001 (非)日常編
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いや嘘だ。すごく面倒だ。
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コロシアイ生活の始まりが宣言されると、体育館にいた十数名の傍輩はみな影をも踏ませまいといった勢いでどこか遠くの場所に行ってしまった。
彼らの背中を目で追いながら、雲隠は視界の隅に映る女子生徒を観察していた。待雪薫。超高校級の料理人。彼女のことは詳しく知らないが、澪標が気に入っているという事実がなにか異様なものを想像させる。とはいえ、人畜無害な女の子という言葉の他に彼女を表す言葉が見つからないので、雲隠はため息がちにこれからのことを考え始めた。
体育館からいなくなってしまった者たちの目的は、人目を避けることもそうだが、概ねこの施設の探索が主だろう。殺されることを恐れるものの、誰一人として本気で他人を殺そうだなんて思っていない。現状打破の糸口を必死に探しているに違いなかった。それは雲隠を含めた三人も同じであり、いざ探索へと身を乗り出そうとしていたのだが、それならばどうするべきかと首を捻り考えあぐねていたのだった。
(探索するにしたって、なにか目標がないと無駄な時間を過ごすだけだろうしな。あの神座って人は、時間は有限だと語っていた)
そう、時間は有限なのだ。三十日間のモラトリアムで、自分たちは何をするべきなのだろう。死を望んでいるわけではないし、ここが自分の死に場所だとも思わないけれど、なら自分可愛さに人を殺そうかという気も起こらない。……そもそも今のこの状況だって、なんとも不可解なものだった。だがしかし、だからといって怠惰なままに時を過ごすのはいかがなものかと思われる。
雲隠がただ一人考えを巡らせていると、体育館の真ん中でおどおどと周りを見渡していた待雪が不意にこちらを向いて、臆病な態度で意見を発した。何かを恐れているらしいということはひしひしと伝わってくるような、そんな怯え方をしていた。コロシアイ宣言を受け、雲隠と澪標のことを危険視し始めたのだろうかと初めは思ったが、それは間違いであるとすぐに気付かされた。なんせ彼女の挙動不審な態度は今朝から続いていたものだ。コロシアイ生活という言葉を受けて初めて彼女がうろたえ出したのではないということは明らかだった。
待雪は恐る恐る申し出た。自分は酷く矮小な存在であると卑下しきった覇気のなさだった。
「あの、その……個室を、探しませんか……?」
おどおどとした態度は本物のようで、演技をしているようには見えなかった。気が弱いのか、話す言葉にはときどき淀みが見られる。その縮こまった態度が彼女を殊更に弱々しく見せていた。
ただ、気弱そうというだけであって、彼女が弱い人間だとは思えないから不思議だ。現に待雪は、勇気を振り絞って、こうして二人に提案をしたのだから。それも適当なものではなく、確かに正しいだろう答えを導き出しているのである。
人付き合いが苦手な雲隠は、そのような矛盾めいた印象を持つ待雪にどう接するべきかを図りかねて、ひとまずは彼女の意見を聞くことにした。待雪の言葉に、雲隠はおうむ返しのように聞き返す。
「個室?」
「っはい、個室です。……神座という人は、個室に生徒手帳が置いてあると言っていました。ここでのルールも書いてあるそうですから、それを先に読んでおいた方がいいんじゃないでしょうか。……なにより荷物を持ったまま歩くのは、疲れますし」
最後の一文は、雲隠の方を意識するように視線を揺らめかせてから言葉を出していた。二人分の荷物を運んでいる雲隠のことを案じているようだった。それは優しい気遣いで、雲隠はどうしたものかと澪標の方に視線をやる。それを受けて、澪標は分かりきったように目を細めてから、小さく頷いてこう言った。
