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べ、別に、料理をするのにキスの巧拙は関係ありませんからっ……!
1
ロールキャベツを作るとき、待雪は必ず煮込むようにしていた。そうしたほうが出汁の味が染み込んで美味しくなるからだ。蒸すのに比べ、出汁で煮込むというのは味の違いを明確に分けるので、待雪はその繊細な特徴を好んで活用した。
もっとも煮込みには時間がかかる。出汁の用意からなにまで手間がかかるのは料理の醍醐味とも言えた。そのため彼女は今朝早くから寸胴の前で火の加減を見ているのだが、いつもの心安らかな様子とは異なる部分があった。
「時間厳守。ミスしないようにしないと……」
出汁は昨夜のうちに用意してあったので、残るはキャベツを茹でたり肉を挽いたりの調理過程である。それも慣れた手つきですぐに終わらせたものの、なぜか待雪は強く時間を気にしていた。それには一つの理由があるのだった。
今の時刻は早朝。空を見れば日もまだ顔も見せていない頃。つまり朝時間よりも前の時間に待雪は厨房で料理をしているのだった。それはおかしい、なぜってその時間帯食堂は出入り禁止のはずだ。そのうえ食堂には二人の男の姿があり、より異様さを増していた。
一人は待雪から厨房を使わせてもらえないかと頼まれていた軍人の男である。そしてもう一人は……。
「待雪君。料理の具合はいかがかな」
「はいっ。お肉は、新鮮ですし。カシワギさんが育てられたキャベツも大変質が良いものですから、間違いなく美味しいロールキャベツが出来上がりますよ」
「そうかそうか。君の腕前は素晴らしいと、かねがね聞いているからね。食べるのが楽しみで仕方ない」
神座は厨房を覗き見つつ、待ち遠しそうに髭を触りながら席についた。柏木と呼ばれた男は、その隣で居心地悪そうに胸の前で腕を組んでいる。
驚きなのは、なぜかあの神座出流も食堂にいる点だろう。こうなった経緯を話すと長くなるが、しかしここが肝心なため一度振り返る。
それは昨晩のことであった。
昨晩、待雪はバッテリー交換のため体育館へと足を運んだ。奥の個室に案内され、日課となりつつある首輪の点検などを受けていたところ、例の軍人が部屋の奥で佇んでいるのに気がついた。
そこで待雪は頼んでおいた件について尋ねようかと思い立ったが、催促するのはどうかとそっと反応を待っていたところ、二人の空気を察したように神座が部屋へ入ってきたのだった。
「やあ君。君が待雪薫君だね」
柔和な表情を浮かべたまま、厳粛な含みのある声色で神座は声をかけた。
ぴくんと肩を震わせ待雪は神座の顔を見上げた。
「は、はい。そうです、けど」
「彼から聞いたよ。夜時間の間、厨房を使いたいそうじゃないか」
「ええはい、そうです。……朝早くから夜遅くまで、わたしは料理に耽っていたいのです。けれど今のままだとあまりにも時間が足りなくって」
「確かに。こうしてじっとしている時間ですら料理にあてたくて仕方がないんだろうと一目見て分かるほど、君は料理が好きなんだろうな」
神座には髭を撫でる癖があった。胸の前で腕を組みながらその白白とした髭をものぐさに撫でていた。思案に近い姿勢だったが、それは待雪がどれほど本気かを見定めているのだった。
「そうだな……私の出す試験に合格すれば時間外での厨房の利用を許可する、というのはどうだろう」
むろん制限はあるがね、と神座は付け足して言った。試験とやらが引っかかるものの、それでも神座の表情に険しさはなく好意的に思われているのだろうと待雪は安堵した。
「試験、ですか」
「ああ。夜間に食堂を解放するには相応の理由が必要だ。……なに、我々とて理由もなく食堂を閉ざしているのではない。それにそう簡単に一個人へ特権を与えてしまっては、島内で秩序が保てなくなる危険性もある」
二人はじっと目を合わせて話をした。
秩序だなんて殺し合いをけしかけた神座が言うにはおかしな言葉であったが、どことなくその言葉には正当性があるように思えた。
