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薫はどこか、妹に似ていた。
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「こう見えても私、料理は得意なのですよ。祖母にみっちりと仕込まれていますから」
釣舟は、はりきったように腕をまくって意気込んでた。
元気なものだと思う。私にも、彼女のような溢れんばかりのパワーと負けん気があれば、もっと楽しく生きることだってできるのかもしれないと、つい考えてしまった。
ただ、そんな思いは、抱えるだけ重しとなって、私を縛りつけ傷つけるものだった。
「やっぱり運動する人って、どうしても大雑把なイメージがあるんだけど」
と、釣舟に向かって、からかうように言ってみると、釣舟は憤りを溜め込むように頬を膨らませてから、
「舐めてもらっては困りますよ、熊谷。その考えは前時代的なものであるということを、私が証明して見せましょう」
と、指を天に突き立てて宣言した。
これはいわゆる宣戦布告というもの。
受けない理由はなかった。
「じゃあ、見せてもらおうじゃない。あたしも存分に料理してみせるから」
「受けて立ちましょう。こと和食において、私に死角はありません」
「はは……ほどほどにね」
眉に皺を寄せて、私と釣舟の二人を諫める椎本。
薫はなにを言うのでもなく、戸惑いを感じるように言葉を言いあぐねていた。
“みんなで料理をすること”を提案したのは薫で、いつもは内気な薫が、自主的に何かをするなんていうのは珍しいことで。だからなにかしらの考えが彼女にもあったのかもしれないけれど──おそらく今は、その通りには進んでいないだろう。
……少し、失敗しちゃったかな。薫がそんな顔をするのを、私は望んでいない。
…………。
薫はどこか、妹に似ていた。
弱々しいなんて、そんなことを言ったら怒るかな……なんて、薫の怒り顔を想像してみるけれど、薫が怒ったところを見たことがなかったから、そんな顔は、うまく想像することが、私にはできなかった。
でも、薫の困った顔や、ほのかに浮かべる笑みなんかはとても可愛くって、それだけはすぐに思い出すことができた。
薫はいつも私に優しくしてくれていた。
本当に、根っからの善人なんだろうなと思う。
私が困っている時。私が弱っているとき。私が私を嫌いになってしまいそうだったとき。
いつも側には薫がいて、いつも薫が私を支えてくれた。
ただそれは、薫にとっては特別なことじゃないんだって、私は気付いてしまった。
きっと彼女は、私の知らないところで、私以外の誰かにも、私にしたように優しさを与えていたはずなんだ。
誰に対しても分け隔てなく。
無条件の親切心や癒しを。
困っている人がいるのなら、無償の奉仕を授け。誰かが傷を負っているのなら、優しくそばに付き添うことができる。
それが当たり前なのだと、なんの疑問も抱くこともなく、純粋な気持ちで行えるのが薫の良いところで、優しいところなんだけれど……。
……ちょっとだけ、悔しいというか。私にとっては不都合なことというか。
複雑で、不安な気持ちになってしまうのだけれど。
私はそんな気持ちを解決するための
この気持ちが何と呼ばれるものなのかも、よく理解できないままだった。
ふいに意識してしまって、後ろで食器を出し入れしている薫の方をちらりと見てみる。すると偶然目があってしまった。にこりと、困ったふうに薫は笑みを送ってきた。
虚を突かれた気分だった。固まってしまって、かあっと顔が熱くなって、すぐに自分の手元に視線を逃した。
なんだか照れくさかったのだ。
彼女と目を合わせることに、どうしてだか私は、照れ恥ずかしい抵抗を感じる。
思えばそうだ。私は、薫のことを意識すればするほどに、心が焦って、拍動の勢いが高まって、きゅうっと胸が締め付けられるような感じになって、苦しくなるのだ。
こんな感情は初めてだった。
薫と出会って初めて芽生えた気持ちだった。