「そうね。波に揺られて体力を消費していることでしょう。体を休めるというのもそうだけれど、気持ちを整理するという意味も込めて、個室を探すことは良いことかもしれないわ」
澪標の肯定する声が聞こえた。どうやら彼女は、待雪の意見を是としたようだ。
「そうですね。僕もそれが正しいと思います」
と、自分も一拍置いてから頷く。
概ね良好な反応を得て、待雪は少しホッとしたように胸を下げていた。
「じゃあ行きましょうか」
目的は決まったのだからと、二人分の旅行鞄とトランクを雲隠は担ぎ、体育館の外へ急ぐように向かった。その後ろを澪標と待雪は追いかけるように(澪標に限っては雲隠の持つトランクと首輪が繋がっているので、引っ張られるように)して体育館を出た。
こうして澪標の役に立つことが、なによりも嬉しいというみたいに彼の足は軽やかだったが、反して澪標は彼の勇み立つ気持ちに振り回されているのだった。
思いの外すぐに個室は見つかった。
玄関ホールの左右に伸びる廊下から見えた無数の扉がそのまま寄宿舎として機能していたのだ。数にして十数に近い扉が敷設されていて、雲隠の個室は奥の方あった。玄関ホールからは一番離れた場所であり、廊下が隅から隅へとよく見渡せる位置でもあった。えらく達筆な字体で書かれた名札が扉に下げられていたため、どこが誰の部屋なのかは一目瞭然であった。
荷物を届けるために澪標を部屋まで送ったあと、雲隠は自分の部屋に足を踏み入れた。これから先、長くとも一ヶ月は住むことになるだろう部屋だ。少しは気になるというものだった。
必要最低限の家具しか置かれていない殺風景な部屋であったが、私物の少ない雲隠からすればそこは、落ち着きのある心地よい空間に違いなかった。部屋は思いの外広く、洋風テイストな色調であるにもかかわらず畳が敷かれてあるアンバランスなデザインが、ある種の非現実さを演出しているように見える。玄関から向かって右にある洋物のベッドの脚で畳が痛んでしまわないかを心配に思いながら、その上に旅行鞄を放り投げた。荷解きをするような元気もないため、当分の間、そこに置かれたままになるだろう。
部屋の中心にある卓袱台の上にはこの部屋の鍵らしき物が置かれてあった。それを認めると、彼は伸びをするようにして鍵を手に取りポケットに入れた。おおよそ部屋の全容はこのようなものか。しかし生徒手帳らしきものはどこにも見当たらない。
どこか見落としがあっただろうかと部屋を見渡せば、洋物の箪笥に目がいった。そこに生徒手帳が入っているのではないかとあたりをつけ、下から順に開けていった。下から開けて行ったのに理由はない。そこに手が伸びた感じだった。
運が良かったのか、それとも悪かったのか。箪笥の中身からしてその判断は付け辛いものだったが、結果として雲隠は生徒手帳を見つけることができた。付け加えるのなら彼は生徒手帳の他に幾枚かの折り畳まれた手紙と一丁の拳銃を見つけてしまった。
「…………」
雲隠は迷うことなく生徒手帳を手に取った。待雪の意見を尊重するのなら、優先するべきことは校則をいち早く確認し理解することだった。
パラパラとページを捲っていると、おそらくはこの施設のものだろうと思われる地図や校則を見つけることができた。
「……んむ。よく分かんないな」
よく分かんなかったため斜め読みをしたあと、生徒手帳は学ランのポケットにさし、次は拳銃を手に取った。冷たい鉄の感触、それに重みからして、どうやら本物のようだった。中折れ式のそれには弾が六つ込められており、代えは見当たらなかったためどうやら使い切りのようだ。銃として使えるかは分解しない限り分からないが、ただこういったものが無造作に置かれているあたり、この島での生活の異質さが浮き彫りになっているようでもある。
決意したならば、今すぐにでも実行に移せるだろう。ただそれだけじゃダメなのだと、神座という老人は語っていた。
殺し合うとはいえ、血に塗れたバトルロワイヤルを繰り広げればいいというわけではないようだった。人を殺すのなら犯人が自分であると他人に悟られてはいけないのだろう。それなら拳銃という大きな音を放つ武器は相性が悪いと言えた。
