バッテリー交換を終えた待雪は夜警のために玄関ホールで待機していた。相変わらず夜の玄関ホールは閑散としていて──普段から人はそういないのだが、それでも寂しい気がして──一人では心細いように思えた。というのも、匂宮と篝火の二人は夜警に使うランプを倉庫まで取りに行っており、藤袴は藤袴で用事があってここにはまだいなかった。用事というのは鯉口のことだ。夜という危険な時間帯に野放しにしておいては普段の努力が水の泡であるため、夜間の監視役を勤める藤袴は鯉口を自室に拘束してこなければならなかった。眠るときですら身近に鯉口の存在を感じなければならないのかと考えると同情の気持ちすら湧いてくる。
例外的に、前回の学級裁判が終わった直後の藤袴は他人を監視していられるほど精神状態が回復していなかったため、匂宮と篝火が玄関ホール近くの教室で毛布にくるまって寝ずの番をしていたと聞く。さすがに同年代の異性を縛り上げて部屋に監禁するというのは、彼らにも思うところがあるのだろう。おかしなことにはならぬよう、ひたすらに筋トレや勉強、相撲稽古をしていたらしい。
自分はそのときもただ料理をしていただけだ。事前に聞いていたなら食べ物の差し入れをしたのにと、待雪は疎外感と共に残念さを感じたりした。
そうして過去を回想していると匂宮と篝火がやってきて待雪にランプを渡してくれた。藤袴は用事に手間取っているのか少し遅れるようだったから待雪はもう少し物思いに耽っていた。
渡されたランプの手触りで以前のことがつい脳裏に浮かぶ。数日ぶりとはいえ待雪は以前の夜警を思い返していた。大変苦労した記憶があるものの、思えばあれがきっかけとなって匂宮や篝火──藤袴との仲を深めたので悪いことばかりではなかった。同時にこの夜の冷たさはあの事件のことも想起させるものだった。
脈々と流れる熱い█。██ですら██と感じるほどに冷え切った身体──
あのときのことを思うと心の悲しみを感じる部分が刺激される。失われた命を一つ二つと数えながら、待雪は口をへの字に曲げて玄関ホールの中央に立っていた。
……藤袴は生きることを選んでくれたけれど、彼女は生き永らえてくれるだろうか?
しばらくすると足音が聞こえてきた。駆け足で戻ってきた藤袴を待雪は労うような微笑みで迎えた。そうして全員が揃ったので、ようやく夜警が始まった。
「ッし、それじャあ始めるか」
藤袴を待つ間、待雪は匂宮らから夜警についての変更点を聞いていた。前回起きてしまった事件が深夜帯の出来事であるのを踏まえ、出歩いている者は強制的に部屋へと送り返す方針に変わっていた。
なるほど確かに事件の原因は他人の注意を聞かずに夜間ですら外にいたからだと言えるだろう。個室にいれば鍵をかけて身の安全を守れたはずだとも。
とはいえ待雪には人を注意して叱るような勇気も迫力もない。そこは同伴する藤袴に任せることになるだろう。
「さ、さあ待雪。行きましょう」
当の藤袴はぎこちない動きで待雪を夜の外周へとエスコートする。大丈夫だろうか、という不安ももちろんだが、それよりも待雪の脳裏には一時間ほど前に聞かされた藤袴の言葉が強く残っていた。
『大切な話があるので──』
大切な話とはなんだろう?
