大正弾丸論破   作:鹿手袋こはぜ

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002 (非)日常編

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 な、なにゆえ……なにゆえっ!

 

 

 

 1

 

 

 

 午後四時を過ぎた頃。多くの生徒は施設の探索に出払っているようで、昼頃までは賑わいを見せていた食堂も、今は既に元の静けさを取り戻していた。雲隠や澪標の二人は遅めの昼食をとったあとすぐにどこかへと行ってしまったけれど、それを寂しいとは思わなかった。

 

 待雪は施設を探索せず、あれからずっと厨房に篭って皿を洗い磨いていた。昼食時に使ったものもそうだが、棚で埃をかぶっていた食器や箸、カトラリーなども同じく洗浄することで時間を潰していたのだ。それは飲食店で修業していたころにできた習慣だった。

 けれども、時間も時間だったためにその手を止めて、待雪は厨房にある食材を物色し始めた。あと二時間もしないうちに日は暮れ、夜がやってくる。朝と昼は時間がなかったため単品しか用意することができなかったが、夜はそうでもないのだし凝ったものを作ろうと、気合を入れるために袖をまくった。料理を作るときだけは、その目に光が灯っていた。

 

 そんな折である。ふらりと食堂に入ってきた一人の女子生徒が、脇目も振らずに待雪の元へと軽い足取りで寄ってきた。どこかで見たような姿をしている。なるべく意識しないように目線を逸らすと、その女子生徒は頭に響くような明るい声で待雪に話しかけてきた。

 今、この食堂には自分とその少女以外に誰もいない。気付いていない振りができるほど待雪は肝が据わっていなかったため、嫌々顔を上げて女子生徒の様子を窺った。

 

「やーやー、お初にお目にかかります! お昼ごはん、とっても美味しかったですよ! ええはい、それはもう絶品で! 私寒いところが苦手で、どうにもこの島は合わないなあだなんて思っていたのですが、朝の汁物といい、昼の雑煮といい、暖かくもおいしい品でした! 今朝はあれこれお騒がせしてしまいましたが、その節はどうもというところで、一つお話し良いですかあ?」

(……面倒くさそうな人だなあ)

 

 歳は自分と同じくらいに見えた。さっぱりとした前髪はカチューシャで留められていて、背の辺りまで伸びた長い後ろ髪はお団子を繋げたような三つ編みに結われてあった。髪を結うのは得意ではないようで、所々形が不揃いだったり大きさが違っていたりして、見た目相応の子供らしさを感じた。眼鏡のサイズが合っていないのだろうか。頻繁にブリッジの部分を押し上げている様子が見て取れた。

 

「確かあなた……今日の朝、カムクラさんに質問をしていた……」

「ええはいそうです、そうですよう! そちらのほうで憶えてらっしゃったのですねっ!」

 

 その少女は牛乳瓶の底のように分厚いレンズが嵌め込まれた眼鏡を中指で押し上げて、感嘆の声をあげた。嬉しく感じているのではなく、単にいつもこの調子なのだろうと待雪は思った。

 

「えっとですね、今、皆さんにお話を聞いていまして──ああそうそう、自己紹介が遅れましたっ。私は壱目(イツメ)(ホタル)といいます! 超高校級の新聞部だなんて、いやあ照れちゃいますよねー! 美少女新聞部だなんて肩書をつけてもらっても構わないのですが、それはいささか自己主張が激しすぎるというものでしょうか? まあ、今の時代、主張の激しい大正デモクラシーだって控え気味ですしねえ。これからは奥ゆかしい大和撫子な新聞部とやらになるべきでしょうか」

「は、はあ……?」

「まあ超高校級のなんたらというのに関しましては、ようやく私の実力を世間が認めたということなんでしょうかね? 少し遅すぎたという感じも否めませんし、希望ヶ峰何某とやらの無名な組織に注目されたところで……と思わないわけもないですが、まあ良いでしょう! もともと、世間に名前を知らしめたいがために記事を書いてる訳ではありませんから! そう、記事といえばですね。聞きましたか? なんとこの島、要請さえ通れば新聞や雑誌を届けてもらえるそうですよ? とはいえ一度船を経由するので、発売日から二、三日遅れてしまうそうですけれど」

 

 聞いてもいないことを壱目は饒舌に語った。

 正直、待雪はこういう人種が苦手だった。なぜなら、一緒に話をしているはずなのに、なんだか置いてけぼりにされているような気分になるのだ。

 それに大抵こういう人間は厚かましい。

 

「あなたは?」

「へ?」

「ええっと、だから、あなたのお名前はとお尋ねしているのですよ。名乗られたならば己の名を名乗る。名刺を差し出されたのならば、それよりも低い位置に名刺を差し出す。いかんともせん、古臭くとも守ればそれで良いだけな社会の常識ですよ?」

「ああ──わたしは、待雪薫っていいます。超高校級の料理人です」

「なるほど料理人さんですかっ。はっはあ、どうりでご飯が美味しいわけです! 普段ならば、ああそれはもう出された料理にいちゃもんの一つや二つくらいは出すのですが……さすがの私も文句なしでした!」

 

