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食器の片付けを終わらせて、真昼のうちから厨房の外へと飛び出した。
白い吐息もお構いなしに、冬の寒さも忘れて廊下を駆ける。
目的地は玄関ホール。待雪はそこで熊谷と待ち合わせをしていた。
「す、すみません! お待たせしましたかっ」
肩に下げてある紙袋の位置を直しながら、待雪は熊谷の表情を窺った。
熊谷は玄関ホールに設置された姿見で、外見を整えている最中だったらしく、大きな帽子の合間から見えた顔はそれほど不満げではなかったが、それでも待雪は申し訳なさそうに頭を下げた。
そんな様子を見て熊谷は笑い、自身の着る洋服を確かめるように触りながら待雪に言った。
「待ってなんかないわよ。あたしが早く来ちゃっただけで、約束の時間もまだだし」
「そう、ですか」
待雪は歯切れ悪そうに応えた。
「早く来られていたのでしたら、食堂でお待ちいただいてもよかったのですが……寒くはありませんでしたか」
「ちょっとだけね。でも、今日は風が穏やかで、日差しだっていつにも増して強かったから、厚着をすればそれで十分だったし」
スカートで隠れてしまうのが、惜しいと思えるほどの長い足で、待雪の眼前に躍り出ると、翻り、半身だけを覗かせた熊谷は照れくさそうにこう告げた。
「……それになにより、おしゃれするならこうやって、一対一できちんと見て欲しかったし」
「? え、あ、う……」
「なんでもない。さ、行こっ」
玄関ホールに立ち尽くす待雪をじれったく思ったのか、熊谷はその手でぐいっと待雪のことを胸元まで引き寄せ、勢いそのままに外へと連れ出した。
「あっ、ちょっ、ク、クマガイさん!」
「はやくはやく!」
段差で転んでしまいそうになりながらも、なんとか熊谷の勢いに待雪はついて行った。困ったふうに声を出したって、彼女の勢いは止まりそうにもなかった。というのも、なぜだか熊谷は、一分一秒も時間を無駄にしたくないように、足を早めるのだ。
それが待雪にとっては不思議に思えたが、目的地に着く頃には息も絶え絶えで考慮する余裕もなく、そんな些事はすっかりどこかへ消えてしまっていた。
目的地というのが、これまた実に美しい場所だった。
玄関ホールから離れたところにある、芝生が敷かれた野原で、そこは少し小高い場所だったので、なにものにも遮られることなく、海が一望できた。
花も少しだけ咲いていて、ピクニックをするのにここよりふさわしい場所などこの島にはないと、断言できるほどだった。
わずかに抱いていた熊谷への不満など忘れ、雲一つない空と何も浮かばぬ海、その二つの青の広大さを眺めながら、つい驚嘆の言葉を漏らした。
「こんな場所があったんですね」
「椎本のやつに教えてもらったの。方角的にも日当たりがいいからって、オススメされた」
昨日とは打って変わって、熊谷の表情は明るかった。
おそらく、椎本と上手に話ができたんだろう。そう考えると、待雪も少し安心できた。
昨日は、いざこざが起きてしまったが、殺し合いという状況下において、待雪らは協力し合わなければ生きていけないだろうから──だから、一抹の不安が取り除かれたのは喜ばしいことだった。
あとで椎本に、何かしらの形でお礼をしておこう。密かに彼の顔を思い浮かべながら、熊谷の方を向いて言った。
「今日だけは楽しみましょう。なにもかも忘れて」
「そうね。……というか、そのつもりで来たんだけどね」
熊谷の声は弾んでいた。
それに応じて、待雪もなんだか楽しいような気分になってきた。
料理を作ることもそうだが、誰か親しい人と穏やかな時間を楽しむというのが、待雪は好きだった。
熊谷は小鳥のように鼻歌を歌いながら、愉快な様子で着々とピクニックの準備を整え始めた。倉庫から持ってきた厚手のカーテンをレジャーシート代わりに敷いたりなどした。
聴いていて思ったことだけれど、熊谷は歌が上手だった。どれもこれも、バスガールとして身につけたものなのだと、得意げに語っていた。
準備という地味な時間でさえ、特別な思い出として、きっと色濃く残るだろうというほどに、熊谷は待雪を楽しませようと色々な手を尽くしてくれた。
それがなにより嬉しかったし、もっと多くの人がこうやって楽しめたらいいのにと、願わずにはいられなかった。
とにかく、芝生に敷いたカーテンの上に二人で座った。風がないとはいえ、寒いことに違いはなかったので、肩を寄せ合いながらだった。
それが一番暖かったし、なにより親密になれた気がするのだ。
「あたし、こういうの憧れてたんだ。友達と一緒に、外でご飯食べるの」