心当たりを探ってみたがこれといったものは思い当たらない。だから藤袴の様子が待雪には不思議に思われた。その不思議は解消されることのないままに夜警は始まった。
匂宮らと別れ、早速暗闇の中をランプの灯りで照らし出していった。その日は例に漏れず寒く厳しい夜であったが、風はなく穏やかな夜でもあった。遠くからは潮騒が聞こえてくる。ザァザァという音の中で二人分の足音が並んで聞こえた。会話というものが二人の間でしばらく起こらなかったが、静寂を苦しく感じることはない──ただ心地よいとだけ思った。
そんな静寂の中で、大人しげに会話を切り出したのは藤袴であった。
「なんだか今日は、熱いですね」
「そうですか? ……熱でもあるのでは?」
「かもしれません。走ってきたからでしょうか、心臓がバクバクと鳴っているのが聞こえます」
「では少し休みますか」
「いえ、これしき……歩いていれば落ち着くかと」
ふぅ、と藤袴は息をついて話した。
「誘った私が言うのもなんですが、待雪が再び夜警に来てくれるとは意外でした」
「断る理由もありませんでしたから。それにあんなに真剣な顔をされては、断るものも断れません」
「……いま思い返すともっと良い頼み方があったろうに、どうしてあんな頼み方をしたのか……な、なんだか、恥ずかしい」
藤袴は赤らんだ顔をそっぽに向けると、唇を尖らせて言った。
「と、ともかくですね。今日は来てくださってありがとうございます。助かります」
「いえ、礼を言われるほどのことでは……それより」
と言って待雪は訊ねた。
「大切な話とはなんでしょうか?」
訊くと藤袴は口をもごつかせた。大切な話があるのは嘘ではないのだろう。けれどどうしてか話すのが躊躇われるらしかった。
恥ずかしさが邪魔をしているのだろうか。仮にそうだとして、恥ずかしさを感じるようなこととはなんだろうか。彼女はどんなことを話すつもりなのかと待雪は純粋に疑問に思った。
「その……は、面と向かって話すには恥ずかしいことなので、少し雑談をしませんか」
「雑談、ですか」
「はい、そうです! 雑談ですっ」
藤袴は目を合わせたかと思えばすぐに空で視線が泳がせた。常の彼女と比べても大変珍しい状態である。雑談といっても、こんな状態じゃ彼女の口からはなにも出てきそうにないと待雪は思った。だから話を促すべく前から気になっていたものについて訊ねることにした。
「前に本や雑誌をお渡ししたかと思うんですけど、あれってどういうものなんですか?」
「どういうもの、というと?」
「例えばどういうジャンルの話なのかとか、流行り物であるのかとか、その本のどういうところが好きなのかとか」
「なるほど……」
藤袴は口を閉ざして悩み込んだ。どうやら彼女にとっては難しい質問のようであったが、気は紛れているらしく真剣な表情で考え込んでいた。やがて口を開き話した。
「雑誌はいつも購読しているものなんです。文芸雑誌といって、書き下ろしの新作や評論が載っていて、そういうのを読むのが好きで……」
普段の戒律を重んじる真面目な藤袴とは違い、読書について語る彼女は年頃の夢見る乙女のような麗かな声をしていた。心から好きなのだろうと待雪は関心すら覚えた。
「小説は私の知らない世界を教えてくれるようで好きなんです。私は頭の固い人間ですから、さまざまな空想や戯言が美しさや醜さを伝えてくれるような気がして」
とつとつと藤袴は語る。既に緊張の色は見られず、藤袴の口は滞りなく言葉を紡いでいた。待雪はときどき相槌を打ちながら彼女の話に聞き入っていた。
「小説もいいですが詩もいいですよ。小説は物語を楽しむのに対し詩はそこにある文章からさまざまな解釈を広げていける……世界が大きく感じられて、私は好きです」
「ほんとうにお好きなんですね」
「はい、子供の頃からそうなんです……お小遣いを貰えばそのまま本屋に行くくらいには……雑誌だけなら安いのですが、他にも色々買うとなると料金が嵩むので、手の届かない本はよくねだったりしましたね」
と藤袴は懐かしげに笑ってみせた。
意外ですね、と待雪は返した。そういう茶目っ気のある話は今の藤袴の真面目な風態からは想像のできないことだったからだ。藤袴は「意外でしょう?」と笑った。
