冬は早朝が良いと言ったのは誰だっけ。そんなことを考えながら、私は日が登り始めた海を校舎から眺めていた。常であればまさしく絶景であるのだが、この島にやってきた経緯が物騒なものだから手放しには喜べない景色だった。ただひたすらに水平線の広がる光景は薄気味悪さすら感じる。それでも私は毎朝この時間帯に目を覚ましては、必ず海の景色をしっかり目に焼き付けるようにしていた。
心が落ち着くのだ。広大な海を眺めていると、自分という存在がちっぽけなもののように感じる。ちっぽけな存在の悩みなんて、もっともっと小さいはずだ。そう考えるだけで、不安でいっぱいになって今にも破裂しそうな心の幻肢痛が少しだけ治まった。
今日もそうやって心の安定を図る。冷たい外気に身を晒し深呼吸をした。鼻腔を通る冷気が肺を凍てつかせる。ああまるで、鉱物になったみたいだ──きっと私は鉄なのだ。辛いことがあれば心は冷めたくなるけれど、嬉しいことがあれば熱せられてドロドロになった鉄に変わる。
こんなにも身体は冷たいのに、私はきっとちょっとしたきっかけで熱くなれる。けれど今の私は酷く冷え込んでいた。指先、肌、肉、血液までもが絶対零度にまで低下したような錯覚を覚えたところで、ようやく日課である走り込みを始めた。
「よいしょっと」
独りごちてトランクを肩に担ぐ。このトランクがなかなかに曲者で、首輪と繋がっているのでいつなんどきも(お風呂のとき以外は)離れられない。それに中身がぎっちり詰まっているのか引きずりたくなるほど重たい。匂宮と篝火はこれを易々と担ぎ上げて走っていたけれど、私にはちょっぴり重く感じる。荷物も、身体も、なにもかもが私には重たい。
きっと私の知らないところであらゆるものが少しだけ重たくなってしまったんだ。夢も、将来も、期待も、望みも、昔に比べてなんだか重荷に感じる。
けれど泣き言は言ってられない。小さな背中からこぼれてしまいそうなたくさんのなにかを、「よいしょ」と掛け声をつけて私は背負い直した。
よいしょ、よいしょ。
幼い声が頭の中でこだまする。それに合わせて私もよいしょ、よいしょ、と言った。
校舎の周りを数周する頃にはすっかり全身を玉の汗が覆っていた。まるで蒸気機関車のように白い息を吐き出す。身体は芯までポカポカだ。けれど心は凍てついたままで、冷たい鉄のようだった。
「……よいしょ、っと」
用意していた手拭いで汗を拭う。水を飲むと嫌に冷静な気持ちになった。そうして、色々思い出して、今朝は何事もなかったことにホッとした気持ちになった。
先日の事件は学級裁判をもって終わりを告げた。しかし恐怖はまだ残っている。
熊谷と帚木の死体を見つけたのは日課を行なっているときだったから──外を走っていると、角を曲がるたび、そこに見知った誰かの無惨な██があるのではないかと錯覚する。
死の手触りはいつしか私の首を締め付け、息苦しく頭の回路を閉塞させた。
いっそ憐れなまでに愚かでいられたらよかったのに──恐怖を感じぬ木偶の坊になれたなら、人はどれほど幸せだろうか。私はいつまでも過去に縛られていた。
だから過去を簡単に捨てられる彼女は酷い人間だなと思ったりした。愚かなのだろうとも。でもそれは違うのだと私は思い直した。彼女は他人の死を乗り越えられる人間なのだろう。私と違って心根が強く、身近な人の死ですらも素直に受け止めてそれを浄化する。澱を洗い流すように過去を清算し、そうして前を向いている。そんな生に対する姿勢は私にとって憧れのほかなかった。
彼女のことを考えていると呼吸が落ち着いた。吐く息はすっかり冷たくなっていた。細められた目は凍ったように動かない。そこにない何者かの死を──あるいは物質の死でも見ているかのように、私は虚空を見つめている。
私は彼女のようにはあれない。私は良くも悪くも実直な人間だ。なにごとにも誠実に努めることが正しいことだと信じてやまなかったが、今とはなってはただゆとりがないだけだと思う。
結局、私はなにも出来なかった──人命を救うことも、人の助けになることも、死者を弔うことも。
そう考えると、また気が重くなった。玄関ホールの隅で項垂れていると、額から汗が滴った。それが地面に落ちて、あの日の血溜まりを想起し、今度は瞼が重くなった。
走って疲れたのか、あるいはもう死んでいるのか、身体が全く動かない。いつもは持ち上げられるはずのトランクがまるで杭のように私をその場に縛り付けていた。
