大正弾丸論破   作:鹿手袋こはぜ

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004 (非)日常編

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 一緒にお風呂に行きましょう、待雪。

 

 

 

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 壁にかけられた一枚の貼り紙をようやく見つけると、待雪はそれを随分と不安そうな表情でじっと見つめ始めた。

 玄関ホールは広く底冷えしていて、あまり長居はしたくない。“技術室”の三文字を見つけると、すぐにその場を離れ目的の場所へ体を向けた。

 トランクとはまた別に、彼女の傍にはバスケットが抱えられていて、その中には紅茶の入った魔法瓶とサンドイッチがあった。

 

 待雪は、雲隠と澪標の二人がいるだろう技術室を目指していたのだが、施設の探索をおざなりにしていたために、目的の技術室がどこにあるのかわからないでいた。

 これも厨房に引き篭っていたが故の弊害なのだろう。まだ二日目だというのに行動力のなさを思い知らされたようで、苦々しく歯噛みをするような思いだった。

 

 ただ親切なことに玄関ホールには校内図が掲示されていて、それを頼りに技術室があるらしい上三番校舎へと続く廊下の前までやってきた。

 二つの空間を隔てる扉にはガラス窓が付いていて、そこから長く続く廊下を覗き見る。両脇には多くの窓が連ねられており、太陽の強い日差しが柱のような形を象り、朽ちかけた床に幾本もの光の筋を突き刺していた。埃が滞留しているのだろう。光の筋はその輪郭をくっきりと映し出していた。

 

(後で換気をしたほうがいいかもしれない)

 

 そんなこと考えながら、扉に手をかけようとして、思い留まり、前に出していた手を胸に当ててみた。

 雲隠や澪標と顔を合わせるにあたって、少しくらいは緊張しているかもしれないという微かな期待からの行動だった。声を押し沈め、胸中に意識を集中させてみるが──心臓が鳴らす拍動の音は、至って平生のものだった。

 

(それもそうか)

 

 食堂に置いてきた鯉口のことが気かがりであったが、あの場はひとまずあれで収まったのだからと、今朝の出来事に関してはあまり深くは考えないようにしていた。

 

 結局、あの後匂宮ら三人の間で行われた話し合いは滞りなく進んだようで、時間割の表を作るための紙と筆記用具を取りに、書道教室へと藤袴が駆けて行ったところまでは見届けた。鈍重なトランクを担いでいるというのに素早い機動力を発揮できるのは、柔道家なんていう肩書きを抜きに藤袴は素晴らしい身体能力の持ち主なのだろうと推察できた。

 だが、そんな素晴らしい才能や能力を持つ人物がこれから先、死んでしまうのかもしれないと考えると……世の中というものは無情なものだと、思わず天を見上げて、空の青さを憎々しいほどに見つめてしまう。

 

 修道服を着ることはあれども、待雪は神を信仰しているというわけではなかったから、だから神に見放されただとか神はいないのだとか、そんなくだらないことを叫ぶ気持ちは沸いて来なかったけれど……ただ、どうだろう。

 彼らは──超高校級と呼ばれるまでに一つのことを極め、そしてこれから先も、胸の内に未来への希望を抱きながら修練に励んでいくのだろう発展途上の彼らは──なにかしらの運命とやらを、呪ったりしたのだろうか。

 

 この島に来てからというものの、誰かの悲しい表情を見た記憶は待雪にはなかった。少なくとも、厨房から食堂の方を覗き見ている分にはそうだった。

 みんな楽しそうに会話をしていたし、精神状態はいたって普通のようだった。

 

 それが偽りのものなのだと言われても不思議ではない。

 彼らはなにも不安には感じていないのだと言われても、その言葉を待雪はすんなりと受け入れることができてしまいそうだった。

 

(そういうところも含めて、超高校級と呼ぶのかもしれない。何か一つのことで秀でていられる人なんて、きっとどこか、頭がおかしいんだから)

 

 頭がおかしい。

 その言葉から、ふと待雪は雲隠の顔が思い浮かんだ。

 なにを考えているのかよく分からないような、感情の起伏がない彼の顔が、焦げ付いたように頭から離れなかった。

 

 頭がおかしいというのなら鯉口だってそうだったけれど、あれはいわゆる変態というやつで、雲隠のそれとはどうも違った。

 壱目だって、迷惑な人ではあったが、鯉口と同じようにあくまで人間的な欲が前面的に出過ぎているだけなのだろう。

 だから雲隠に対するこの感情は、誰からも感じ取ることができない彼特有のものだった。あまりにも彼は人間的な欲がなくって、無機質で、そのうえ人への関心がなさそうだった。

 

 なぜだろう。彼のことを意識すればするほどに、待雪はどうにも言葉にしきれない嫌悪感が胸の内から滲み出てくるのだった。

 彼に卑しい視線を向けられたわけでも、汚らしい言葉を吐きかけられたわけでも、ましてや力任せな乱暴を受けたわけでもない。むしろ彼は、自分には良くしてくれている方だとすら思うのに。

 

 恨み辛みとはまた違った、言うなれば、親愛的な嫌悪感。

 不思議なことだが、この気持ちはそういうものなのだろうと直感的に悟っていた。

 同時に、そんな気持ちを抱いてしまっている自分に、驚いてもいた。

 

 彼を嫌うような要素はひとつもない。

 

 だけれども、なぜだろう。

 雲隠に対しては、今まで他人には感じたことのないような、謂れがなければ意味もない嫌悪感を感じてしまうのだ。

 さらりと心の内に浸食してくる、違和感のない嫌悪感。

 

 ……気付けば、窓ガラスに映った自分の顔は、酷く無機質な顔をしていた。蝋人形でも目の前に立っているんじゃないかと思ったくらいだった。

 その影が、雲隠と重なる。

 

「……だめだだめだ」

 

 雑念を払うようにかぶりを振って、扉を引いた。

 

 とにかく今は二人に差し入れをして、それから昼食を作らなければならない。そのあとは夕食を作って、そして明日の朝食の仕込みもしなければ──変なことを考えている暇なんて、今の自分にはなかった。

 待雪は、埃が滞留し息をすることも憚られるような廊下を大きな歩幅で進んだ。

 足を踏み出すたびに響く木の軋みが、今の彼女の心境を表しているようでもある。

 

 技術室は廊下の奥にあるのだが、そちらへと進んでいくうちに、うっすらとだが乱暴な騒ぎ声が耳に入った。汚らしい言葉を叫び、理性のかけらもないような情緒で乱暴に振舞う誰かの声が聞こえて来るのだ。

 

 言葉の内容や声の特徴からして罵詈雑言を叫ぶ声は誰か一人のものだった。二人の人間が言い争っているわけではないらしいが、しかし不穏さを感じずにはいられない。

 

 ……なにかトラブルでも起きているのだろうか。

 雲隠と澪標の二人を心配する気持ちと共に、今すぐにでも踵を返して食堂に戻りたいという思いも生まれてきた。誰かの怒りを諌めるようなコミュニケーション能力もないのだから、経験上、こういった場合は逃げるべきだった。

 

 以前は雲隠と澪標の仲裁を試みたものだが、結局成功とは言い難い結果を生んでしまったから、待雪は、すっかり自信を失ってしまっていた。

 

 聞こえてくる声の主は女性のようだったが、しかし澪標の声ではないことに気が付く。だから、澪標が一方的に責めているという状況ではないらしい。

 つまり、あの二人以外の第三者が技術室にはいるのだろう。

 

(……戻ろうかな。うん、それできっといい……)

 

 面倒ごとであるのに変わりなさそうだと深いため息をついて、待雪は肩をすくめた。

 なにもかもを聞かなかったことにして、この際差し入れもやめて、それから昼食の準備をしようかと背を向けたところで、

 

「……あ、待雪さん」

 

 ガラリ、扉の開く音が背後から聞こえ、誰かがそうやって待雪を呼び止めた。

 待雪は錆び付いたブリキ人形のようにぎこちない動きで振り返り、強張った表情を見せた。肩は吊り上がるように硬直していて、彼女の頭の中ではがらがらとなにかが崩れ落ちる音がした。

 平和が崩れ落ちた音だろうか。

 なるほど、それなら合点がいく。

 

「ク、クモガクレさん……っ! ……あっあの、サンドイッチを作ってきたので、ミオツクシさんと一緒に……食べてくださいっ」

 

 驚きと、今にも逃げ出したいという気持ちがあってか、随分と早口に言葉を言い切った。そして足早に去ってしまおうと、サンドイッチの入ったバスケットを雲隠の眼前に突き出す。

 届けるべきものは押し付けて、自分は技術室に足を踏み入れることなく帰ってしまおうという算段だった。

 

 けれどそれは正しい行動ではなかったと言える。

 そもそも既に彼女は手遅れだった。

 

