は、あたしがモノとして扱われていたっていう事実を知らせたくないから黙っているんじゃないのかと、そんなことを思うようになっていた。
リト・ブランドーはそんな甘ったれた御人ではないと、笑い飛ばす自分がいた。
でも月日が流れていくうちにわかっていった。
この人は甘っちょろいのだ。
ずるいことや悪いことをするやつは絶対に許せないと、いつも思っているのだ。
そうやって傷つけられた人たちは救われないといけないし、奪われた人たちには与えられないといけないと信じている。
不遜な態度も、傲慢な言葉も、その根っこには、あたしたちがたぶん、いつも疑っていて、そんなものはないってわかりきっていて、それでも、それでもどこかで信じていたい、口にするのも憚られる──正義というやつが、光っている。
この世に理不尽な痛みや悪があるならば、それに正対する何かがあってもいいんじゃないかという、無数の小さな願いがリト・ブランドーなのだ。
逆らえまいと頬を打つ悪者を、誰かがやっつけてくれやしないかという、現実逃避の妄想がリト・ブランドーなのだ。
そいつはどこからともなくやってきて、おまえら全員ぶっ殺すと言って、悪い奴らを滅多打ちにしてしまうのだ。
そうやって、私がそうしたいからそうしたんだと悪ぶって、すぐにどこかへ行ってしまう。
リト・ブランドー。
あたしのヒーロー。
世界一格好良い女の子。
この人に救われた命をどう使えばいいのか、ずっと考えていた。
もしも穏やかな日々がずっと続くのならば、ずっとお側でお仕えしようと思っていた。
そうでないのならば、倒すべき敵がいるのなら──あたしが弾丸であることに、価値が生まれる。
「それで」
黙っていたミナが口を開いた。
「あと何発あるの?
私を殺せるくらいあるの?」
見れば、肩口の傷はもう塞がっているように見えた。
そう。
そうなのだ。
あたしという弾丸は奴の花弁を確かに貫くが、それだけでは足りないのだ。
攻めにせよ、守りにせよ、ミナは全力を出していない。
先ほどの一撃で与えられた被害は、ケアル系の魔法で即座に治癒できるレベルだ。
本来であれば、最初の一撃にすべてを託すか、それを皮切りに連続して攻撃すべきだったのかもしれない。
いや、と心中で否定する。
必要なのは、最大戦力を一斉に集中するということだ。
奇襲では結局、あたし一人の力でどうにかしようとするということで、あのミナ・カルカテルラに到底及ぶとは思えない。
お嬢様との連携が不可欠だ。
あたしが突破口を開き、お嬢様がシーリスの集中砲火で仕留める。
先ほどのミナの言葉はおそらく挑発だ。
あたしと一対一の構図を作ろうとしているのだ。
誘いに乗ってはならない。
「何発で死んでいただけますか?」
「──言うじゃない」
ミナの眉が歪む。
ブランドー式の挑発はエタルニアで一番だ。
「早々に死んでいただけると助かるのですが。
勝利の美酒の、グラスが持ちづらくならないように」
「どうかな。
あと百本くらい腕を生やしてきたほうがいいんじゃない?」
ミナの言葉は、ある意味、的を射ている。
あの程度の攻撃では、それこそ百発や二百発──腕百本分の指を切り飛ばすくらいの弾丸をばら撒く必要があるかもしれない。
しかし残念なことに、あたしの腕は二本しかない。
指を一発に換算するなら、第三関節まで含んで、それから足の指も足して、理屈の上では耳や腕だってぶつけられる、とは思うが、そういうことではない。
