001 (非)日常編
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I (must) miss you.
1
夜の校舎で待雪はなにかを探していた。そのなにかとは特定のものを指す言葉ではなかった。それがなんなのかは彼女にだって分からないのだった。だから落としものを探すときのように俯いたりはせず、ずっと上ばかりを見つめていた。そうしたさまははたから見ればかえって奇妙に思われた。
「なにも見つからないって、わかってるのに」
けど、こうして徘徊するのを彼女はやめられないでいた。答えのない問題を解き続けているような果てのない気分であったが、ただ“解く”という行為だけが彼女の儚い心を支えているのである。
待雪は明かりさえ持たずに歩き続けた。今夜は月が雲で隠れてしまい、周りはうんと暗く足元すらおぼつかなかった。
暗がりの中に身を置いていると寒くなる。待雪はブルリと身を震わした。寒くなると、人は暖かみを求めて光を探す。だからこそどんなに小さな灯りでも、暗闇の中であれば一際輝いて目立つのであった。
(あれ……? 食堂に灯りが付いてる)
見れば前方の建物からは、か細い光が漏れ出ていた。懐中電灯のような無機質な光ではなく部屋全体を包み込むような温かい光がだ。
誰かいるのだろうかと、待雪は息を殺して食堂の扉にそっと身を寄せた。そうして聞き耳を立ててみたが耳に障るような物音は聞こえてこなかった。
(鍵が空いてる。夜時間はいつも閉まっているのに)
いつもと違うことが起きれば、自然とそこに好奇心が注がれる。待雪は小指が挟まるかどうかのほんの少しの隙間を開けて食堂の中を見渡した。そこでようやく確信する。遠くから見えた光は幻覚でなく、確かに食堂には灯がついてあったのだ。けれど不思議なことに人の気配は感じられなかった。
(変なの……。じゃあ、厨房かな? でもそうなら、なおさら物音がないのはおかしい……)
しかし外からではどうしても厨房の奥までは見えなかった。
だから待雪はやや緊張した面持ちで、けれども大胆に半身ほど扉を開けるとそこから中へと這入っていった。
その行動一つとっても彼女のか弱さの内に潜む芯の強さを見ることができるというものだが、待雪自身はそれを疎んでさえいるので気に留めることはなかった。
食堂を進んでいくと、確かに厨房の方で人影が見えた。
誰かいるんだと思うと自然に体の動きも強張りはじめた。
とはいえ、ここまで大胆なことをしておいて、いまさら這って進むという慎重さはかえって滑稽な話だから、待雪は自分の存在を誇示するようにわざと足音をたてて勇敢にも厨房へと向かった。
「誰だ」
一歩進んだところで低い男の声が聞こえてきた。それは聞き覚えのない声で、少なくとも待雪ら希望ヶ峰学園一期生の誰かではないだろうことだけは理解できた。
そもそもこの時間帯、食堂は閉ざされている。待雪らには鍵のかかった食堂へ入る術がないのだから、声の主が運営側の人間であるだろうというのは分かりきったことであった。
つまりこの先にいるのは夜警をしている軍人……覚悟はしていたが、やはり緊張を待雪は感じた。それでも変わらず前に進んだ。
「誰だと聞いている」
男は椅子から立ち上がり、その全身を待雪の前に晒した。光に当てられた軍服は普段着のように使い古された雰囲気があって、武装していないことを除けばいつも見かける軍人と同じような格好であった。しかし、武装していないからとはいえ待雪の心は安まらなかった。男の剣呑な様子が彼女の気持ちを引き締めるからだ。
「あ、あのっ、わたしは、その、希望ヶ峰学園一期生の」
「なら校則はよく知っているはずだな。食堂は朝まで立ち入り禁止だ」
立ち上がった男は一歩一歩待雪の前まで距離を詰めた。その歩みには重さがあり男の力強さが感じられた。年相応の迫力がより一層緊張を高める。