 壱目と鉢合わせるよりかはマシだったかもしれないが、しかし決して良い状況とは言えない。

 なにせ目にした光景が、あまりにも鮮烈だったからだ。

 

「おい、雲隠。ワタシの話はまだ終わっていないぞ」

 

 雲隠の肩を引っ張るように掴んで現れたのは、長く伸びた髪を不規則な位置で数箇所結ぶ独特なヘアスタイルが特徴的な、混血の少女の姿だった。

 ギラつく目は好奇に満ち、気怠く開かれた桃色の唇からは鋭く尖った犬歯が顔を覗かせていた。

 

 少女は雲隠の背後を通り抜け、その体の全てを待雪の眼前に晒す。少女は見たこともないような派手な格好をしていて、待雪はそれをずっと見つめていた。その新奇な格好や攻撃的な眼光から、目が離せないでいたのだ。

 

 不埒にも大胆に晒された白い太腿は、その上をなだらかに流れる赤いプリーツのミニスカートによって扇情的に印象づけられていた。滑らかな曲線を描くしなやかな肢体が歩みを進めるたびに、折り目正しく折られたプリーツがその蠱惑的な曲線に沿って形を崩す。

 

 少女には西洋の血が混じっているのだろうか、肌は死体のように白く、瞳は虹のように多くの色を輝かせていて、髪の色も、光の当たり具合でその色を気まぐれに変えていた──少なくとも、日本やアジア出身というわけではないようだった。風貌だけは外国人と同様である彼女が乱暴な日本語を巧みに扱っているというのだから、違和感というものは感じずにはいられない。

 

 細く折れてしまいそうな首に取り付けられたサイズの合っていない首輪は、ある種の破天荒さまでも演出している。希望ヶ峰学園によって取り付けられた首輪と歪なトランクも、あるいはそれだって、彼女独自のファッションなのだと説明されれば納得してしまえそうなほどに、よく似合っていた。

 

 黙っていても煩いとはこのことで、彼女の見た目は雄弁に彼女自身を表しているのだろうということがひと目で分かる。半分もボタンがかけられていないブラウスなんかがそうだ。

 乱雑に結ばれた細長いネクタイは胸元まで開かれた胸襟を辛うじて支えていて、二本の鎖骨はその姿のほとんどを惜しげもなく外気にさらけ出している。

 知性の証があるとすれば、上から羽織った白衣と、その小さな顔には不似合いなほど大きな眼鏡くらいなものだろう。鮮紅色のフレームが、少女の加虐的な表情をより狂気に満ちたものへと色付けていた。

 ……ただどうにも、少女が身につけているカラフルな装飾品は白衣とは不似合いで、研究者らしき雰囲気はまるでなかった。

 

「…………」

 

 言葉が出ない。

 澪標を初めて見たときと同じように、頭が真っ白になって、彼女以外のことはなにも考えられなかった。

 未知との遭遇とはこのことなのだろうか。待雪の知らないなにかがそこにはいた。

 

 だからこそ、待雪は眉をひそめ、そして訝しんだ。

 なにせこんな人、見たことがなかったからだ。初日の朝や、夜のバッテリー交換で体育館に集められたときは他人のことを気にしていられる余裕もなかったため気がつかなかったということもあっただろうが、少なくとも、食堂ではこのような前衛的な格好をした人を見たことはなかった。

 そもそもそれは、前衛的なんていう言葉で表せるようなものではない。次元が違うというのだろうか。まるで少女の立つその場所だけが異界であるかのような、そんな錯覚すら覚えてしまうのだから。

 

「──ああ? 誰だ、このちんまいやつは」

 

 と、少女は待雪を睨むように目を細めた。悪意はないのだろうが、いかんせんその荒々しい態度のせいか、待雪はつい後退り、目を合わさないように少女のその特徴的な姿ばかりに視線を向けていた。まともに目を合わせることが憚られたのだ。

 

「あー……んんう? オマエ、どっかで見たことがあるような気が……」

 

 少女は雲隠の背から離れると、軋む床を踏みつけ、待雪の方までやってきた。

 あっという間に距離は詰められ、逃げることもできないと、より一層待雪は口を固く閉ざす。澪標と初めて会ったときもそうだったが、未知の物事を知ると待雪は、てんで頭が働かなくなってしまうのだ。

 俯いたままの姿勢が少女には反抗的な態度に捉えられたのだろうか、待雪は少女に頬を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。

 

「…………」

 

 至近距離で目と目が合う。切れ長の瞳は待雪を射殺さんばかりに真っ直ぐと睨みつけていて、視線で串付けにされたかのように、彼女から目が離せなかった。

 視界が、彼女の瞳で染まる。

 長い睫毛の奥に潜む少女の虹彩には、幾多もの色が重なっていて、それはまるで万華鏡かのように絶えず色を変化し続けていた。

 

(不思議な匂いがする。知らない匂いだ)

 

 知らない匂い。それは、久しい感覚だった。

 今まで一度も嗅いだことのない匂い。成分すらも分からない、何か近しい匂いも導き出せない、不思議な香り。

 

 これもまた待雪にとっては衝撃的な出来事で、それに意識を奪われていると、いつの間にか視界は少女の顔で埋め尽くされていた。

 

「…………?」

 

 なにが起こったのか、一瞬、理解ができなかった。

 ただその一瞬は永遠のように長く感じられるものだったから、ずっと待雪は理解できないままだった。

 

 口腔内に湿り気のある感触が侵入してくる。

 柔らかくなった鉄のように熱いものが歯列を撫でる。

 それが少女の舌なのだと気付いた頃になって、ようやく、自分と少女の唇が重なっていることに意識が及んだ。

 

 親しい仲の者同士がするような挨拶がわりのスキンシップではなく、これは恋人同士が睦言のように交わす舌を使ったキスだった。

 ……今までに経験したことのないことだったから、どういった反応を示せば良いのかが分からず、待雪はされるがままだった。

 

 逃げようにも、後ろに回された手によって頭を押さえつけられてしまい、まともな抵抗は無力なものだった。もがけばもがくほどに、よりいっそう粘膜の密着が深く濃厚なものに変わっていくので、次第に反抗する意思も失われていき、だらりと腕は下がっていた。

 

 貪るように唇を吸われ、なにかを確かめるように舌が嬲られる。それは一方的な蹂躙で、舌で押し返そうと苦難するも、それすらも軽くあしらわれ弄ぶように吸われた。

 せめてもの抵抗をと、空いた右手をそっと掲げたが、間もなくそれも、指の節を確かめるかのようにじっくりと絡め取られた。

 唾液の交換は続く。痺れるような強い快感が舌や歯、口腔から脳まで伝播して、段々と思考が書き換えられていくような感覚にすら陥った。

 

 どうしたらいいのかが分からず四肢は硬直し、その反面、舌や唇などは甘く蕩けていた。

 

 段々と顔が赤くなっていった。息が苦しい。胸も、苦しい。心臓の鼓動が次第に高鳴っていくのを嫌でも感じさせられた。

 

「ぷはっ」

 

 とろんと溶けたピンク色の舌が透明な糸を引き、そして途切れる。

 少女はその長い舌で、名残惜しそうに待雪の唇をぺろりと上から舐めると、その味を吟味するように舌先で転がしたあと、待雪が文句を言うよりも前に素早く、

 

「んー、ぜろ点」

 

 とだけ短く言った。

 

「なっ……、なにがゼロ点なんですか?」

 

 どういった反応を示せばいいのかが分からず、かといってキスの感想を言うというのもおかしな話だと思ったので(「なかなかのものをいただきました」とでも言えばよいのだろうか)、悩んだ末にこんな間抜けな質問をした。

 それに対して、少女は気怠げに答える。

 

「キスの点数だよ。技術、魅力共にゼロだ」

 

 これでも加点方式でやってやったんだぜ? と、少女はせせら笑った。

 少女の後ろに立っていたはずの雲隠は、いつのまにか消えてしまっていた。

 

「わ、わけわかんないですよ!」

「感想はないのか?」

「か、感想って……」

「キスの感想だよ。……ったく、なんにも分かっていないんだな」

 

 口端にこぼれた唾液を拭いながら考える。

 

(感想……やはり感想を言う必要が……)

 

 待雪はとってつけたようなお辞儀をした後、少しぎこちない言葉遣いでこう言った。

 

「なかなかのものを、いただきました」

「…………」

 

 不満なのか、それとも単に呆れているのか。どっちともつかないような顔をして少女は頭を掻いた。

 

「まあいい。どっかで見たような気がしたが、キスしても思い出せないってことは、ワタシにとってはその程度の奴だったってことだろ。……だが、なんだ。興味がないわけでもない、早く入れよ」

「……あの、わたし、お昼の用意をしなきゃいけないんで──」

「ほら、さっさと入れってば」

 