十発の弾丸が二十や三十に増えたところで、結果は変わらない。
勝負の趨勢を決める、即ち突破口を開くには、もっと決定的な一撃が必要なのだ。
そう、逆に言えば、一撃でいい。
先ほどの一発で、確信を得たことがある。
この悪魔の弾丸の効力は、当人の喪失感に比例する。
我が身を惜しんでちびちびと放つ百発の弾丸と、死を確信して心臓を捧げた一発では、間違いなく後者が強い。
この身をどれだけ損失するかということではなく、その損失にどれほど嘆き、悲しみ、苦しむか、が重要なのだ。
そういう呪詛なのだ、これは。
死にたくないなあと思うことが。
もっと生きてたいなあと思うことが。
いつまでも一緒にいたかったなあという心残りが。
あたしを弾丸として完成させる。
背後の気配に、思いを馳せる。
激しい吹雪に包まれた風景の中で、脳裏をよぎるのは、あの短い春にまどろむお嬢様の横顔だ。
あたしが──わたくしがいなくなったら、誰がこの方のお側にいてあげられるだろう。
この人の鋭い言葉に隠された弱音や、愛や、優しさに、誰か気づいてあげられるだろうか。
未来が惜しい。
死にたくない。
ああ、死にたくない。
それでも、この命は惜しむな。
「お嬢様」
返事はない。
だが、この一言で十分だ。
あたしが作った機会をみすみすと逃すような御人ではないのだ。
やろう。
やるのだ。
脈打つ心臓を弾頭に変えろ。
流れる血液を固めて装薬に変えろ。
骨と肉は銃身の如く、ただそれを撃ち出すためだけに機能させる。
覚悟でその撃鉄を起こせ。
魂を賭して引金を絞れ。
そういう自分をイメージするのだ。
あたしは弾丸。
あたしは────
「待って」
冷たい手が、肩に触れた。
「降参します」
真っ青な顔をしたお嬢様が、抑揚のない声で言った。
「お嬢様……?」
あたしはお嬢様とミナを交互に見た。
お嬢様は生気のない顔で、じっとしている。
ミナはお嬢様の様子を見て、静かに構えを解いた。
なぜ。
どうして。
あたしの心臓の弾丸なら、まだ勝ち筋はある。
あの花弁を取り払って、シーリス様の集中砲火を浴びせられるだけの時間は稼げるはず。
ブランドーはまだ負けていない。
これからだって負けない。
なのに。
なのに。
「命は助けてください」
「最初からそう言ってるけど」
淡々とした二人のやり取りに、あたしの背中で嫌な汗が流れた。
こんなに寒いのに、じわりと脂汗が浮かぶ。
「お嬢様、ご冷静に。まだ勝てます」
「いいの」
「駄目です。よくありません。
御家はどうなりますか。
エンプレス様とのお約束は。
やるべきことも、やりたいことも、まだまだ……」
「でも、負けたのよ」
「まだ負けて──」
「私、わかったのよ」
お嬢様は右手を差し出して、薬指の欠けたあたしの左手を手に取ろうとして、寸前で迷い、空中をさまよって、結局何もしなかった。
それからじっとあたしを見て、表情を変えず、嗚咽も漏らさず、ぼろぼろと涙を流した。
「死なないで」
かすれた声だった。
「だから、負けなの」
そんな。
そんなことが。
そんなことがあっていいわけがない。
ブランドーとあたしを天秤に掛けて、そんな傾き方をするわけがない。
「そんな」
上ずった声が出た。
「そんなこと、駄目です。
いけません。
ありえません。
お嬢様!
