「ここはこっちの方が砕けた言い方になるので、柔らかい物言いをしたいときはこれが適切だと思いますよ」
「なるほど……文頭を少し変えるだけでそんな違いがあるのだな」
「よく使う表現なので憶えておいて損はないかと。ただ厳粛な場では不適切なので、その場合は先ほどのフォーマルな方を」
「ふむ、言わば敬語と平常語というわけか。実に分かりやすい」
食堂の一角にはいつものメンバーが集まっていた。孤島において唯一の娯楽である食事を終えると、暇を持て余した者たちがそのまま食堂で勉強会を開いていたのだ。匂宮、篝火、藤袴、鯉口、壱目、野分、椎本。それから──常から食堂にいる待雪を加えた八人が集まっていた。
彼らも学生である。各々の望む道に進むのならやはり勉学は必要であった。特に大学へ進学するためには高校での良好な成績が必要となる。もとより高校に進学した時点で彼らの素養は高かったが、より高みを目指そうとする姿勢が彼らには見られた。それは彼らが超高校級と呼ばれる所以の一つでもあるのだろう。
もっとも、この中では壱目の存在が珍しい。曰く、「勉強は嫌いですが、かといって怠けると良いことないですからねえ」と意外に真面目な反応だった。
「しかし意外だったな。待雪クンが外国語にここまで精通しているとは……英語、仏語、独語、葡語、蘭語……主要な部分はほとんど押さえてあるのではなかろうか」
と野分が言った。
彼は超高校級の保健委員の名の通り、将来は医学の道を志している。そのため外国語は必須であるが、環境故に文書の上でしか言語を学べずネイティブに近い発音や文体を知らぬままに生きてきた。最新の医療を学ぼうとしたとき、この知識不足はきっと大きな壁になるだろうと彼は懸念していた。
「カルテを読むにしても、論文を読むにしても、最新の医療を学ぶにしても──今この時も開発され続けている最新の技術を学ぶためには、日本語では限界がある」
ぎりりと野分のペンを持つ手に力が加えられた。悔しさからではない。彼の心の中には強い昂りが起こっていた。それは彼の高い向上心から来るものであった。
「感謝するよ、待雪クン」
「いえいえ……感謝されるほどのことでは」
幼い頃からさまざまな国へ留学を繰り返していた待雪にとって、外国語とは言わば方言のようなものだった。あの地方に行けばこう話す、もう少し西に行けば癖が強くなるくらいの感覚だ。そうした技能を技能とも思わぬところが反感を生みそうなものだが、かえって野分は感動を覚えていた。
前述した通り、野分にはこれまで恵まれた学習環境がなかった。だが“外国語が話せるのは当たり前”な人物から様々な国の言葉を教えてもらえるのだから、貪欲に知識を求める彼にとってはこの上ない幸せであるのだろう。
図書室に置いていた外国語の本を開きながら、それを訳したり単語の用例を考えたり、時には待雪と共に発音をしてみたりと、ここ数日の間で二人は仲を深めていた。
人と会話をするのが苦手な待雪であったが、言語という媒体を用いて彼と話をするようになったのだ。
そんな二人を羨ましげに遠くから眺めていた者がいる。藤袴は頬杖をついていた手を話すと、我慢ならない様子で机から体を乗り出して口を挟んだ。昨日までの様子とは打って変わりすっかり元気になったらしく、今では元気そうに匂宮や篝火らと言葉を交わしていた。
「以前からもしやとは思っていましたが、待雪──あなたは話すだけでなく読み書きもできるのですか?」
「ええまあ、遠方とは手紙でのやり取りが必要だったので。あとまあレシピや注文表もそうですし、時勢もあって新聞も読む必要がありましたし」
「ならひょっとして文藝作品を日本語に訳すことも……?」
グイッと藤袴は身を乗り出して訊ねた。なにやら目には期待がこもっている。彼女のあまりに積極的な姿勢に、待雪は怯えつつも残念そうにこう答えた。
「いえ……それは難しいかと。言葉の意味を伝えることはできますが、向こうは日本と文化が違うので、小説を訳すとなったときに各文化に存在する暗黙の了解を日本語でうまく表せるか……」
「なるほど……それはそれで他の技術が必要、ということですか。無理強いをしてしまったようで……すみません」
「いえいえ、お気になさらず。わたしがうまく解説できれば良いのですが、私はそこまで文学的素養がないので……」
待雪は最近気が付いたことだが、藤袴という女生徒は文学に大変な興味を持っているらしかった。先日渡した文藝雑誌等しかり、かなり幅広く作品を読んでいるらしい。本を読んでいるところもしばしば見かける。
そんな彼女が外国で話題の作品に興味を持つのは当然とも言えるのかもしれないが、残念ながら今の待雪には力になれそうになかった。