 その鋭く尖った犬歯が、自分の身に喰らいつくような錯覚を待雪は覚えた。

 少女は待雪の腕を鷲掴みにすると、強引に技術室へと引き込んだ。唇の感覚がまだ余韻として残っていた。

 

(なんだこの人は。なんだこの人は)

 

 連れられるままに入った技術室の中には澪標もいて、こちらに気付き少し驚いた様子を見せた。

 

「あら、薫さん。どうかしたの?」

「どうかしたっていうか……ええっとその、差し入れをと思いまして……でも、お昼の用意もあるので、すぐ食堂に戻ろうかと思っていたのですが……」

 

 恨めしそうに、隣に立つ少女に視線を向けた。

 背は自分と同じくらいだからか、目線の高さも同じなのだろう。見ると運の悪いことにその綺麗な瞳と目が合ってしまって、気まずくなって、すぐに目を逸らした。

 これだと臆病というより小心者で、あまり良い心地ではない。

 

 自身の不自然な行いを取り繕うように、結局は雲隠に返されてしまったバスケットを机の上に置いた。

 

「人聞きが悪いんだな、オマエ。誘ったと言ってもらいたいんだが」

 

 少女は粗雑な態度で椅子にどかっと座ると、自身の正当性を示すようにこう言った。

 

「……というか、オマエも関係者なんだろう? ならいた方がいいだろう。力にはならないだろうが、それは仲間外れにする理由にはならないんだからな」

 

 関係者。仲間外れ。はて、自分はなんらかの集まりに参加していただろうかと疑問に思う。

 

 待雪は長居するつもりがなかったため、そのままそこに立っていたのだが、その様子が癇に障ったのだろうか。それとも単純に普段からそんな口調なのか──少女は待雪に荒々しい言葉を飛ばした。

 

「なんだ? 座れよ、メイドじゃああるまいし。……っていうか、ワタシはメイドっていうのが大っ嫌いなんだ。断じてトラウマってわけじゃないが、その言葉を聞くだけで寒気がするほどワタシはメイドが嫌いだ!」

「じゃあ、わたしは食堂に戻りますよ……」

「ああ? なんでそうなるんだよ。捻くれ者か? あれか、オマエ、右利きのくせに腕時計を右につけたりするタイプか」

「右利きの人が腕時計を右につけるのは普通ですよ。それに、わたしは両利きです」

「例え話だ、例え話。間に受けるな」

 

 それよりも、と待雪は立ったままで少女に訊いた。

 小さな反抗心のつもりだったが、今となってはそれが自身の今後の分水嶺のようにも感じられるのだ。多分ここで座ってしまうと、なにかしらのことがらが自分にとって悪い方向に進んでしまうのではないかと思われた。

 

「さきほど関係者がどうこうとおっしゃっていましたけど」

 

 伏し目がちにそう尋ねた。澪標が、待雪が持ってきたバスケットの中身を探りながらそれに答えた。物の中身を探るという一見下品な行いではあるが、澪標の無駄が省かれた所作と白魚のように美しい長い指を使った動きから、むしろそれは上品な行いなのではないかと思えてしまうのは仕方のないことだった。

 既に澪標の口には一枚のサンドイッチが挟まっていて、もごもごと口を動かす横顔は一枚の絵画のようでもあった。耳にかかった髪もまた彼女の高貴な顔立ちを引き立てていた。

 

「鍵よ。トランクを開けるための鍵作りに、彼女にも参加してもらうことになったの」

「ああそうだ、面白そうだから入れてもらった。……それにほら、このトランク、重くて仕方がないだろう。非力なワタシには不便すぎるからな、外したいってずっと思ってたんだ」

 

 少女は鬱陶しげに首輪を揺らした。その調子でぽろりと首まで取れてしまいそうだったが、そうはならず、少女はまた不遜な態度で話し始める。

 

「というか、腹が減った。なあ、それ、そのバスケット。中になにが入ってるんだ? なんでもいい、腹にものを入れたい」

 

 少女は机の上のバスケットに手を伸ばし、中からサンドイッチを一つ引き抜いて口に運んだ。本当にお腹が減っていたのだろう。その小さな口を使ってパンを食み、頬を大きく膨らませていた。

 澪標と比べ、その食べ方は大きく異なり、上品さのかけらもない所作ではあったが、なんだか子供のようで咎める気にはなれなかった。

 

「……美味いな、このサンドイッチ。こんなに美味い飯は久しぶりに食べる」

「それは、どうも。ありがとうございます」

「なんだ。オマエが作ったのか? ……良い腕と舌をしてるな。どおりでキスしたとき、舌の感触が良かったわけだ」

「?! ごほっ、ごほっ! えっなに? 薫さんキスしたの?!」

 

 意外なことに、澪標が茶を噴き出して驚いてみせた。

 

「ええまあ」

 

 と待雪が微妙な反応を返すと、澪標は驚きを隠そうともせずにため息をつきながら話した。

 

「うっそぉ。あんなの冗談だと思ってた。……いやね? さっき私も迫られたものだから。あと、ききょーくんも」

「そうだったんですか?」

「ええ。だけれど本当にそうするとは思っていないなかったものだから、少し驚いちゃって。……まあ、私という存在がいながらききょーくんが恋人のような真似をするはずがないのだけれど」

「こ、恋人の、ような」

「薫さんがそういうことをするのは、ちょっと意外ね。やっぱり海外に長く住んでいると、そういうのも進んだ感じになっちゃうのかしら」

「ん、おい立竝。そのサンドイッチはワタシが食う」

 

 名も知らぬ少女はある程度腹が膨れてきたのだろうか、茶を飲む余裕も見せていた。澪標と比較すると、同じ食べるという動作であるにもかかわらずその食べ方は野性味が強く、口元はソースで汚れていた。

 

「ああ、これ、使ってください」

「ん、ありがと」

 

 つい気になってしまい、待雪は少女にハンカチを手渡した。少女は頷くような礼をしただけで、受け取ったハンカチで無遠慮に口元を拭った。

 仕草だけはどうにも子供っぽく、初対面であるのにこう表現するのは変だが、それが彼女らしい行動だといえばそうだった。

 

「ええっと……すみません、ミオツクシさん。わたしはまだ上手く状況が読み込めていなくって。それにその、クモガクレさんもどこかに行ってしまったようですし」

「ああ、彼? 彼ならお風呂に行ったのよ。今は男子の時間帯だもの、ちょうどいいでしょう。それに作業もひと段落ついたし、良い機会だから体を洗ってくるように言っておいたの」

 

 口に含んだものを飲み込み、指先についたソースを口付けでもするかのように舐めとったあと、澪標は待雪の方に向き直った。

 

「彼女に鍵作りを手伝ってもらうことは、薫さんにも後で知らせようと思っていたのだけど……やっぱり、こういうことは事前に知らせておいた方が良かったかしら? ごめんなさいね」

「い、いえ……わたしは別に、機械について口出しできるような知識は持っていませんから。お好きにしていただいて構わないのですが……」

「そう。でもなにか不満があるなら言って頂戴ね」

「お気遣いなく」

 

 ふと思った。

 初対面の印象こそ最悪とはいえ、この少女の名前すら、待雪はまだ知らない。だのにあれこれと頭の中で否定するというのは、いけないことなんじゃないか、と。

 澪標や雲隠と仲良くできているというのなら、実のところ口が悪いだけで、思ったほど悪い人ではないのではないだろうか。自分が仲良くできるかどうかはともかく、邪険に扱う必要性は皆無なのだし。

 

「それともう一つ、知らせておくことが。鍵自体は完成したんだけれど──」

「えっ。完成したんですか? 鍵」

 

 鍵を作る、と言っていたのが昨晩のことだ。あれからまだ半日経ったかどうかだというのに──

 

「ええまあ。ききょーくんにかかればこんなものよ。まあ、彼の専門分野とは異なる仕事ではあったのだけれど、明石さんが手伝ってくれて──ああ、彼女、明石さんっていうんだけれど、自己紹介はもう済んでいるかしら?」

「……いえ」

「自己紹介はまだだな。お互い名前も知らない」

 

 吐き捨てるように言うと、明石と呼ばれた少女は立ち上がって、待雪の目を熱いほどに強く見つめた。 

 強い信念や情熱を感じさせられる瞳に当てられ、待雪は自然と萎縮してしまい、肩を縮ませ明石の言葉を待った。

 

「ワタシの名前は明石(アカシ)。時代を切り裂く天才科学者だ。まあなんだ、諸事情あって下の名前は教えられない──というか、いや、事情もなにも憶えちゃいないんだがな。名字も、名前も。全て忘却の彼方だ──明石っていうのもあくまで仮の名前なんだ」

「…………」

「よろしくな。ぐーてんもーげん!」

 

 まるで笑い事かのような軽い調子で、明石と名乗った少女は自身の記憶喪失を告げた。あまりにも語調が軽すぎるものだから、一瞬理解できなかったくらいだった。

 