「日本だと、ピクニックは、あまり馴染みのない風習かもしれませんね。お花見なんかはそれと近いですけど、あれは大勢でっていうイメージが強いですし」
待雪は紙袋の中からお弁当箱を取り出して、二人の間で開けた。
中にはおにぎりや魚を揚げたものなどが入っており、出来立ての暖かいものばかりだった。
熊谷は喜ばしそうに目を動かした。
「わあ、美味しそうね」
「飲み物もあるので暖かいうちにどうぞ」
「今日はお昼食べるの忘れちゃってたから、うれしい……私がなにも食べてないの、よく気づいたね」
「お昼になっても食堂にいらしてなかったので」
「そ。見てたんだ」
早速、熊谷はおにぎりを一つ手に取り、あんぐりと口を開けて頬張ると、美味しそうに笑った。
「おふぃひいよ」
「わたしもご飯はまだだったので、ちょうどよかったです」
待雪もまたおにぎりを手に取り、口に含んだ。
熊谷は頬いっぱいに詰め込まれたご飯をごくりと飲み込んでから目を輝かせて言った。
「驚いた。……薫の料理の美味しさには、いつも驚かされているけれど、おにぎりっていう単純な食べ物でも、こんなに分かりやすく違いが出るなんて……すごく美味しい」
「美味しいなら良かったです。手間をかけた甲斐がありました」
複雑な料理はその分誤魔化しが効くため、複雑に絡み合ったもつれというものは一見して分かりづらい。
しかし単純な料理というのは、小細工が効かないため、料理人の力量というものが明確な違いによって現れる。
待雪はそのどちらをも完璧に仕上げる技術を持ち合わせていた。
熊谷のバスガールとしての一因が、その歌唱力だとするのなら、待雪を構成する要素もまた料理なのだ。
腹ごしらえも終えて、会話を交わしながら二人で満腹の余韻に浸っていた。
草の匂い、土の色、未だ冷たい春風に想いを馳せながら、二人は横になって空を眺めていた。
こうやって、ぼうっとただ時間を過ごすというのも乙だと思わされた。
小さな雲がいくつか目の前を通り過ぎて、鳥が飛ぶのを見かけて、そうしてなだらかに時間が流れたころになって、ようやく、突然上体を起こした熊谷が背筋を伸ばしながら、芝生に寝そべる待雪にこう提案した。
「ね、お花を摘まない?」
「花ですか?」
「そ。確か倉庫に花瓶があったから、いくつか花を摘んで、食堂に置きましょうよ。あそこ随分と殺風景だし、花があったほうがいいと思うの」
待雪は考えるそぶりを見せて、それでもすぐに頷いた。
「なら、少しだけ摘みましょう。この島はそれほど花が多くありませんから、少しだけ……、そうだ。ハサミ、取ってきますね」
「ハサミならあたしが持ってるから大丈夫。椎本に持たされたの」
花の数はそれほど多くないので、摘みすぎないようにと、椎本から注意を受けたとも熊谷は言っていた。
パチンパチンと茎を切り、花を摘んでいると、ずっと地面ばかりに目線がいって、熊谷を視界に入れる機会は自然と少なくなっていった。
だから待雪だけは気付かなかったのだが、次第に吹いてきた冷たい夕方の風を、熊谷は感じ始めていた。
熊谷は突然、作った笑顔で、無理に明るい声を出して、冗談を言うような調子で話し始めた。
「あたしね、すぐに花を腐らせちゃうの」
クルクルと手元で花びらを撫でながら話し続けた。
「花って綺麗だから、ずっと見ていたくて、枯れないように瓶に生けたり水をやったり、日の当たるところに置いてみたり、色々試したんだけど……でも結局みんな、腐っちゃうの」
「…………」
「だからあたし、そうゆうことができない人間なんだろうなーって思った。……バスガールをやっていて、あたしは人に元気を与えてるつもりだった。人に勇気や希望を持って欲しいって思って、一生懸命に働いた。けど、あたしは花の一つも救えない人間だった」
熊谷は、自虐的に何かを見つめ始めた。
いつもと同じだ。と、待雪は思った。
たびたび熊谷は、確かな眼差しでなにかを見つめていた。ただ呆然と空を眺めているわけでも、ただ無意識に目を見開いているだけでもなく、彼女は確固たる意思で一つの事柄に対峙しているようだった。
そんな様子は、彼女と初めて会った時から頻繁に見られる光景だった。
いつも待雪は、それを感じ取って、熊谷が何を見ているのだろうと、その視線の先を追ってみたりするのだが……しかし、いつだってなにも見えやしないのだ。
熊谷が囚われたように目を離せないでいたそれは、待雪には視界に映ることすらなかった。
その何かが一体何なのか、気にならないわけではなかったが、しかし、熊谷の心にこれ以上土足で踏み入るような真似は危険だと、内に住まう臆病な自分が伝えていた。