「明日の朝。私と彼とに料理を作ってもらおう」
神座は部屋の隅に佇む柏木へと視線を向けた。
待雪もそれを認めて、小さく頷いた。
「それで、君の料理が美味しければ合格だ」
最後まで言葉を聞き終えると、待雪は髪が乱れるような勢いでこくんと頭を縦に振った。こうして二人の間では約束が交わされたのである。こと料理においてはなによりも強い自信を持つ待雪は、そのときだけは少しだけ胸を張っていた。
ただますます神座の目的が不明瞭になった。彼が待雪に向ける目線は、まさしく教師が尊い教え子に向けるようなものだった。間違ってもこれから殺そうとする相手や実験対象に向けるようなものではない。そのおかしさを待雪は明確に意識しなかったが、しかし小さな違和感を抱いた。
ともあれそうして今朝に至るのであった。
今朝になって驚いたことがあった。度々登場する柏木という男。彼は実は野菜畑の主であるという。以前より椎本から名前だけは聞いていたが、待雪は神座から指摘されるまで気が付かないでいた。
そんな柏木という男と共に今朝は野菜をとりに行ったのだが、やけに親切だったことを待雪は憶えている。ただ親切な割に、どこか隔たりを感じずにはいられなかった。なにかしらの罪悪感を自らに感じているのではないだろうか──その反応は至極自然なように思えた。神座とは真逆である。
青少年らに殺し合いを強要するなど正気の沙汰ではない。一端とはいえ加担しているのなら、対象を目の前に呵責の思いを抱くのは当然のように思われた。
思えばそういった運営側の感情を待雪は考えたことがない。待雪はおろか、他の生徒でさえなかっただろう。しかし考えてみるに、軍人らのほとんどはまともな人間であると思われた。事実こうして浮かない顔をしながら料理を待っている一人の男がいるのだ。なんにせよ皆が皆、この殺し合い生活を許容した上で暮らしているのではないのだろう。
とにもかくにもそういった経緯で、待雪は彼ら二人に料理を振る舞うこととなった。
「できました」
「ほう、美味そうだ」
実のところ、このロールキャベツの出来に待雪は満足していない。手間暇をかける猶予は残っていたものの、時間がそれを許さなかった。煮込めばより味が染み込んで美味しくなるのだが今はこれが精一杯である。それでも出来うる範囲でさまざまな工夫を施したこの一品は、複雑かつ繊細に重ねられた深みのある味わいを持ち一つの確固たる旨味を生み出していた。
神座と柏木は目の前に運ばれたロールキャベツをまじまじと見つめ、ナイフとフォークで器用に切り分けるとおずおずと口に運んだ。
煮崩れはしておらず、肉にはしっかりと火が通っている。野菜も芯が残らない柔らかさだった。キャベツで綴じられたその内では肉汁と和風出汁が煌めきを放ち、これはこれで一種の和風料理ではと思えるほどに見事な味の調和を生み出しているのだった。
神座も柏木もこの孤島の寒さに当てられ体を冷やしていたから、ロールキャベツの染みるような熱さは彼らの身の強張りを溶かしていった。
彼らは黙々と食べ進み、やがてすっかり食べ終えると、礼儀正しく手を合わせてから待雪の方へ向き直った。
「この才能は目一杯活かすべきだろう。私としても、今後あなたが死んでしまうかもしれないと考えると、実に惜しい限りだ」
「あ、ありがとうございます。……えっと、その、つまり……」
「ああ。制限はあるが、厨房は自由に使ってもらって構わない」
「わあ……! ありがとう、ございますっ」
「ただ後付けになるが条件を加えさせてもらうよ。いいかな」
「はいっ、もちろんですっ。料理をさせてもらえるのなら」
待雪の快い返事に頷きで返すと、神座は隣にいる柏木の肩に手を置き話した。
「彼を監視役に付けたいと思っている。君以外の生徒が食堂に入ってくるようじゃ困るからね。それに、もともと食堂の管理は彼に任せてあるんだ。欲しいものがあれば彼に尋ねなさい。日はかかるだろうが、三日もあればこちらで用意できるだろう」