そしてなにより恐ろしいのは、彼が決して味方ではないことだろう。以前出会った軍人は友好な部類にあったが、いま目の前にいる男は厳かな気配をまとっている。暗い照明が男の表情に薄ら影を落としていて、それは物言わぬ威圧感を男にもたらしていた。
知らず待雪の指先には力が篭もる。爪先から頭まで硬直したようにピンと背筋を伸ばした。
「立ち入り禁止についてなのですがっ、お願いが、ありましてっ」
様子を窺うように待雪は前髪の隙間からチラリと男を見上げた。男もこちらをじっと見つめており、二人の間でいくばくも視線が交わった。
そのとき相手が何を感じたのかは分からない。ただ待雪は料理のことになるとひたむきに真剣であったから、その熱意と信念を持ってして大の大人に立ち向かったのだ。
非力な少女が己を鼓舞する様を見て、男はなにを思うのだろうか。
彼女が持つ情熱の炎の温度を感じ取ったのか、男は頭ごなしに追い出すようなことはせず、ただこちらをじっと見つめていた。腰を落ち着けて話をするほどの悠長さはなかったが、それでも待雪が続けるであろう言葉をしかと待っているようだった。
その沈黙が待雪にはやはり心地よかった。
待雪は話を聞いてもらえることに安心し、されど目的をけっして忘れることなく真摯に思いを訴えた。
「あつかましい願いだとは思いますけれど、たったの一時間で良いので、夜時間の最初と最後の一時間、わたしに食堂を使わせてはいただけないでしょうか」
「それは私の決めることではない」
「夜時間の間、食堂が利用できないのには事情があるのだろうと思いますが……ただわたしは料理がしたいだけなのです。他の誰一人として、夜の間、食堂へ招き入れるつもりはありません。ただ一人、わたしだけに厨房を使わせていただければそれで結構なのです」
おどおどとした態度の内に潜む料理へのひたむきな想いが言葉となって現れる。
いざという場面で発露されるのは人間の本質だろう。待雪はそういった点で誰よりも強い心を持っていた。
これには男も目を剥いて、悩ましげに頭髪を指で巻いたり、まばらに髭の生えた顎を撫でたりした。他人の意見を切って捨てるような横暴さは持ち合わせておらず、待雪が次に述べる言葉を考えているとき、ようやく男は口を開いた。
「わかった。だがさっきも言ったとおり私に決定権はないのだよ。神座さんに聞いてみるから、また明日の夜ここに来てくれ」
神座というのは確か希望ヶ峰学園の創設者である老人のことだと待雪は記憶していた。
彼に対して良い印象はなかった。だが椎本の話によれば生徒には親身になってくれるそうだから待雪は人好きのするいい笑顔で「ありがとうございます」と感謝を述べると、すっかり安心してそそくさと食堂を去っていった。
すでに彼女の頭の中は明日の献立のことでいっぱいだった。良くも悪くも、彼女は料理を作ることしか能がない。それを自覚してなお、その泥海に身を沈めるのであった。
食堂ではさっきの男が一人、そばの椅子に腰掛けながら、ぼうっと遠くを感慨深そうに眺めていた。
その背中にはなぜだか元気がなかった。
2
朝から待雪は元気な様子で魚を焼いていた。料理をするのが楽しくて仕方がないようだった。
反して食堂はひどく沈鬱で、誰一人顔を上げることなく、ものも言わなかった。そもそも人の数だって少なく、いつもはいない明石がかえって浮いてさえいたのだなら、その異常さといえば火を見るよりも明らかだ。
「まーつゆきぃー。めしぃ、まだかよぉー」
「あとは盛り付けるだけなので、並んでおいてくださいね」
並ぶといっても、いつもなら押し合うようにできている列は今朝ばかりはどこにも見当たらない。みんな今日はまるでお通夜のように元気がなかった。それもそうだろう、なんせ人が死んだのだから──
食事をねだる明石とそれに優しく応える待雪の二人は和やかな関係性であったが、食堂に満ちる陰鬱とした空気にはそぐわない明るさの二人組であった。
(食欲がないのかな……おかゆとかの方がよかったかも)