そんな折である。寄宿舎の方から何者かの足音が聞こえてきた。足音の主は玄関ホールに入ると、私の存在に気がついたのか明るい声で私の名前を呼んだ。思わず顔を上げると、そこには朝起きたばかりと見える待雪の姿があった。
私の顔を見るや否や、彼女は慌てて駆け寄ってきた。だらりとぶら下げられた私の手を取ると、「冷たい」と一言述べ、その細腕に力を込めて私を引き起こそうとした。
「どれほどこうしていたんですか? 信じられないほど身体が冷たくなって……」
待雪一人の力じゃ私を起き上がらせることはできず、うんと力を込めている様子がなんとも愛らしいものだった。手から伝わる暖かみは、感覚を失い始めていた指先が溶けてしまいそうなほどの熱を与えてくれた。
「心配をおかけしてしまったようで申し訳ない……少しぼうっとしてました」
「はあ。朝の走り込みも結構ですが、これじゃ夜警の意味もないですよ」
彼女は呆れたふうに呟く。実際呆れているのだろう、彼女は夜景を行うことに前向きでないながらも手伝ってくれたことがある。努力をふいにされてしまったような残念さだって彼女にはあるのかもしれない。
「毛布、使ってください」
と待雪は肩にかけていた分厚い毛布を私の肩にかけた。彼女の細いシルエットがより小さなものになった。
「ありがとう、ございます」
喉奥が締まって上手く声が出なかったけれど、待雪は納得したようにして「さあ、行きましょう」と私の手を引いた。
「食堂に行けば火鉢がありますから、そこで暖まりましょう」
「もうそんな時間ですか……」
「いえ、朝時間はまだですが、食堂はもう空いているので」
食堂の位置は玄関ホールからすぐのところにある。確かに待雪の言うように食堂の鍵は開いていた。夜時間の間は閉まっているはずだが、記憶違いだろうか……なんにせよ食堂に関しては彼女の方が詳しい。細かなことは気にせずに食堂へと入った。
「おや……火が消えてしまっていますね……」
厨房近くに置かれた火鉢を覗き込むと、中の炭はすっかり燃え尽きてしまっていた。火が消えて随分時は経っているのだろう、火鉢はすっかり冷たい。
どうしたものかと顔を上げる。待雪も困ったようで、互いに顔を見合わせた。基本火は絶やさぬものだ。だからこうして火が消えてしまっていると、一日の始まりが円滑に進まない。
実家でもそうだった。誰かが必ず火の面倒を見ていたはずだ。火が消えると一大事で、朝の切り詰まった時間帯が滞ってしまうのだ。
幸いこの島で時間に追われることはない。火を使うのは料理のときくらいだから──でも、となると料理人の待雪にとっては一大事である。煮るにしろ焼くにしろどうしたって火は使わねばならないのだから。しかしこの島に来てからというものの火を起こす機会はないに等しかったため、どうしたものか首を傾ける。
そういえば、夜警の際、匂宮らがいつも持ってきていたランプの火はどこから来ていたのか……。そこまで思い立って私は厨房の方に目を向けた。
「倉庫にマッチがあるかもしれません」
以前匂宮らが作った倉庫の帳簿に目を通す。匂宮は神経質なまでに綺麗な字を書くので、サラサラと内容が頭の中に入ってきた。なるほど、確かに倉庫にマッチがあるようだ。
「今から取りに行ってきますから、その間ここで待っていてください」
言って食堂の出口に向かうと、待雪が後から追いかけてきた。
「わたしもついて行っていいですか? 食堂にいてもすることがないので」
「構いませんが、外は寒いですよ?」
「それは百も承知ですが、今のフジバカマさんは一人にすると危険そうなので」
「…………」
反論は躊躇われたので、私はこくんと小さく頷いた。彼女と一緒にいて悪い気分にはならないだろうという予感があったし、なにより二人でいることを無意識のうちに望んでいたようにも思える。
玄関ホールを抜け倉庫の方まで来ると、やはり人気はなく、換気をしても除ききれない埃っぽさと古びた木の匂いが鼻についた。
「マッチ、見つけましたよ」
存外早く見つけたマッチを懐にしまい、食堂へと踵を返した。
やはり道中人は見かけない。外は十分明るくなっているとはいえ、まだ朝時間前──眠ったままの人や、支度をしている人がほとんどなのだろう。