だから待雪は申し訳なさそうに眉尻を下げた。藤袴も、そんな表情をさせたことに申し訳なさを感じている様子だった。
「あんまり困らせてやるなよ」
と口を挟んだのは匂宮だった。彼は医学書を開いていた。医学の分野に関しては野分の方が詳しく、時々二人して死体がどうだのと物騒な話をしているのを耳にする。おそらく過去に起きた事件の話でもしているのだろう。なんとも真面目に話しているので、日頃からそうなのだろうかと思うほどだった。
匂宮は心配げに待雪に視線を向けてこう話した。
「待雪も待雪だ。もっと堂々と──」
「お、お茶とって来ますね」
「む」
待雪は咄嗟にごまかして、息抜きついでに立ち上がり厨房の方まで向かった。無理やり会話を途切れさせたことに罪悪感を覚えないわけではなかったが、なにより待雪の頭には明石から言われていた先日のことが思い浮かんでいた。
『匂宮はお前に惚れてるんじゃないか?』
あの明石が──生活態度が悪く、生きているのか死んでいるのかよく分からないような人間性の明石が言った言葉だからさほど信じてはいなかったが、こうして日頃匂宮から言葉をかけられるたびについさっきの言葉が脳裏に思い浮かんできた。
それが待雪にとっては悩みの種であった。
(困ったなあ……確かにニオウミヤさんは、なんだかわたしに優しすぎる気もする)
気のせい、と言ったらそれまでだ。けれどそれで済ませてしまえるのならどれだけ良いだろう。待雪は惚れた腫れたの恋愛ごとに興味はないが、だからといって向こうもそうとは限らないのだから。匂宮に限ってそんなことは、と思いたくもなるが、人間誰しも腹に一物を抱えている。誰しもがなんらかの事情で動いているのだから絶対などない。
だから待雪は怖かった。同年代の男子生徒から好意を抱かれることに恥ずかしさこそ感じはしないが、こうした閉鎖空間で特別な感情を抱かれるのは大変危険な気がした。
(やだな……)
思えばこの島に来てもう一週間は経つのかと、今更ながら待雪は気がついた。
「薫くんっ」
「わ」
お茶を淹れるために湯を沸かしていると、カウンターからぴょこんと顔を出す者がいた。鯉口だ。
ここ最近大人しいのと、勉強会の場では彼女を監視する者が全員揃っているため特例で彼女の拘束具を外していた。だからか昼間発散できない元気をここぞとばかりに放出しているので、夜にもかかわらず彼女は元気だった。
「夜は元気だぞ! 私は夜の方が、元気だ!」
「はあ……」
「というわけでだ薫くん。勉強なんてくだらないことはやめて外に行かないか? 新しい星に私たちの名前をつけよう。そしてそのまま良い雰囲気になってねんごろな関係になろう」
夜時間になれば灯りも消えるから、星がよく見えるぞう。なんて鯉口は嘯いた。
「それよりコイグチさん、お茶は熱い方が良いですか?」
「ん、熱々で頼む。……しかしいいものだな、手足が自由というのは。こうして君に手が届く……」
「変なこと言わないでください。それと暇なら、あとでお茶配るの手伝ってくださいね」
鯉口のことは苦手であったが、勉強会を通じて話をする機会も増え、多少は面と向かって話ができるようになりはじめた。彼女は日本史や国語な得意らしかったが反面、数学は苦手そうにしていた。それでも憶えは早くなんでもすぐにできるようになっているのを見ると、いくら人間性が限界を迎えていても頭は秀才なのだろうと思われた。
「相変わらず君はそっけないな。だが良いっ。それが良い……っ!」
「えっと……茶葉はっと」
「ああっ! 視線すらないっ」
嬌声をあげる鯉口を横にお茶を淹れる。味の濃淡や渋味などは個人個人の好みに合わせて変えたかったので、少し手間をかけたやり方をすることにした。
「しかし……薫くんはいつ見ても所作が綺麗だ。ああ、もちろん外見も綺麗で大変愛らしいが、洗練された動きは武芸の型を思わせるよ」
「……そう褒められたものじゃないですけどね」
「謙遜することはないぞ。ただ見たままの感想を伝えたまでだ」
「そうですか……姿勢、ですか。意識したことはなかったのですが」
背筋をピンと伸ばして見てそこを指で伝った。服越しに背中の骨がコツコツと指に触れる。それを見て鯉口もまた触ろうと手を伸ばしてきたので、パッと手を払い咳払いをした。
「んっん、手が空いているなら手伝ってください。それがノワキさんので、これがイツメさんのです」
「ん、分かった。……人によって分けてあるのか?」
「ええはい。それぞれ好みがありますし、体調によっては欲しいものも変わってくるじゃないですか。喉が渇いているならぬるい方が良いですし、身体が冷えているのなら熱い方が良いです」