「! 私が、か、彼女の監視役を、ですか。神座さん」
「ああ」
「ですが──」
なにやら話していたが、待雪の心はたくさんの嬉しさで溢れており耳に入ってこなかった。料理こそがアイデンティティである待雪にとってその美味さを褒め称えられることは日常的なことであったが、されども明確に結果を得るのは歳がいくつになっても嬉しいのである。
これからの生活がさらに豊かになるだろうとの期待から、待雪は心の中で独特のリズムを刻みながら食器の片付けを始めた。
それも終えて、今度はみんなのために朝食の準備へ取り掛かろうとした頃になると、話も終わったのか神座は簡単な挨拶だけ済ませて食堂から去って行った。
残された柏木はどこか気まずそうに待雪を見つめている。
「……ううむ」
「どうかなさいましたか……?」
柏木は困った顔で頬のあたりを指でかき、曖昧な返事を繰り返していた。そんな彼に疑問を抱きこそすれ、原因を解き明かそうという気概は待雪になかった。
「? なにもないようであれば、料理に戻ってもよろしいでしょうか」
「いや、なんだ。……ああそうだ、これを藤袴釣舟という女子生徒に渡してくれないか」
柏木は鞄から取り出した数冊の本をカウンターに置いた。そう堅苦しいものでもないようで、いくらか雑誌も混ざっている。見るに文芸作品のようだ。
各作品のタイトルを眺めながら、待雪は藤袴の顔を思い浮かべた。
「フジバカマさんに、本ですか」
「支給品として彼女から届け出が出ていたものだ。昨日届いていたのだが、渡すタイミングがなかったと担当から預かったものだ」
「はあ、なるほど……わかりました。そういうわけでしたら、わたしの方からフジバカマさんに渡しておきますね」
その言葉を聞き届け、柏木はそそくさと食堂を去って行った。
残された待雪は気掛かりながらも託された数冊の本をまじまじと見つめていた。日本の世俗には疎いのでそれが流行りものなのかどうかは分からなかったが、待雪にはひとつだけ心配事があった。
昨日、藤袴の姿を見る機会は幾度もあったが、結局話をしたり顔を見合わせたりはしないでいた。それにはなにか理由があるのだろうか。仮にあったとして、なら自分がこの本を彼女に渡すことは、はたして正しいことなのだろうか、と。
そんなことを、夜明けを迎えた寒い食堂で考えていた。
2
とうに昼過ぎ。
待雪は例の本を未だ渡せずにいた。お昼時は忙しさも相まって料理の方へかかりきりになることもしばしばだが、それでも傍に置いてある本を常に意識していた。だが藤袴はふらっと立ち寄ったかと思えばいつのまにかいなくなってしまうので、声をかけようにもかけられなかったのだ。
待雪はどうしたものだろうかと机の上に平積みにされた本の束を眺めながら唸っていた。
「なに悩んでるんだ? 柄でもねえ」
退屈そうな顔で明石は言った。
特に意味もなくスプーンを噛んで、暇を紛らわしているようだった。
「わたしだって悩みますよ。能天気な人間に見えますか?」
「能天気ってのは、ある程度まともな人間に使われる言葉だぞ」
がりっ。
明石の口から嫌な音が発せられた。待雪が少し不機嫌な顔をすると、それを見るや否や明石は唾液で怪しげに照るスプーンを待雪に向けた。
「正気なやつは、こんなときに料理なんて作らない」
むっとした気分にさせられて、待雪は言葉を返す。
「し、仕方ないんです。わたしが作んないとっ、誰もまともに料理できないんですから……!」
「立竝のやつなら難なくこなすだろう」
「ミオツクシさんですか……あの人ならできてもおかしくはないですが」
不服そうに待雪は言った。待雪は少しだけ澪標に苦手意識があった。それは料理の巧拙を競うような幼稚さから来るものでなく、もっと単純な話で待雪は澪標のことがよく分からなかった。彼女がなにを考えているのか、その思想はどんなものなのか、その他諸々……どれもこれもモヤがかかったように分からない。彼女は謎めいて見えた。