などと考えながら、待雪は食欲そそる魚の塩焼きを皿に並べ、米をよそって茶碗に盛り付けた。魚の香ばしい匂いはただそれだけでふっくらとした身を想像させるほど出来の良いもので、蒸気に乗った米の甘みもあいまってか、いく人かは匂いを嗅いで身じろぎすっと視線を厨房の方に向けるほどだった。それでも料理を取りに来る人はほとんどいなかった。
「おはよう、待雪」
そう挨拶をしたのは匂宮だった。彼はいつもと変わらぬ態度であった。昨日のことをまるきり忘れたというわけではないだろうが──ただ、生きることに絶望したという雰囲気はなかった。
「どうしたんだ」
「その、みなさん食欲がないようで」
カウンターに並べられた手付かずの料理。それに視線を落としたまま待雪は言った。すると匂宮が一皿手に取って答えた。
「みんな食欲はあるんだ。ただ自分が料理を食べていいものか、迷ってるんだ」
「迷ってる?」
「ああ」
匂宮は食堂を見渡した。その動きにつられ、待雪もまたひっそりと目を開けて彼の視線の先を見た。
いなくなったのは二人だけなのに、うんと人が減ってしまったような、そんな気がした。その寂しさが彼らの心の多くを占めているのだろうかと思った。
「運んでやれば、きっと静かに食べ始めるさ。食べ物を粗末にするようなやつらじゃない」
匂宮はカウンターに置かれたお盆を手に取り、そこに黙々と料理を置き始めた。
「……ニオウミヤさん。わたし一人じゃ配るのが大変なので、お手伝いしていただけませんか」
「言われなくてもするさ」
こうして頼られることが嬉しいのだとでも言いたげに、匂宮は微かに笑ってみせた。
食事を配り終えた頃には皆配膳された料理を美味しそうに食べていた。美味しいものを食べて少しは元気も取り戻すかと思われたが、予想と反し浮かない顔つきであることに違いはなかった。誰かがおかわりをしに来るようなこともないので、待雪はたくさん余ってしまったお米でおにぎりを握ってはそれを頬張っていた。
正面のカウンターでは匂宮も同じくおにぎりを頬張っていた。ときどきこちらを見てくるので少し戸惑ったが、すぐに匂宮が話しかけてきたので、その話の内容からしてどうやら待雪のことを気にしているらしかった。
「元気か?」
不思議なことに、彼は真面目な顔でそんなことを言う。
待雪は訝しげに彼の顔を見つめたあと、頼りない口調で答えた。
「ええまあ。特に熱も出ていませんし、咳もありませんよ。脈も、正常ですし」
「そういうことじゃ、なくってだな」
匂宮は悩ましげに頭を抱えると、飽き飽きしたような顔で続けた。
「元気かっていうのは、気持ちの方はどうなんだ、ってことだ」
なおも待雪はよく分かっていないようで、匂宮は言葉を継ぐ。
「昨日はあんなことがあったろう。オマエからすれば仲の良いアイツが死んでしまったんだ。……今のお前はどうにも平気そうに見えるが、無理してるんじゃないかって、オレァ心配してやってるんだぞ」
「ああなるほど」
「なるほどって……はあ、随分とオマエの神経は図太いらしい」
「褒め言葉として受け取っても?」
「からかってるんだ!」
なんだか彼は不満そうであったが、同時に安心しているようでもあった。心配していた、という言葉は心根からのものだったのだろう。待雪にはそう思われた。だから真摯に言葉を返すことにした。
「ユウガオさんは、わたしが悲しんでもきっと喜びはしないでしょうし、それに──死んでしまった人に料理を食べてもらうことはできませんから」
「…………、オマエらしいっちゃ、らしいか。死人に口なしって言葉も、こうなると意味が変わってくるな」
匂宮は気怠げに体を伸ばした。のどかで憂鬱な時間が食堂にはあった。
昨日の出来事をどう受け止めるのか。それが彼らにとっては大切なのだろう。
匂宮はもともと口数の多い人間ではなかったから、会話というものはすぐに途切れた。そこで待雪はここにいない人物について、彼なら知っているのではないかと期待を寄せ尋ねた。
