54(One day)
小高い丘の古びた家に、その人は住んでいた。
年老いた老婆だとか、妙齢の魔女だとか、神経質そうな職人風の男だとか、年端もいかない少女だとか、色んな噂があった。
噂話は噂話のまま、幽霊が住み着いているとか、本当は誰も済んでいないとか、浮浪者がいたけどいなくなったとか、どんどん尾ひれがついていった。
事の真相はわからないまま、次第に話題にのぼらなくなって、それは、いつか誰にも語られなくなった。
家の程近くに湖畔があって、青々とした葦が広がり、東風に吹かれて揺れる様が美しかった。
その少女がその家に辿り着いたのは、確たる意志があってのことではなかった。
少女は家でも外でも魔女だの悪魔だのと言われて石を投げられていたけれど、かといって本物の魔女がいるなら見てやろうとか、そういう好奇心があったわけでもない。ただ何もかもに追いやられて、逃げるようにさまよっているうちに、自然と湖畔に行き着いたのだった。そうして背の高い葦に隠れて、時間が過ぎるのをただ待っていたとき、見上げた先にその家があった。
少女は、ここが世界の端っこのような場所だと思った。
その家は古びてはいたが手入れはされていて、人が住んでいる気配があった。
少女はただ逃避のためにここにいて、それ以外には何もなかったから、それ以上の感想は抱かなかったし、その家をたずねるつもりはなかった。
彼女は努めて誰とも出くわさないよう、いつも気を配りながら葦の湖に向かうようにしていたけれど、ここいらでは今まで誰にも出くわしたことがなかったので、その日はつまり、油断をしていた。
いつもなら古びた家を遠巻きに湖に向かうのだが、気づかないうちにずいぶんそばを通ってしまい、すると、まるで示し合わせたように玄関から家主が現れて、ばちっと目が合ってしまった。
少女の心臓が、どきりと跳ね上がる。
家から現れた老爺は少女を見て「珍しい」とつぶやくと、手に持ったバケツの水を軒先に捨て、それから水瓶の水をすくうと、家の中に戻っていった。
家の中に戻る直前、老爺は振り返って少女を見ると、入ったらどうかと言って、彼女を招き入れた。
その口ぶりは大変穏やかで、そんな風に声をかけてもらったのはひどく久しぶりのことだったから、少女は、彼女にしては大変大胆に、その老爺の誘いに乗ることにした。
玄関からこじんまりとした炊事場を抜けると、居間に当たる部分には、ソファとか、布だとか、絵筆とか、ナイフだとか、石像だとか、とにかく色んなものが雑多に敷き詰められていて、少女の興味を引いた。
アトリエだった。
少女はまだアトリエという言葉を知らなかったけれど、それは彼女が生まれて初めておとずれたアトリエだった。
老爺はお茶を淹れ、少女にすすめてくれた。
少女はおずおずとそれを飲んだ。
それから老爺は変なことを聞くようだけれどと前置きをして、自分のことがどんな風に見えるか、と聞いた。
少女は一体何を聞かれているかわからなかったけれど、老爺の言葉には怒っている様子も少女を試すような様子もなかったので、素直におじいさんだと答えた。
それに老爺はけらけらと、まるで少女のように笑った。
「おじいさんね。なるほど。あなたにはそう見えるのね」
老爺はひとしきり笑うと、椅子に深く腰掛け直し、自分もお茶を飲んだ。
「あなたの名前は? ──ふうん。そう。
私はわかんないのよね。私のこと知らないし、私のこと知ってる人もいないし」
そういう呪いに掛かっているみたい、と他人事のように老爺は言った。
「でもまあ、いいのよ。今はいい。
そのことについて向き合おうとすると、なんていうか、自分の中で、そのことが余計に曖昧になっていく──そういう感じがするのよ」
老爺はとくに少女と目を合わせることもなく、意見を求めるような素振りもなかった。少女はこういうとき、なんて言葉を返したらいいかわからなかったので、老爺の半分独り言のような語り口は、ずいぶん助かった。
「だから今は、わかんないままにして生きてるの。そのうち良い方法を思いつくわ。
今はこれ。
今っていうか、ずっとやってるんだけど」
老爺はイーゼルに立てかけた画板の角をなぞった。
「考えると曖昧になるって言ったでしょ?
だから、できるだけそうしないで私の中にあるものを取り出そうとしているのよ」
そこには、まだ何も描かれていない。
けれど、部屋のあちこちに散乱するキャンバスには、色々な人が描かれていた。
片目を失った金髪の青年。
白い髪の美しい少年。
黄金の剣を携えた、雄々しい少女。
それから、黒髪の女中。
何枚も何枚もあった。
あらためて見れば、部屋の至るところに、描き上げた絵が、描きかけの絵が、散らばっている。
額縁に入った物があれば、画鋲で留められたものがあり、テーブルやソファの上、あるいは床にまでも、ある。
キャンバスや、紙、布、何かの切れ端、それは本当に、その老爺の心にある情景のすべてを映し出したかのようだった。
新緑の緑、稲穂の黄色、大空の青、夜に落ちる紫、朝を迎える橙。
少女は、自分の持つ言葉ですべてを表現できない、その色合いの鮮やかさに、胸を打たれた。
「たぶん」
老爺の声に、少女はまた視線を彼に戻した。
「たぶん、私の大切な人たち……」
胸が詰まるような声だった。
「覚えていないけど、覚えていたい。
できれば……できればだけど、覚えていてほしい。
それだけは……それだけが……残ってる」
老爺は目を閉じると、胸に手を当てた。
「まだ、ある。大丈夫」
それから細く長く息を吐き出して、背筋をぐぐっと伸ばすと、少女に向き直った。
「興味ある? 描いてみる?」
老爺に言われるがままに、少女は絵を描いた。
ちゃんとしたキャンバスに、ちゃんとした絵筆と絵の具で、傷つけられることも、支配されることもない空間で、少女は絵を描いた。
その時間は、しおれきって真っ黒に染まっていた少女の胸を白く塗り替えて、さらに千万の色を注いだ。
日が暮れて、少女が玄関を出て、振り向いて老爺に頭を下げると、老爺は微笑んだ。
「もしあんたが私を忘れずにいられたら、思い出せたら、いつでも来なさい。
またね、スズサ」