Case1. Ghost apartment - 1
────あれは、俺がイスタンタールの魔法学園に入学する前のことだ。
だからもちろん、スズサやビビ、ラクリーカ通信戦線のゴロツキどもに出会う前の話になる。
シュタルクフォートのとある神学校で、入学初日に教師をぶん殴って退学になった俺は、実家のあるエタルニアに戻ってきていた。
教師をぶん殴った理由は、まあ、大したことじゃない。
そもそもあそこは正教でも元老院寄りの学校だったんだ。ぶん殴りたくなる教師なんて掃いて捨てるほどいる。そうだろう?
エタルニアに戻ってくるのは、もう何年振りのことだったろうか。
ハルトシルトの寄宿学校に入ってからはろくに顔を見せていなかった。
実家とのやり取りはほとんどが手紙だったけど、俺は筆まめなほうではないし、とはいえ親父が“男はそれくらいが丁度良い”ってな節だったから、そこは助かった。
別に家族と折り合いが悪いってわけじゃない。俺が勝手に苦手だと思っているだけだ。あの古い、古いだけの家、自らを青い血とする、おぞましい自意識、自尊心──
……話を戻す。
退学して、エイゼンでブラブラしていた俺は、どういうわけかそれを聞きつけた実家に引き戻された。
退学の理由は把握しているようで、俺がやったことは妥当と判断されたらしい。なんとも複雑なことだ。
ともかくとして、俺はエタルニアに戻ってきた。
親父は今すぐ俺をどうこうするというつもりはないらしかった。家は兄が継ぐだろうし、俺一人飼い殺しておく程度の蓄えはあるだろう。俺が望めば公国の木っ端役人になれる程度のコネもあるだろうし、その必要があればどこぞの貴族の婿養子になるという選択もある。
俺は束の間の自由を味わっていた。
ところで、国土のほとんどを寒帯で占められているエタルニア大陸にも、ごく僅かながら、温暖な地域がある。
南西部のガテラティオから巡教の森にかけて、エタールゼン海に面した地域がとくに有名で、この一帯は火のクリスタルを擁するエイゼンベルグの影響を受けているとされている。
他にも、いわゆる西部六州に属するレイターク──つまりここも、沿岸部を通る暖流の影響により、同緯度の他地域に比して穏やかな気候をしていた。
とはいえ、北国は北国だ。見ての通り、秋が深まれば雪がちらつき始めるし、吐く息は白く染まる。
手綱を握る両手、当然手袋をしてはいるものの、外気が伝わって、少し強張るような感覚がある。
この寒ささえなければ、こうやって御者台に座ってぼんやりと馬車を進めるのも嫌いではないのだが。
──車体が少し揺れる。
車輪が石にでも乗り上げたのだろう。
わるい、と後ろに声をかけると、
「これくらいだいじょうぶですよ~」
と、のんびりした声が返ってくる。
ちらりと見れば、客室でひとりの女が大儀そうに足を組んでいた。ぴんと伸ばした指先の爪をやすりで磨いては、ふうっと息を吹きかけてその削りかすを払っている。
腰まで伸びた、亜麻色の細い髪。青い血管が浮いて見えそうなほど白い肌。
色素の薄い──雪の結晶のような女だ。
指先を見つめる伏し目がちな瞳は珍しい菫色で、整った鼻梁と相まって目を引く。
まとっているのは、胸元がざっくりと切り込まれた黒いドレス。寒くないのだろうか?
