001
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I (must) be scared.
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文句のつけようがないほどに、辺り一面は海だった。島などは見えず、いま彼が乗っている船以外に人工物だなんて端っこも見えやしない。黎明の夜明けを迎えつつある空と海原の境目は、太陽が上がるにつれ次第にはっきりとした線を浮かばせる──それだけが、ほんの僅か、この海原に与えられた変化であった。
船頭の手摺りに身を預けながら、生臭く、そして冷たい潮風に散髪したばかりの短い髪をなびかせて、果てが見えない溟海に耳を傾ける。そんな彼の奇妙な様相は、数時間前からずっと続いていた。
夜か朝か。そんな、どっちともつかないような曖昧な時間帯だった──風景に溶け込んでしまいそうなまどろみの感覚を、彼は慣れたようにその身で感じていた。
「あら。部屋にいないと思ったら、こんなところにいたのね」
不意に彼は後ろから声をかけられ、希薄になった意識の形を取り戻す。
物憂げに振り返ってみれば、そこにはゴシック調のコートを着込んだ少女が立っていた。煌びやかな化粧はしていない質素な格好ではあるものの、しかし高貴さが感ぜられるその立ち姿は、そんな格好も手伝っているのだろうか、寂れた船の甲板には不似合いだった。
甲板を踏みつける、硬い靴底の音が彼の背後に近づく。やがて少女は隣に立ち、真似るように手摺りにもたれてから、囁くような声で彼に告げた。
「もうすぐ着くみたい。彼ら、どこ行きかまでは教えてくれなかったけれど」
そう言いながら、少女は彼との間をにじるように詰めた。肩と肩とが触れ合うか否か、といった距離にまでだ。
背の低い彼は、背の高い少女と肩を並べることで、よりその小柄さが際立つようだった。そのことに彼は、大した反応は見せないでいた。
彼女と身を寄せることに特別な感情を抱くことはできないだろうと、彼は漠々とした意識のなかで確信していたのだ。
彼にはなにかを美しいと思えるような感性がなかった。だから少女に対して抱く感情を、うまく表現できずにいた。それは不幸なことではないだろうが、しかし少女からしてみれば不満でしかない。もっとも、それすらもいじらしく、愛おしいのかもしれないが。
そして彼は彼でまた慣れない格好をしていた。少女がそのゴシック調に仕立てられた服を好んで着ているのとは異なり、彼が着ている服は無理やり着させられたものだった。
胸元は空気が入るような隙間もないほどに窮屈で、パリッとしたカッターシャツは彼にとって着心地の悪い拘束衣のようなものでしかなく、そこに未来への希望であるとか、胸いっぱいの夢なんてものは詰め込まれていなかった。
あるのはただ、喘ぐような息苦しさだった。
「これについては、なにか言ってましたか」
彼は首まわりを覆う金属製の輪っかと、そこから伸びた太いケーブル。そしてそれに繋がる歪な形をしたトランクを指して吐き出すように言った。息もやっとというほどだった。
親切に取手まで付けられたトランクは持ち運ぶことを前提に設計されたもののようだが、重量はそのコンセプトにそぐわないと彼には感ぜられた。
これは彼の所有物ではない。この船上で目覚めた時から既にあった、身に覚えのない代物だ。
トランクであれば開けることもできそうなものだが、いかんせん鍵がかかっているようで、無理矢理こじ開けでもしない限り中身を確かめることは不可能らしかった。鍵穴はついていたが、そこへ差し込む鍵に心当たりはなかった。
怪しいことこの上ない首輪とトランクは、前述したように太いケーブルで繋がれていた。鎖でなく、わざわざケーブルで繋いでいるというのなら、それには意味があるはずだと彼は考えた。
そういった思考は彼の得意分野でもある。自然と、その答えは浮かんできた。
おそらくはこの首輪を無理にでも外そうとするか、あるいはこのケーブルを切りでもすればなにかが起こるのだろうと冷静に推察することができた。
大抵ケーブルというものは電気を通すもので、となると首輪とトランクは電気が通い合っているということになる。なにかしらの仕掛けがどちらか、あるいは両方に存在しているだろうというのは明白であった。
ケーブルを切ればなにが起こるのか。そんな危険なことを試そうとするほど命知らずでもなかったのでなにもしないでいたのだが……彼の質問に対する少女の「乱暴に扱うのは良くないでしょうね」という答えからして、推察から導き出した答えは概ね当たっているだろうと思われた。