「ですが、ミオツクシさんはいちゃいちゃするのに忙しそうですし。なによりクモガクレさん以外の方に料理を振る舞おうという気持ちはないでしょうし。……となると、みなさん元気がないので私が作るしか」
「……まあ、そうだよな。元気がないってのが普通だよな」
「なっ、なんですかその顔はっ! 呆れたような」
「料理バカめ。ちっとは悲しめばいいのに」
明石は伏目がちに待雪を見上げると、深くため息をついてから言った。残念でならないと言いたげであった。
「今朝のアイツの顔見たか?」
からかうように明石は尋ねる。待雪は今朝のことを思い返しつつ、明石がアイツと呼ぶのならきっと彼だろうと考えて答えた。
「ニオウミヤさんのこと、ですか? 特に体調が悪そうとは思いませんでしたけど」
「鈍いヤツめ。アイツ、オマエのことが好きなんじゃないか? 見るからに心配してたぞ」
「まさか……ニオウミヤさんに限ってそんなことないと思いますけど」
「いーやあるな。ちょっとはな、しおらしいところ見せれば良かったろう。そうすりゃなにかあっても、アイツが守ってくれるかもしれないぞ」
「……下心で人付き合いをするつもりはありませんよ」
「あの男は心の底からオマエを心配していた。配慮しようという気持ちも本物だったはずだ。だってのにオマエときたら……、あれは……あれは完全に拍子抜けしてたぞ」
明石はなにがおかしいのか、ケラケラと膝を立てて笑った。
待雪はその様子に唖然としながらも、ため息を吐くように言う。
「彼は優しいんですよ。ただそれは誰に対してもです。わたしにだけ特別なんていうのは、あなたがからかいたいから言ってるだけでしょう?」
「ま、オマエには永遠に分からないだろうけどな。なんせキスの点数がゼロだった女だ、色恋沙汰なんて分かりっこない」
「な、なっ……今しなくてもいいじゃないですかっ、その話!」
机を強く叩きつけて待雪は立ち上がった。明石はふざけたような態度で話し続けた。
「ワタシだってびっくりしたんだぜ? 加点方式でやるってんなら満点は百じゃないってのに。それでも点数がゼロなんてやつは初めて会ったからなあ」
おもしろい女だと興味惹かれた。
そう明石は興奮気味に語るのだが、待雪は気恥ずかしさが混じった赤い顔で口をもごもごと動かすだけだった。他人に怒りを向けることのない彼女は言葉を考えているうちに口ばかりが先に動いて言いあぐねていただろう。それが明石にとってはさも愉快な光景であった。言うなれば食物を頬に溜め込んだリスのようなものだろうか。本来言葉を発することで吐き出される空気が、頬の中に溜まり大きく膨れてあるのだ。その上、怒りからか頬が真っ赤に染まっているのだから、明石にとってそんな表情は面白おかしいものだった。
「べ、別に、料理をするのにキスの巧拙は関係ありませんからっ……!」
「ふうん、へえ。随分と必死じゃねえか。……ま、もう少しからかっていたかったが十分満足したから種明かしでもしてやるよ」
ひとしきり笑うと、明石は目尻に浮かんだ涙を拭いながら話した。浮わついた声色が挑発的だった。
「あれは別にキスの上手下手を測るもんじゃない。そも加点方式だってのに、ゼロってのはおかしいだろ? 年頃の若い女の接吻ってだけで高得点間違いなしだってのに」
「? はぁ」
「少なくとも未来基準じゃあそうだって話だ。この時代はまだ十代での結婚が普通だろうからあまりパッとは来ない話かもしれないが」
未来という言葉を聞き、待雪は少しむくれた心持ちを治める場を見つけたような気がした。あくまでも気丈な態度で、つんとそっぽを向いて、しかし刺々しく言葉を放つ。
「……未来、ですか。ワタシは未来から来たなんて怪しいことを話す人の評価なんて、それこそぜんぜん、気にしていませんけれど」
「強がるなよ」
「本当に未来から来たんですかね」
「…………」
ボソリと口から出てしまった言葉は、あまりにも明石にとっては心外であったようで、彼女はやや驚いたふうに聞き返した。
「疑うっていうのか、このワタシをっ」
「っ。そ、そういうことじゃ、ないんですけど……」