「よくからかわれたものです。なんせ私の周りには武道しか知らない人間ばかりでしたから、落ち着いて本を読もうにも周りが騒がしくて」
懐かしげに語る彼女の表情は穏やかだった。口から出てくる不満や文句には、故郷を思うような暖かみが込められていると待雪は感じた。
「文学は良いものです。情趣溢れる物語はただそれだけで私の心を乱すものです。読んでいて、とても不思議な気持ちにさせられるのですから」
だから、と藤袴は少し照れ恥ずかしそうに続けた。一層彼女の瞳が輝く様な気がした。
「だから将来は国語の教師になろうと思って。それで師範学校に通っていたんですけれどね」
けれどその夢も遠いものになってしまった。彼女が師範学校を離れてまで希望ヶ峰学園にやってきたのは、よりよい未来を求めてのことだったのだろう。文学を愛するが故に教師を目指し、そのためにいっそうの努力をするべく希望ヶ峰学園からの招待を受けた。
彼女にとってそれは夢であり、未来への望みでもあったはずだ。
藤袴は気丈に笑ってみせた。悲しげな面影のある笑い方だった。待雪はただその目を見ていることしかできなかった。
しばらくこうして連れ立って歩いていると、藤袴は思い出したように話し出した。
「『坊つちやん』という小説を読んだことはありますか?」
藤袴の質問に待雪は首を横に振った。聞いたことのない題名だ。自分が留学している間に日本で流行していたのだろうかと待雪は思った。
「ざっくり説明するとですね、成り行きで教師として地方に向かった若者が、行く先々で持ち前の無鉄砲さと直情さを発揮して、最後は気に食わないやつを殴り飛ばして故郷に帰るというお話なんですけれど……」
「け、けっこう荒っぽいですね」
「ええまあ、わりと暴力的なラストではあるのですが……それでその話なんですけれど、私は思うことがありまして」
ふと上を向きながら藤袴は語った。
「その話の主人公は無鉄砲ながらも芯を通している部分が好感的で、というのも彼は自分が信じる正義を初めから最後まで捨てることがなかったんです。たとえどれだけ立場が上の相手でも気に食わなければ気に食わないし、不快に思ったことはすぐに口に出すし、自分が負い目を感じるようなことはすぐに精算しようと考えます。ようは子供っぽい単純な人だと言えなくもないですが、彼の生きる姿勢は私にとって憧れのようでもありました」
語らう声には力強さがあった。きっと憧れの思いが込められているのだろうと藤袴は思った。
「良くも悪くも、私は規律に厳しい人間だと思います。規律から反する者がいれば厳しく罰しますが、ただ彼らの抱く事情を顧みることはどうも難しい──規律という名の他人が決めた正義に乗り掛かっているだけで、そこに私自身の意志や正義はないように思うんです」
だから、と藤袴は続ける。
「だから私は羨ましい」
彼女の目には確かに羨望の気持ちが込められていて、その息遣いは切なるものを願うようでもあった。彼女はきっと、自分にはそれがないと思っているのだろう。
待雪はなんと言うべきか困った。なにも言わない方がいいのではとも思った。けれど藤袴の顔を見ているとなんだか悲しくなって、素直な考えを伝えることにした。
「……でも確かな信念を伴った行動なら、誰もそれを侮辱しませんよ。国のため、家族のため、正義のため。どんな理由であれ、なにか志を持てる人は素晴らしいと思います」
そう伝えると、藤袴は驚いたように目を丸くした。伝えたいことが上手く伝わっていないように感じたから、待雪は加えてこうも言った。
「わたしはフジバカマさんを立派な人だと思いますよ」
「りっぱ……わ、私がっ?」
「はい。フジバカマさんは立派です。
面と向かって自分の本音を彼女に伝える。藤袴は恥ずかしいのか困惑しているのかよく分からない表情をしていた。
「そそ、そんな褒めないでくださいっ。……私は向上心のない愚か者です。バカなんです」
そんなことはない、と伝えても、藤袴はいいえと断りを入れた。
「私は自分の行いに自信を持てていない。そう、自信がないんです。いつもなにかに迷っていて、迷いを忘れるために鍛錬に打ち込んでいる」
そんな私の行動は、きっと愚かと言われてもおかしくはないでしょう。と藤袴は言った。