何気なく発せられた少女の言葉に、彼は事もなさげに「そうですか」と返した。
そんな彼の素っ気ない態度にますます惹かれるように、少女はこれ以上縮みようのない距離をさらに縮めようとする。物理的にも精神的にも、二人の関係は十分煮詰まっているというのに。
しかし、金属製の首輪とはなかなかに趣味が悪い──まるで犬につけるもののようだと思い、彼は指先で首元を気にするような仕草をしつつ少女に尋ねた。
「
「まさか」
立竝と呼ばれた少女の首にもまた、彼と同様に首輪が取り付けられてある。
それを主張するかのように、少女は洗練された動きで髪をかき上げ首元を晒したあと、「私なら首だけとは言わず、足や手にだって同じ輪をつけるもの」と続けて言った。
(悪趣味な人だ)
それっきり、彼は首輪やトランクに対する興味を手放した。
乱暴に扱わない方がいいという大雑把な説明で納得してしまえるほど、彼は愚かな人間ではない。ただ同時に、分からないものを分からないままにしておける人間だった。
今はどうしようもないのだからとトランクに対する謎は捨て置き、視線を、水平線の向こうへと戻した。今度はただ眺めているのではなく、明確な意思を持って、その先を見据えていた。
「悪趣味なのは置いといて」
「? 悪趣味?」
「いえ、立竝さんとは関係のないことです」
彼女の顔を見ることが酷く恐ろしいように思われたので、首を動かさずに、気を紛らわすように息を吐いた。
「──見えてきましたよ」
彼が指さす先には、影が見え始めていた。
その影は決して大きくはなかったが、だがしかし小さいわけでもない。おそらくは島だろう。他に陸地らしきものは見えなかったため、どうやらそこは孤島のようだと推測できた。
建物や塔のようなものが形を現し始める。暗がりの中を照らすように光をたたえる灯台が、霞の向こうに見えた。
2
「朝起きたら船の中にいて、それで、兵隊さんに車に乗せられて……」
心ここにあらず。そんな言葉が似合うぼんやりとした目の彼女は、弱々しく
下船後、なにも知らされないで車に乗せられた彼女にとっては、車窓から見えた後ろへと流れて行く景色が、まるで今の自分を暗示しているかのように感ぜられた。
わけも分からないままに、得難い過去が過ぎて行く──自分がいるべき過去に、そこに自分はおらず、迎えたくもない未来が前から後ろへと流れて行くような……そんな孤独と不安を感じていた。
胸が締め付けられるような鬱屈とした気持ちが目覚めてからずっと続いていた。
そんな負の感情を少しでも和らげようと、今朝から起きた一連の出来事を口に出して確認し現状把握に彼女は
なにせ誘拐だ。
希望ヶ峰学園という、自己評価だけは一丁前な無名の学校に入学するためわざわざ日本へ帰ってきたというのに。迎えにと学園側から寄越された車に乗り込んだ途端、彼女は眠らされてしまったのだ。
迂闊だったと、今になって思う。ここ数十年地上戦が行われていない比較的平和な土地──そして母国──ということで、少々気が抜けてしまっていたのかもしれない。
そもそも、彼らの宣伝文句、謳い文句はあまりにも夢見がちなものだった。曰く、未来への希望を育てる学校だとか、才能を持つ若人たちを集めて最先端の教育を図るだとか。
今の時代、女学生というのは少なくない。留学生だって多くいる。そのじつ彼女もまた外国に留学していたのだから、学業に励みたいと思うのなら希望ヶ峰とかいう意味の分からない学校である必要はなかった。むしろ外国の方がより良い教育を受けられただろう。
……数ヶ月前の、興味本位で身を乗り出した自分を責め立てる。
今となっては過ぎたことだが、自分らしくもないと、後悔や懺悔の気持ちが入り混じった様子で涙を拭った。
(わたしは……これから、どうなっちゃうんだろう)
さっきは軍服姿の男を兵隊さんと呼んだが、それすらも正しいことなのか怪しく思える。
身体を激しく揺らす荒道と、車輪を動かすエンジンの轟々とした駆動音が、彼女の頭に重くのし掛かる負の感情を増幅させる。
今の彼女に分かるのは、せいぜい坂道を登っているということくらいで──いや、それだって、あまりにも気分が悪いため平衡感覚を失っているのではないかと、そう錯覚してしまうほどに彼女は追い詰められていた。
現に彼女は、うなだれるように背を曲げ、頭を抱えていた。
だが、今のままじゃなにも解決しないと考えたのか、怯えが混じる顔を上げて彼女は声を張った。
「ぁ、あのぉ」