これならバターナイフのほうが隠密性や持ち運び、しいては後処理にも優れていて、隠れて人を殺すのには向いている。もっともどちらにしたって、彼に人を殺す気があればの話なのだが。
(これを持ち歩くのはよしておこう。他の人もこうなのかは知らないけれど、拳銃なんて持ち歩いてたら、さすがに印象が悪いだろうし)
そもそも拳銃の扱いに長けていない彼である。緊急時の脅しにだって使えないだろうからと、今はないに等しい信頼度をとることに決めて拳銃は投げ捨てた。
次に、というよりもそれは余りものなのだけれど、彼は最後に残った手紙を手に取った。封もされていない、ただ折り畳まれただけの二枚の紙切れ。まずは一枚目に目を通すと、そこには思いの外重要なことが書かれてあった。
『超高校級の機械技師 雲隠伎京さまへ。
あなたは内通者に選ばれました。
内通者とは、いわば監視係です。
この契約は仕事の成功不成功に関わらず、また死ぬか生きるかに関わらず、貴方様にとって有益な結果を生むことを誓いましょう。
契約内容につきましては、また後日、この手紙を持って体育館に来ていただければ詳しく説明いたします。
希望ヶ峰学園創立者 神座出流』……と。
一枚目の手紙に書かれていたのは、要するに運営の側に回らないかという誘いのようだった。
「内通者、か」
不思議とやる気というものは微塵として湧いてこなかった。不審だとか面倒だとか、そう言った感情もまたなかった。ただ一つ彼が思ったことは、なる必要はないだろうという根拠のない考えくらいなものだった。雲隠は時々、そういった物事の決め方をすることがあったから、同じように決断を下したのだ。決断と表現するのには呆気ないほどに軽い気持ちだったけれど。
一枚目に関して考慮する必要はないだろうと捨て置き、二枚目の手紙を読もうとしたところで、部屋の扉をノックする音と人の声とが玄関の向こうから聞こえてきた。二人の女性が会話をしているようで、片方の声には聞き馴染みがあり、もう片方には聞き覚えがあった。
雲隠は拳銃と二枚の手紙を箪笥にしまい、ゆったりとした動きで彼女らを出迎えるために扉の方へと向かった。
忘れることのないように、拳銃ではなく鍵を握って扉を開いた。
2
昼下がりの食堂にて。
「お腹が減ったわ」
と泣き言のように澪標は言った。それを聞いた待雪は困ったように眉を下げて、熱が通り切った地金の黒い中華鍋を振るった。
「ミオツクシさんの分もパパッと作っちゃいますから、待っていてください」
「はーい」
超高校級の令嬢という肩書きを与えられ、またその立ち振る舞い挙措動作にも令嬢の名に相応しい高貴さが滲み出ている澪標が、こんなにも間延びた声を出すのかと最初こそは驚いていたものの、既にここ数時間でそれは普遍的なものになってしまっていた。
「ふわあ」
緊張の糸が途切れたようで、食堂についてからはやけにあくびが目立っていた。
(オンオフの切り替えが上手な人なんでしょうけど、結構、面倒くさいなあ……酔っ払いの人の相手をしてるみたいで)
それでもこういう人の扱いには慣れていたため、待雪は右手で中華鍋を操りながらもう片方の手で澪標との交流を図っていた。
ただそう、間抜けた態度をとっていても凛々しさや気高さが損なわれていないというのだから驚いたものである。カリスマとはまさしく彼女にこそふさわしい言葉だろう。見た目の美しさもさることながら、どこか従いたくなってしまうような威光を感じるのだ。現に彼女の要望でご飯を作っている今この瞬間、待雪は不思議と光栄な気持ちに包まれていた。陽の光に当てられたものが温かみを持つような、そんなふわふわとした感覚は嫌なものではなく──むしろ心地良ささえ感じてしまうような幸福感があった。超高校級の令嬢と呼ばれる由縁がそこにあるのだというのならそうなのだろうと納得さえしてしまえそうだった。