「……えっと、記憶喪失ってことですか?」

 

 訝しむような態度で尋ねる。

 すると少女は──明石は──かぶりを振ってその言葉を否定した。

 

「いや、記憶喪失とはまた違うみたいでな。忘れたのは名前と、目覚めるまでの前後の記憶だけなんだ。自分が今までなにをしてきたのかはよく覚えている。単に来るまでの記憶がないってだけで」

 

 どうだろうと想像してみた。

 もしも自分が、自分の名前を忘れてしまったらと。

 ……多分きっと、それでも自分は料理を続けるだろうけれど、ひょっとすれば彼女だって同じなのかもしれなかった。科学者だというのなら、研究に熱中できるのなら、名前なんて些末なことにすぎないだろうから。

 

 でも、だとしても気になる。明石というのは偽名のようだったが、それはおかしなことのように思えたのだ。

 名前とは大切なものだ。だからこそ、自分の名前くらいはどこかに残っていてもおかしくはない。特に科学者という職業は、それこそその経歴や結果が書類として残る職業だ。論文を書くにしても、名前は必要なのだし。……それに、彼女のように鮮烈な見た目をしている人物の名前を忘れられる人なんて、きっといないだろう。

 

 彼女のことを知る人間が誰もいないのであればそれもあり得るのかもしれなかったが、ただそんなシチュエーションは想像できなかった。

 

「……不思議なもんだろ? といってもまあ、記憶喪失とそう変わりないのかもしれないがな。こんな状況じゃ」

 

 むしろより悪化した状況だと言える。

 悲観的なことを語っているのにもかかわらず、明石はむしろ怒っているかのように眉を寄せて、腕を組みながら頷いていた。

 

「まあここだと科学者としての経歴も半端なもので。表立った活動はまだできてないのが悔しいところだが、なにぶん、活動しようったって、まともな機材がないんだからな。そういった面でも、澪標や雲隠には相談していたんだが……やっぱり無理なものは無理らしい」

「? ということは、前までは海外にいたんですか? 確かに海外の方が日本よりも技術の面では発展しているでしょうし、それに、あまり見た目の話をするのはアレですが……どうやら西洋人らしい肌の色ですから」

 

 それに明石は、名前やそれを忘れる前後の記憶を覚えていないというだけで、それよりももっと前の記憶を忘れてしまったというわけではないようだった。だから生まれの国の記憶も彼女にはあるはずだと考えたのだ。

 しかし、だとしたらどこだろう。海外には料理の修行に行くこともあり、知り合いも少なからずいたため、なにか記憶を思い出すための手助けができればと期待を込めて訊いたのだが──返ってきた答えは、予想外のものだった。

 せめて地名ならなんとかなったのかもしれなかったが、帰ってきた答えは言葉の通り次元の異なる話であったのだから。

 

「いや、違うな。ワタシは()()()()()()

「…………」

「つれないな。驚かないのか。……まあそっちの方が助かるんだけどな」

 

 明石はつまらなさげに淡い極彩色の頭髪を掻いてから、うんざりとした態度で続けた。

 

「とにかく、ワタシは未来から来た。百年とか二百年とか、多分そんくらい先の未来からだ」

 

 明石はこともなさげにそう言うのだった。

 未来から来た。その言葉を聞いて、待雪はやはり関わるべきではなかったのかもしれないと後悔していた。

 

 

 

 2

 

 

 

「だから今ワタシがあれこれやっているのは、過去の追憶に過ぎないんだ。自分らしいことがやりたいもんだが、それも上手くはいかないからな──なにせこの時代にはまともな設備がないんだ。未来では端末の一機能である電卓ですら、この時代じゃあこのトランクくらいデカいんだぜ?」

 

 横に置かれた歪なトランクを叩きながら、明石はせせら笑った。

 

「ははあ……未来、ですか」

「ああそうだ。未来だ。……未来は明るいぜ? 技術も文化も、全部あっちの方が上だ。それに、ベルっつー面白いロボットもいてだな……いや、あれはアンドロイドか? まあどっちでも良いんだけどな。ワタシがメインで作ったってわけでもないし」

 

 一拍おいて、明石は続けた。

 

「なにか聞きたいこととかないのか? ワタシに答えられることならなんだって答えてやるぜ。お近づきの印にってやつでさ。ま、でも、今の時代に生きてるやつがみんな死んじまってる時代の話だがな!」

 

 ゲラゲラと明石は笑う。

 待雪はどういう顔をしたらいいのかが分からず、微妙な反応を示した。

 

「いえ……興味もないので、特に質問はないんですけど──そうですね」

 

 顎に手をやり、うんと悩む。

 未来から来たという言葉を鵜呑みにするつもりはなかったが、ただ相手が嘘をついているような様子でもなかったから、それが不思議でたまらなかった。

 なにより明石からは、嘘の匂いはしなかった。

 ただ純粋な、未知の香りだけが彼女を包み込んでいる。

 

(未知の匂い……未来の匂い? ……アカシさんだけの匂い)

 

 ……いや、未来から来たなんていう戯言を口にしている時点で明石はきっと気の触れた人間で、嘘の匂いがしないのも、彼女がそのような妄想を信じ切ってしまっているからに違いないのだろうけれど。

 ただそうだとしても、人の善意になにかしらの形で応えたいと思ってしまい、待雪は当たり障りのない疑問を口にした。

 

 例え相手が誰であろうと、善意を無碍にすることに対し抵抗を感じてしまうのが待雪という人間だった。

 

「そうだ。ミオツクシさんの財閥って、未来ではどういったことをしているかとか、ご存知ですか?」

 

 それは、なんとなく思い浮かんだ質問だ。特に深い意味もない。

 澪標はというと、おっ、と少し驚いたような表情こそ見せたが、それ以上の反応は示さなかった。

 明石は待雪の質問に対し、腕を組んだ尊大な態度で感慨深そうに答える。

 

「ああ、澪標機関か……。未来じゃあ、あそこは今以上に世界に幅を利かせているぜ。ワタシはもっぱらフリーランスで活動しているんだが、澪標機関とはよく仕事をしたもんだ。だから驚いたんだぜ、こんな一九〇〇年代初頭の時代で、その令嬢に出遭えるなんてな」

「あら、それはそれは。未来でも家が賑わっているようでなによりね。……でも、この世界の澪標家だって負けてはいないわよ?」

「ハハッ、違いないな。負けん気の強さはこっちの方が上かもな」

 

 なんせあっちの令嬢はまだまだ青臭いガキだった、と明石は付け加えた。

 

「オマエは、オマエ自身のことは訊かないんだな」

「? どういうことですか?」

「……いやな、こういうときって普通、自分のことを訊くもんだろう? なのにオマエ、真っ先に他人のことについて訊いてきやがった」

「……まあ、アカシさんの言葉を信じるのなら、その時代にわたしは生きてないでしょうから、訊いても意味はないかなって思いまして」

「そーいうもんかねー。例えば料理についてだとか、自分の名前は未来でも残っているのかとか、それこそ、そう──今ワタシたちが巻き込まれているこのコロシアイが、未来じゃどう伝わってるんだとか。な? 色々あるだろう」

「ああ……なるほど。どうなっているんですか?」

「安直なヤツだな、オマエ……まあいいんだけどな。それだとこっちも気が楽だ」

 

 ため息がちにそう言うと、明石は湯飲みに入った茶を飲み干してから語勢を強くして告げた。

 

「結論から言うと、知らん」

「は?」

「こんな大昔にコロシアイが行われたなんて話、聞いたこともない。そもそもなかったことにされてるんじゃないか」

「どういうことですか?」

「未来じゃあ、希望ヶ峰学園も世界的に有名な学校でな、それこそ一時期あれこれあったが、だからこそ、そんなコロシアイなんてのが創立当初に起きていたのなら誰も騒がないはずがないんだよ。だってのに、それらしい話は聞いたことがない。……きっと未来機関のやつらが揉み消しちまったんだろうなあ」

「なるほど……」

 

 未来。というのがいつの頃の話なのかは定かではなかったが(別に明石の話を信じるわけではないが)、仮にそれが百年や二百年ほど先の話であるとしても、それほど長い間この学園が存続していくのだというのは驚きでもあった。

 

 なにせ待雪にとっては、希望ヶ峰学園とは出来立てほやほやの無名の学園だ。実績も功績もなにもない上、このような殺し合いなどという実験めいた行いをしているというのだから、明石の言う未来を信じろという方が無理があった。

 

「その、未来機関? ですか? なんだか変な名前ですね」

 

 未来の機関だなんて、それこそ、未来から来たんだと主張している明石の口から出た言葉だからか、あまりにも出来すぎな言葉のように思えてしまう。

 

「そうだろう? ワタシもそう思って、アイツらには『不甲斐ない機関』に改名した方がいいんじゃないかっていつも言ってやってるんだがな。あまりいい反応はなかったりする。……そっちの方が、なによりお似合いだってのに」