けれど待雪の意見は正反対であった。
「今はそれでいいと思います。どれだけ迷ってもいいんです……だってこれから見つければいいんですから」
誰だって抱く正義は異なる。異なるからこそ、見つけやすい正義もあれば、藤袴のように見つけづらい正義もある。
ただそれだけ──ただそれだけなのだ。
その言葉がひしと心に伝わったのか、藤袴は一転して口を閉ざした。そして待雪の言った言葉を何度も何度も頭の中で反芻して、それでようやく前を向いた。
「これから見つければいい、ですか。ならまずは生きてこの島を脱出しなければなりませんね」
「そうですね」
「……伝えたいことがあると、あなたに言いましたよね」
真剣な眼差しで藤袴は待雪を見つめる。
待雪はつい立ち止まって藤袴の話を聞いた。
「私はあなたのおかげで、今もこうして生きている──昨日は私の命を救い出してくれて本当にありがとう」
「そんな、大それたことは──」
「私にとっては大きなことを待雪はしたんです」
藤袴は待雪の手を取ると、それを胸元の辺りでギュッと強く握った。手袋越しでも熱が伝わってくるほどに強く彼女は手を握りしめてきた。
「待雪、あなたは、私にとっての──ん、いいえ、これは言わないでおきましょう。センチメンタルが過ぎました」
こほんと咳払いをして、藤袴は手を離す。
「とにかく、本当にありがとうございます。あなたは私の命の恩人です」
「はあ……」
「それと、あのとき、あんなことを言わせてしまってすみません」
あのとき、というのは部屋に閉じこもっていた藤袴を迎えに行った日のことだろう。あんなこと、というのはあの発言に違いない。『わたしがフジバカマさんを殺します』──あれは藤袴の心に深く突き刺さっているように思えた。
「いいんです。それでフジバカマさんの気持ちが少しでも楽になったのなら……」
「ほんとうに、ありがとうございます」
「でもわたしだけじゃなくって、あのときはタケカワさんもいらしたんですよ」
「竹河、ですか」
藤袴は悩むように顎に手を当てて考え込んだ。
「彼は不思議な人ですね。女性を嫌っているのは心からそうなのでしょうが、それにしては優しさを感じる」
むむ、と藤袴は眉を寄せていたが、ふと思い出したように昨日のその後について待雪に訊ねた。
「東屋はどうでしたか? どうやらご迷惑をかけてしまったようですから」
「アズマヤさんですか……少し不機嫌でしたが、いつものことですから」
「そうですか。彼女とは話をする機会が少ないので、明日にでもまた話す機会が作れればいいのですが……どうにも近寄り難い印象がありまして」
「そうですか? 良い人ですよ」
「そうなのですか? まあ悪い人ではなさそうですが」
こほん、と藤袴は咳をして続けた。
それからはしばらく互いの話をしあった。互いの師匠の話。練習で楽しかったこと。日本や海外の文学について。年頃の少女らしく、ファッションや色恋についても二人は語り合った。
待雪にとって意外だったのは、藤袴が西洋の文化に疎かったところだろうか。外国の服装は苦手だから学校も袴で良い場所を選んだ、といった具合である。待雪自身それほど服装に関しては興味を持っていなかったのでさほど興味はなかったが、この島を出たなら共に呉服店に服を買いに行こうと約束を交わした。
「そういえば」
と待雪はふと思い出したように話し出した。
「以前から考えていたのですが、皆さんの要望を聞いて料理を作ろうと思っていまして。せっかくですからなにか食べたいものはありませんか」
「食べたいもの、ですか」
「はい。お肉でも野菜でも、素材さえあればなんでも作りますので」
「はあ、ですがそれは大変ではありませんか?」
心配そうに訊ねてくるので、待雪は柄になく胸を張って答えた。その仕草が可愛らしいとつい藤袴は思った。
「そこはまあ、頑張ります。皆さんに元気になってほしいのです」
「そうですか。待雪は立派ですね、本当に」
藤袴は笑顔で返すと、それじゃあ、と料理の名前を告げた。
わかりました、と待雪はその依頼を快く承諾した。
夜はまだ寒いが、吐く息の白さが互いの暖かみを感じていられるようで、少女は幸せを感じていた。