ちなみに雲隠はというと、彼は彼で澪標とは別行動を取っているらしかった。他の生徒との情報交換に勤しんでいるようで、談笑とまでは行かずとも誰かと話をしている彼の姿を待雪は食堂で見かけていた。そのことについてずっと疑問を抱いていた待雪は、手を器用に動かしながら息継ぎついでに澪標に尋ねた。
「クモガクレさんと一緒にいてあげなくて、大丈夫なんですか? 今朝、言ってたじゃないですか。彼は誤解を生みやすい人なんだって」
訊くと、澪標は途端に不機嫌な表情になった。
「知らないわ、あんな人」
むくれた頬を隠すようにそっぽを向き、待雪よりも二回りは大きい背を丸めて、近くの椅子に粗雑な態度で座り込んだ。
不機嫌さゆえの乱暴な動きだったが、はためくコートや身を翻す際に扇状に広がった美しい黒髪、椅子を引き寄せる際の足の滑らかなしなり具合、またすらりと伸びたその肢体は実に美しいものであり、つい見惚れてしまうほどに彼女の動きは毛先一つに至るまで綺麗だった。
「どうかしたかしら」
「いっいえ、なにもっ」
つい口を噤んでしまう。油断を突かれた思いだった。不審に思われてしまっただろうかという焦りから、必要もないのに火加減の調整をしていると、澪標がなにかを期待するようにこちらを見ているのに気付いた。しかしそれに反応を示すのはどうにも躊躇われた。面倒というわけではない。待雪は澪標との距離感を測りかねていたのだ。
(いや嘘だ。すごく面倒だ)
二人の間で長い沈黙が流れる。
五感を用いて食事の調理を行う待雪にとって、沈黙という誰とも話さなくていい静けさは料理に集中できる最適な環境である。しかし今はそう簡単に割り切ることができなかった。
澪標の視線が、待雪の身体を隈なく突き刺していた。人に視線を向けられるのは苦手だった。けどそれとは別に、彼女のあの美しい瞳に自分が映っているのだと意識するだけで、拍動が不自然なリズムを刻み始めるのだった。
これじゃ息もままならない。すっかり萎縮してしまった喉をさらに絞って、仕方なしに澪標に訊いた。
「なにかあったんですか? クモガクレさんと」
「大ありです。ありよりのありというやつです」
「……?」
聞いたことのない言葉遣いに目を細めながらも彼女の言葉に耳を傾けた。雑踏の中でもはっきりと通るだろう凛とした声は油の弾ける音の中でも聞き取りやすく、そう注意して耳を傾ける必要もなかった。しかし会って間もない人に雑な扱いをするのは気が引けたため、こうして丁寧に彼女のことを扱った。もとより待雪は礼儀を重んじるようにと育てられてきたから、たとえ彼女と親しき仲であったとしても、きっと懇切丁寧に耳を傾けただろう。
そんな待雪に気付くそぶりは見せず、澪標は更に体を湾曲させる。くねりくねりと腰を振ってから待雪の下腹部(主に鼠蹊部のあたり)に縋り付くように抱きついた。驚きや恐れから体が硬直する待雪だったが、それでも鍋を振るう腕は止まらなかった。
「わわっ。ちょ、ちょっと。危ないですよっ。いま、火、使ってるんですからっ!」
「ききょーくんが、知らない女の人と、ずっと話をしてるんですよお」
「ええ……知りませんよ、そんなの」
「少し反応が冷たくなあい?」
「むしろわたしは暑いくらいなんですけどね」
眼前の調理台で弾ける油と、燃え盛る炎にテラテラと熱せられながら、滲む汗を拭くことも叶わず待雪はぼやいた。
「と、とにかく。危ないので離してくださいっ」
待雪の必死な気持ちを汲み取ってか、はたまた気まぐれかは分からないが、澪標は待雪の腰に回していた手を思いの外あっさりと解いた。それから考えるように天井を見上げたのち、深く呼吸をしてから姿勢を正す。そこにいたのは、今朝と同じく高貴さ溢れた、まさしく令嬢と呼ぶに相応しい彼女の立ち姿だ。
(少しは落ち着いたのでしょうか……?)
すると澪標はじっと待雪のことを見ながら調理台に頬杖をつき、すました顔をしてこう言った。
「薫さん、あなた毒薬とか持ってらっしゃらない?」
(ご乱心!?)