激しい揺れに振り落とされないよう前の座席にしがみつきながら、車を運転する男に声をかけたが──エンジンの音にかき消されてしまったのか、返事はなかった。
肩を叩こうにも後部座席と運転席の間には金網があり、指の一つも差し込むことできないだろうということは、試すまでもなかった。
「あっあのう!」
先ほどよりも大きく声を張り上げるが、運転手は反応を示さない。こんなに大きな声が聞こえていない、ということはないだろうに。
「…………」
再度うなだれるように腰を落として、彼女はエンジンの音が止まるのを待った。
こういうことはよくあることなのだと。そう自分に言い聞かせることで、ようやく彼女は現実からの逃避に集中できた。
しばらくして周囲が静かになるのを感じ、ゆっくりと顔を上げ、周囲に視線を巡らす。運転席の男はいつの間にか消えていた。
「んう……」
ぼうっと、自分のほかに誰もいない車内を見渡す。
エンジンは既に止まっていて、車も動いていないからか、嫌というほどに車内は静かだった。
嵐の前の静けさ、というのだろうか。嫌な予感が募り、夜更の風がやけに冷たく感じられた。
降りた方が良いのかもしれないと、薄暗い車内に散らばった私物をかき集め、腰ほどまでの高さがある旅行鞄を担いで車外に出ようとした──のだが。
「うぐっ」
外へ出ようとする彼女を引き止めるように──あるいは、これから起こる悲惨な出来事に彼女を向かわせないよう──なにかが彼女の首を強く締め付けた。
おさげを誰かに掴まれたのだろうかと、後ろ髪を恐る恐るたくし上げてみるが、まるで不自由なく三つ編みは宙を舞った。
いったいどういうことだろう。いまだ、首にある違和感は消えない。
そもそも引っ張られている箇所は首なのだ。近いとはいえ、この痛みの発生源が自分の後頭部にある三つ編みではないだろうというくらいは、冷静に考えてみれば分かることだった。
一度、旅行鞄を下ろして、彼女は首元に手をやった。すると冷たい金属の感じがあった。それは輪のような形状で首周りをぐるっと一周しているらしく、待雪にはまるで覚えのない代物だった。
しかもその首輪からは太いケーブルのようなものが暗い車内へと伸びていた。ケーブルの先を手繰り寄せようと引っ張ってみたが、少したりとも動かない。
「……はあ」
嘆くように空を見上げた。白みがかった夜空は雲一つなく透き通っていて、星もまだよく見える。北の空で北斗七星が一際輝いているのが印象的だった。
ひとまずこの首輪がなんなのかを知らなければならないと考え、車内へ伸びるケーブルを辿り、座席の上を四つ足で這っていく。するとそれは大きな──それでいて歪な形をしたトランクに手が当たった。
持とうとしても、きちんとした姿勢で踏ん張らないとまともに持てそうもない。中身がずっしりとした、とにかく重たいトランクだった。
「……なんだろう、これ」
よく分からないものには触らないほうがいい。
しかしどうやら、彼女につけられた首輪とトランクは太いケーブルで密接に繋がっており、取り外そうと力を加えても、首輪とトランクはまるで外れる気配がなかった。
ケーブルを切り離そうかとも考えたが、そんな考えもすぐに放棄してしまうくらいに頑丈そうで、ハサミでだって切れそうにないほど太く重い。
つまり、この車から離れどこかへ移動するためには、トランクを持ち運ぶ必要があるらしかった。
力に自信はあったが、私物がたくさん詰め込まれていて見た目相応に重くなった旅行鞄だけならまだしも、ただただ重いだけのトランクも一緒に運ぶとなると、流石にキャパオーバーというものだった。
いや──やはり、ただ重いだけなら問題ではなかったかもしれない。引き摺ってでも運んでやればいいのだと、そんな野蛮な考えだってないことにはなかったし、できないわけでもなかった。
実際、重いといってもあくまでトランクだ。持ち手は付いてあったから、持つこと自体は苦ではなさそうだったし、先ほども言ったが、彼女は力には自信があったから、最初は不安定な姿勢でトランクを掴んだため少し拍子抜けしたが、肩にでも担いでやれば軽々と持ち運ぶことができるだろう。
そのたおやかで細い腕のどこからそのような力が生まれるのだろうかと思えるほどに彼女は力持ちだから、やはり重いものを運ぶことに関して心配は無用というものだ。
けれども、なにが入っているのか分からないものを運ぶことに、力の有無はまるで関係のないことである。
力があろうとなかろうと、その危険性は変わらないからだ。
もし、ピンの抜かれた手榴弾が入っていたら?