 壱目は得意げにそう語った。彼女は褒めているつもりなのだろう。悪意のない笑顔が嫌味のように眩しかった。

 対して待雪は愛想笑いをするのが精一杯で、できるのなら誰かに助けを求めたい気持ちだった。だがいま食堂には待雪と壱目の二人しかいないので、それは叶いそうにない願いだった。

 変な客が来たのだと考えれば、少しは気が和らぐかと気持ちを切り替える。

 

「喜んでいただけたようで、なによりです……」

 

 店で使うようなテンプレートの返しをすると、壱目は薄い胸を大きく膨らませて得意げに鼻を鳴らした。傲慢なその態度は、稀に見る悪意を持たない迷惑客そのものだった。

 悪意のない悪意ほど、厄介なものはない。ふと過去にあった面倒な思い出ばかりが想起させられて、自分でも気付かないうちに表情筋が引き攣っていた。

 

「ところで、その、お話って……?」

「ああそうそう、そうでした! 私、待雪さんにお話がありまして……」

 

 そう言うと、壱目は変わらぬ笑顔でこんなことを言った。

 

「私が人を殺すって言ったら、どうしますか?」

 

 人を殺す。その言葉の意味を──特にこの島においては特別な意味を持つその言葉を──まるで彼女は挨拶をするみたいに躊躇なく懐から取り出した。

 

「! それって、どういう……」

 

 いつになく険しい顔をして、待雪は訊いた。すると壱目は、冗談でも言うみたいに笑ってこう返した。

 

「仮定のお話ですよう。ちょっとした実験みたいなものです! そんな、かたあい顔しないでください! 本当に人を殺すわけがないじゃないですか、そんな、おっかない!」

 

 壱目の真意を待雪は測りかねた。今朝の出来事を受け、このようなことを冗談だとしてもまっとうな神経で言えるはずがない。あるいは、彼女は既に狂っているのだろうか?

 

「まあそりゃあ、この質問をすることの意味くらい、自分でだって分かっていますよう。でもですね、関係性を築いている大事な時期に、不信感を募らせるような質問を意味もなく全員にするわけないじゃないですか!」

 

 手元のメモ帳に視線を落としてから、壱目は言葉を続けた。

 

「それで? 回答は?」

 

 彼女の小さな手には、新しい鉛筆が握られていた。少し先が丸くなっていて、既に何かを書いていたらしかった。

 

「えっと、その」

 

 待雪はどう答えるべきか図りかねた。正解らしい正解が見つからなかったのだ。おそらくこれは、なんらかの心理実験だろうと察しはつくが、その意図を汲み取ることは困難を極めた。

 もし誰かが人を殺すというのなら、それは止めるべきだという倫理観はある。だが、それが正しいかと訊かれると、首を縦に振ることはできない。

 

「わたしは」

 

 それだけ言って、言葉に詰まる。本当にその意見は正しいのかと、誰かが囁いたような気がして。

 

「私は?」

「……わたしは、止めはしません」

「ほう。……どうしてそのような答えに?」

 

 壱目はメモを一瞥すると、さらさらと手だけを動かして何かを書き込んでいた。まるで全てわかっているのだとでも言いたいような、そんな目でこちらを見てくるのがどうにも好かなかった。

 

「だって、その人には他人を殺さなきゃいけない理由があるわけじゃないですか。人殺しという重い決断をするのには、幾度もの苦悶や葛藤があったはずです」

 

 待雪は苦しそうに口を歪めて話しました。

 

「そんなに思い悩んで、ようやく決断を下すことができた人に、わたしは軽々と『止めろ』だなんて言えません」

「それじゃあ、待雪さんは人殺しを止めないのですか?」

 

 険しいような、興味がないような、どうにも考えていることの分からない笑顔で壱目は結論を促した。

 

「……はい、そうなります」

「ふむふむ……なるほどう……、はい! ご協力ありがとうございます! とっても良い情報が得られました!」

 

 外まで響くような甲高い声で言うと、髪を振り回すように上半身を曲げた礼をして、それからずり下がった眼鏡の位置を直していた。

 どうにも壱目は苦手だと、このとき待雪は改めて自分の心持を認識した。

 ただまあ、夜も近い。料理にまでその気持ちを引っ張る必要はないのだからと、待雪は厨房に戻ることにした。

 壱目は壱目で、食堂の椅子に腰掛けていた。

 

(帰らないのかなあ……)

 

 せめて立ってさえいればどこかへ行きそうなものの、座られてしまうと雲行きが怪しいように感じる。こういったとき、悪い予感というものほど的中するもので、壱目は「疲れましたー足がもう棒ですよ、棒」などとほざきながら頭に被っていた帽子を机の上に置き、メモ帳をパラパラとめくりながら寛ぎだした。

 

(ええ……あうぅ……。イ、イツメさん……)

 

 待雪の悲痛な思いは誰にも届くことがなく、彼女は沈痛な思いを抱えて皿を持つ手に目線を落とした。

 

「待雪さーん! 今日の晩ご飯ってなんですか!」

「……今日は白米と、お野菜を煮たものと、あとは冷蔵庫にお魚があったのでそれを揚げてみようかなと」

「なるほど! おいしそうですねっ。汁物や米、魚などは日本食の基本とも言えます。けっこう和食にうるさい私ですが、今朝食べた汁物がとてもとても美味しかったですから……期待大! ですっ」

「はあ……それは、どうも」

「なあに辛気くさい顔してるんですか、元気出さなきゃいけませんよう!」

 

 励まされているのだろうか。頭が痛い。

 

「ご飯はいつ頃になりそうですか?」

 

 なんだ……? 催促しているのか……?