 

 口先を尖らせて、明石は不満を口にした。

 

「……昔──いや、オマエラからすれば未来の話なわけだが、訳あって希望ヶ峰学園についてあれこれ調べたこともあるんだ。だけど、そのときだって一期生がどうこうなんていう話は聞いたこともない」

「そうなんですか……つまり、異常らしい異常は記録には残ってないんですね」

「ああそうだな。殺し合いなんてもんがあったら、そんな印象の強いもん、絶対に記憶に残ってるはずだろう? だっつーのに、特になにも覚えてないってことは、なにもおかしなことはなかったってことだ。ワタシが知ってる一期生は、普通に学生生活を送っていたんだと思うぜ。……こんな島で殺し合いなんてしてないはずだ」

 

 名前の記憶を失った明石が記憶を語るのもおかしな話だったが、素直に待雪はその話を聞いていた。

 そうしていると、こちらを見ていた澪標が嘯いた。

 

「案の定、なにもかも嘘っていうこともあるかもしれないわね。殺し合いっていうのも嘘で、ひょっとすれば明日にでも解放されるかも」

 

 だとしたら普通に私たちは学生生活を送れるでしょう? と、澪標がこちらに微笑みかける。

 

「ハッ、だとしたら良いんだけどな」

 

 気持ちのこもっていない同意を述べると、明石はぼうっとどこか遠くを見るような目をして背もたれに身を預けた。

 

 澪標はバスケットの中に入っていた魔法瓶とコップを取り出すと、その中身をコップに注いで口に含んだ。

 けれど熱かったのだろうか、澪標はびくりと体を震わせた。

 

「あちゅっ!」

 

 素っ頓狂な声を上げたあと、濡れた口端を指先で拭い、慌てたようにして待雪の方を見た。

 

「か、薫さん。このお茶ちょっと熱すぎない……?」

「あれ……熱かったですか? ……すみません。お茶を入れているその容器、魔法瓶っていう保温性が高い入れ物らしくって。少し保温性が高いくらいかなと思って熱めに入れてきたんですけど……」

「なるほど、どうりで……あちゅちゅっ」

 

 熱そうにしながらも、湯気立つ茶を飲みながら澪標は言った。

 

「保温性能はピカイチね。おそらく、うちの家の会社で取り扱ってるやつよ」

「そうなんですか?」

「ええ。以前、珍しいものが手に入ったからって渡されたことがあるもの。……正確には、輸入してきたものだけれど」

「へえ……ミオツクシさんのお家は、そんなものも扱っているんですね」

「まあね。輸出入に関して……まあ、他の事業もそうなのだけれど。澪標の右に出る会社や財閥は日本国内にはないもの」

 

 そういえば澪標財閥はそんなこともしていたんだっけ、と待雪は想起した。

 お金持ちと聞けば悩みも少なそうなものだけれど、澪標ほどにもなるとむしろ、悩みの種は尽きないのではないだろうかと思う。魔法瓶なんていうマイナーなもの扱っているということは、それ以上にメジャーな商品を澪標財閥の貿易では多く取り扱っているはずだ。それに澪標財閥が行う事業は貿易のみならず、国内においての生産、販売なども行っているというのだから驚きだ。

 

 そんな日本随一のお(いえ)に生まれた女子澪標立竝が背負う重責というものは、そして世間からの風当たりというものは非常に強いものになるだろうから、表情にこそそんな色はいっぺんたりとも見せないが、雲隠に対し依存的な態度を取ることが多いのはそういったことも理由としてはあるのではないだろうかと思われた。

 

 少なくとも、澪標が幸せそうに笑えているのは彼女自身のその秘匿性の高さであるだろうし、なにより秘密を秘密のままに維持していられるのは、心の支えとして確かに存在している雲隠のおかげなのだろう。

 

 今ここにはいない雲隠の顔を思い浮かべてみたが、そんな大切な役割を負っている人物には到底思えないから驚きである。

 

「クモガクレさんとの出会いとかって、聞けたりしませんか」

「……? ん? 私に対しての質問?」

「あ、すみませんっ。そんなっ、いきなり、ダメですよね。……ふと、気になってしまって」

「いいえ、別にいいのだけれどね。……ただそうね、あなたに話すのにはまだ少し早いかもしれないから、また今度、機会があれば私から話そうかしら」

「そう、ですか」

 

 しまった、と思った。

 澪標は別に構わないと言ってくれたけれども、待雪は自分の行いを良しと見なすことができなかった。

 あまりにも踏み入った質問であったと、甘い自分を心の中で戒める。

 

 すんと肩をすくめて黙っていると、ただ沈黙だけが技術室を占めていた。サンドウィッチもなくなって、空になったバスケットを見ると、ふと自分の存在意義を問いたくなる。

 そうなると随分居心地が悪くって、それを打破したく待雪は明石に質問をした。

 自分の今の気持ちも、少し混じったような質問だった。

 自堕落に生きていそうな彼女のことだから、てっにり笑って言葉を返してくれるものだろうと考えてのことだった。

 

「アカシさんは、なにか後悔をしたことってありますか」

 

 するとピタリと、明石の飲み物を飲む手の動きが止まった。

 まずい事でも聞いてしまっただろうかと、つい不安になって焦りから顔を覗き込んで見たが……アカシはなんとも形象し難い不思議な表情をその顔に映し出していた。

 悲しみ、苦しみ、嫌悪。あるいは、忘却。

 表情からは彼女の様子を読み取ることができないと、気まずくて待雪はいつものように顔を伏せた。

 その直後に、明石が言った。呟きのような声の小ささだった。

 

「後悔なんて、いつだってしてる。だから私は未来しか見れないんだ」

 

 冷たい香りがした。これは知っている。哀愁の香りだ。

 初めて触れた彼女の沈んだ感情に、つい驚いて顔を見上げるが、彼女はさっきまでと同じようにつまらなさそうな目でどこかを見ていた。

 未来でも見ているのだろうか。

 いいや、そんなはずがない。未来なんてのは、ただのまやかしのはずだ。

 だってわたしたちは、今しか生きられないのだから。

 ……いいや今だって、生きていられているのかは、曖昧なくらいだというのに。

 

 気が付くと明石は、何事もなかったかのような元気な様子で茶を飲んでいた。

 酷く歪められた目の端が、コップの影からこちらを見ていた。

 

「そうだ。未来での記憶が、なにか思い出せるかもしれないだろうから。なぁ待雪、だからまた料理、作ってくれよ」

 

 楽な様子で、落ち着いたように後ろにもたれかけながら、願うように明石は言う。

 待雪は小さな笑顔を作って快い返事を返した。

 

「……いいですよ。というか、朝昼晩と食堂でご飯を提供していますから、食堂に来てくださればいつでもお出ししますけれど」

「ああ? 本当か? ……めんどうくさいから行ってなかったけど、それなら最初っから行っておけば良かったなあ」

 

 嘆くように間延びた声を上げ、頭の後ろで手を組みながら、明石はその小さな口を頬まで引きつらせてケラケラと笑った。

 待雪に足りないものがその荒っぽさだというのなら、別に欠けたままでもいいかなと思った。そう思えた。

 

 

 

 3

 

 

 

「一緒にお風呂に行きましょう、待雪」

「へ?」

 

 夕食後。

 いつもの通り厨房に残って、夕飯時に使った鍋を洗っていると、そんな突拍子もない言葉をかけられた。

 反射的に声の発生源へと顔を向けると、至って真面目な顔をした藤袴と、縄に繋がれた鯉口の二人が目に映った。藤袴の側に控えた鯉口の姿はまるで忠犬のようで、正座という格好もそうだが、希望ヶ峰学園によって付けられた首輪も相まってか、手を前に出してやれば()()をしてもおかしくはない雰囲気を鯉口は纏っていた。

 

「えーっと……」

 

 驚きから、丸々とした目で二人を見た。すると藤袴もまた、待雪の様子に疑問を感じているようで、きょとんと首を傾げる。

 お風呂に行こう。その言葉に嘘はないらしく、藤袴は着替えの服や石鹸やらを脇に抱えていた。その中には鯉口の分もあるのだろう、中には藤袴が普段着そうにない花柄の寝巻きも混じっていた。

 

「お、お風呂って……どういうことですか? ……お二人で入ってくればいいじゃないですか」

「……? なにを言っているのです。今朝決めたではありませんか。お風呂とトイレの面倒は、私とあなたとで行うとの約束のはずですが」

 

 …………。

 そういえばそんなこともあったなあと、待雪はぼんやり天井を見上げた。現実が、逃げられないぞ囁いてくるようで、うんざりとした気分が蘇ってきた。

 そうだった。確かに今朝、待雪は約束を取り付けられたのだった。鯉口の監視を行うにあたり、女性の手が必要な場面が訪れたときは藤袴と共にそれを行うと決めたのだ。

 ついさっきまでそのことを忘れていたのは、脳が正常に機能してくれていたからなのだろう。精神的な疲労を負わぬようにとの配慮だったのか、今朝の出来事はまるで朧げだったが、今はそれもだんだんと鮮明になってきた。