正気に返ってください!」
お嬢様はぽろぽろと涙を流しながら、いつものようにけらけらと笑った。
「本当よねえ」
お嬢様はゆっくりとミナに近づいていった。
「あんたの言うところの、心が折れたってやつになったわ。たぶん。
で、何をするんだって?」
ミナが口を開く。
その静かな声は、吹雪の中で意外なほどよく通った。
「リト・ブランドーという存在の重みが、世界でどんどん膨れ上がっていっている。
これが何を意味するかわかる?」
「さあ?」
「影響が大きすぎるの。
命は尊い。そこに貴賤はない。でも、存在の軽重というのは事実としてある。
存在の重みは……人間を永遠にする。
命の終わりを肉体の死、以外に求めた場合に──」
ミナの言っていることは、奇しくも、いつかお嬢様がおっしゃった言葉に似ていた。
リト・ブランドーが在るということを、この世界に知らしめてやらないといけない──という言葉に。
「リト・ブランドー。おまえはもはや永遠に近い。
おまえが死んでも、おまえの意志を継ぐ者が、おまえの歩くはずだった道を歩くだろう。
あるいは、それ以上のことが起きるかもしれない。
星の死とはそういうことだ。
だからおまえを殺すことには躊躇があった。
でも答えが見つかった」
日は落ち、辺りは暗闇に包まれ、邪眼たちの光が辺りをぼんやりと照らしている。
「たとえおまえを秘匿しても、その存在の強さのために、すぐに誰かが私の嘘に気づくだろう。
いかにグリモアとはいえ、一番星の光は消せない。
だが──六等星の光で隠すことはできるかもしれない」
吹雪はやむ気配がなく、寒さは一層増して、身震いが止まらなかった。
「おまえの言葉や立ち振る舞い、一挙手一投足の隅々までを見続けてきた者がいる。
おまえとエンプレスの戦いを正確に観察する程度の実力はあり、しかしグリモア使いではなく、英雄に届くほどの資質はない。
まるでリト・ブランドーの模造品。
でも当然だ。
リト・ブランドー。
おまえが自分の模造品を作ったのだから」
「は……?」
認知の魔女のじっとりとした目が、あたしを捉えた。
「その模造品でリト・ブランドーを上書きする。
リト・ブランドーという存在自体が消えたわけではないから、世界はこの認知の歪みに気づかない。
同時に特異点として機能することもなくなる。
人は二度死ぬという。肉体が死んだときと、その存在を忘れられたとき。
おまえというリト・ブランドーはここで後者の死を迎える。そうして新しいリト・ブランドーに、人々の記憶は収斂していくだろう」
「な、何を……そんなの絶対……あ……あれ……なんだ……?」
体に力が入らない。
お嬢様も同じようだった。
あたしたちは自然と、雪道に膝を突いてしまった。
「もう遅い。
リト・ブランドー。
おまえが──あなたが諦めたとき、その怒りも憎しみも、秘匿された」
朗々と歌うように、ミナは言う。
「ただ、安心してほしい。
記憶に残らないだけ。
あなたと出会い、誼を結んだすべての人々は、その日の晩にはあなたを忘れる。
私はこれから、あなたを世界から
意識が遠のいていく。
「そのときあなたは、あなた自身でさえ、あなたが何者なのかわからなくなるだろう。
存在が希釈されるの。
でも大丈夫。
リトの才覚のすべてが失われるわけではないはず。
この運命の輪から外れ、何者でもない少女として、その人生を全うすればいい」
視界が白に染まっていく。
「あなたはきっと、そこで安息を得るわ、リト」
どこか遠くで、誰かの声がする。
「さようなら」
その声は、驚くほど優しくて、いたわしげで、ああ、ならば、どうして────……
53
しんしんと雪の降り積もる、人気のない路地で目を覚ました。
危なかった。
このまま寝過ごしていたら、凍死していただろう。
体のあちこちに触れて、状態を確認する。
ぼろぼろの風体だが、体に異常はなさそうだった。
手足は満足に動き、骨も折れていない。
音は聞こえるし、両目ははっきりと視界を捉えている。
開戦派の襲撃を受け、西部に移動する最中、再度の襲撃を受けて戦闘になったのだ。
どうやら敵が撃退できたようだが、少し意識を失っていたらしい。
左手の薬指、その先端が失われているのを見て、私は顔をしかめる。
流れ弾に持っていかれたのだった。
見栄えが悪いが仕方がない。
ともかく、レイタークを目指さなくては。
レイタークで態勢を整え、再起する。
家の者たちのことも気がかりだが、わたくしさえ生きてさえいれば、ブランドー家は立て直せる。
わたくし……?
わたくしは──あたしは──私は、ブランドー。
リト・ブランドーだ。
ともかくリト・ブランドーという私を、絶対に損なわせるわけにはいかない。
それだけは確かなことだ。
西へ。西へ。私の名前はブランドー。
リト・ブランドー……