 呆気にとられて、待雪は皿を落としかけた。動揺の色を見せないようにかぶりを振ってから、言葉を返す。

 

「六時になればできると思いますから、その時間になったらまたいらっしゃって──」

「──待ちますねっ! ここで!」

(な、なにゆえ……なにゆえっ!)

 

 つい、手に持っていた皿を流し台に落としてしまった。幸いそれは銀食器であったため割れるようなことはなかったが、しかし待雪は酷く動揺していた。

 

(わたしは一体どこで間違えたんだろう?)

 

 間違いというのなら、そもそも壱目に料理を振る舞ったこと自体が間違いだった。そしてそれは今更取り返しようのないことで、また時間を戻せたところで待雪にはどうしようもないことだった。たとえ時をやり直せる機会があったとしても、愚直にも同じことを繰り返していただろうからだ。誰が相手であっても、相手が求めるのならばそれに応えたいと思ってしまうのだから。

 

「待雪さーん」

「はっ、はいはいっ」

 

 ああいう相手に下手に出てはいけないと分かってはいるが、しかしお客だと思って義務的に対応しなければどうにかなってしまいそうだった。

 厨房と食堂とは料理の受け渡しを行うために一面の壁が取り払われていて、そこから顔を出して受け答えを行うことができる。本当なら、壱目の元にまで行って話を聞くのが良いのかもしれないが、そうするのにはトランクの重さが憂鬱だった。なので待雪はカウンター席から少しだけ顔を出して、反応を示した。

 

「どうかしましたか?」

「いえっ、どうかというわけじゃないんですけど、その……ちょっとしたものを作ってくれませんか? あちこち動き回っていたからか、お腹が減ってしまいまして……」

 

 てへ、なんて声が聞こえてきそうな顔をして、壱目はそう言った。

 料理をすること自体に問題はないのだが、しかしこの女子生徒の頼みともなると、なんだか嫌気が差すのだった。彼女が悪いことをしたわけではないし、それに恩を売っているのだと考えれば待雪にだって損はない──ただ、壱目個人に対して何かをするという状況を待雪は嫌った。空返事を返したのち壱目からは死角となる裏に回って、深いため息をついた。

 この島に来てから、やたらとため息が増えた気がする。そのうち白髪が生えてくるんじゃないだろうかと、背中に流れる三つ編みを撫でた。

 

 しかしなにかと言われてそう簡単になにかを出せるわけじゃない。や、なに。既にいくつものレシピが頭の中に浮かんでいて、そしてそれは今ある食材でも作ることが可能なものであり、壱目だってきっと満足してくれるだろう。時間を考慮すれば調理にかけられる手間は限られてくるが、それでも絶品と呼べる料理を提供できる自信が待雪にはある。

 ここでの生活期間は三十日間だと誰かが言っていたけれど、その程度の期間なら十六人それぞれに対し日替わりで料理を振る舞うことだって、待雪にしてみれば造作もないことだ。中華料理やフランス料理、イタリア料理にジャンクフード、それから和食など……彼女に作れない料理などないだろうという評価は、なんの外連味もない等しく正しいものだ。

 世間知らずな待雪は、料理に関していえば膨大な知識とそれを形にする技量を習得していた。

 

 ただ、今ここで一つ料理を出し壱目が喜んだとして、それじゃあ他の人たちはどうなるのだろうかという不安が脳裏をよぎる。この施設には自分を除いて十五人の生徒がいて、そのほとんどはきっと、自分の料理を好いてくれているだろうことを待雪はわかっていた。

 だからこそ悩んだのだ。はたして壱目だけに料理を振る舞っても良いものだろうかと。格差が生まれてしまうのではというのが、待雪にとって憂慮すべきことだった。扱いによる奉仕の差──かつて奉仕に徹したがために苦い体験をした待雪にとって、それは考えずにはいられない懸念材料だ。

 とはいえ、要は壱目個人のために作ろうとしなければ良いだけなのだ。たくさん作ることができて万人受けするものといえば、やはり汁物だ。

 

(そうだ……どうせ晩ご飯で出すんだし、いま作っちゃえばいいんだ……)

 

 その閃きがなんとも妙案のように思えて、壱目により下げられていた士気を取り戻した。

 厨房に置いてある食材は風味や食感が劣化していたり質の悪いものも多くあった。しかしだからといって食材の良し悪しに左右されるような──ましてや料理の不出来の理由を食材に押し付けるような愚かな料理人ではなかった。

 超高校級。しかしたかだか高校級というのであれば、待雪の場合、料理人としての才能は間違いなく高校級を超えていることだろう。彼女はその特異性故に料理界に革命は起こせないだろうが、しかし間違いなく歴史に名を刻む料理人であり、至上の料理人であるのだから。