 

 待雪は薄らと開けた目で二人を見返すと、

 

「……ああ、ありましたね。そんなの」

 

 と気力のない儚げな声で答えた。

 

「まったく困ったものですね、待雪は。大切なことなのですから、どうか忘れないでいただきたい。昼間はあなたは忙しそうでしたから、トイレの面倒は私一人で見ていたんですよ」

「すみません……」

 

 一人で面倒を見れていたのなら自分はいらないんじゃないのかとは言えなかった。あくまで藤袴は善意からそうしてくれていたのだろうから、そうやって文句を言う気にはなれない。

 

 謝罪をしてから、ひとまずエプロンを外し、藤袴の方へと体を向けた。皿洗いはまだ終わっていなかったが、別段今すぐ終わらせなければならないことでもなかったため、それは明日の自分に任せることにしたのだ。

 

 お風呂。そういえばそんな施設もあるらしいと待雪はぼんやり考える。

 待雪にとってお風呂とは、休む場所ではなく単に体を洗うためだけの場所だったから、そこに対し深い思い入れなどはなかった。

 それこそ、海外では湯船に浸かる習慣はあまりないのだということを知ったときでさえ、さほど衝撃は受けなかったくらいである。

 だからお風呂といっても、そこに大した期待は寄せていなかった。

 シャワールームなどであれば狭くて鯉口の体を洗いにくいかもしれないから、広めの場所だったらいいなあ。なんていうことを、漠々と考えていたくらいである。

 

「実はわたし、昨日は色々と忙しくってお風呂に入れていないんです……ですから、ここのお風呂は初めてなんですよね」

「そうだったのですか。ならば初風呂ですね」

 

 藤袴は、親しみやすい笑みを浮かべて喜んだ。初、という言葉はそれだけで彼女にとってはめでたいことなのだろう。待雪も相手に合わせるように微かな笑みを返した。

 

 しかし、そんな比較的穏やかな二人のやり取りに割って入ってきたのは、この出来事の発端である鯉口だった。

 

「なんだかワクワクするなあ! お風呂! 初風呂! それも女の子と三人で! はっきり言って、興奮が止まりません! ああっ! 私はどうなってしまうんだろうな!」

 

 感嘆符をたっぷりつけて、厨房で絶叫しているその姿は見てはいられないほどに無様なものだった。

 鯉口はやけにハイテンションで、縄で拘束されているというのにもかかわらず、そんな気配を感じさせないほどに爽やかな笑顔をしていた。自身の欲求に必死で従おうとする人間の姿は、かくも真っ直ぐなものなのだろうかと思えるほどだった。

 

 露出狂だ。

 自身の性欲を隠そうともしない露出狂だと、待雪は思う。

 

 今朝は模擬刀を取り上げればそれで良いんじゃないかと言ったけれど、今ではそれは間違いであったと断言できた。鯉口は模擬刀云々を抜きにして、別の案件で縛っておかなければならない人間だったからだ。

 鯉口を放っておけば、自分はともかく、他人の貞操が危ぶまれる。

 

 明石のこともそうだが、なんだかこの島には奔放的な人が多いような気がした。

 

「薫くぅん……興奮のしすぎで、今朝から手足の震えが止まらないんだ! この震え、鎮めてはくれないか……」

「足が震えているのは、正座をしていて痺れちゃってるからじゃないですか? 手が震えているのは、強く縛られているからだと思いますけれど」

 

 床に正座した鯉口を一瞥してから、再度藤袴の方を見た。

 藤袴の顔はどこか疲れたような翳りがあったが、それでも元気であることに違いはないようで、こちらに心地よい笑顔と共に目線を合わせてきた。

 

 申し訳なく思いつつも、待雪は藤袴に言った。

 

「すみません。先に行っててもらえませんか……? 入浴の準備ができていないので、部屋に着替えを取りに戻ろうかと思いまして」

「だったら個室の前で待ちましょう。風呂とはいえ、あそこは少々他とは仕組みが違いますし。初めてだというのなら、ある程度勝手を知っている者が一緒だと、色々と都合が良いでしょう」

「……良いんですか? じゃあ、お願いします。助かります」

 

 ひとまず部屋に戻って着替えを見繕った後、待雪は藤袴に連れられて下三番校舎の浴場に向かった。藤袴も鯉口も、既に昨日のうちに初風呂は済ませてあったらしく、そして日本人らしく入浴を好んでいるのだろう。その足取りは軽快なものだった。

 浴場のある下三番校舎へと繋がる扉は、他の校舎のものとは違い随分と厳重だった。

 

 扉をくぐって脱衣所に向かう。

 

「やっぱり首輪を外すと、なんだかふわふわした気持ちがする。変な気分だよ」

「そうですか? わたしはむしろ楽ですけど」

「私はあまり違いを感じませんね。トランクなんて、ちょっとした重りのようなものですから」

 

 どうやら入浴時ばかりはトランクと首輪を外すらしく、厳重な扉で区切られた個室を抜けて、三人は脱衣所に辿り着いた。首元を締め付ける閉塞感がなくなったからか、随分と自由な気がして、脱衣所がずっと広く感じられた。

 

 脱衣所は和風なテイストが妙な心地よさを生んでいて、やはり自分は腐っても日本人なのかもしれないなと辺りを見渡すば、奥の方に、浴場に繋がっているのだろうガラスの引き戸がいくつか見えた。

 それから、脱衣所には背の低い棚が壁際や中央にあり、竹で編まれた籠が置かれていて、その多くは空であったが、既にひとり女子生徒が風呂場にいるのだろうか、一つの籠の中には服が入っていた。

 

「はやくお風呂に入ってさっぱりしましょう。いくら冬とはいえ、汗はかきますからね」

「そうですね。それに寒いですし」

「ひゅう! 脱ぐんだなっ!」

 

 鯉口の囃し立てる声はよそに、そそくさと色気のない服を脱いで三つ編みを解いた。ここ数日髪は解いていなかったからか、素肌あたる毛先の感触が妙にこそばゆい。

 

「二人は知っているかな? 実は人は、縄で縛るだけじゃ抵抗力はそこまで奪えないらしいんだ。そこで昔の人が考えたのが吊り責めという方法なので──」

「黙りなさい」

「ひぎゅう!」

 

 とてもじゃないが女子生徒から出たものとは思えない、カエルを踏み潰したような情けない声が脱衣所に響く。

 

 鯉口は容姿端麗な分、内面との差が大きすぎていまだに慣れない。中年のおじさんが女子高生の皮を被ったような、そんな印象を感じてしまうのだ。

 

 あまり顔は見ないようにしようと、他のことに意識を集中させながら服を脱がせた。縄で縛ったままだと、思いの外脱がせにくかったため、いったん縄は解いた。

 

 まだ外していない総髪の根元を飾る赤いリボンが、健康的なうすだいだい色の中で一際目を引いた。健康的な肌の色と肉感を感じさせる腰回りの肉付きが、彼女の年頃の乙女らしさを象徴していた。

 鯉口の身体は年相応に発達しており、曖昧な弧を描くその肢体は見事なものだろうと待雪も思う。ただ、見せつけるように軽くポージングをとり始めために急いで素肌の上から縄で縛り自由を奪った。

 これはこれで、裸よりも扇情的な格好になってしまっているような気がするが、別段そういった趣味趣向は持ち合わせていなかかっため、待雪は彼女の特殊な格好に触れることはしなかった。

 

 ただ鯉口は、縄に縛られなにもできなくなった状態で黙っていられるような人間でもないのだろう。鯉口が向ける視線は待雪の裸体に向けられていて、人の視線に敏感な待雪は、あまり良い心地がしなかった。

 

「胸がない分、足腰がしっかりしているといいますか」

「鯉口には、麻袋でも頭に被せましょうか」

「……明日からはそうしましょう」

 

 鯉口の髪も解いてやると、さらりと背のあたりで黒髪が流れた。こうしてみると、自分の髪が一番長いのだということに気がついた。藤袴は運動の邪魔にならぬよう肩口で髪を切っているようだし、あの綺麗な黒髪を持つ澪標や東屋も、自分が髪を編んでいるときならばいざ知らず、今解いてある自分ほどは長くはなかったはずだ。

 

 背の高さも、体の発達具合も。こうして裸になってみると個人差が顕著に現れていた。やはり運動をしているからだろうか、藤袴は引き締まった体つきをしていて、張りのある肌と健康美とやらを兼ね備えていた。彫刻品のような影を落とすその肉体についつい目がいってしまい、やっていることが鯉口と同じだと気付き、自己嫌悪の気持ちに陥った。

