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「またみっともない負けを積み上げる時間が来たわ」
お嬢様はつとめてうんざりしたような素振りを見せていらっしゃいましたが、どことなしか声が弾んでいることを隠しきれておりません。
──来客の時間でございます。
お嬢様の私室をノックする音に応じ、迎え入れましたのは、壮年の男性でした。
わずかに白髪の混じった金髪、顔に刻まれた傷跡、目じりのしわ、柔和そうな表情に、赤い瞳。
がっしりとした体で、腰に差した長物からも、武人であることがうかがいしれます。
「こんにちは」
と、わたくしに声をかけてくださいます。
初めてお会いしたとき、してくださったように。
お嬢様のお客様ということは、お貴族様か、それに準じる立場の方ということです。
そういった方がわたくしに直接挨拶するというのはこれまで一度もなかったことでしたので、わたくしは面を食らってしまいまして、しどろもどろになりながら、挨拶を返すのが精いっぱいだったことをよく覚えております。
そんなわたくしを見て、お嬢様は呆れたようにおっしゃいました。
『気にしないで。
そいつ初めて見る女中には必ず挨拶するのよ。
つまり、うちの女中を全部把握してるってわけ。
気持ち悪いわよね』
『何を言う。男の使用人も把握している』
『でも挨拶はしないじゃない』
『なぜ男にわざわざ声をかけてやらねばならんのか?』
『キモ』
わたくしのような卑賤の者に直接口を利いてくださることにも驚きましたが、お嬢様とこのように気安いやり取りをされていることにも一層驚きました。
後からお嬢様の教えてくださった話によれば、この御仁は公国の議会、つまり旧六人会議に議席を持つ政府要人にして、公国軍に将官の籍を持つ大層な人物であるということでございまして、家々の関係でいえば、
『ブランドーがちょい下』
ということでございまして、わたくしは二度も三度も衝撃を受けました。
であれば旦那様がお相手するのが尋常ではないかと思いましたが、お嬢様の
実際のところは四方山の話に花を咲かせたり、あるいはお二人でゲームをされたりですとか、一見、教師と生徒のやり取りには──お嬢様の態度を含めて──見えないところがございましたけれど、お傍でよくよくお話を聞いておりますと、たしかにお嬢様にしては珍しく、珍しくというのは内緒でございますけれど、しっかりとこの御仁のお言葉に耳を傾けられているご様子でした。
とくに正教騎士団の動静やエタールゼン海の緊張、国内のタカ派、ハト派の動き等は、この方のお話を大変重宝しているようでして、この諸々を勘案いたしますと、
ともかくお嬢様と御仁──サカヅキ様は軽口を叩き合いながら、仲睦まじい様子をわたくしに見てくださいます。
サカヅキ様は勝手知ったる様子で部屋を進むと、腰の物を鞘ごと引き抜いて、わたくしに差し出しました。
これは、何遍やっても緊張いたします。
つとめて恭しく佩刀を受け取りまして、サカヅキ様が退室されるまで預かっております。
初めてお会いしたとき、帯刀して屋敷を歩きサカヅキ様に目を丸くするわたくしを見て、サカヅキ様はイタズラに成功した子供のように呵々と笑ったものでした。
『お嬢さん。腰の物が気になるかね』
『ああ、こいつはいいのよ』
『別に無くともよい』
『なによ。
だったら最初から差してくるんじゃないわよ』
『色々とうるさいから、仕方なく差しとる』
『ふうん。まああったほうが格好つくんじゃない?』
『バカ言え。武器なんて見せびらかしているやつは、すべからく阿呆だ』
『じゃあ、あんたも阿呆じゃない』
『そうなるな』
サカヅキ様が笑います。
そういうやり取りがあってから、また何度目かの訪問を経て、いつしかサカヅキ様は、わたくしに剣を預けるようになりました。
『どうしてあの子なのよ。
色目使うなら別のにしてくれる?』
『そういうわけではない』
『じゃあどういうわけよ』
『おれがおまえに狼藉を働いたとして、おれを殺すために迷いなく剣を抜けるのは彼女だけだ』
『はあ……?
うちの親とかは?
私、まあまあ愛されてる自信あるけど』
『愛情の問題ではない。
おまえの親はまず、おれがそのような凶行に及んだ理由をはっきりさせようとする。
然るのちに、相応の裁きを与えようとするだろう。
それではいかん。
なまっている。
殴られた瞬間に殴り返せるようでなくてはならん。
この娘にはそれがあるぞ』
『ふうん。
そう、そうなの。
あんた、そうなの?』
気のせいか、どこか嬉しそうなお嬢様。
わたくしは返答に窮してしまいました。
しかし自らに斬りかかりうるものだから剣を預けているという理由は、わたくしからしたらさっぱり承知しかねるものなのですが、お嬢様はそれでご納得されているご様子ですので、わたくしもまだまだ精進が足りません。
お嬢様とサカヅキ様は、昨今の社会情勢をひとしきりお話しした後、いつも決まってチェスを打たれました。
そうしてわたくしの知りうる限り、
「むぐぐ……」
お嬢様が勝利したことは、ただの一度もございません。
「詰んでいるぞ」
サカヅキ様が呵々と笑います。
「いや、待ちなさいよ……まだどこか……」
「いや詰んどる。
リト、駒を兵として見てみよ。民として見よ。
これ以上の消耗戦を続けるのか?