「…………」
ポカンと鯉口は口を開けている。なにがそんなに不思議なのかと、待雪は首を傾げた。
「どれだけ好きな料理でも、味付けが違えば美味しくなくなるじゃないですか。だからちょっと変えているだけで、難しいことじゃないですよ」
「……私に料理人の道は厳しそうだな。人の好みはそこまで憶えていられない。結婚するなら君のように気配りができて料理もできる素晴らしい人と……ああ、なんだ、目の前に」
「さ、さあ行きましょうっ。お茶が冷めてしまいますっ」
急いで待雪は厨房を離れ、食堂に足を踏み入れた。危ないところだったと内心ハラハラしつつも、鯉口の言う綺麗な所作で湯呑みを置いて回った。
「ん、ありがとう」
いくらストーブを炊いているとはいえ、冬は寒い。特に海に囲まれたこの孤島では風も強く灯りもないので心も寒かった。そんな中で温かなお茶は皆に元気を与えるものであった。
そんな茶を啜りながら篝火が気まぐれにこんなことを言った。
「しッかし、この島はなアンにもねエンだから」
彼は日本史の勉強をしていたらしく、歴史の出来事を要点でまとめそれぞれを関連付けた図のようなものを作成していた。
もっともしばらく前から手は止まっており、すっかり集中は切れてしまったらしい。
「本州の方じゃおもしろそうな事件も起きてたのによ」
「事件?」
と反応したのは匂宮だ。探偵としての血が騒ぐのだろうか、真面目な表情だった。
「おう。なンでも現代に残る“人斬り”ッてな。被害者の数は優に三桁を超えるとか。一説にゃ新撰組の生き残りとも、あるいは江戸幕府の亡霊とも言われてる」
「ああ、“人斬り”ですか」
と次に反応を示したのは壱目であった。彼女は熱いお茶が好きなので熱いのを淹れたが、しかし眼鏡が曇るのか珍しく裸眼の状態だった。
「私の知り合いも興味本位で調査に行って殺されてしまいましたー。なんでも背中から袈裟切りで真っ二つだそうで……」
と、壱目は一度湯呑みを机に置きジェスチャーを交えて話した。
「他にも首だけ刎ねられたり腕ごと胴を真っ二つに斬られたり、珍しいのだと全身を横からズバッと……ちょうど三枚下ろしみたいにして殺された人もいるだとか。私も事件が起きた最初の頃は調査に行こうとしたんですけど、なにぶん遠かったのと他のことにかかりきりで行きませんでしたが、いま思うと正解でしたね」
「そりャそうだ。なんせ夜中の街を出歩けば、一人であろうと数人でいようと皆ンな斬り殺されるって話だ」
「うへー、怖いですねえ。しばらく関東で夜中は出歩けませんよ。いくらペンは剣よりも強しと言っても、実際刀を向けられたらなにもできないので」
それからまた勉強を再開した。しばらくして篝火は完全に行き詰まったのか、ぷらぷらと視線を空中に浮かべて呟いた。
「勉強はあンまり得意じャねェンだよなァ……なんツーかさ、じッとしてるのが苦手ッつーか」
「ならその辺りを走ってきては?」
「っし、そうすっか」
藤袴の提案に二つ返事で篝火が堪える。藤袴も走るつもりなのか「では」などと言いながら立ち上がったが、それを抑えるように匂宮がこう言った。
「バカ、時計を見ろ。そろそろ時間だ。バッテリーの交換に行こうか」
時計を見れば既に夜時間が近づいて来ていた。各々疲れたように背筋を伸ばしたりしながら、勉強道具を片付けて食堂を出た。その際で藤袴が待雪に近づきこんなことを話した。
「あの、待雪。ちょっと良いですか」
「は、はい。なんでしょうフジバカマさん」
勉強道具を胸に抱えて藤袴は直立した。少しだけだが緊張した面持ちで、それが珍しくって待雪は言葉を詰まらせた。
ただ深刻な内容の話ではないようで、藤袴はやや赤らんだ頬を左右に振って周囲を確かめながら待雪にこう話した。
「あの、その、今夜……夜警を行うのですが、待雪も一緒にどうですか」
「はあ、夜警ですか……」
待雪には以前の夜警の際、溜まりに溜まったストレスから叫び出すという恥ずかしい思い出があった。そのため彼女の誘いにはあまり乗り気な姿勢ではなかった。だが。
「どうしても、今夜だけは待雪にお願いしたいんです。その、えっと、大切な話があるので……」
「大切な話?」
「く、詳しくはバッテリー交換の後、玄関ホールで。待っているので、必ず来てください……っ!」
「あっ、えっ」
まだなにも返事はしていないのに、藤袴は返事を待たずにその場を離れて行った。追いかけようにも待雪の脚じゃ追いつけない。
どうしたものかと悩むと同時に、いったい用とはなんだろうかと待雪の頭はこんがらがっていった。