 鯉口は藤袴と比べて筋肉こそそれなりにだが、無駄な贅肉は削ぎ落とされていて、実にスマートな体型をしていた。女性的な柔らかみは年相応に膨らんでいる。藤袴とは違い引き締まった体ではないからだろうか、柔肌に轍を刻むようにして縄は食い込んでいた。ある意味扇情的な格好ではあるが、それ以上の興味は抱けずに目を背けた。

 嫉妬……ではないと思う。そんな感情は抱いていない。

 

 やはり運動をすれば健康的な体付きになるのだろうかと、ふくよかとは言い難い、肋骨が浮き出た自身の体に指を伝わせながら考えていた。

 

「あっ……」

「どうかしましたか?」

「いえ、あの、石鹸と手拭いを持ってくるのを忘れてしまって。あとこの様子だとタオルも……」

「……まったく困ったものですね、待雪は」

「すみません……」

 

 一糸纏わぬ姿で謝罪をするというのもなかなかにない経験で、少し自分が情けなく思える。

 藤袴は思案顔で唸ったあと、仕方なさげにこう提案した。

 

「今日は私の手拭いと石鹸を貸しましょう。タオルは……まあ、あなたが先に使ってください。待雪は髪が長いですからね。風邪をひいてはいけない」

「すみません……助かります」

「私のタオルも貸そうか。私は別に、風邪をひいても君たちが看護してくれるだろうから、さほど問題はないのだよ」

「問題ありですよ。……それに、カガリビさんやニオウミヤさんにも看護くらいはしてもらいますから、期待はしない方がいいと思いますけど」

「なっ、そんなっ! あり得ないのか、桃源郷は!」

 

 鯉口を無視して浴場へと繋がる引き戸を開くと、内側から吹き付けた熱い蒸気が頬を焼いた。

 中央には大きな湯船があり、壁際には体を洗うためのシャワーが設置されてある。銭湯とよく似ていて、違いといえば、富士の絵がないことくらいだった。山や川といった地形がないこの島においては、富士山などは縁のない話なのかもしれない。

 

「思っていたよりも、まともな場所ですね。……もっとこう、体を洗うためだけの場所みたいなのを想像してました」

 

 思えばそうだ。希望ヶ峰学園のやっていることは非人道的なことばかりであったが、彼らの用意するものはいつだって一定の水準を満たしているように思える。厨房の設備も十分に使えるものであったし、今朝食堂に置かれていた食材たちは、どれも新鮮で上質なものばかりだった。

 孤島という下界とは完全に断絶された場所でありながらも、超高校級の新聞部である壱目の話によれば、申請さえすれば本や雑誌も届けてくれるのだという。

 ある程度快適に過ごせる生活環境が整えられており、嗜む程度の娯楽も提供されている。本当に、殺し合いなんていう言葉さえ出てこなければ、ちょっとした休暇であるかのような気分だった。

 

 そうすれば、自然と浮かび上がって来る疑問は、希望ヶ峰学園の目的は一体なんなのだろうということだ。恨み辛みからの行動とは思えないし、それに、自分たちに死んで欲しいというわけでもないようだった。

 むしろこの島では、死ぬことは難しいくらいだ。そりゃあ首を掻っ切れば人はいとも簡単に死んでしまえるが、この島で自殺したいと考える人は誰一人もいないだろう。

 

 だからこそ、分からない。

 希望ヶ峰学園は何を求めているのだろうか。

 何も分からないままに、自分は死んでしまうのだろうか。

 

(なにも分からないままに死ぬっていうのは、どういう気分なんだろう。自分が死んだ意味すら、分からないっていうのは)

 

 なにせ経験のないことだったから、その答えは見つかりそうになかった。誰かに聞こうにも、その答えを知っている人物は既にこの世を去っている。

 

 湯船には誰かの影があった。湯気で詳しく知ることができなかったために、誰だろうと目を凝らして見ていると、あちら側からこちらに話しかけてきた。

 

「おやおやーっ。待雪さんじゃないですか!」

「すみませんフジバカマさん。わたし、のぼせちゃったみたいで……先に上がっていますね」

「私の美貌にのぼせた、ということでしょうかあ? 仕方のないことではありますが、まあまあそこはグッと堪えて」

 

 壱目だ。壱目がいた。

 いつもは眼鏡をかけている壱目が、今に限って眼鏡をしていなかった。だから気付かなかったけれど、壱目がいた。

 壱目はばしゃりと水音を立てて湯船の中から立ち上がり、のぼせたように赤く上気した頬を擦りながらこちらに大きく手を振ってきた。

 待雪は苦虫でも噛み潰したような顔で小さく手を振り返した。

 

「? 待雪は、壱目が苦手なのですか」

 

 藤袴は、浴場に声が響かぬよう待雪の耳元で囁いた。

 その言葉端が疑問形になったのは、藤袴が壱目のことを詳しく知らないが故だろう。

 

「苦手といいますか、あまりああいったテンションに馴染めないといいますか」

「まあ、分からなくもありませんが……案外ああいった明るさが、今のギスギスした生活の清涼剤になりうるのかもしれませんね」

「清涼剤、ですか」

 

 壱目の気分()()()爽やかな、という意味であるのなら、それは間違っていないだろう。

 

「あれ? 鯉口さんはどうして、すっぱだかでそんなふうに縛られちゃってるんです? ……ああ、すみません! 三人がそういう関係だったとは、この私もさすがに気付きませんでした……ええはい、分かっていますとも! このことは黙っておきましょう。待雪さんと私との仲じゃあないですかあ! いくらにします?」

「あの、仲とかやめてもらってもいいですか……? それと、いくら、っていうのは……どういうことですか? イツメさん」

「やだなあ! 言わせないでくださいよ。口止め料ですよっ」

 

 恥じらうように頰に手を当てながら、壱目は答えた。

 こうやって他人に金銭を要求することが恥だと理解できているのならやめていただきたいものだが、そうは言っても聞かないだろうから、待雪は渋々とそれを了承した。

 

「いくらでも良いですよ。島から生きて帰れたときに、金額を決めましょう」

 

 待雪は、幸い金は人並み以上に持っていたし、その上それは使い道もないただ腐っていくだけのものだったから、壱目にあげたところで困りはしないかった。

 金銭に対してはあまり執着心がないからか、そうやっておざなりな扱いをついしてしまったが、そんな待雪と壱目のやりとりを見て、藤袴が怒ったような顔で割って入ってきた。

 

「いけません。金銭のやり取りなど、私たちのような子供がするべきではないでしょう。それに待雪。私達は、口止めを頼まなければならないような恥ずべき行為など、一つとして行っていないのですよ」

 

 自信に満ちていて、己の行いに恥じていない様子であった。それは壱目とは相反した言動である。壱目は最初こそ反論しようと目を光らせていたが、藤袴にキッと睨まれて、もごもごと口を動かしたのち、渋々と湯船の中に沈んでいってしまった。

 

「うう……やめてくださいよお。藤袴さんに睨まれるのは、なんだか私が悪いことをしているような気分になってしまうんです」

 

 と、壱目は分かりやすく萎縮してみせた。

 あの壱目のたじたじとした様子に、待雪は驚いた。

 

 藤袴の後ろに、縄で縛られた裸の変態がいなければ完璧だった。

 恥ずべき行為の代表格がいなければ。

 

「そうだぞ薫くん、私達の関係は決して淫らなものではない! 清く正しいおつきあいではないか」

 

 鯉口が言っていなければ完璧だった。

 

(いや、別にコイグチさんが言ってなくても完璧ではない気がする)

 

 ともかく、鯉口が関わるとなにもかもが台無しになりかねないと、急ぎ気味に鯉口を壁際まで寄せ、それから体を洗う準備を整え始めた。

 壱目は少し離れたところで、広い湯船でバタ足をしながら口笛を吹いていた。曲名はなんだろうか。聞いたことがないものだったから、おそらくは日本で流行っている曲なのだろう。

 

「ほら、体を洗いましょう。まずは鯉口からですね」

「……えっと、どうします? 縄は解いた方がいいんですかね」

 

 困ったように鯉口の方を見た。鯉口は、期待に満ちた目でこちらを見つめている。……その期待というものがなにを指すのかは、言わぬが花だった。

 犬を洗っていると思いながらやらないと、どうにも気が参ってしまいそうだ。

 

「縄は解かないでおきましょう。緩めの拘束ではありますが、この場合、拘束していることに意味があるのですから」

「じゃあ、このままで」

 

 鯉口の手拭いと石鹸を使い、泡を立ててから彼女の体に擦り付けた。

 

 人の体を洗うというのはなかなかにない体験で、肉を洗うのとはまた違った手の動きを必要とされた。……特に、力加減というものが難しい。自身の体を洗うときには自然と力は調節されるものだが、他人の体を洗うとなると、それもうまくはいかないのだ。

