鶏の鳴き声で目を覚ます。
体を起こし、ベッドから這い出る。
水桶で顔を洗う。
水面に映った自分の幼い顔つきに、自然と悪態が出る。
今度こそ、あの偽善者どもを討ち滅ぼし、この糞のような世界から抜け出してやる。
子供はよく寝ると言ったのは誰だったのか。
寝たとしても良いところ、二時間か三時間だ。
泣き叫ぶ声に起こされ、乳をあげ、おしめを取り換え、ほんの短い時間だけ起きて、すぐにぐずり、また眠りにつき、また二、三時間で目を覚ます。
昼も夜もなく、私の頭は常にまどろみ、酩酊し、のたうつように、この小さな生き物の世話をした。
乳をあげながら一緒に寝てしまう母親もいるそうだが、私は乳の出が悪かった。
だから粉ミルクを用意しなければならない。
お湯を沸かし、ミルクを溶かし、湯冷ましで適温にし、それから哺乳瓶であげるという作業が生じる。
この一連の作業で頭が中途半端に覚醒するから、乳を飲み終えた子供と同時に寝るということができない。
哺乳瓶も、逐一洗わなくてはならない。
子供が生まれるまで、母乳に出るとか出ないとか、そんなものがあるなんて知る由もなかった。
でもこの子が悪いとは思わない。
悪いのは私だ。
飲みづらい乳に疲れて、この子が泣き出してしまった日を今も覚えている。
ひもじい思いをさせてしまった。
なんて駄目な母親なんだろうと、泣きわめく子供をあやしながら、私もぼろぼろと泣いてしまった。
一年近く、悪阻で散々苦しんで、早く出てきてほしいと毎日のように思っていたのに、生まれてからもこんなに大変だなんて。
体はぼろぼろだ。
お産を終えても体が万全になるにはずいぶん時間がかかるらしいと聞いている。
言葉にすると簡単なことのようにも思えるが、お産に向けてばきばきと広がった骨盤が時間をかけて元に戻るそうで、そんなこと生き物の体でやっていいのか、と思う。
でもその間も子供の面倒は見なくてはいけないわけで、全身は悲鳴を上げ続けているのだが、世のお母さんたちは一体どうしているんだろう。
もう少し安定して眠るようになれば楽になるかなと思っていたけど、月齢が進むと、またどんどんと別の難しさが出てくる。
何でも口に入れるし、一生懸命作った離乳食はちっとも食べてくれない。
今まで泣くときは眠いかお腹が減っているかのどちらかだったけど、どっちでもないときにも泣くようになった。
どうして泣いているのかわからなくて混乱してしまって、しばらくの間は私も一緒にちょっと泣いてしまっていたけど、段々そういうものなのだと思うようになった。
はいはいができるようになって行動範囲が広がったとき、家にあるすべてのものが彼女にとっての凶器になった。
苦しい。
こんなにも苦しい。
それでもこの子を産んだことに一分の後悔もない。
この子との生活は、あらゆる歓びに満ち溢れていた。
羊水にまみれた彼女を初めて抱いたとき。
おくるみに包まれた彼女が不思議そうに私を見つめたとき。
差し出した私の人差し指を小さな小さな手のひらでぎゅっと握ったとき。
懸命に乳を飲んでいるとき。
初めてのお風呂で気持ちよさそうに微笑んだとき。
ふわふわの髪の毛を拭いているとき。
音の鳴るおもちゃに興味を示したとき。
はじめて積み木を掴めたとき。
私が積上げた積み木を崩して遊べるようになったとき。
首が座ったとき。
おすわりができるようになったとき。
はいはいをして、私の後を追うようになったとき。
何の疑いもなく、私に体重を預けているとき。
その一瞬一瞬のすべてが、きらきらと黄金のように輝いて、私の胸をいっぱいにした。
彼女の体温に触れているだけで、わけもなく涙が出そうになった。
この子に出会うことが私の人生だったと、本気で思う。
ずっと、この子と一緒に生きていこう。
この子が安全で、健やかに人生を送れるよう、私のすべてを捧げよう。
何があっても、この子のお母さんでいよう。
何があっても、この子の味方でいよう。
私は──ミナは幸福だった。
そうやって季節が過ぎて、ある朝目覚めて、そして。
あの子がいなかった。
それどころか、ミナは結婚さえしていなかった。
夢を見ていたのか。
だとしたら、なんて美しくて残酷な夢なんだろうか。
けれど、自分はこの夢にまた現実で出会う。
そういう確信があった。
その確信は現実に変わり、ミナは心底安堵した。
幸福だった。
そして、また、ある朝。
何度も何度も何度も、彼女と出会っては失う日々を過ごしていた。