もし、ガソリンと火種が入っていたら?
ありえないことばかりが続いていた彼女にとって、それは可能性のある話だった。中身が確認できない以上、どうしても否定できない。
けれども、移動するためにはこの正体不明なトランクを持ち運ぶ必要がある。
そんな矛盾が、彼女を悩ませた。
ましてや彼女は寝起きの状態で、荒道を車で駆け上がり、脳を揺らされていたのだから、黄身を攪拌させたような思考回路で状況を判断するのは無理があったし、そのうえ怯えや不安で感情の器が溢れそうになっていて、正常な判断もできそうになかった。
幾度となく稚拙な煩悶が繰り返される。
年頃の少女らしい混乱の仕方だった。
とにかく一度落ち着くことが大切だろうと、車内に重苦しく鎮座した正体不明のトランクを車窓付近にまで引き寄せ、車外に出てもある程度は動き回れるような余裕を確保した。
せめて、気軽に外の空気が吸えるようにしたかったのだ。
その間、トランクに怪しげな様子はなかったが、代わりに時計の長身が絶えず時を刻むような音だけが規則正しく流れて続けていた。ただそれは強い潮風の音に混じり、彼女の耳にはほとんど届いていないようだった。
首に引っかかりを感じることもなく半自由の身となった彼女は、車外に出てから大きな伸びをした。もうじき春であるとはいえ、風に触れる肌が凍てつくような寒さだったが、それはぐちゃぐちゃになっていた意識を元ある形に戻してくれた。
切り揃えられた長い前髪の奥から、ぼうっとした目で水平線を眺める。
夜更けの空に朝が近づいているらしかった。太陽はまだ見えないが、じきに日の出を迎えそうな、そんな赤い空もまた一方の海では広がっていた。
海を背にして後ろを見ると、今いる土地の様子がよくわかる。
ツタの絡んだ幾重もの金網が堅牢な雰囲気で彼女を取り囲んでいて、四方の隅には監視塔のようなものがそびえ立っていた。
ここは島の中でも一番の高台なのだろう。金網越しにではあるが、広大な海原と真っ直ぐな水平線が嫌というほどよく見えた。空も海も空っぽで、視界はただ二色に染まる。薄気味悪いとすら感じてしまった。
「…………」
あまりにも開放的なものだから自由になった気持ちでいたけれど、しかしよく見てみれば、いま彼女がいる場所から望める四方すべての彼方には海が存在している。
今朝は突然眠りから起こされて、そのうえなにも分からないままに船を降ろされたから、そのときはここが孤島であると考える暇もなかったが、今になって海に囲まれた自分に逃げ場などはないのだということを気付かされた。
「……島?」
呆気に取られながらそう言った。それは思考の逃避でもあった。
少なくとも、どこかと地続きになっているようには見えない。だというのなら、ここはいったいどこなのだろうか。降って湧いたような疑問に……ふと口に出した独り言に、答える声があった。
「島ですよ。名前までは分かりませんけど」
唐突に後ろからかけられた声に、ほんの一瞬息が詰まるのを感じた。
誰か、いたのか。さっき露骨に自分のことを無視してきた運転手だろうか。でもいま聞こえた声は男の声ではあったが、大人びた印象はなく、むしろ若者のようである。酷く落ち着いていて、達観しきっているような様子で──それでも幼い印象のある、声変わりを終えたばかりのような低い声。
背を向けたまま話すという器用な真似はできないため、話の通じる相手なら良いのだけれどと、ぎこちない動きで彼女は後ろを振り返った。