ともかく熊谷は、そんなふうに今も何かを見つめていた。
決して、楽しそうには見えなかった。
「あたしね。家族を幸せにできないんだ。どれだけ頑張ってお金を稼いでも、どれだけ頑張って有名になっても、どれだけ頑張って人気を集めても、あたしの家族は幸せにならないんだ」
だから。と熊谷。
「だから、あたしは希望ヶ峰に来た。これが転機だって思った。なにか変わるかもって、これで上手くいくかもって、なにかに期待してた。けどそれも間違いだった」
殺し合い生活。
この島で、希望ヶ峰学園が彼女に与えたものは、彼女の望むものとは遠くかけ離れた代物だった。
熊谷が縋ろうとしたものは、救いなどではなかったのだ。
「勘違いしないでね。家族が嫌いってわけじゃないのよ。……むしろ好き、あたしは家族をこの世の何よりも愛してる」
熊谷の声は絶叫に近かった。
口に出す言葉が、正しいことなのかどうかも判別が付かぬままに、ひたすらに迷いながら、苦しんで生きてきたのだろうと察せられるほどだった。
今だって、熊谷は話すことを躊躇っていた。
誰かに助けを求めることだって憚られてしまうくらいに、彼女の抱えている悩みや辛さは複雑なのだろう。
彼女はそれが、どんな感情なのかも分からないのかもしれなかった。
…………。
待雪は、ぱちんとハサミを鳴らし、花の茎を絶った。
なによりも響くその音に、熊谷はハッと意識を取り戻し、顔を見上げた。
「……花は、そのまま花瓶に入れても長持ちしないんですよ」
花の茎や、枝分かれした部分をぱちんぱちんと切り揃え、愛でるように花冠を胸元に翳す。
「長持ちさせるには、余分な葉を切らないといけません。それに、根本は毎朝切っておかないと、切り口の方から腐っていきます。そうなってしまうと、水分の吸収が悪くなってしまうんです」
すっかり葉が落とされた花を熊谷に重ね、花弁を隔ててじっと彼女を見つめながら、思うことを包み隠さず伝えた。
「クマガイさんは、色々と背負いすぎなんじゃないですか」
「……背負い、すぎ?」
「違っていたら、違うって言ってほしいんですけれど……クマガイさんは、バスガールになりたいなんて、自分から思ったこと、ないんじゃないですか?」
「……薫は、そう思うの?」
「少し」
熊谷はすんと押し黙ってしまい、もう一度また空に視線を向けた。
なんとも言えない表情を──怒っているわけでも、困惑しているわけでもない顔を──しているのだ。
「どうだろね。そーかも」
肯定の言葉が聞こえて、待雪は咄嗟に彼女の方を向くと、熊谷は気が抜けたような顔をしていた。
「分かんないな。なんにも」
その言葉の意味を、待雪は理解しかねた。
ただ直感的に、この言葉の真意というものは、いつも熊谷が見つめている何かに直結しているだろうと感じた。
けれどその意味を聞き直すこともできずに、「そうですか」とだけ返してしまった。
これ以上踏み込むことは、彼女の心に直接関わることだと思ったのだ。
それが自分にはできなかった。
……限界というものが見えた気がした。
人を助けようとするのに、自分という矮小な存在では力不足もいいところだと、待雪は己の小さな手を後ろに隠した。
それを見てか、あるいは偶然か。
熊谷は不意にその何かから目を逸らして、待雪の方へと熱く視線を注ぎ、尋ねてきたのだった。
「手、繋いでもいい? ……寒くって」
「手ですか? か、構いません、けど」
「ありがと。……なんだか寂しくなっちゃった」
逃げ場などない孤島で、この時ばかりは二人は自由だった。
少なくとも待雪は、そうであれた気がした。
手を繋ぐ。たったそれだけのことしか、今の待雪にはできないでいたが、それ以上のことができたからと言って、なにかが変わったのだろうかと聞かれると、曖昧に濁すことしかできないだろう。
ただ、それでも、無力さを感じずにはいられなかった。
手の中にある冷たい手を、待雪は強く握った。
生きた者の証として、熊谷はそれを同じくらいの強さで握り返してきた。
しばらくそうして、夕暮れ時になって、熊谷は手を離した。
「風も強くなってきたし、そろそろ戻ろっか」
熊谷は立ち上がり、帽子が風で飛ばされぬよう手で抑えながら、陽が沈み始めた海の彼方を背にした。
長い髪は風に揺れ、瞼は薄らと開けることが精一杯なほどに、その夕陽は熱く燃えていた。
・本来この話は、次話と抱き合わせで投稿する予定だったんですけれど、話の繋がりなんかを考慮して、別々に投稿することにしました。なので比較的近い内に、もう一つの方も投稿できると思います。
・次回、死体発見です。日常編もこれで終わり。