何かとんでもないことが起きているということを、ミナは確信していた。
それでも、なぜこんなことが起きるのか、それを確かめることはできなかった。
もしいつもと違う行動を取って、この子と出会わない人生を送ることになるとしたら。
そしてそうなったとき、
恐ろしくて、歯の根が噛み合わなくなる。
似たような人生を、それを自覚しながら繰り返し続けるということは、狂疾にも似ていた。
それでもミナがそれをできたのは、彼女の存在があったからだ。
狂気と正気の狭間で、繰り返される人生を、ミナは繰り返し続けた。
覚えている。
それは七回目だった。
決定的に、六回目までと違っていた。
生まれてきたのが男の子だったのだ。
女の子のほうが良かったとか、そんな話ではない。
脳裏をよぎったのは、そんな小さなことではない。
ミナは何度だって繰り返すことで、何度でもあの子を取り返せると思っていた。
でもこの男の子は、私の子だけど、今までの私の子ではない。
だったら。
だったら今まで数え切れないほど会ってきた我が子は、みんな別の子だったのか。
そして、もう二度と出会うことはないのか。
──私は。
私は、私の子を、私の子たちを、何度も何度も失って、失ったままで、もう戻れなくて、どこに行ってしまったの、どうして私なの、私の何が悪かったの、あの子たちはどこにいるの、どうすればよかったの、もう一度会わせて、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして、どうして。
自分は人生を繰り返していて、いつもは女の子を産むのに、今回は男の子だった。
そんなこと、誰が信じるというのだろう。
信じたとて、その焦燥を誰が理解するというのだろう。
ミナ・カルカテルラは、ゆっくりと、しかし確実に狂気に沈みつつあって、これがその最後の引金──にはならなかった。
ある日。
そう、ある日のこと。
それがいつだったか、どんな場所だったか、もう記憶がおぼろげだ。
自分は特別なことはしていなかった。
していなかったと思う。
それでも彼女は、ミナを見つけたのだ。
「ねえ。
あんた──何回目?」
と、その少女は言った。
それまで胸の裡に押し留めていた感情が、堰を切ったように溢れた。
支離滅裂で、要領を得ないことも多かったと思う。
それでも少女はじっとミナの目を見て、最後まで話を聞いた。
話を聞きながら、何度も何度も相槌を打ち、最後に大きくうなずいて、
「そう。
わかったわ」
と言った。
わかったと言ってもらったけれど、そういえば最初の質問に答えていなかったことに気づき、ミナは十一回目だと答えた。
少女は顔をしかめると、
「あなた、辛かったわね」
と言った。
ミナは声をあげて泣いた。
ミナの肩を抱く、その美しく聡明な少女は、リト・ブランドーと名乗った。
ミナが落ち着いたのを見計らって、リトはゆっくりと喋り始めた。
なぜミナがその対象から外れているのかはわからないけれど、と前置きをしたうえで、リトは時を巻き戻す秘儀があるとして、それを握っているだろう者は限られているだろうと言った。
騎士の頂点、ゼネオルシア。
魔法の極致、バーガンディ。
個人を挙げるとすれば、不滅の魔女シャンポリオン。
しかしおそらくはゼネオルシアだ、とリトは言う。
かの悪神を討ち果たすのに、その秘儀が使われた可能性がある、と。
そして市井に戻ったティズ・オーリアとアニエス・オーリアに秘儀の管理が困難だとすると、ゼネオルシアしか無い、と。
ゆえに、
「ゼネオルシアに挑戦する」
と言う。
ミナは動揺した。
ミナとて、天下のゼネオルシア、あの無敵の騎士団の噂くらいは知っている。
しかしリトは堂々と、それしか手段はないと鼻息を荒くする。
搦め手を使って、ゼネオルシアの秘儀に辿り着こうとしたら何年かかるかわからない。
その間に次の巻き戻りが起こらないという保証はない。
ゆえに挑む。
おこがましくも最強をうそぶくゼネオルシアは、であればこそ地に膝を着けてやれば言うことを聞くのだと。
それはそう、かもしれない。
しかし。
逡巡するミナに、リトが続ける。
「ねえ。
今回の私が失敗したら、次の私を頼りなさい」
リトは言った。
「あんたは繰り返せるんだから、それを利用すんのよ。
あんたは今の私たちのことを全部覚えておいて、次の私に、私たちがどうやって失敗したか教えなさい。
次の私がなんとかする。
次の私が駄目だったら、次の次の私がどうにかする」