ここ数日は、ずっと薫のことを考えてた。食堂の前を通ると必ずと言っていいほど厨房を覗いてしまうし、体育館に集まるときだって、薫の姿を無意識に視界に入れてしまう。
ことあるごとに薫の顔が頭にチラついて、趣味だった手芸も手がつかないくらいだった。
オシャレなんて興味なくって、以前まではただ外面を気にしていただけだったけれど、でも今は彼女に好かれたくって、媚びた格好をしていたりもする。
化粧だって、不自然にならないよう気をつけるようになった。
口紅も、派手すぎないようになるべく大人しい色に変えた。
鏡は昔からよく見る方だったけれど、今だとその目的も変わっている。
この心のもやもやが解消できるのならと、やれることはなんでもやった。
そのために必要なことは、なんだってする意気だった。
けど、それでもまだ、胸が苦しいというか。
たった一つのことで、いっぱいいっぱいになってしまうというか。
でもそれは嫌なものじゃなくって、むしろ嬉しいとも思ってしまうくらいで……。
言葉にはできないが、しかしこれは特別なものなのだろうと思えた。
ただ、私がそんなふうになってしまうのも当然だ。
薫はいつもみんなのために頑張っていて、熱心に料理へ力を注いでいた。彼女は懸命で、直向きで、輝いていた。
そんな光は、私には眩しくって、つい瞼を閉じちゃいそうになるくらいの輝きだった。
その光は、この暗くて冷たい孤島ではなんとも暖かいもので、私はどうしても彼女に身を寄せてしまうのだ。
そうしていることが心地よくって、安心できて、辛くないことなのだと私は知ってしまった。
この世の中に安心していい場所があるということを、私は知ってしまったのだ。
……知らなきゃよかったと思う。私は不幸のまま生きていたほうが、ずっとよかったと思う。
ほの暗くって、生温い。そんな不幸に浸かっているのが心地よかったのに。
一度光を知ってしまうと、暗がりに身を置いたとき、より寒さが増すから。
料理は程なく完成し、ちょうどやってきた壱目も加えて品評会ということになった。私は野菜を少し焦がしてしまったけど、食べられないわけじゃなかったし、みんなの評価も概ね良好だった。
藤袴の料理は柔道の力強さとは違った繊細な味付けで、その細やかな気配りこそが彼女の本質なのだろうかと、少しだけ考えたりした。
ちなみにこの料理は、そのまま夕食になる。さすがに、一人で全員分というのは難しいから、そのために私と藤袴──プラス椎本で料理を行っていたのだ。
よく食べる篝火や匂宮なんかは、味なんて気にせず胃に放り込んでいたから、作る側としては少しイラッとしたけれど。
食後になって。
薫はいつも料理をしているのだから、今日くらいは休んだほうがいいということで、食器洗いや片付けなどは、料理をした三人で行うことになった。
薫は不本意そうに渋った顔をしていたが、押して言えばすぐに消極的な態度でおさまった。
彼女は少しくらい休むべきなのだ。いつも待雪は誰かのために働こうとしていて、休んでいるのを見たことがないくらいなのだし。
かちゃかちゃと、食器と食器とが触れ合う音の中で、カウンターのすぐそばの席に座っている薫へ話しかけた。
「薫はさ」
突然、名前を呼ばれて驚いたのか、びくんと震えた気配がこっちにも伝わってきて、それがまるで小動物のようで笑みがこみ上げてきたが、それをぐっと押さえながら私は続けた。
笑うと、不機嫌にさせてしまうだろうと思ったからだ。
「薫は、将来の夢とかってあるの?」
「将来の夢、ですか」
「そ。超高校級の料理人っていうくらいだから、やっぱりお店を開いたりするわけ?」
薫は逡巡した後に、迷いを残した言葉で答えてくれた。
こんなふうに、何気ない会話でもきちんと考えてくれるあたりが、薫の真面目でいいところだと思う。
ただ気負いすぎなのではと思うこともあって、少し心配だったりする。
「……まだ、はっきりとは決めてないんですけれど……ただ、わたしは、お店を持つようなことはしないと思います」
「? どうして? 薫くらいに料理が上手なら、それこそどこでだって繁盛すると思うけど」
これは嘘偽りない本音だ。