思わず待雪は澪標の顔を見上げた。不審な笑みを浮かべる芸術品のように美しい顔が視界に入る。瀟洒で、清楚で、凛々しくって、美しい。様々な方向性の美が入り混じっていて──けれども、それら全てが調和し切った恐ろしくも美しい顔だった。そんな顔の輪郭が、頬杖をつくことによってすこしだけ歪む。けれどそんな歪みすら、彼女の表情に柔らかみを持たせ、自然の美であると人に感じさせた。
「だっ誰に使うつもりなんですか!?」
「誰とは言わないけれど、ききょーくんに」
「言っちゃってますよっ」
「つべこべ言わず入れなさいよ!」
「っ……、そ、そんなの、料理に対する、冒涜じゃないですか……! そもそもわたし、毒薬なんて持ってませんし」
「そんなこともあろうかと……ジャジャーン。私、準備は良い方なので」
澪標はコートのポケットに手を突っ込んで、掌に収まりそうなほどに小さな遮光瓶を取り出した。得意げに掲げられたそれには真っ白なラベルが貼られていて、どうやら新品のようだった。そこに書かれている文字は外国語らしかったが、しかし待雪にとってそれを読むことは造作もないことだった。
「これ、ヒ素じゃないですか……!」
「しーっ。静かに、よ。薫さん」
「軽快なリズムで、なんてもの出してるんですか……っ! やめてくださいよっ。わたしの料理に、入れないでくださいね!?」
「これがなにかよく分かったものね。もしかして薫さん使用経験有り?」
「ないですよ……っ。単にそのラベルに書いてあることを読んだだけです」
瓶に書かれた文字はドイツ語のようだった。澪標はおもむろにラベルを見たあと、すぐに待雪へ笑顔を向けた。
「怖いですよっ。何の笑顔ですか、それ」
「愛想は良くしなさいって、昔からお父様に言われてるの」
「毒薬を持ちながらの笑顔は愛想が良いとは言わないと思いますよ? そういうのはむしろ猟奇的って言うんです」
汗を流しながら顔を青くした待雪は、隣に立つ恐ろしき存在に肩を竦めながらも、十分に完成と言える炒飯に塩を振りまいていく。それは随分と手慣れた仕草で、蒸気に乗った香りがより一層食欲をそそるようだった。さすがは超高校級の料理人が作った料理だ。匂いを嗅いだ澪標からは生唾を飲み込む音が聞こえてきた。
「というか、このご飯、ミオツクシさんも一緒に食べるじゃないですか。わたしも食べるんですけど……毒なんて入れたら、あなただって死んじゃいますよ」
「心中、なんてロマンチック」
「わたしを巻き込まないでください」
「あなたとなら構わないわよ」
「わたしは良くありません……!」
軽口をかわしながら、厨房に置いてあった大皿に湯気たつ炒飯を盛り付け、レンゲと小皿をそれぞれ三つずつ取り出し、それを持って厨房から食堂のほうに出た。
広い食堂に目を通せば、長机の端に雲隠の姿が見えた。自分の知らない誰かと談話をしているようで、おそらくそれが澪標の不機嫌さの原因なのだと、気の重さから肩を落とした。聞こえてくる声から察するに、会話が弾んでいるというよりも一方的に話を聞かされているだけのようだったが、それは澪標にとっては些細なことなのだろう。要するに、自分を介さず異性と接点を持っていることに腹を立てているらしい。
雲隠の対面に座る女子生徒は澪標に負けずとも劣らない美貌の持ち主で、遠目からでも見えるその快活な様子は実に輝かしく、待雪は女子生徒の明るい性格を直ぐに理解できた。大人の魅力というのはああいうものなのだろうか。厚手の冬服であっても隠しきれていない豊満な肉体を隠し見ながら、待雪は澪標が抱く嫉妬のワケを理解できたような気がした。子供か。
二人の痴話喧嘩を収める義理はないが、しかし気の知れた仲が誰もいないこの島で最初に出会った二人の関係がギクシャクしているというのなら、その間を取り持つくらいのことはしなければならないだろうという義務感を待雪は感じていた(とはいえ澪標の一方的な嫉みでしかないが)。
待雪は雲隠のところにまで行き、机の上に皿を置く流れで澪標について訊いた。澪標は未だに食堂の方でいじけた態度をとっていた。
「クモガクレさん。わたしが言うのもなんですけど、ミオツクシさんのことは良いんですか?」
「……
待雪は厨房にいる澪標に視線をやる。それに釣られるようにして、雲隠もまた澪標の方へ顔を向けた。しかし彼はすぐに視線を待雪に戻して、なんということもないような無表情で「ありがとうございます」と感謝を口にすると、「いただきます」の言葉とともに小皿へ炒飯をよそい始めたのだった。
「…………」
「…………」
「……おいしい。うん。おいしいですね、これ」
「え、ええ……?」
なんとも言えない声が漏れる。