そうしてリトは、無敵のゼネオルシア騎士団に挑み──敗北した。
負傷したリトは、ブランドー家の者に引き取られ、それから二度とミナの前に現れなかった。
季節が巡った。
ミナは張り裂けそうな胸を押さえながら、日常を過ごした。
十二回目。
リト・ブランドーは、ミナの前に現れた。
泣きそうだった。
いや、もう泣いていた。
リトは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐにうなずいた。
「私のこと、知ってるのね。
で──私もあなたのこと、知っていたのね」
リトはミナの知りうる限り、最も聡明な女性だった。
ミナはしどろもどろになりながら、話した。
自分は人生を繰り返していて、リト・ブランドーはそれに気づき、原因を知り、その因果を断ち切るために戦ってくれて、前回はゼネオルシアに挑んで敗北した。
「そう。
なるほど。
さすがゼネオルシアね」
リトは意外なほどあっさりと、ミナの説明を受け入れた。
そして当然のように、リトはまたゼネオルシアを倒すと宣言した。
十五回目。
リトはエンプレス・ゼネオルシアを打倒し、時を巻き戻す秘術が予想通り、ユウ・ゼネオルシアの遺物によるものだということがわかった。
この女を殺せばすべて解決する──というほど、事態は簡単ではなかった。
「私が死んだら、時が巻き戻ることはなくなるけれど、たぶん、この世界が滅びるのだと思う」
エンプレスは語った。
ミナが説明するほどに大掛かりな巻き戻しを発生させているということはつまり、自分が世界の危機と対峙しており、そしてそれを対処できなかったのだろうと。
かつてユウ・ゼネオルシアが同様の事態に陥った際、時を巻き戻して悪神を討ち果たした。
おそらく未来の自分も同様のことを行っているのだろうが、記憶を引き継げていないという点がユウとは異なっている。
しかし、とエンプレスは目を輝かせた。
「ミナさん。
今まで苦しめて──本当に申し訳ありませんでした。
でも、もしかすると、あなたが、あなたこそが、最後の切り札……なのかもしれない。
私が、リトが、敗北した記憶を、あなたが持ち帰ってくれれば──」
ディアマンテ。奴に、勝てるかもしれない。
ミナたちの挑戦が始まった。
何度も、何度も、何度も、その大いなる脅威に、最強の敵に、立ち向かった。
三人だけでは、到底かなわなかった。
ルクセンダルクの、人間たちの、生きとし生けるものすべての力を集めて、その災厄に立ち向かった。
ゼネオルシアが、バーガンディが、正教と公国が、あらゆるしがらみを超えて手を取り合った。
この世界の未来のために。
でも、勝てなかった。
何度繰り返しただろう。
もう、数えるのが億劫になってしまった。
百回目には到達していないと思う。そう思いたい。
この繰り返しの中でわかったのは、どうあがいても勝てないということだった。
ミナ自身の死は、おそらく巻き戻しのトリガーにはなってはいない。
しかし、エンプレスの死を以てやり直される世界で、ミナは前回の世界を記憶している。
だから、死すらも彼女をこの因果から手放すことはない。
心は次第に錆びついた。
仲間たちが必死の思いで戦っている最中で、どうせまた負けるだろうな、と思っている自分に気づく。
また年若い自分に戻り、産みの苦しみを味わい、子供と僅かばかりの時間を過ごし、リトがおとずれ、子供を家族に預け、エンプレスたちと合流する。
その繰り返しだ。
ずっとずっと、その繰り返し。
疲れた。
疲れた。
疲れた。
もう、疲れた。
今際の際で、次こそはと微笑んでみせるエンプレスに、言い知れぬ苛立ちを覚えたのは、いつからだったろう。
なんでもいいから、もう終わってほしい。
諦念に支配されつつあったミナを、それでも、あと一回だけ、と何度でも奮い立たせるのは、記憶の中の我が子の輝きが、まだ、まるで色褪せていないからだった。
彼女が、いや、もはや、彼だっていい、自分の子が、人生をまっとうするためには、いずれにせよ魔王を打ち滅ぼさねばならない。
そうだ。
魔王を倒さねば。
だが繰り返しの中で、ミナの中にいびつな感情が芽生えはじめていた。
ミナは、ミナたちは、ディアマンテと戦うために、魔王の発生──帰還を意図的に早めている。
エンプレス・ゼネオルシアという、千年に一人かという逸材、類稀なる豪傑を参戦させるため、そして往時の能力を完全に取り戻す前の、ユウ・ゼネオルシア、並びにオブリビオン──デニー・ゼネオルシアと交戦した直後の疲弊したディアマンテと戦うため。