薫の料理は本当に美味しい。
技術も知識も彼女には備わっているのだろう。そのうえ才能だってあるのだから、薫が作るものはなんだって、今まで食べたもののなによりも美味しかった。
だから店を持たないと聞いて、それが不思議でならなかった。
「接客が苦手だって言うんなら、あたしがしてあげてもいいんだけどね。そーゆうの、得意だし」
「いえ……そういう問題じゃないんです」
薫は、少し昔を懐かしむように肩に顔を埋め、そっと呟いた。
「わたしは、同じところには長く留まらないようにしてるです。ですから、お店を構えることはできないんです」
「……それ、説明のつもり?」
意地悪するように、わざと問い詰めるような物言いをしてしまう。悪い癖だと思いながら反応を待っていると、薫はそれを過敏に感じ取って、慌てたふうに口を動かした。
「な、なんでもわたしは、同じ場所に、留まり続けちゃいけない人間なんだそうです……、おかしな話だとはっ、わたしも思うんですけれど。これだけは守れって、人に言われまして……」
「ふうん……ま、確かに。薫が作る料理は、世界各地に広めたいものよ」
ただどうにも引っかかるのが、薫は一つも嬉しそうな顔をしていないということだった。
きっと彼女が言われたその言葉は、至高の褒め言葉だろうに。苦笑いすらも起こさないのだから、不自然さといえば大いにあった。
皿洗いも終えて、藤袴も鯉口監視のために食堂を出て行った。
椎本は椎本で、どうやら匂宮、野分の二人と倉庫になにが置いてあるかのリストを作っているみたいで、その作業に戻るとかで食堂の外に行ってしまった。
食堂には、私と薫の二人しかいなかった。
それはとても珍しい状況だった。
特にどちらかが話しかけると言うわけでもなく、昼日中の時間を怠惰に過ごしていた。
殺し合いなんて、すっかり頭から抜け落ちてしまうような気分だった。
「クマガイさんは、こ、怖くないんですか」
「……え?」
薫が、突然そんなことを私に訊いてきた。
「その、クマガイさんは、今の状況に対して、恐怖を抱いていらっしゃらないようでしたので……」
「それって、あたしが楽観的な人間だって言いたいの?」
また、意地悪なことを言ってしまった。
「いえいえっ! 決して、そんなつもりじゃ……っ。むしろクマガイさんは、現実をよく見ているしっかりした方だと思います。……だからこそ、この状況の危険性をよく理解しているはずで……だというのに、気丈に話される姿を見て、ひょっとしたらクマガイさんのように強い人は、怖くなかったりするのかなあ……なんて、思っただけで」
待雪は気まずそうに、落ち着かない様子で言葉を連ねた。
だから私は、なるべく彼女が落ち着けるよう、優しい声色で話した。
「それは、大きな見誤りよ」
私が否定的に言ったからか、薫は「どういうことです?」と真面目な顔をして、私の方を向いて尋ねた。
私に向けられた意識に、私自身の意識も重ねて、胸の内を吐露した。
「あたしは怖い。今生きてることもそうだけど、死ぬことがとても怖い。だから薫のことは頼りにしてる」
しっかりと目を見据えて伝えた。そうしないと、いつも自分を謙遜している薫は、この言葉を信じてくれなさそうだと思ったからだ。
「薫がいなきゃ、この和気藹々とした食堂だって、もっと険悪な雰囲気に満ちていたと思う。誰も口を開かずに、互いに目を光らせあって……誰かと仲良くなんて、なれなかっただろうなって」
でも。
「薫がいたから、みんな楽しんで食事ができてる」
精一杯の笑顔で笑いかけた。
薫は、それでも自信なさげだった。
「それは……わたしの力じゃ、ないと思います。みなさんの歩み寄ろうという気持ちがあったからこそで……」
「謙遜しないで。ね? だって、誰とも知らない人と歩み寄ることなんて、心の余裕がなくっちゃできないことよ? 薫のおいしい料理があったから、心穏やかでいられたの。薫がいたから、心に余裕を持つことができたの。……自信を持ってちょうだいよ」
「……その言葉は、素直に受けとらせてもらいます」
薫は疲れたように息を吐くと、そっと胸を撫で下ろしていた。