雲隠がとった行動がまったくの予想外であったために、待雪は呆気に取られた様子で彼の食事風景を眺めていた。澪標もまた雲隠のどこかずれた発言を聞いていたのだろう。驚いたように目を見開いていた。
(誤解を生みやすいというよりも、これは……)
唖然としていた待雪は、それでもひとまず席につくことにした。
雲隠と例の女子生徒は向かい合わせに座っていたため、座るとするならどちらかの隣くらいなものだった。正直言って、待雪にはそのどちらであれども好ましくはなかった。女子生徒に関しては完全に初対面なワケだし、わざわざ隣に座りに行ったとして、空気が気まずくなるだろうというのは目に見えて明らかだった。その分なら、的外れな返事をするもののあまり多くは語らない雲隠の隣の方がいい。
ただそう、雲隠の隣に座ることは、即ち死を意味しているだろう。彼の隣に座った場合、自らのために注がれた水にヒ素が混入していても、それはなんらおかしなことではない。
…………。
「失礼します……」
女子生徒の隣に澪標を座らせることは危険だろうと判断したため、待雪は名前も知らない彼女の隣に座った。ヒ素による死者が出るくらいなら、気まずい空気を味わった方がマシだという消去法からだった。
隣の席の彼女は随分と大人びていて、歳は澪標と同じくらいに見えた。矢絣柄の着物に紺の袴。ファッションに疎い自分ではあるが、それが日本の女学生の間で流行しているハイカラな服装なのだということに辛うじて理解が及ぶ。健康的な肌色を覗かせる首は少し太く、すくっと首筋が伸びていて気が強そうな印象があった。微かに影を浮かべる咽喉を伝い艶やかな光を照り返す鎖骨へと目線が移ってしまうのは、それは自然なことである。そうまじまじと見つめていると気付かれてしまいそうだったため、顔まではよく見れなかったものの、親しみやすさと大人の余裕を兼ね備えた淑女という言葉が実にぴったりな美しい人だった。
後からやってきた澪標は厨房でのことはなにもなかったかのように平然と振る舞い、雲隠の隣、つまり待雪の対面にあたる席に座った。少し気まずかった。四人の間で会話らしい会話がないというのもそうだが、絶賛妬み嫉み中の澪標の顔を見なければならないのは大変辛い苦行のようでもあったからだ。そういえばそうだった。どちらの隣に座ろうとも、どのみち澪標の対面には必ず座らなければならないのだ。彼女について知っていることは少ないが、だからこそより恐れが増した。
一分、二分……。澪標は笑顔のまま。雲隠は炒飯を美味しそうに頬張ったまま。そして待雪はレンゲを手の中に強く握り込んだまま、大きな変化はなく時間だけが過ぎていった。さっきまで話をしていた女子生徒は口を閉ざしてしまい、一番話をしそうな澪標も笑顔を浮かべたまま口を開かなかったから、重苦しい沈黙がただ流れていた。
そういった空気が待雪はどうにも苦手で、場の空気に耐えきれず慌てた顔で隣に座る女子生徒に話しかけた。それは随分と勇気を必要とする行動で、決断までに三分かかった。
「あのう。すみません。あなたも食べますか? なんなら、わたしのお皿で──」
空の皿と手に握り込んだレンゲを前に出して、そう提案したところ、女子生徒はキッパリとした言葉でそれを遮る。
「大丈夫。もうお昼は食べたから。あんたの料理、とっても美味しかったわよ」
「……ありがとう、ございます」
礼を言われ、素直に返事を返した。褒められるのは満更でもない気分だった。彼女が美味しいと言っていたのは、おそらく待雪が数時間前に食堂で振る舞った汁物のことだろう。
個室へ辿り着き、そして探索を始めたその直後。真っ先に食堂を見つけた待雪は雲隠らとそこで別れ、探索よりも料理をすることを選んだ。それだけが自分にできることだと思っての行動だったが、なによりこの先死んでしまうのかもしれないのなら少しでも多くの時間を料理に費やしたいと考え、厨房に立ったのである。
毒が混ぜられているのではと疑いをかけられもしたが、けっきょく用意してあった分は全てなくなってしまい、待雪と雲隠、澪標の三人はなにも食べられなかったくらいだった。それほどにおいしい料理。超高校級の料理人という肩書きに嘘偽りはない。
そして、毒うんぬんの疑いをかけられたとき、自分のことを庇ってくれた幾人かの生徒のうちの一人が、この名も知らぬ女子生徒であったことを待雪は思い出した。
「ああ──そういえばあなたは、あのときわたしを庇ってくれた」
待雪がそう言うと、女子生徒は驚いたように目をパチクリとさせて……けれどもすぐに瞳を閉じ、噴き出すように笑った。
「あっはは! おっかしい。……憶えていたの? 変なの」