 ただそう、彼女が超高校級に甘んじなければならない原因があるとすれば──それは彼女の人間性だろう。

 料理人とは、ただ料理を作れば良いのではない。ときにはお客とのコミュニケーションも大切なのだ。客がどのような味付けを求めているのか、待雪にはまるで手に取るようにその心を理解することができるが、しかしこと対人関係において彼女は問題点が多い。

 それを改善することは難しいように思えた。既に彼女は彼女として、一人の人間として成り立っている──それを変えようとするのは、歪に折れ曲がってしまった針金を元の真っ直ぐなものに直そうとするような無謀なことだった。

 

「ええー、汁物は今朝食べましたよう。いえいえ、あれは何度だって食べられるような味でしたけどね? おかわりもしちゃいましたし。……でも私、もっと違うものが食べてみたいんですよ。お肉とかないんですか? おにく!」

 

 なんだ……この人は……。面の皮が厚すぎるだろう……。

 

「お、お肉、ですか? 汁物じゃなくって? じゃ、じゃあ、お肉入りの汁物などはどうでしょうか」

「あーだめですね。お肉単体がいいです」

「…………」

 

 なるほど、厚かましい。さらに強情だ。

 記者という職業は根気強さと無神経さこそ大切だと聞くが、こう私生活でもそうである必要はないだろうにと眉根を寄せた。

 

「ええっと、鶏肉ならありますけれど。皮を焼いて出しましょうか」

「それでいいですよ。美味しそうですね!」

 

 待雪はうんざりとした気分のまま厨房の奥へと姿を隠した。冷蔵庫にあった鶏肉を取り出し、それを清潔なまな板の上に乗せ、いつもよりも力のこもった手で皮を剥いだ。

 心は既にポッキリと折れてしまったというか。折れてしまう前に、抵抗する意思をなくしたというか。

 

 レシピ、と呼べるほどのものではないが、待雪は鶏皮を焼いて出そうかと考えていた。余った肉の部分は汁物に入れようという腹づもりだった。冷蔵庫はそう大きなものではないから生鮮食品は貴重だったが、いつ死ぬか分からないコロシアイという環境に身を置いている以上、出し惜しむような真似はよろしくないだろう。だから貴重な鶏肉であれ惜しげもなく使う。たとえそれが壱目に対してでもだ。

 

 先ほどまで思考を占拠していた懸念というものが、完全に取り払われたわけではなかったが、しかしそれ以上に壱目との会話が苦痛だった。嫌いというか、苦手というか。食堂で呑気にくつろいでいる彼女の後ろ姿を思い浮かべながらため息をついた。

 

 油を引いた鉄板に弱火を当て、処理を済ませた鶏皮を敷き、それを上から押さえつけた。こうすることで、鶏皮が煎餅のようにかりかりとした食感になるのだということを、待雪は知っていた。お酒のアテになると聞いたことがあるものの、それは未成年の彼女にはまだ分からない味覚だ。

 ビールとやらは苦くて、好んで飲めないだろうなと待雪には感じられた。お酒を嗜む感性はあったけれど、酒を飲むと感性が鈍ると感じ、彼女は酒や煙草を嫌厭している。それもあってだろうか、おつまみとやらは作れるが、それを美味しく食べるためのお酒を飲むことは滅多になかった。

 そういえば、この食堂にもお酒が置いてあったな──と、待雪は今朝厨房を見て回ったときのことを思い出す。孤島だと水の調達も難しいのだろう、厨房には保存の効く酒類が多く保管されていた。様々な種類が取り揃えられており、日本酒もそうだが、西洋の酒まで置かれてあった。年代物こそなかったが、どれも値の張るものばかりで、庶民的な目線から言わせてみれば十分に高級と言えるものばかりだった。土を掘って作られた暗室に置かれていて保存状態も良く、酒の味を知らない未成年にだって、美味しく飲むことは容易いだろう。

 どうせ死ぬのなら、この施設にいるみんなに酒の美味しさを伝えて、束の間の安楽でもいいから目の前にある不安や絶望を忘れさせてあげることも、きっとそれも優しさだろうか。

 

 油が弾ける音と共に、鶏の油の良い匂いが食堂に広がっていった。まだ焼けていない面を焼くために裏返すと匂いは広がり、より食欲をそそる。

 美味しそうな匂いを嗅いで機嫌を良くしたのか、壱目は楽しげに肩を揺らしていた。鼻歌でも聞こえてきそうな調子だった。

 ちなみに鶏皮は二人分焼いてある。待雪も少し小腹が空いていたのだ。夕飯を作らなければならない頃合いだが、今朝からずっと料理を作っていたのだから、少しくらいは休まないと勘が鈍る。

 

 自身の料理の腕前に、待雪は珍しく自信というものを持っていた。力がある者はその力を自覚している必要があると言われ、待雪は料理に関してだけは胸を張れるような自信を持つようになったのだ。だから、普段は怯えた態度を見せる彼女も、厨房に立てばいくらかは逞しい後ろ姿を見せるようになる。そこだけが自分の輝ける場所なのだと、そう思っていたからだ。