目尻を下げて待雪は答えました。普段の飄々とした態度とは一変した明石の意外な表情を見て、咄嗟に怒りより申し訳なさが優った。それでも疑いは拭いきれない様子で言葉を重ねた。
「ですけど、その……あっ、怪しいじゃあないですか。未来から来ただなんてあまりにも非現実的で……SFじゃないんですし」
「……オマエの言うことにも一理ある。確かにワタシが生きていた時代でも、タイムスリップなんてのは夢のまた夢だと思われていた」
明石は落ち着いたのか、前のめりになった姿勢を正し──けれど不貞腐れたように頬杖をついて、じっと待雪を見下ろすように見つめながら話した。突然彼女が物々しい雰囲気を纏ったものだから、待雪は自然と姿勢を正した。
すっと、息をしてから明石は話す。
「タイムマシンはワタシが作ったんだ。理論も機械も。未来じゃあ、一周回ってチームでの研究が激減しちまったからな、何もかも一人でやる必要があった」
「チームでできないのは、アカシさんの性格の問題では……? 協力とか苦手そうですし」
「見た目に似合わずえげつない毒を吐くのな、オマエ」
ぶっきらぼうに言ってのけると、明石は言葉を継いだ。
「ま、理由はあるんだ。みんな色々背負ってるんだよ。昔に比べて研究分野も増えたし、なにより解決すべき問題があんまりにも多すぎるからな──それこそ科学者の数だけ人類の危機がある。みんながみんな、世界のために身を粉にして問題解決に励んでる」
「ふうん……」
興味があるのかないのか分からない返事をしながら、待雪は水を一口飲んだ。じろりと明石に睨まれたものだから、慌てて何かしらの反応を示そうと待雪は口を動かした。
「そ、そんなに大変そうなら、早く帰らないとですね。未来に」
「…………。そうだな、帰りたい気持ちは山々なんだがな。なんせ、装置がないもんだから」
「装置、ですか?」
「ああ」
まずは宇宙の仕組みから説明する必要があるなと、明石は自らが着ている白衣を脱ぎ、机の上に広げ、それからどかっと椅子に座った。
白衣の裏にはなにやら幾何学模様が多数描かれており、その一画を指差して明石は話した。
「そも宇宙とは泡のようなものだ。例えるならソーダ水の気泡一つ一つが宇宙で、想像の通り数え切れないほど存在している。そのうえそれぞれが隣接しあっている」
円を描くように指を回すと、すぐにそれをどこか遠くに彼女は外した。
「そんな泡の表面から抜け出せる技術をワタシは生み出した。一つの宇宙から抜け出すことに、ワタシは成功したんだ」
それが鍵なのだと彼女は語る。
「泡には液体と気体の境目に膜が存在する。それを地球儀のように立体化し、地図を作ったんだ。ワタシはそれを立体宇宙図と呼ぶことにした」
「立体宇宙図、ですか……安直な名前ですね」
「名付けなんて、見ればそれがなにか分かるような安直さでいいんだ。名前を覚えるために割く記憶容量が勿体ないんだから。……ともかくワタシは、その地図から驚くべき事実を見出した。ある一定の方向に向かうと、なんと時間が遡行できることにな」
今度はどこから取り出したのか分からない、ピンポン玉ほどの大きくて柔らかい白い球を見せて明石は言った。
「要は泡の膜に沿って進めば過去に行けたり未来に行けたりするんだ──西に行けば過去、東に行けば未来ってな。……あくまでこれは例えで、具体的に東やら西っていうのがあるわけじゃないんだが──細かいことはいいか」
「はあ……」
「問題なのはどこが東で西なのかまるで分からないってことだ。なにせ泡の外には目印がない。方位磁針はおろか日が沈むことも、あるいは北斗七星もないんだ」
鼻で笑うと、明石は天井よりもさらに遠くの方を見上げて言った。
「だからワタシは、いま自分のいる地点からどこへ向かえば未来や過去へ行けるのか──どの程度進めば、どれくらいの時間を飛ぶことができるのか──この二つを調べることにした。問題はそのときに起きた」
明石はいまだに空を眺めたままだった。その遥か遠くに、彼女の求める真理や未来が存在するのだろうかとふと思った。