そこにいたのは二人組みの男女で──最初に思ったのは、なんだかアンバランスな組み合わせだなということだった。
「……誰、ですか?」
突然現れた少年少女の二人組に、不安で満ちた目を向ける。ただ、恐れをなしてか直接目を合わせることはできず、忙しないまま右往左往と視線は揺らめいていた。
「誰って……ああ、初対面なんだっけ……」
と彼は静かな声で言い、続けて自らの名前を告げようとする──がしかし黙っていられなかったのか、彼の後ろにいる少女が割り込んで口を開いた。
丁度車内から出てきたところらしく、旅行鞄と歪な形をしたトランクを両手で引っ張っていた。
彼女はその歪な形をしたトランクに見覚えがあった。それも記憶に新しく、首元に残る苦痛の感触は未だに消えない。
「──っと、ごめんなさい。私から紹介させていただいても構わないかしら。……なにぶん彼、誤解を招きやすい性格なものだから」
「……構いませんけど」
「よかった。それじゃあ私から自己紹介を」
こほん、と咳払いをし、輝くような表情で少女は語らい始めた。事前に文を用意していたのではないかと思えるほどにスラスラと出てくる言葉を、彼女は混乱の中で聞いていた。
「私は
「は、はぁ?」
「保護者よ、保護者。その文字の通り、保護する者。……彼、私がいないとダメダメなの」
澪標と名乗った少女に対する不信感が彼女の中では高まりつつあったが、それを知ってか知らずか、他人などお構いなしといった態度で澪標は言葉を重ねた。
本題に入るというよりも、ただ必要なタスクをこなしているだけというか──悠然とした態度ではあるけれど、しかしどこか急いでいるように見えたのが印象的だった。
「このトランク」
と澪標は地べたに置かれた歪なトランクを指差した。
その重さは澪標の手に余るのだろう。持ち上げずにただ指さしていた。
「これが危険なものかどうか判断しかねているのなら、それについて心配はいらないわ」
悩んでいたことをピンポイントで話題に挙げられ、内心驚く。後ろめたいことなどなにもなかったが、しかし悪事がバレて罰を恐れる子供のように、彼女はひっそりと冷や汗をかいた。
「これは危険なんじゃないかって、あなた、思い悩んでいるんじゃないの? ……ええ、きっとそう。誰だってそう考えるはず。……でもね、ちっとやそっとじゃ大ごとにはならないわよ」
自身ありげに澪標は胸を張る。得意げな態度がここまで似合う人というのも、そういないだろう。
「このトランクが危険なものであることに違いはないでしょうけれどね。ただほら、ここに来るまでの道中、車の中であれほど強い衝撃を与えられていたのに異変一つ起きなかったんだから──だから、たかだか歩く程度の揺れで、おかしなことにはならないと思うの」
それはもっともな意見だった。
確かに、あの車の揺れに晒されてもなお異変は起きなかったのだから、振動には強いはずだ。
「な、なるほど……」
解決策というか、ひとまずこの場を凌ぐための安心を得て、車内に置いたままのトランクの取手に手をかけた。やはり重たいが、粗雑に扱っても問題はないと思うと、心なしか軽いようにも感じる。
とはいえ重たいことに変わりない。足腰が強いとはいえ憂鬱になってしまいそうなほどの重たい荷物を抱えて、彼女はようやく本質的な意味で外に出ることができた。
トランクに対する不安はかき消せないままだったが、それも幾らかマシにはなっていた。