「あの、カガリビさんはどこに?」
「篝火、……篝火? アイツなら、朝時間になってからずっと走ってるよ。この建物の外周をぐるぐると……見なかったのか?」
「……朝早くから、ずっとここにいたので」
「そうか。なんでも昨日は眠れなかったらしくてな。倒れるまで走るって意気込んでたぞ」
「それ、大丈夫ですか……?」
死にはしないだろうかという言葉を待雪は続けようとしたが、すんでのところでぐっと奥に飲み込んだ。死という言葉を口にするには、この食堂の空気はあまりに息苦しかったのだ。
「さすがに倒れるまでってのは誇張表現だろう。アイツのことだ、腹が減ったら食堂に来るさ」
「そんな、子供みたいな……」
自分で淹れたお茶を飲みながら、待雪は心配そうに食堂の窓から外を覗いた。篝火の姿は見えなかったが、待雪は何度かそうして見ていた。
匂宮はさほど気にもならないようで、ただ、待雪の行動が少しばかり気がかりなのか眉に皺を寄せていた。
「そんなに気になるなら、あとで見に行こうか」
「そこまでしていただかなくってもけっこうですよ」
「……ま、どのみちアイツとは“鯉口”監視のために朝から一緒なんだから、迎えには行くが」
「うへえ」
「オマエ、鯉口の名前を出すと露骨に嫌がるよな……」
「難しい話ですよね」
「難しいっつーほどでもねえ気がするけどな。ま、他人は他人か」
ごちそうさま。匂宮は空になった皿を差し出すと、一度出口の方に身体を向けはしたものの、どこか落ち着かない様子でその場に留まっていた。まだ話があるようだったが、待雪に用があるというよりは彼の隣に座る明石に対して視線を向けていた。
「前々から不思議に思っていたことなんだが」
匂宮は左隣。つまりカウンターに座る明石に視線を向けて、興味深そうに尋ねた。
「その髪の色……明石、お前はどこの出身なんだ? これでも異国人には何人とも会ってきたつもりだが、
匂宮の言葉に反応して明石が顔を上げる。その際、虹を閉じ込めたようなという詩的表現がよく似合う長髪が揺らめいた。
彼女が持つ極彩色の頭髪は地球上のどこを探しても二つとして同じものは見つかりそうにない代物だ。そのうえ光の照り具合によって色を変えるので奇妙としか言いようがないが、奇妙という負のイメージを打ち消すほどに彼女の髪色の移り変わりゆく様は大変美しい光景であった。
またその美しさは髪色に限ったことではない。彼女の瞳はまさしく宝石である。大きな瞳は万華鏡のように鮮やかで、その奥には屈折した光の重なりが見られる。その周りを装飾するように存在する長睫毛がよりいっそう美しさを際立たせていた。
宝石をそっくりそのままはめ込んであるのだと言われても納得ができてしまいそうで、“夜空の星を閉じ込めた”という表現がなによりもしっくりとくる。
明石は長い睫毛を重ね、柔らかな産毛の生えた頬に手をついたまま面倒そうに言った。
「言ったって分からねえだろうよ。なんせ未来の出来事なんだぜ」
一瞬明石は顔を顰めたが、すぐにニヒルな笑みを見せると、くつくつと笑った。それにムッとした表情を匂宮は返す。
「確かに今のオレの知識じゃあ、その髪色に説明はつけられなさそうだ……絵の具でも塗っているのかと思ったが、だとしてもこんな色が出るとは思わない」
ふん、と明石は髪をかき上げた。日頃の生活が随分と荒れているようなので髪質は決して良いものではないが、それでも絶えず輝かしい。
「しかしいくら考えても分からないものがこんなにも身近に存在していると、なんだか悔しい気もする。これでも科学的な知識はあるつもりなんだが、憶測すらつけられないというのはな」
匂宮はおにぎりにたくさん海苔を巻いて食べていた。わりと俗っぽい食べ方をするのが、待雪には懐かしく思えた。
「まー地毛といえば地毛なんだが、厳密に言えばそうでもねえっていうか……」