 

(料理はいい。わたしが唯一、人様を幸せにできる方法だ)

 

 人と食卓を囲むことも好きだった。食べ歩きなどもいい。特に冬、親しい仲と鍋をつつくのは暖かい。

 

(……明日は鍋なんてどうだろう。たしか土鍋がいくつか置いてあったはずだし、それなら鶏肉も使える)

 

 そんなふうに献立を考えていると、食欲をそそる鶏油の匂いにつられてか、一人の女子生徒が食堂へと訪れた。

 

「あら、いい匂いね。鶏のいい匂い」

 

 この声は壱目のものではなかった。口調からしても、それは別人である。振り返るように食堂の方を覗いてみると、全身を白い洋服だけで着飾った同年代と思われる女子生徒が、食堂の入り口に立っていた。

 白くタイトなコートに、これまた白く裾の長いスカートを着用している。足先から頭のてっぺんまで白く、白でない部分を探そうとして見つかるのは射干玉色の綺麗な長髪だけだった。各所で輝く金具はすべて銀色で、ある種の芸術を思わせる美しい格好である。パリの大通りにある一流の呉服屋のショーケースにそのまま飾られていてもなんらおかしくないような、そんな輝かしい美を振りまく少女は、かつかつと白いブーツの靴底を鳴らしてカウンターまでやってきた。

 そこから身を乗り出すようにして頬杖をつき、怪しげな笑みを浮かべたあと、少女は待雪に尋ねた。弄ぶように編まれた横髪が揺れる光景は、ある種のサディスティックさを孕んでいる。

 

「この匂いは、鶏皮を焼いているのね。……私の分もあるかしら?」

「……あるにはありますよ。余分に作ってありますから」

「そう。運がいいのね、私」

 

 歌うような綺麗な声で少女は待雪に囁きかけた。背筋が凍りついてしまいそうなくらい穏やかでない心境から、思わず少女から目を逸らす。

 

「余りものというのはあまり気が乗らないけれど──アナタの料理はとても美味しいかったから、期待も込めて不問にしてあげる」

「はあ……? ありがとう、ございます」

 

 また癖の強い人が来たと、待雪は体がぐんと重くなるのを感じた。澪標や壱目もそうだが、超高校級というのは癖のある人が多いのだろうか。

 心が休まるのを感じない待雪は、自分もその超高校級の一人なのだというのを思い出して、憂鬱な気分になった。掴みづらい性格ではあるものの、しかしうんともすんとも言わない雲隠がなんだか懐かしいように感じられた。

 

 あれこれ考えるからいけないのだと、食堂にいる二人のことは忘れ夕飯の準備に没頭しようとしたのだが、なぜだか全身白い洋服の少女はカウンターから離れようとしなかった。

 なぜだろうと気にかけはしたが、しかしその疑問を口に出すことはない。関わりたくないというか、連鎖的に壱目とも会話をしなければならないような気がしたのだ。壱目なら、少女と話をしている最中に割り込んできかねない。

 しかしそんな待雪の思いとは裏腹に、全身白の女子生徒は冷徹な瞳をこちらに向けたまま、静かに口を開いた。

 

「そういえば──」

 

 切り揃えただけの長い前髪の間から疎ましげな目で少女を見つめた。鶏皮の焼き加減はもう頃合いだった。

 

「アナタの名前、まだ聞いていなかったわよね。……私の自己紹介は必要?」

「……お願いします」

 

 謙遜するように言って、火を止め、鉄板から鶏皮を剥がす。本当は自分の分を作っていたのだけれど、それを少女に与えることにした。食べることよりも、人が食べているのを見るのが待雪にとっては喜びであったから、それは自然な結果だった。

 

「わたしは待雪薫です。超高校級の料理人という肩書きを与えられました」

「そう、どうりで。様々な国で一流と呼ばれるシェフが作った料理を食べてきたけれど、そのどれよりもあの汁物は美味しかったもの」

 

 素っ気ない物言いで、だけれども確かな気持ちが込められた言葉で少女は称賛の声を待雪に与えた。それはまるで上の者が下の者に褒美を取らせるのは当然だというような、そんな上下関係に似ていたが、しかし待雪は嫌な気分はしなかった。なぜなら少女のその気高い雰囲気は、高級レストランに来るような高貴な立場の人間のものとよく似ていたからだ。

 下に見ることはあっても、それは侮辱や嘲笑によるものではない。彼らはいつだって敬意を忘れることなく料理人やウェイターと接していた。初対面の自分に対し、少女は目上の立場から敬意を抱いてくれているのだということに、待雪は自然と気がついた。

 

「私の名前は東屋(アズマヤ)エリカ。超高校級のファッションデザイナー。……都心の方に、東屋という百貨店があるのはご存知かしら? 東京に行く機会があれば一度行ってみるといいわ。私が作った洋服を一番多く取り扱っているのは、日本ではあそこだもの」

「ああ……東屋百貨店には、料理の勉強で一度行ったことがあります。呉服屋にも、立ち寄ったことがあります」

「あらそう、意外な接点ね」

 