待雪には分からなかった。
未来から来たなんて、やっぱり信じられないことだから。
ただ明石が悲しそうに空を見つめ物語る姿は、ヒシヒシと胸を打った。
「ワタシにしてはつまらないミスだ。あくまで仮説だが次元の波のようなものにぶつかったんだろう……。装置から放り出されて、この大正の時代に来てしまったわけだ」
ものぐさに立ち上がると、明石はあっけらかんとした顔で待雪を見下げた。口元には少しの笑みが見えた。
待雪は彼女の姿勢に唖然とする。仮に話が本当なら、明石という人間はこの世界の誰とも関係を持たない孤独な存在だ。彼女を彼女たらしめるものはどこにだってない。まさしくこの世界における異物──きっとそう、彼女に抱いた第一印象は間違っちゃいないのだ。彼女ほど世界から見放され、逸脱した人間はいないだろうから。
「なんと言いますか、わたしの理解には及ばぬ次元の話だと思うのですが……」
「理解してほしいだなんて誰が言ったんだ? そんなこと、はなから望んじゃいない」
「はあ……」
「なんとなく、語りたくなっただけだ。オマエならわけのわからない話でも聞いてくれるだろうと思ってな。……誰かに話を聞いてもらわないと、そうでもしないと、報われない気がした」
明石は照れ恥ずかしそうに顔を逸らした。少し不満げなのは彼女もここまで深く話すつもりがなかったからだろう。恥ずかしい、という感情からはほど遠い印象があったから珍しい反応だった。
ともかく、と明石は仕切り直すように声を張った。そしてその煌びやかな瞳を待雪へと向ける。その美しさといったら類を見ない。待雪は心臓が高鳴るのを感じた。
「ようはまだ死ねないってことだ。ワタシは、まだ死ねない」
かといって人を殺す気にはなれないが、と明石は呟いて笑った。
その言葉は心からのものだろう。こんな過去で死ぬつもりなんて彼女には微塵もない。その心意気はまさしく芯の通った強いものだ。しかし同時に彼女はこうも言った。人を殺す気にはなれないと。
ならば彼女はどうやって生きるつもりなのだろうか?
彼女はとても理知的な人間だ。ただ待雪には今の明石が無鉄砲な人間に見えた。瞳からは強い意志が感じられるものの、空虚さも垣間見える。それが意味することはなんだ……?
彼女はなにもかも矛盾しきっている。主義主張が矛盾している。存在そのものが矛盾している。けれど、ああ、きっとそうだ──彼女自身それに気づいていながら、矛盾の坩堝に住まうことを良しとしているのかもしれない。自らの不可解な点を、普遍的なものにしようとしているのかもしれない。
「……首輪が爆発して、死ぬなんてことは、やめてくださいね。そんなのあまりにも報われませんから」
「それはない」
続けて明石は言った。
「爆弾は抜いてる。禁則事項が厄介だからな」
……?
「は、抜いてる? それに、禁則事項?」
「爆弾はほら、前にトランクの鍵を作ったろ? あのとき首輪も解体して抜いといたんだ。今度お前のもやってやるよ。……しかしなんだ、禁則事項を知らないのか? いや、人によってはないこともあると立竝のやつが言ってたが……」
明石は思い悩む素振りを見せ、周囲を警戒するように見渡したあと迷いのある言葉で禁則事項とやらを説明してくれた。
「箪笥の下段にいくつか紙が入っていたろう。あれに書いてあるんだ。こういった行動を起こした場合、オマエの首に括られている爆弾が爆発するぞって警告がな。ご丁寧なことだ」
恭しく首を誇張するポージングで彼女は言った。あんまりにも軽く言うものだからつい楽観視してしまうが、この島において命とはいかに危ういものなのかをヒシヒシと実感させられる。
「ワタシの場合はなんだったか。どっかの校舎に立ち入るのを禁じられていた気がするが……ま、爆弾は抜いてあるし、気にしなくていいことだ」
「わ、わたし大丈夫ですかね……?! か、確認してこないとっ」
慌てて立ち上がる待雪に対し、「立ち上がることが禁則事項かもしれないな」なんてケラケラと笑いながら明石は茶々を入れた。もっとも、待雪の耳には入っていないようだった。