だから、もし……もし、その発生を早めなければ。
いつか世界が滅びるときが来るとしても、我が子が人生を謳歌する程度の時間は、あるのではないだろうか。
魔王を倒す方法はないかもしれないが。
しかし。
ゼネオルシア。
奴を、奴らを滅ぼすことならば。
あと何百年か。
我が子が天寿をまっとうするまでの時間を稼げるのではないか。
ディアマンテは今倒さなければ、ユウ・ゼネオルシアたちと戦った際の傷を完全に癒してしまうのだとエンプレスはいう。
手負いのディアマンテを追撃することこそが唯一の勝算だと。
だが。
だが。
まるで天災のようなあの存在は、この星が待ち受ける運命そのものではないのか。
ミナの心は蝕まれていった。
いや、しかし、むしろ、こちらのほうが正常なのではないか。
世界を繰り返し、記憶を持ち越し、星をも喰らうあの化け物を矮小な人の身で打ち倒そうとする、ゼネオルシアのそれが狂気でないとしたらなんなのか。
狂っているのは──
もはやミナの気持ちはほとんど固まっていた。
ミナは繰り返しの中で、魔王を倒すために協力するかたわら、ゼネオルシアを滅ぼすための準備を始めた。
グリモアの探索。
邪眼と呼ばれる兵器の確保。
その中で、最後の一押しとなる出会いがあった。
ゼネオルシアを敵に回すということは、世界を敵に回すことと同義に等しい。
そういう覚悟を持って、ミナは動いていた。
だからその男も、同じ決意を秘めているのだろうと、ミナにはわかった。
男も同様のようだった。
男は語った。
「繰り返しの過程で失われた命は、失ったものとして数えない。
それは奴らが定めた傲慢なルールだと思わないか?
命という言葉が示すのは、肉体の保全に留まらない。
そうだろう?
俺たちがこれまで生きてきた記憶、経験……魂というべきものだ。
やり直された世界の俺たち……おもちゃのゼンマイを巻き直すかのように再生された俺たちは、果たして俺たちなのか?
そこに本当に連続性はあるのか?
そこに本当に同一性はあるのか?
もしやり直しを強いられた命を、失われたものとして勘定するのならば、だ。
ゼネオルシア。
奴らはこの世で一番多くの命を奪っている。
ディアマンテなんて比じゃないぜ。
魔王ディアマンテ──やつが世界を滅ぼすのは、精々一回だ。
ゼネオルシアはどうだ?
何千回滅ぼした?
何万回か?
この世界の主人公のような顔をしやがって……。
正しく戦って敗北し、それで滅びるなら、それこそが正しい世界の在り方だ。
人類だってそうやって生きてきた。
そうだろう?
火を起こし、道具を作り、それで魔物や動物を倒した。
そこで敗北していたら、今の世界に人類はいない。
でも仮にそうなっていたとして、間違っているか?
違うだろう。
間違いなんかじゃない。
世界はそうあった──それだけだ。
魔王がこの地上を滅ぼし、すべての命が息絶えたとして、なんだ?
また何千万、あるいは何億年という長い時間をかけて、生命は芽吹くはずじゃないか。
この星の、この宇宙の、大きな大きな営みの中で!
命を弄ぶな、命を無礼るな、って話だ。
俺?
俺は別に、ただ、そんなゼネオルシアが気に入らないってだけさ。
人類の守り手?
星の未来のために?
ばかばかしい。
誰がそんなことをしてくれって頼んだんだよ。
あとは、そうだな。
ささやかな夢を叶えたい。
それくらいさ!
でも人間ってそんなもんでいいだろ?
親父やじいさんが果たせなかった夢を俺が果たす──それだけさ!
恥知らずの簒奪者、糞ったれのゼネオルシア。
奴等を打ち滅ぼす。
俺の家は騎士の頂点に返り咲き、英雄の座を取り戻す。
そして世間は正教の支配から解き放たれ、豊かな生活と自由を得る。
ウィン・ウィンだろ?
そのために、エンプレス・ゼネオルシア。
奴を完全に殺さなくちゃならない。
世界の巻き戻しなんていう、傲慢なふるまいを二度とさせないためにね。
ああ、そうか。忘れてたよ。
俺はリー。
リーリ・リー。
英雄になる男さ!」
ミナ・カルカテルラは、
ゼネオルシア。
おまえを、おまえたちを滅ぼし、世界をあるがままの姿に戻してやる。
繰り返しなどといういんちきを、これ以上させてたまるものか。
この糞みたいにぶっ壊れた世界を私の手でまた完膚なきまでに破壊し尽して、本当の明日を迎えたとき、それをあの子たちに捧げるんだ。
了