 特に目立った反応は見せず、さもそれが当然だとでも言いたげな態度で言葉を返せば、東屋は品定めをするような目で待雪のことを見ていた。

 待雪は目線を気にしながらも、焼き上がった鶏皮を縦長の皿に乗せ二組の箸と共に机へと運んだ。

 東屋が次に口を開いたのは、席についてからだった。東屋の後ろには壱目が座っていた。

 

「……アナタ、素材は良いのに、格好や立ち振る舞いが泥臭い田舎娘って感じがして、なんだか残念ね」

「?!」

「残念って言っているの。……料理は上手だし、食堂や厨房の様子からしてアナタ、きっと家事だってできるでしょう。顔も悪くなくって肌もキレイなのだから、薄く化粧をすれば十分良く見えるわ。髪だって手入れが行き届いていて、キレイなものだもの」

「ははあ……」

「それに、なんだかよく分からないけれど、アナタからはもっと強い魅力を感じるの。……本当に、もったいない。私の手にかかれば、きっと引く手数多よ」

「……わたしは、料理ができればそれで十分なので」

「ダメよ」

 

 否定の言葉をぴしゃりと言われた。ぴしゃりと物を言われてしまうと、反論はしづらかった。

 なんと言っていいか言葉を探っている間、東屋は顎に手を当てながら考え事にふけっているようだった。そんな二人を脇目に、壱目は美味しそうに鶏皮を食べていた。

 数度、視線が交ったかと思うと、東屋は大きく息を吐いてこう告げた。

 

「よし、決めたわ。もしもお互い生きて島を出ることができたのなら、私がアナタをコーディネートしてあげましょう。アナタに似合う洋服を、私が手ずからデザインしてあげるわ」

「いや……いいですよ、そんな。作っていただけるのはありがたいですけど、多分、着る機会はないと思うので」

 

 眉を八の字に曲げて、待雪は困ったように答えた。超高校級のファッションデザイナーと呼ばれる彼女にそうまで言わせる魅力が自分にあるようには思えなかった。実際、そんな兆候を今までの人生で感じたことなんてない。

 それになにより、もったいない。お洒落に関心がなく、年がら年中無休で厨房に立ち続けることが至福である待雪に、彼女ほど才気あふれる人物の時間をとらせることは無駄だと謙遜しているのだ。

 だから待雪はなんとかして断りたいと考えたが、東屋は東屋で引き下がろうとはしなかった。

 

「なあに? 私が決めたことに逆らうつもり?」

「そういうわけじゃないんです……って、もう決まったことなんですか?!」

「ええそうよ。これはもう決まったこと。決定事項」

 

 自分の判断を信じて疑わない、傲慢な口振りだった。

 

「っ、で、ですけど。──わたしは、この島から出たら、すぐに海外に飛ぼうかと考えていますから。日本にはもう、用はないですし」

「……あら、そうなの。てっきり希望ヶ峰に入学するものかと思っていたのだけれど」

「? どういうことですか? ……希望ヶ峰学園って、あれ、嘘じゃなかったんですか」

 

 希望ヶ峰学園に向かっているはずが、いつのまにか船に乗せられて、その挙句に孤島でコロシアイをさせられている待雪にとって、希望ヶ峰学園というのはまやかしであり、釣りに使う擬似餌のようなものかとばかり考えていた。がしかしどうやら真実はそうではないらしいということを知る。

 

「そもそも、何人か足りないって時点でお察しよね。私は不満しかないんだけれど──ええ、知らないなら説明してあげる。懇切丁寧に」

「お、お願いします」

 

 縮こまった待雪の礼を見て、東屋は意に介さず話を続けた。

 

「学生手帳は見た? そこに全部書いてあったと思うんだけど……ほら、校則の欄。島から出るための条件が書いてあるところをご覧なさい。そこに()()と書かれてあるでしょう? きっと、生き残りは、希望ヶ峰に入学させられるんじゃないかしら。──身勝手な話よねえ」

 

 東屋は肩を竦めて、不満そうに頭を振った。

 入学。それが意味するのは、文字通り希望ヶ峰学園への入学ということだろう。

 待雪の心は揺れ動く。てっきり無くしたとばかり思っていたものが、思わぬ形で見つかった。

 

「ええーっ! そうだったんですかあ!」

 と東屋の後ろから甲高い声が上がる。驚きの声をあげたのは壱目だった。お前は関係ないだろう。

 

 

 

 2

 

 

 

 それは夜時間よりも前のこと。

 待雪を除いた十五人は、険しい面持ちで体育館に集まっていた。夜という時間帯もあるのだろうが、それ以上に今朝のことを思い出していたのかもしれない。

 

 コロシアイ生活。

 

 否が応でもその言葉は思い起こされる。どうしたってそれは、忘れることのできない呪詛のようなものだった。

 なにも本気で彼らは殺し合うことについて考えてはいない。自分はおかしなことに巻き込まれてしまっただけで、いつか誰かが助けに来てくれるだろうと──そんな希望的観測を抱いていた。同時に、自分は死ぬはずがないと信じて疑わなかった。死ぬことなど、考えてさえいない。