そうして外に出て、もう一度うんと伸びをして開放感を噛み締めていると、澪標ともう一人の少年が、立ってこちらを見ているのに気付いた。
つい伏し目がちになって動きを止める。なんだかこういうのは苦手だと唇を噛んだ。
二人に向かって軽い会釈をし、それから背を向け、この場を離れようとした。すると後ろから「待って」と声をかけられた。
「……な、なんでしょうか」
おずおず振り返ると、澪標は優しく笑って彼女に問いかけた。
「訊き忘れていたのだけれど、超高校級という言葉は知っているかしら」
澪標の口から出てきたその言葉に、虚をつかれたようにして彼女は顔を見上げた。出てきた単語があまりにも意外だったからだ。しかし、そんな驚きもすぐに忘れてしまうことになる。
なにせ彼女は、不可抗力ではあるものの、澪標の顔を真っ直ぐな形で目にすることになったからだ。
少女の口元は親しみやすい笑窪が作られていて、しかして確かな血筋を思わせる高貴さを帯びている。非常に整った顔立ちであるのが、こんな薄暗い時間帯でもよく分かった。一つ一つのパーツが美しいこともそうだが、それらが美術品のような輪郭の中で理想的な位置に寸分の狂いなく存在しているのだ。過去に訪れたどの美術館でも、これほどに美しいものは見たことがなかった。普通、こういった美人は人形のような表情をしていて面白味のないものだが、しかし少女は違う。
いかなる彫刻や絵画、骨董品などに目を奪われたことはないが、しかしこのときばかりは後頭部をガツンと殴られたかのように頭の中が真っ白になってしまった。澪標が背負う日の出の光も相まってか、それはまるで後光のようで、神秘的な体験をしているかのような気分にもなれた。
「────」
「……聞いてる? 大丈夫? ……ねえ、ききょーくん。この子、大丈夫かしら」
「分かりませんよ。僕は医者じゃないんです」
ききょーくんと呼ばれた少年は、両の手に多くの荷物を抱えていた。澪標が一つの荷物も持っていないところを見るに、きっと澪標の荷物も彼が持たされているのだろう。そのわけは分からなかったし、彼が澪標を慕っているようなそぶりもなかったため(親しげではあったが、しかし仲が良いという雰囲気はない)不思議なものだった。
ようやく彼女は意識を取り戻し、澪標の言った質問の意味について考えが及ぶ。
こういった風に頭が真っ白になってしまったのは初めての経験で、どうにも今の彼女にはまともな判断ができそうにない。要するに、さっきの状態に逆戻りである。攪拌された黄身のような思考回路。火を通せばあっという間に凝り固まってしまいそうだった。
「大丈夫かしら。……もう一度訊くわね。やっぱり、人は落ち着く時間が大切だから──突然のことが続き過ぎていて、あなたは冷静になれていないのかもしれないし」
澪標は彼女のことを嘲るような事はせず、先ほどと全く同じ調子で彼女に訊き直した。
「超高校級という言葉を知っているかしら」
「ちょう、こうこうきゅう……」
彼女はその言葉に心当たりがあった。
あったというよりも、それは自身を指す言葉である。
超高校級。きっとそれは、希望ヶ峰学園から与えられた肩書きを表す言葉だ。
この少女はいったいなにを知っているのだろうかと、疑いの気持ちが心の中で生まれる。
超高校級なんていう言葉は、一般的にはそう使われない──稀に新聞などで見かけることはあったが、だからとはいえ今この場でその単語が主体的に取り上げられているのを偶然とは思えない。
ひょっとして彼女は、希望ヶ峰学園の関係者なのだろうか……?