それからやたらに豪勢なファーのついた白い外套。
おまけに、雪道はおろか整備された街路でさえ歩くのには向かない、高いヒールの赤い靴。
素性を知る前だったら、俺もちっとはのぼせ上がったかもわからない。
こいつはオルニス。オルニス・ユリヤルヴィ。
嘲笑のシナゴーグ、あるいは悪辣千日と呼ばれる魔女。
その呪いを怖れるあまり、処刑人という処刑人が首斬り包丁を放り出し、果てに懲役八〇〇〇年──馬鹿げてる──を下された生ける怪異。
そうして今は八〇〇〇年分の奉仕活動と引き換えに、娑婆で息をすることを許されているのだという。
いわば公国の犬──だが、そんな殊勝な態度でいたことは俺の知る限り一度もない。気に入らなければ法王の横っ面もぶん殴るだろう、と知り合いは言っていた。
俺が、そんな
長い話を一言で言うなれば、ツキの無い俺がタチの悪いババを引き当てちまったと、そういうことになる。
「なんかいまシツレーなこと考えませんでした?」
「滅相も無い」
俺は前に向き直り、また馬を進める。
勢いつけた途端、おれは前方に異変を感じて馬を急停止させる。
先ほどの比ではないほど、馬車が大きく揺れた。
「わりィ……」
振り向けば、オルニスは肩をわなわなと震わせ、それから俺を睨みつけた。
「テメーッ!! このッ、■■■■! 爪が欠けただろーがッ!! ■■■■■って豚の餌にしてやろうか、■■■野郎ッ!」
きんきんとした叫び声。
素性というのはつまり、魔女云々ではなく──
「──これだぜ。ったく」
「こっちの台詞ですよ~! まったく何だってんですか」
オルニスは身を乗り出し、俺の肩に顎を乗せて前方を睥睨する。
髪の毛が触れて鬱陶しい。
「わかんねえけど、あれは多分──」
「──
蚊柱のようにも見える“影”が、ゆらゆらと揺れていた。
「失せろッ! 〈
「うぉおい!?」
馬車を降りたオルニスは、目の前で揺らぐ影、幽霊に向かって躊躇なく魔法──に類するであろう何か──を叩きつける。
俺の知るファイアとはまた違う、紅色の炎が中空を滑るようにして走る。炎は影を取り囲むようにぐるぐると螺旋状に形を変え、それから空に向かって立ち昇るようにして消えた。
跡には、何も残っていない。
「はいボーン。……あ~、さむ。撤収!」
「いいのかよ……」
「何が?」
オルニスは客室のステップに足をかけながら、どうでもよさそうに聞き返す。
「いや霊っつったって……善いやつもいるんじゃあ」
精霊やら聖霊だのと、そういう信仰の者もいる。そうでなくとも、おいそれと手を出して良いものなのだろうか。
「霊に善し悪しなんてないですよ。ンなことよりさっさと出してください。寒い! 早く
「わかったけどよ……寒いならもうちっと着込めばいいだろうが」
俺は鞭を払い、馬を進める。
「だって着ぶくれするのイヤなんですも~ん」
「そう言うわりに、外套はやたら大仰じゃねえか」
「コートは別でしょ~? これモコモコしててかわいくないですか?」
「じゃあそのほっぽり出してる脚をどうにかしろよ」
「私にダッサい股引みたいの履けってことですか? サイテー悪趣味信じらんな~い!」
「ハァ。そうかい……」
かつて“聖女の懐剣”シェリー・カーマインが築き上げたレイタークは、今や公国首都やガテラティオに並ぶエタルニア地方の主要な都市のひとつとなっている。
近年急速に機械化が進んだ公国首都と比べ、西部六州は在りし日のガテラティオ、あるいはカルディスラを思わせるような景観が続いている。
その緑豊かなレイタークの田園風景も、季節の移ろいにしたがってその姿を赤や黄色に染めつつある。
秋が来ているのだ。
「オルニス?」
いやに静かになったなと思い後ろを見てみると、オルニスは白河夜船といった体で、まさしくこっくりこっくりと船を漕いでいた。
無理もない。
首都では正教徒連続殺人事件──という、いやに物々しい事件に散々振り回された。それから日も浅い。
しばらく向こうでゆっくりしていくという話もあったが、雪で帰りづらくなる前に帰りたいというオルニスの意向を汲み、ちょっとした強行軍で今日を迎えたのだった。
こいつの召使いのように振る舞うのも癪だが、あの亡霊のような男にも頭を下げられてしまったし、今回くらいは大人しく従ってやらないでもない。