 それが未熟さからくる甘さだというのなら、そうなのだろうか。誰だってこんな状況で自分が死ぬのを想像するのは──特に、超高校級と呼ばれるまでに未来に恋焦がれた彼らに死を想えだなんていうのは、無理があるだろう。

 うら若き青少年らにとって、未来とはこれからのこと。少なくとも、こんな冷たく寂しい孤島なんかで人生を終えるつもりなどさらさらないのだから。

 遅れてやってきた待雪は、息を荒げながら体育館へと飛び込んだ。首に繋がれたトランクのせいか、まるで何十キロも走ったあとのように激しい息切れを起こしていて、覚束ない足取りで頭を下げていた。

 まだ始まってはいないようだと、汗の浮かんだ顔を安堵したように緩めて、抱えていたトランクは出入り口のところで下ろしてから、へたりと壁にもたれかかった。

 ……それを見かねてか、先に体育館にいた澪標が心配するように待雪へ声をかけた。

 

「薫さん大丈夫? 汗もすごいし、息も荒くって……どうしたの? そんなに急いで」

「いえ……っ、ぜはぁっ、ちょっと……っ」

 

 胸を激しく上下させて苦しそうに喘ぐ待雪の様子を見かねてか、澪標は太腿のガーターベルトに刺してあった生徒手帳を洗練された手付きで取り出し、それで待雪の首元の辺りを煽ぎながら聞いていて落ち着くような優しい声で慮った。

 

「ゆっくりで構わないのよ、ゆっくりで。……まだ、始まってはいないようだから」

 

 というのも、だ。待雪含め、彼ら十六人がどうして体育館に集まっているのかといえば、それはトランクについてだった。

 トランクの中には機械が収められており、その動力源は電気である。最新鋭の技術が注ぎ込まれているとはいえ、バッテリーは一日半持つかどうかが限度であるらしいのだ。そのため、動力源が途絶えぬよう、日に一度バッテリーを交換する必要があるのだという。夜時間前というのは、ちょうどその交換を行う時間帯だった。

 待雪の息が落ち着く頃には夜時間を迎えており、軍人らしき男の説明のもと、体育館の中では列ができていた。二人はその最後尾に並んだ。列の先は体育館奥にある個室まで伸びていて、どうやら別室で作業を行うようだった。

 

「……そういえば、クモガクレさんは一緒じゃないんですか?」

 

 ふと抱いた疑問を口にした。よく見れば、澪標のそばに雲隠はいなかった。

 

「彼ね。一緒にいたいって気持ちはあるけど、仕事があるもの」

「? 仕事、ですか?」

「ええそう。彼は()()()()なのだから、きちんとこなしてくれるはずだわ」

 

 バッテリー交換の手伝いでもしているのだろうか。雲隠が超高校級の機械技師であることを鑑みても、それはあり得そうな話だったが……ただ、いま彼女が並んでいる列に目を向けると、前の方で、列に並んでいる雲隠の後ろ姿が見えた。手伝うなら先に部屋にいるだろうから、どうやら予想は外れたらしい。

 

「仕事……なんの仕事ですか?」

「ないしょ」

 

 澪標は口に指先を当てながらウインクして見せた。それがお茶目なつもりなのかはさておき、待雪は内緒のわけを理解したのか、すぐに口をつぐんだ。

 順番を迎えた雲隠が部屋の奥へと消えていく。そうして、しばらくしてから出てきた雲隠は、「外で待っています」とだけ澪標に告げて、体育館を後にした。

 

 バッテリー交換を終えた二人は、体育館前で合流した雲隠に連れられて、彼の個室に訪れた。

 集まる場所がそこである必要はなかったが、澪標が強くその場所を希望したが故の結果だった。

 

「まだ荷解きもしていないの?」

 

 部屋に入るなり、ベッドの上で打ち捨てられたように沈んでいる旅行鞄を見て澪標はそう言った。

 

「ええ、まあ……工具と、着替えしか入ってないですし」

 

 澪標が懐疑的に旅行鞄を持ち上げると、工具特有のごとりという鈍重な音だけが空しく聞こえてきた。

 

「もっと他に持たせませんでしたっけ?!」

 

 驚きのあまり敬語で叫んだ澪標は、焦りを感じさせる手つきで旅行鞄を開き、中を覗いた。部屋の玄関付近で立っていた待雪からもその中身を見ることができた。その中身はまるですっからかんで、本当に着替えと工具しか入っていないようだった。

 

「はあ……結構、悩みに悩んで選んだ洋服とか、君の好きそうな洋菓子とかも入れておいたのだけれど……捨てちゃった?」

「? ああ、あの甘そうなやつ」

「……まあ、帰ったら買い直せばいいのだけれど……はあ……」

 

 遅くても一ヶ月後かあ。と澪標は落胆した様子を隠すこともせず、眉間のあたりに手をやりながら雲隠の方を疎ましげに見つめていた。ただ、どうにも憎みきれないらしく、すぐに目線を外して、ベッドの上に置いてあった旅行鞄を雑にどけ、そこにどかりと腰を下ろした。