待雪にとっての優先事項は禁則事項の存在をみんなに流布して回ることであった。既にこの生活が始まって一週間は経つので、走るだとか寝るだとか、そんなことで禁則に触れることはないだろう。だとしても身の危険が一つでも減るのならばと、第一に待雪は居場所が分かる匂宮や篝火、鯉口のもとへ駆けつけようと試みた。
ところが運がいいのか悪いのか、そこで偶然にも藤袴が食堂の暖簾をくぐり現れ、鉢合わせる形になるのだった。
必然、二人は視線がかち合う。一瞬の出来事でありながらも、様々な思いや感情が互いの頭の中に流れた。
「…………っ」
「あっ、フジバカマさんっ! あっ、ほ、本をっ! あっ、ど、でも禁則事項をっ! あっ、そうだっフジバカマさん、禁則事項というものがあるらしく……!」
「…………」
慌ただしく口を動かす待雪に対し、藤袴は暗い目つきをしていた。元気溌溂であった彼女の常からは想像しづらい、暗がりを感じさせる沈んだ雰囲気であった。
「あっ、あ、あのっ……フジバカマさん? どうか、なさいましたか?」
顔を伏せた藤袴が肩を震わせだしたので、心配になって顔を覗き込むと、彼女の目には涙が滲んでいた。やがて涙は大粒のものとなり、溢れ出るそれを裾で拭いながら藤袴はこう訴えかけてきた。
待雪にはその涙が驚きであった。
「わかんないですよ……」
「え、っと」
「っ、わかんないですよ! どうしてあなたは、そんなに明るく振る舞えるんですか……! 熊谷のことが、悔しくないんですかっ。悲しく、ないんですか!」
それは藤袴の心からの叫びであった。藤袴の慟哭は真に迫ったものがあり、まさしく今この島に蔓延する悲しみの一端であった。
しかしながら待雪はあっけに取られて、走り去っていく藤袴の背を追っていくことができなかった。
「ま、あれが普通の反応だろう」
後ろから呆れた明石の声が聞こえてきた。
後に残された待雪は驚きのあまり頭が真っ白になって、彼女が走っていった方をしばらく見ているだけだった。
本が渡せるようになるのは、まだまだ先のことだろう。
【ロールキャベツ】
ロールキャベツが日本に輸入されたのは明治初期のことでした。カキフライやライスカレー、ビフテキなどと共にロールキャベーヂとして紹介されたのが初めです(以降分かりやすいようにロールキャベツと表記します)。
豚の挽肉がふんだんに使われたそれはキャベツと言いながらも主菜格の肉料理であり、肉食文化がもてはやされた当時は非常に高い人気を誇っていました。
料理学校では蒸す調理法が紹介されがちですが、待雪は和風の出汁で煮込むやり方のほうが好きでした。煮込めば煮込むほど味が良くなるし、なにより和風出汁を使うことで日本人の舌にも合うと考え、今朝も寸胴に火をかけ続けているのです。
ちなみに今回のロールキャベツは試作品。また後日、完成品がみんなに振る舞われます。
こういうお肉の料理で、洋食は、好きだという人が多い。
【食堂と厨房の構造について(補遺)】
食堂についての説明、これすなわち、当作における世界体系を示す。
主人公である待雪さんが、基本食堂に篭りがちなので、この場所についてちゃんと説明しておかないとなと思いまして。
文章で説明すると難しいのですが、頑張ります。(図形で思い出したのですが、二角形という、あり得ないと感じる図形を再現するための手段が、アッと驚かされるものでした。ぜひ調べてみてください)
まず食堂と厨房があります。食堂は、生徒側の生活圏と扉を介して繋がっており、厨房は食材の搬入のため、運営側と繋がっている構造です。なので、神座や柏木は食堂から出て行ったのではなく、厨房にある扉から外へ出て行ったのですね。
【柏木という男】
運営側に属する軍人姿の男(姿というか、ちゃんとした軍人です)。
年齢は30~40くらい。細身で長身、どこか暗い雰囲気がある。
一章で登場した野菜畑の主。椎本と仲が良く、頻繁に野菜について話し合っています。