「いえっ、すみません。ついさっき思い出しただけで、それまではとんと忘れてしまっていました」
「ならちょっとむかつく」
彼女は怒ったような口ぶりで不貞腐れたように頬杖をついた。優しい形をした目でじっとこちらを向いている。視線に苦手意識のある待雪は反射的に手元を見下ろし、それからようやく口を開いた。
「でも、本当にありがとうございました。本当に、助かりました」
「いいのよ、そんな、感謝しなくったって。私は当然のことをしただけ。ほら、先の震災でも似たようなことがあったし、同じようなことにならないようにね」
「先の震災……? ああ、すみません。わたしはここ数年、海外にいたので……日本のことは……」
「あら、そ。まあ、あんなこと知らない方がいいわ」
そう言ったあと、女子生徒は考え込むように黙ってから、静かな声で弁解するようにこう言った。
「きっとみんな、不安でしかたがなかったのよ。同じ寸胴に入った汁物に毒なんて入れたら、二人までしか殺しちゃいけないっていう校則を破ってしまうってことに考えが及ばないほどにね。……だから彼らのことは、恨まないであげてちょうだいよ」
それは優しい声だった。本当に、誰も彼もを心の底から心配しているような、そんな慈愛が込められた言葉であった。人によっては思わず甘えたくもなってしまうものだろう。
掲げていた皿とレンゲを机に置いて、手は膝に乗せ、待雪は真摯な態度で彼女に応えた。
「みなさん混乱しているようでしたから、仕方がないことだったと思います。それにわたしは嫌な思いなんてしてません。最後にはおいしいと言っていただけましたから、わたしはそれで満足なんです。……食事は楽しむものですから」
そんなことがあったのか、とでも言いたげな、しかしそれでいて興味のなさそうな目で(もともと感情が読みにくい表情なのでそれも定かではないが)こちらを見る雲隠の視線を感じた。それを気にしながらも待雪は自分の取皿に炒飯をよそい、今更ともいえる疑問を隣に座る女子生徒に問いかけた。
「そういえば! ……お名前を、お伺いしてもいいですか? クモガクレさんと、お話をしていたとお聞きしましたけど」
ひょっとしたら既に名前を聞いていたかもしれないが、たとえそうだとしても、待雪は彼女の名前がてんで記憶に残っていなかった。もし既に名前を聞いていたのなら失礼なことを言っているなと後になって不安がったが、どうやら自己紹介はまだだったらしく、女子生徒は口から笑みをこぼして答えた。
今朝のことといい、今この場で笑顔を崩さないあたり、彼女はいつだって気丈に振る舞うことのできる強い女性なのだろうと思った。
「あたしは
「クマガイさん、ですか」
「あんたは?」
「わ、わたしは、待雪薫です。超高校級の料理人です」
「そっか。どうりで美味しいわけね。……あたしのことは夕顔って呼んで。あたしもあんたのこと、薫って呼ぶから」
親しみやすい、陽の暖かみを持つ柔らかな笑顔を熊谷は見せた。それはバスガールという職業上見せなければならない義務的な笑顔ではなく、確かに心から出た笑顔なのだろうと直感的に感じ取った。だから待雪も、精一杯の笑顔で返す。
超高校級のバスガール。クマガイユウガオ。その名前を忘れないように、頭の中でその八文字を暗唱した。
【校則】
・生徒たちはこの学園内だけで共同生活を行いましょう。期間は一ヶ月です。
・夜十時から朝六時までを夜時間とします。夜時間は立ち入り禁止区域があるので注意しましょう。
・施設から脱しない限りは特に行動に制限は課せられません。
・仲間の誰かを殺したクロは"入学"となりますが、自分がクロだと他の生徒に知られてはいけません。
・生徒内で殺人が起きた場合は、死体発見の一定時間後に学級裁判が行われます。
・最低三名が死体を発見し、それを運営側に報告した場合のことを死体発見と呼びます。
・学級裁判前に行われる事情聴取にて、自身がクロであることを申告しなかった場合、のちにその事実が判明したとしても入学の権利は与えられません。
・学級裁判で正しいクロを指摘した場合は、クロだけが処刑されます。
・学級裁判で正しいクロを指摘できなかった場合は、クロだけが入学となり、残りの生徒は全員処刑となります。
・全生徒数が三人以下になった場合は、これ以上の続行は不可能とみなし、生き残りは入学となります。
・同一のクロが殺せるのは二人までとします。
・故意による施設の破壊は禁止とします。
きちんと説明をしていないとバトル・ロワイヤルみたいになりかねないなと思ったので、最初から学級裁判の存在を校則に載せたり、事前説明でほのめかしたりなどしました。
バトロワみたいな話もいいかもしれませんね。いずれ書くかもしれません。