だとすれば今の自分の状況についても何か聞き出せるかもしれないと、そんな一縷の希望を言葉に込める。
少女とは言え歳上のように思われたので、彼女はどもりながらも丁寧な敬語で質問に答えた。
「は、はい。……その言葉は、知っています」
「そう。なら話が早いわね──きっとあなたも、希望ヶ峰学園に向かう途中だったのでしょう?」
「っ……はい」
向かう
澪標はと言えば、彼女とは違って情緒豊かに話し、身振り手振りを加える余裕までもあるようだった。
「なら良かった──いえ、良くはないんでしょうけど」
そう安堵したように呟いて、澪標はにこりと笑った。
「あらためまして。私は、超高校級の令嬢という肩書きを与えられています。
澪標──そうだ、その言葉を彼女は聞いたことがある。
それは日本における数少ない財閥家系の中でも特に群を抜いて巨大な規模を誇る、世界においても指折りの家系であったと彼女は記憶していた。財閥と呼ばれるその形態は、日本のありとあらゆる事業に根を張っており、彼女もまたその折に触れたことがあった。
確か外国に渡航する際に乗った船は、澪標財閥の所有する船だった記憶がある。
そのうえで超高校級の令嬢ということはつまり、少女はかの澪標財閥の御令嬢であるのだろうか。
「そうそう、彼の紹介がまだでしたね。彼の名前は雲隠──」
「自己紹介くらい自分でできますよ、立竝さん。……僕は、超高校級の機械技師の
「気軽に名前で呼んでもらって構わないわよ。今の時代、人と人との間に貴賎はないもの」
超高校級の令嬢に、超高校級の機械技師。
一見関連性のなさそうな二人だが、どこか親密な雰囲気を感じて彼女は少し戸惑った。
財閥の娘とただの機械技師にどのような接点があるのだろうか。どんなところでだって出会いそうにもない二人である。
……それにそういった背景を鑑みずとも、背の低い雲隠と、彼よりも遥かに上背な澪標──背の高い澪標が隣に立つことで雲隠はより小さく見える──の二人組は、彼女には異様であるように感ぜられたのだ。
とにかくアンバランスで、ちぐはぐな二人だった。そこだけ世界が異なっているかのような──まるで異界に足を踏み入れかけたときのような、そんな感触を覚える。
おそらくは主人と従者という関係性なのだろうと二人から見受けられる印象を整理していると、ふと彼らがなにかを待っていることに彼女は気がついた。
……ひょっとして二人は、自分の自己紹介を期待しているのだろうか。
失敗した、と口元を歪ませて、慌てたように目を見開く。焦りから呂律は上手く回らず、口も十分に開かなかったが、それでもなんとか言葉を発した。
「すっ、すみません……! わ、わたしはっ、超高校級の料理人の、
彼女──待雪薫は口ごもりながら、そう名前を告げた。
長い前髪の奥からちらりと二人の様子を窺う待雪は、矮小で臆病な存在だった。
それを見て澪標は嬉しそうに笑い、はっきりとした口調で快い言葉を返した。待雪とは真逆の振る舞いであった。明るく、朗らかで、その笑みは自信に溢れていた。
「ええ。よろしくね、薫さん」
「よろしく、待雪さん」
二人から、手を差し伸べられたような気がした。
気がしただけで、本当に手を差し出されたわけではない。
……それは払い除けることも、あるいはそう、受け取ることだって、待雪にはできただろう。
「よろしく……お願いします」
手を取ることはしなかった。易々と決めていい選択ではないと感じられたのだ。
イメージとして思い浮かんだその手を掴むことはなく、ただ保留といった形でその場に留めた。
【超高校級の〇〇】
大正時代に高校があったのかどうかを調べてみると、随分とややこしいことばかりが書いてありました。はっきり言ってよくわからん!
明治から大正初期の高校生ってマジでエリートばっか! 成績良ければ帝国大学(現東京大学)にエスカレーターで行ける……みたいな、ようは高校のお受験が一番キツイ時代だったんすね。というのも、高等学校というのは大学の予備教育機関(付属高校みたいな感じ)というエリートを育成するための場所だったんです。大学というのは当時数少なく、卒業者はだいたい官僚になるみたいな、そんなところ。
ただ、大正後期から徐々に門戸が拡げられ、大正弾丸論破作中ではもう少し難易度の低いものになっている(っぽい)。地方にも高校が設立されたり、エリート養成という目的だけでない普通の教育機関としての高等学校も誕生したりと、いろいろ。(それでも今と比べると、高校の数はすごく少ない)。
それから現代のような小6中3高3のような形でなく、さまざまなパターン(七年生高校など)もあり、高校生といえど一様に同じような年代とは限らないのが不思議なところ(そして私は詳しく調べる元気がない)。
まあ現代の高校生と同じ年頃の青少年らが殺し合いに巻き込まれたと考えてもらって結構です。上に書いてあることは、そんなに重要じゃないです。ちょっとこのキャラとこのキャラ歳の差離れてるな……と思っても、時代だからということで一つ。
【孤島】
その名の通り孤島。
本島からは遠く離れた場所にあり、泳いで帰るなんていうことはまず不可能。とはいえ日本の領域内であることは確か。
週に何度か船がやってきて、その際に食料などを搬入している。
島の地形はアルカトラズ島を想像するとイメージしやすい。建築物が異なるだけ。
沖木島ほど大きくはない。