いくつかの村落を経由し、俺たちはレイタークの外周に辿り着いた。
番所で馬車を引き渡す。これは公国将軍マクラスキーに借り受けたものなので、然るべき手続きを踏んで彼の所領か、あるいは首都へと返される。
「や~っと着いた!」
馬車から降りたオルニスは、ぐっと大きく伸びをした。
赤い三角屋根の家々。
いつまでも続く石畳の道。
職人たちが金床を打ち鳴らす音と、女たちの噂話。
窓から窓に伝わったロープに、はためく洗濯物。
煙突は白々と煙を吐き、どこからかチェロの和音が聴こえてくる。
夏はとうに過ぎ、頬を打つ風は冷たいが──
「相変わらずの熱気だな」
「そうでしょうとも」
まるで自らが褒められたかのように相槌を打ってくる。
彼女の生まれ故郷というわけではないそうだが、かつて彼女が仲間たち──あの亡霊のような男も──と過ごしたのがレイタークで、随分と思い入れがあるらしい。
「首都も暖かいっちゃあ暖かいけどな」
「あれは駄目。あの光は誘蛾灯、悪い物を呼びます」
「ま……なんとなくそれもわかるが」
公国首都、その都市の中央に建造された巨大な蒸気発電機。土のクリスタルの力を吸い上げて、昼夜を問わず煌々と輝きを放つあのオベリスクは、都市を運営するためのあらゆるエネルギーの供給を担っている。今やあの不死の塔に並んで公国にとって不可欠なものだ。
あのおぼろげな橙色の光の、何とも言えないおそろしさというのは、俺も理解する。果たしてクリスタルの力というのは、人間には過ぎたものなんじゃあないかと──そんならしくないことを考えさせられる。
そんな物思いに更けながら街路を進んでいくが、しかしなんだか妙だ。
「いつにも増して活気が凄くねえか?」
「収穫が近いですからね。お祭りも近いってことです」
「ああ、そういやそうだったな」
たわわに実った麦穂を刈り入れ、エタルニアの人々は長い冬に備える。
その前にはその収穫と来年の豊穣を祈念して、大きなお祭りが開かれるのだ。
地方によってその由来は異なる。正教やクリスタル教の聖人にちなんでいるともいうし、はたまたもっと古い土着の宗教の祭事だともいわれているが、今となってはそんなことを気にしている者は誰もいない。
カボチャをくり抜き、蝋燭を立て、仮面を被って踊るのだ。そこに神様がいようともいまいとも。
「まったく
オルニスは醒めた調子で肩をすくめる。
「治まりて乱るるを忘れずと言いますけど逆も然りってもんで──エッ!?」
見れば、進行方向の開けた広場には大きなカボチャが積み重なっていた。祭用のモニュメントだろう。
「なにアレ!? でっか! あんなでかいカボチャある!?」
わーっとオルニスは広場に駆けていく。
あんな高いヒールでよくもまあ器用に走れるもんだ。
「しょうねーん! 何してんですかっ、早くっ!」
「おまえが何なんだよ……」
俺は仕方なく、早歩きでやつの元に向かった。
広場には祭に向けて、大小のカボチャや蝋燭やらが雑多に設置されていた。顔をくり抜かれたカボチャも、まだこれからのものもある。
一番大きいものは俺が両手を広げたよりも遥かに大きな直径を持っている。自然にできたとは思えないが、一体どうやってこんなものを作るんだろうか。
「でっかぁい。なんか登りたくなりますねえ」
「やめとけ」
煙と何とかは……とは、よく言ったもんだ。
それにしても、とオルニスが辺りを見回す。
「な~んか人少なくないですか?」
言われてみれば、確かにそうだ。
まだ加工前のカボチャも多いし、何かを設営するような資材が大量に積まれているわりには、作業をする者も少ない。まだ日も高いし、今日が安息日というわけでもない。
「あっちか?」
「ん~?」
広場を挟んで向こう側の路地から、かすかに喧騒が聴こえてくる。
オルニスは迷いなくその声に向かう。ヒールの音をカツカツと響かせながら。
俺も遅れまいと彼女の横に並んだ。
彼女は少し前屈みになって、人差し指で唇を撫で、獲物を見つけた狩猟者のように目は細まり、そうしてどんどん足早になっていく。
参ったな、と思った。
この魔女は厄介事に首を突っ込むとき、決まってこういう顔をするのだ。