 澪標のちょっとした不機嫌さや、雲隠の鈍感な態度からして、あまりいい空気とはいえない。ただでさえ気まずさを感じていたというのに、待雪は既に部屋に戻りたい気持ちでいっぱいだった。その証拠に、既に扉は閉まっているというのに、いつまで経っても玄関から内側には入ろうとしない。バッテリーを取り替えたばかりのトランクも、地面に下ろそうとはしなかった。

 震えた声で、恐る恐る待雪は問う。

 

「わたしがいても、良いものなのでしょうか?」

「……あら。さっきからどうにも様子が変だと思っていたけれど、そんなことを気にしていたの? 構わないわよ、だって私たち、お友達でしょ?」

 

 と言ったのは澪標だ。それが当然だとでも言いたげで、なにを今更、と呆れているようでもあった。

 

「立竝さんが良いっていうなら、僕は構わないけれど。部屋から追い出す理由もないし」

 

 今朝のうちは待雪に対して敬語を使っていた雲隠だが、彼女の料理を食べて少し打ち解けたのか、今は砕けた言葉遣いになっていた。それが本来の彼なのだろうか。とはいえその無機質な表情は今朝からなにも変わっていない。

 待雪は相変わらずの敬語であったが、しかしそれが彼女にとってのフォーマルスタイルなのだから、誰も文句は言わなかった。

 

「夜も遅いわ。ききょーくん、報告を」

 

 ぱしんと手を叩いて澪標は言った。それは雲隠に宛てた言葉で、彼は静かに頷いた。

 報告、というのはずばりこのトランクについてだ。バッテリーを交換するためには、必然的にトランクを開く必要があり、その際に内部機構を覗けないだろうかというのが澪標の目論みであった。

 つまり仕事というのは、内部機構について知ることである。超高校級の機械技師という肩書を与えられている彼のことだ、少なくとも待雪のような素人よりは多くの情報を得ているに違いない。

 事実そうだった。彼は多くのことを如実に語った。

 

「ものすごく小型化された機械が、いくつか詰め込まれているようです。爆弾としてだけでなく、他にも様々な働きを持っているだろうと思われます。少し見ただけなので確かなことは言い切れませんが、おそらく信号を発信する、ないしは受信するための機構が備わっているように見えました」

 

 トランクを一瞥してから、雲隠は続けた。

 

「バッテリー交換の際は片側だけしか開かれなかったというのもそうなんですけど、なにより、緩衝材などで隠れていて、多くは見ることのできない状態でした。なので分からないところは多いんですけど」

 

 それを聞いて、澪標は深く首をもたげさせた。雲隠の話から得た情報をかみ砕き、精査して、自らの知識や経験に当てはめ馴染ませているようだ。

 令嬢、というからには、少なからず高等な教育を受けているのだろう。彼女の高貴な立ち振る舞いなどもそうだ。ああいうものは、自然と身につくものではない。おそらくは帝王学のようなものも学んでいることだろう。少なくともこの場にいる誰よりも賢い彼女の知恵に、今は頼る他ない。

 

「ききょーくん。あなたが持っている道具でトランクを開けられないの? もしくは、技術室の設備を使ってもいいのだけれど。そうすれば詳しく中を調べられるじゃない」

 

 技術室。そんな部屋があったのかと空目した。

 

「それは無理だと思います。彼らは特殊な器具を使っていました──見たところ、あれは磁力が作用しているような鍵なんじゃないでしょうか」

「無理やりこじ開けたりできないの?」

「できなくはないですけど、それだとバッテリー交換のときに指摘されると思いますよ」

 

 開けるなら鍵を作らないといけません。雲隠は冷たさすらも感じさせないような抑揚のない声でそう言った。

 

「鍵、かあ。盗むというのは現実的じゃないものね。……ねえ、ききょーくん。あなたなら、作ろうと思えば作れないわけじゃないんでしょう?」

 

 不敵な笑みを浮かべながら、しかし彼を信頼しきった真っ直ぐな瞳で澪標は訊いた。雲隠はわけもないように首を縦に振る。

 

「時間はかかりますけどね」

 

 その言葉を聞いて澪標は自慢げに微笑んだ。きっと嬉しいのだろう。彼に頼り甲斐があることに、喜んでいるのだ。

 

 時間というのがどれほどの長さなのかは、待雪にとっては不明だった。それが一日後なのか、一週間後なのか、はたまた三十日後なのか──いずれにせよ、解決策の有無に問わず、安息とはほど遠いのだということを知った。

 そもそもトランクを外すことができたとして、それで死なないというわけじゃない。トランクという枷があろうとなかろうと、海という檻に囚われた以上、逃げ出すことなど不可能なのだ。

 だからトランクを外せるかもしれないという話を聞いたところで生きた心地なんてしなかった。ましてや、生き延びた心地なんてのも、するはずはなかった。もとよりそうなのだから、こんな鉄屑を首に巻いたところで、ただ息苦しさが増すばかりだったというのもあるのかもしれないが。

 

 ひょっとするとこの首を締め付ける鉄具に、待雪はそう抵抗は感じていないのかもしれなかった。

 死体の胸元にナイフが刺さったところで誰も死なないように。待雪もまた、死ねないのだ。


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