明石自身、どう説明すればいいのかよく分かっていないようだった。ただ地毛というのは嘘ではないだろうと待雪は思った。なぜなら明石の頭髪は根の方からずっとその色なのである。もし染めてあるというのなら、毛髪が伸びるにつれて根本が黒くなったりするものなのだ。だが先述したとおり、そうではないのだからきっと違うのだろう。
それに明石の宝石みたいな瞳が、より彼女の髪が地毛であるということを信じさせるのだ。ただでさえ不思議な色の瞳を持っているのだから、髪の色がそうであるとしても、おかしなことだとは思えなかった。
だから待雪には分からないのであった。なぜ明石が言い淀んでいるのかを。地毛であると断言できない理由が、明石以外の誰にも、この時代では分からないのである。
3
匂宮の言うように配膳さえしてやれば皆、黙々と箸に手をつけた。そのうちお椀も返しに来るようになり、一時間も経つと人はほとんど残っていなかった。
篝火もその一時間の間に食堂を訪れており、いつものように喉へ食べ物を掻き込むと、目も回るような勢いで食堂から飛び出していったのを待雪はよく憶えていた。他のみんなが静かなのに、そう忙しなく動かれると嫌でも記憶に残るというものである。
「余りそうだったお米も、ニオウミヤさんとカガリビさんの二人がぜんぶ平らげてくれましたし。よかった、よかった」
ただこれからもずっと二人に余りものを食べてもらうわけにはいかないだろう。昼食は今朝のことを鑑みて量を調節したほうがよいかもしれない、などと考えを巡らせていたところ、ふらり、食堂に立ち入る影が視界に入った。
(フジバカマさんだ。どうかしたのでしょうか)
元気のない様子を認めて、待雪は話しかけるかどうか迷った。なんと声かけをすれば良いのかが分からなかったのだ。だから横目で彼女の姿を見るだけで、話し掛けるような勇気は待雪になかった。
彼女が今朝、食堂にいたかどうかは定かでない。だが昼と呼ぶにはまだ早いこの時間帯に食堂へやって来るのなら朝食はまだのはずだ。(そうでなくてもなにかしら用事があるのかもしれないと推測し、)いずれ料理を取りに来るときに話せば良いと、待雪は後片付けやら昼食の用意やらで厨房の奥へと引っ込んで行った。
米や魚の類はぜんぶあの二人が平らげてしまったが、昼食に向けて用意している汁物がじき完成しそうなのでそれを出すことにした。元気がなさそうだったから、それくらいでちょうど良いかもしれない。藤袴を出迎える準備は整っていた。
待雪は火の加減をみたり料理の下準備をこなしながら今か今かと藤袴の声が聞こえてくるのを待っていた。しかしながら、やがて昼前になっても待ち望んでいた声が聞こえてくることはなかった。
「どうかしたのでしょうか」
待雪は不意に心配になって厨房から食堂を覗いた。
けれども藤袴の姿はどこにも見られなかった。藤袴は心神喪失に近い状態だったから、失神し倒れてしまったのかもしれない。その可能性も考えて机の下などを探し回ったが、ついぞ藤袴はどこにもいなかった。
「幻覚を見たということは、決してないはずなのだけれど」
今まで食べたもの、作ったもの、見たり聞いたりした料理の材料ですら全てグラム単位で憶えていられるほどに待雪は記憶力が良い。なにより目だって、決して見間違いをするような節穴は開いていない。されどどこを探しても藤袴はいなかった。
確かに彼女はいたはずなのに、すっかり、いつのまにやら姿を消していた。
「……昼食には、来るでしょうか」
その日、藤袴の姿を食堂で見かけることは何度もあったが、待雪が彼女に話しかけられたり、また彼女がなにかものを食べているという光景を、待雪は一度だって見ることがなかった。
そのわけを知る機会は当分先の話になるだろう。
【後書き】
続きは早い段階で出せると思います。いやまったくもうそれはぜんぜんわかんないっす。
※プロローグ001の冒頭の長ったらしい文章を消して、書き換えました。意図していることは変わりないので読み返さなくても大丈夫です。