そう考えると待雪は随分早起きだなと思った。化粧はしていないようだったが最低限髪は整えてあるようだし、服装もきちんとしている。なにより表情に疲れが見えない。きちんと毎日眠っているのだろうなと思わせる健康的な肌の色だった。
なにより彼女と隣り合って歩くと、不思議な香の匂いがした。とても落ち着く匂いだ。香水でもなく、かといって花の香りが袖についているわけでもない。なんと表現したらいいものなのか──人香とでも呼ぶべき代物であった。
「前から思っていたのですが」
食堂に向かう道中、私は待雪に訊ねてみた。随分気持ちも向上してきたから、話をしようという気になった。
「待雪はとても良い匂いがしますね。香水をつけているのですか」
「匂い、ですか……?」
不思議そうに返すと、彼女は怪訝そうに自身の服や首元を嗅ぐ仕草をした。どうやら私の指摘を受けて体臭を気にしているようだったので、誤解をしているのかと可笑しな気待ちになって私は笑った。
「あは、臭いというわけじゃありませんよ。本当に良い匂いがするんです──香草のような、あるいは満開の花が匂わせるような香りが──甘さや爽やかさとは違う、懐かしい香りがするんです」
「はあ、なるほど」
本当かしらと待雪はまた自分の服を嗅いでいた。自分の匂いは気付きにくいというから、待雪自身よく分かっていないのだろうか。こういうとき具体的に言葉で言い表せることが出来れば良いのだけれど、どうしても詩的っぽい表現になってしまうので、私は恥ずかしくって口に出せなかった。
待雪はしばらく逡巡した後、困ったようにこう答えた。
「香水は付けてないんです。料理に匂いが移ると良くないですし、なにより鼻が強い匂いに慣れると料理も上手く作れないので」
「なるほど、そうなのですか」
「ええですから、フジバカマさんが匂いを感じたのなら他に原因があるのかと……アズマヤさんやミオツクシさんも良い香りがしますから、ひょっとしてそれが移ったのかもしれません」
「そういうものでしょうか?」
確かに東屋や澪標からも良い匂いがする。だがあれは懐かしさとは程遠い気品ある高級な香りだ。待雪から漂う香りとは全くの別物である。
食堂に着き、ようやく火をつける手筈が整った。乾燥した草を箱から一掴み持ってくる。
「火は私がつけましょう」
マッチを擦ると独特の匂いが鼻についた。
枯れ草に火をつけると、すぐに火は大きくなった。それが消えぬようだんだん強いものにしていって、やがて一つの炭を炎の中に入れる。すると炭は黒い岩のような状態から赤みを帯びた光を放ち出した。うちなる熱を放出するように、吹き込まれた風に応じてその身を強く赤く発光させる。
「そろそろ良いでしょう」
炎の中から炭を取り出し、それを火鉢に入れる。整理された灰の中で、いくつかの炭が赤みを帯び、その端々を白く染めていた。
近くの椅子に座って、火鉢に手をかざす。
ああなんて、あたたかい。
「あたたかい」
口からこぼれた声に驚く。
驚きで顔を上げると、待雪と目が合って、彼女は「あたたかいですね」と微笑んだ。
彼女も寒さで白くなった手を火鉢に翳していた。暖かそうに、その手を重ね合わせて。
「……料理はいいのですか?」
訊かなきゃいいのにそんなことを訊いてしまった。途端、しまったと思い目を逸らした。まるで今すぐ厨房に行けと追いやるようで、私は自分に嫌悪を抱くと共に心細さを予感した。けれど帰ってきた返答は意外なものだった。
「いいんです。今朝はこうしたい気分なので」
「なら、止めませんが」
私は口下手な自分にもどかしくなって、忙しなく手を擦った。すっかり暖まっているのに、それでもまだ足りないのだと思えるほど手を強く揉んだ。
火に照って明るくなった彼女の頬は、まだ冷たく白んでいた。けれど暖かみを喜ぶように緩い笑顔を浮かべていた。
孤独に死んでしまうのなら、いっそ彼女と心中してしまえたら良いのにと、くだらぬ考えが頭をよぎった。きっと彼女は私が死ぬことを良しとしないだろうし、なにより待雪自身生きることを望んでいるはずだ。
けれどもし彼女が死を望むなら──その道行が寂しくならないように、隣に立つくらいはしてもいいんじゃないのか。
私の命は彼女に救ってもらったものなのだから、決して惜しくはないのだと心から思えた。
たとえ冬の冷たい川の中であっても、彼女と共にいられるのなら安らぎのある場所だろうから。