そんな彼女らしい仕草は、とても愛らしかった。
幸せは毒だ。私にとってはそうだった。
幸せを感じれば感じるほど、なにもわからなくなってしまうのだ。
なにが正しいのか、なにが過ちなのか。私にはもうきっと判断できないだろう。
薫と出会ったとき。あの瞳に惹かれたとき。
私の全てを構成していた信仰心が、今まで信じてきた正しいはずの事柄が、脆くも崩れ去った気がした。
私には、背負わなければならないものがたくさんあるというのに、それをぜんぶ放り投げて、彼女と一緒にいたいと思ってしまうのだ。
けれど、新雪のように真っ白で無垢な彼女を、私は踏みにじれない。
ああ、どうしてだろう。
私は狂ってしまいそうだった。
「…………」
「…………?」
立ち上がって、私は薫のところまで行って、その細い首に腕を回した。
なぜだかこうしたいと思ってしまったのだ。こうして彼女に寄りかかっていないと、なにかが壊れてしまいそうだったのだ。
「あ、あっ、あのっ。くう、クマガイさんっ……」
「少しだけで良いから、こうさせて。ほんとうに少しでいいから」
いい匂いがする。
心が落ち着く薫の匂い。
それは不思議な香りだった。どんな言葉でも言い表せないような、どんなに高い香水でも出せないような、不思議な香り──けれどなぜだか懐かしい。
そんな感じがする。
私はこの香りに魅了されていたのかもしれない。虜になっていたのかもしれない。
だけど不思議と、嫌な気持ちはしない。
「……ね。あたしたちが初めて会ったとき、あたしのことは夕顔って呼んでって、言ったと思うんだけど……憶えてる?」
そう言うと、薫は口端を歪ませて、言葉を発しなくなった。
しばらく経って、ようやく聞くことができたのは、謝罪の言葉だった。
「…………、いえ、すみません」
「だと思った。……ちゃんと言ったはずなのに。けど、ずっと熊谷さん熊谷さんって呼ぶものだから、言ってなかったっけって思ってたけど……うん、言った。あたし言ってた」
「す、すみません、本当に……え、っと、ユウガオ……さん」
「そう。それでいいの、それで。……もっと聞かせて」
しっかりと聞くために、薫の肩に頭を乗せた。
より深く彼女を抱くために、彼女の胴に腕を絡ませた。
「ユウ、ガオさん。ユウガオ、さん。ユウガオさん……」
「うん、うん……」
一言一言、丁寧に発せられる名前を耳に、私はそっと目を瞑った。
叶うことなら、いつまでも。
こうして彼女を胸の中で抱き、この幸せな薫りをかいでいたいと願ってしまうのだ。
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「んう……うう、むん」
待雪は酷い悪臭で目が覚めた。
つい顔を顰めてしまうような苦々しい臭いが重苦しく鼻腔に侵入してきて、それがなによりも不快で、何事だろうと、壁に掛けてあったコートを上から羽織って、部屋の外に出た。
電灯は、時折点滅しながら玄関ホールを照らしているが、それはいつにもまして頼りない光だった。
嫌な予感なんて、この島ではいつもしていたけれど、今ばかりは、普段よりも、数倍寒気がよだつ。
外から吹き込むぴゅうぴゅうという風の音が、遠くから聞こえた。どうやら、玄関ホールから踊り場へとつながる廊下への扉が、開いているらしかった。
寒気を感じたのは、なにかへの恐れなどではなく、単純に、吹き込んだ風で冷えてしまっただけなのだろうか──そうであればなによりも幸いなのだけれどと、扉を閉めるために廊下を進んだ。
玄関ホールに辿り着くと、ますます臭いはえぐみを増した。待雪は、導かれるように、開きっぱなしの扉から外廊下に出た。
するとどうだろう。今まさに待雪が踏み込んだコンクリートの床に、一筋の赤い液体が暗い物陰から流れてきたのだ。嫌なことに、臭いの元も、そこからだった。
待雪はいくらか逡巡したのち、意を決して物陰へと視線を運ぶ。
そこではうつ伏せになったハハキギとクマガイの姿があった。
あたりには血が飛び散っていて、二人はすっかり冷え切っていて、どうやら死んでしまっているらしかった。