王が取られるのは明らかなのに?」
「ぐっ……あっ………………ありません……」
「よろしい。
ちなみにだか、このビショップをこうして……ほら、こうすれば活路はあった」
「はあああっ!?
おまえっ、ぶっ殺すっ!」
「なぜ敵の言葉を信じたのだ?
おまえは自分を信じるべきだった」
「じゃあ考える時間を寄越しなさいよ!」
お二人は、一手を一分以内に打ち、できなければ相手の手に変わるというルールで指しておられました。
このチェスという遊びは、普通、このように持ち時間などを設けるものではないらしいですけれども、競技の形式における目安といたしましては、四十手当たり二時間という持ち時間があるらしく、それを自由に使えるようで、仮に一手に均しても三分というわけですから、お二人は三倍の速さで駒を進めているということになります。
「降伏か、徹底抗戦か。
考えているうちに状況は刻々と悪化していく。
そこを踏まえて敵が甘言を弄する。
至極当然のことではないのか?」
「わかってるわよっ! 私が弱いだけよっ!
クソがっ!!」
お嬢様はだらしなくソファに持たれかかると、天井を見上げて大きく息を吐きました。
「これじゃ艦隊指揮なんて夢のまた夢ね」
「何度も言うがな、リト。
チェスが上手くなっても艦隊指揮は執れん」
「思考ゲームにはなるでしょ。
それに今度から
「審判がおらんだろう」
「こいつがいるでしょ。覚えさせるわ」
と、わたくしを指し示します。
一体何をやらされるのでございましょうか。
「ちゃんと聞いてこなかったが、リト。
おまえ、軍人になるのか?」
「はあ?
貴族なんて軍人とほとんど同じ意味でしょ。
私らの贅沢暮らしは流血の覚悟と引き換えでしょ」
「それはそうかもしれんが……おまえ、今いくつだ?」
「こないだ十三になったけど」
お嬢様は天上を見上げるような姿勢からさらに体を仰け反らせて、後方のわたくしを見やりました。
「そう考えると──あんたを拾ってから一年? 二年?
あっという間ね。
じゃなかった。
サカヅキ、あんた、子供は戦場に送りたくないとかそういうことを思ってるんでしょうけど、そういうジアイに満ちた態度は弱者に向けてあげなさいよ。
私には関係ないから」
「おまえのその豪傑はどこから来たのやら。
ユウ・ゼネオルシアがグランツ帝国を倒したのは十六歳の頃だったというがなあ」
「つまんないお世辞やめてくれる?
それとも、今は悪の枢軸なんていないだろって、時代にそぐわないぞって、そういう嫌味?」
「嫌味だ」
「クソジジイ……」
「リト。
あのな。
おまえはエンプレスを意識しすぎる。
それでは道に迷うぞ」
エンプレス。
その言葉に、一瞬、お嬢様の顔が固まったのを見て取れました。
それから細く長く息を吐き出し、体勢を戻すと、少し強張った声で返事をされました。
お嬢様のその背中越しにも、サカヅキ様を睨め付けたのを感じ取れました。
「私があの女に足りてないのは事実でしょ。
私はグリモア使いじゃないし、剣才もない。
ブランドーがゼネオルシアみたいな艦隊を持ってるわけでもない。
それともなに?
私みたいな凡人がああいう天才に挑むのは無駄だからやめろって?
あんたそういうタイプだったっけ?」
「そういう話ではない」
「じゃあどういう話よ。
あんた一応私の教師でしょ。
ああでもあの女の剣の手ほどきもしたんだっけ?
やっぱり優秀な生徒のほうがかわいいって?」
「リト」
「もっと……私を応援しなさいよ」
「無論、応援している。
だからこそだ。
リト、おまえがエンプレスのようになれたとして、おまえが望むものが手に入るかというのは、別の話なのではないのか」
「何よ、望むものって」
「最近のおまえは、生き急ぎ過ぎているように見える」
「あのさ、何?
回りくどいのやめてくれない?」
「だから、つまり……パヤエルの件は──」
「──私の」
サカヅキ様の言葉を遮るようにして、お嬢様が大きな声を出しました。
「私のものにならなかったものには、もう興味ないの」
「いや、リト、それは違う」
「もうつまんないこと言わないで」
「聞け、リト」
「嫌よ」
「リト。聞いてくれ」
「嫌だって」
「大事なことだ。パヤエルも、ランだって……」
「もういいってば」
「おまえのことは大切に思って──」
「うるさいっ!!
エンプレスのお下がりなんてもういらないっ!!」
だん、と大きな音。
お嬢様が力任せにテーブルを叩き、チェス盤と、その駒があちらこちらに散らばりました。
──静寂が、部屋を支配いたしました。
サカヅキ様は立ち上がっていくつかの駒を拾い上げられ、それをテーブルに戻しますと、すまなかった、と俯いたままのお嬢様に声をかけられました。
それから、
「出直すよ」
と苦笑してわたくしに一声かけますと、静かに部屋を退室されました。
わたくしはお辞儀をしてそれを見送りますと、俯いたままのお嬢様の後ろに、また控えました。
窓辺から、夕暮れの紅が部屋に差し込んでおります。
「二番目なんてつまんないのよ……」
くぐもったお嬢様の声が、部屋に響きます。
わたくしはずっと、ずっとずっと、お嬢様のお傍に控えておりました。