 

 すらりと伸びた脚を撫でるように、手拭いで幾度か肌の上を往復させる。鯉口はくすぐったそうに笑い声を上げていたが、それは無視して手早く下半身を洗い終えた。

 藤袴はどうやら上半身を洗ってくれているらしく、鯉口の髪を丁寧に指で梳いているところだった。

 

「足の方は終わりましたか?」

「ええまあ」

 

 あまり間を置かないうちに上半身も洗い終えたようで、桶を使って湯船から汲んできたお湯を頭からかけてやると、鯉口は犬のように首を振って髪をはたつかせた。

 水飛沫が飛んできて、少し鬱陶しかった。

 

「コイグチさんは湯船に浸かっておいてください。わたしたちは自分の体も洗わなきゃいけないんです」

「ええー、暇だよう」

「イツメさんがいるじゃないですか。一緒にお話ししてくださいよ」

 

 すると、聞き耳を立てていたのだろうか、待雪の言葉に反応し壱目はバネのように立ち上がってから、鬼気迫る顔で叫んだ。

 

「私ですかっ?! 嫌ですよ! ……だってこの人、どさくさに紛れることもせずにお尻触ってくるんですもん!」

「えぇ……なにやってるんですか、コイグチさん……」

 

 幻滅した気持ちで鯉口の方を見ると、鯉口は言い訳をするように吶吶と話した。

 

「べ、別に構わないでしょう……減るもんじゃああるまいし……」

「あなたに対する私からの評価は減りますけどね!」

 

 壱目からの評価など気にするようなことではないだろうが、しかし毒を以って毒を制すとはこのことなのだろうか。

 壱目が困るのならばさほど問題ではないし、なにより鯉口にとっては壱目すらも欲情の対象のようなので、二人には仲良くしてもらいたいと思うのだが──それは難しいことのようだった。

 

「いえ、別にですね。お尻を触られることにあまり抵抗はないのですが……」

「ななっ、なんだと?! 君には恥じらいというものがないのかっ。恥じらいがあっ!」

 

 恥じらいのない人間が、恥じらいのない人間に、恥じらいの大切さを説くその様はなんとも奇妙なものであった。

 

「鯉口さんにお尻を触らせても、良いことなんて一つもありませんからね。あの澪標財閥のご令嬢である澪標立竝さんに触られるのならそれも話が違ってきますが……鯉口さんはさして有名な方でもありませんし、お金も取れませんし」

「そりゃあ彼女と比べられてしまえば、私に権力的な面で勝る面はないかもだけど……ほら、あれだ。私だって剣道大会を何度も優勝したりして、なんか偉い人と試合をして勝ったりもしたぞ!」 

 

 まごつきながらも得意げに語る彼女のその強気な態度は、武士道なんていうものからは遠くかけ離れているように見える。

 そういえば鯉口は超高校級の剣道部だったなと、待雪は今更ながらに思い出した。

 

「コイグチさんって、剣道お得意なんですか?」

「いいや、剣道の腕前はずぶの素人同然だよ。防具なんかも暑苦しくって、大会の時以外はほとんど着たことがないくらいだ。足の運び方とか、点の取り方とか、正直よく知らない」

「そんなのでよく剣道部なんて名乗れますねっ」

 

 白けた目をして言ったのは壱目だった。

 

「まあ、私にはスピードがあるからな。速さだけなら誰にも負けないという自負がある。……要するに、技術をスピードで補っているんだよ。相手が何かをする前に決着をつけるのが私の戦い方さ」

「矜恃もなにもあったものではありませんね、鯉口は」

 

 と、髪を洗いながら呆れたように藤袴が呟いた。

 

「対戦相手に対する尊敬の意がまるで欠けています」

「勝つことができればいいのさ。私に名誉や誇りは必要ないのだし」

 

 尊大な態度で、鯉口は弓なりに胸をそらした。

 

「しかし超高校級の才能だなんて、あいつらは失礼なことを言ってくれるものだ。私たちが私たちであるのは、努力の賜物だというのに」

 

 その言葉にしんと、広いお風呂場は静まり返った。

 あの鯉口からまともな言葉が出てきたことに驚いていたからだろうか。

 壱目ですら、ただ静かに頷いているだけだった。

 

 ただ今の状況に一つ説明を付け加えるのなら、一人そうではない人物がいた。

 待雪は、自分が自分であることに、努力という要素をそこまで重要視することができていなかった。

 

 確かに、才能だけではカバーしきれないものがあって、その部分は努力で補ってきたけれども──待雪には、確かに才能というものがあって、多くの場合それに頼っていたからだ。

 

 日々怠惰な生活を送っていそうな鯉口だって、刃がついていない模擬刀で物を斬るだなんていう妙技を身につけるのには、想像を絶する努力をしてきたのだろう。なにせ、速さという単純明快な強さ一つで剣道の大会に幾度も優勝できるほどの驚異的な速度を彼女は会得しているのだから。

 藤袴だってそうだ。その引き締まった体はそのまま彼女が日頃から鍛錬を欠かしていないことを雄弁に語っている。潰れた耳も、彼女が行う練習の過酷さをわたしによく知らせてくれた。

 壱目だって、革の鞄がくたびれてしまうほどに様々な場所に出向いて、取材を行ってきたに違いない。なにより昨日の昼、食堂でくつろいでいた彼女は、休息の時間であっても記者であることを忘れてはいないようだった。

 

 みんな努力を重ねていて、そして今もなお上を目指している。

 自分はどうだろうか。ただ流されるままに生きてきただけなんじゃないだろうか。

 才能に身を委ね、与えられた課題をただこなしてきただけなのではないだろうか。

 

 目標もなにもない。

 大志を抱くこともしない生き方。

 

 自分の努力や生き方に自信を抱けていない時点で、既に自分は彼女たちと肩を並べることすらおこがましい存在なのだと、ふと気付かされた。

 

 急にそんな気分になって、待雪は泡を洗い流したあとすくりと立ち上がり、脱衣所に繋がる扉の方へと歩いて行った。

 

「すみません、わたしはそろそろ上がります」

「ん、待雪。お湯くらい浸かっていったらどうなんだ」

「いえ。わたし、海外生活が長くって、湯船に浸かる習慣がないんです。……それに、タオルを倉庫の方から持って来ようかと思いまして。やっぱり二人で一枚は無理があるかと」

 

 そもそも一人で一枚というのも、待雪の場合は結構厳しいものだった。藤袴は髪が短めだから待雪ほどは水分をふくまないだろうが、待雪は髪が長い分、せめて三枚はタオルを消費しないと十分に水滴を吸い取り切れないのだ。

 

「あと、よく考えてみればコイグチさんの替えの縄を用意してなかった気がしまして。さすがに濡れた縄で縛られるのは、コイグチさんも心地が悪いでしょうし」

「……それもそうですね。分かりました。脱衣所に戻ったときは呼んでください、それまでは私が鯉口のことを見ておきますので」

「分かりました。ありがとうございます」

 

 湯船に浸かることなく風呂場から出て、藤袴の服が入れられた籠から取り出したタオルに体表の水滴を吸わせ、それから服を着て。やはりというべきか、髪に至っては水滴が取りきれなかったためタオルを巻いた状態で外に出た。

 完全に乾燥していない状態だからだろう、いつもよりも外が寒いように感じられて、ぎゅっと服の端を握り込んだ。

 

 脱衣所を出たあたりで、ちょうど向かい側の扉から、見知った顔の女子生徒が姿を見せた。

 全身を白い洋服で纏い、黒々とした瞳を細め、こちらを見つめている。

 

「ああ。アズマヤさん」

「あらアナタ、こんなところで会うだなんて奇遇ね。……って、なにその頭。びしょびしょじゃないの」

「……お風呂に入ったんですけれど、お恥ずかしいことにタオルを忘れてしまいまして。それでフジバカマさんにタオルを借りたんですけれど、それじゃ足りなかったので新しいタオルを取りに倉庫に向かっているところなんです」

「ふうん……そ。ま、夜は冷えるのだから、風邪をひかないよう気をつけなさいね」

 

 それだけ言って、東屋は個室のある方へと歩いていった。待雪のことなど歯牙にも掛けない、素っ気ない態度だった。

 待雪は湯冷めをする前にと、早足で上一番校舎にある倉庫へと向かった。




※あらすじに各章の章題を表示しました。
※一章001(非)日常編の1に登場する超高校級のバスガール、熊谷夕顔の口調や一人称などを修正しました。会話内容などは特に変わりないんですけど、後から見ると不足分が多かったので文章も少し書き足しました。登場シーンが少ないのでさほど違和感はないと思うんですけれど、一応念のため、もう一度読んでいただけると話に入り込みやすいと思います。5/27

・日常編は結構長くなりそうです。キャラクターたちの紹介もそうですけれど、待雪さんと各キャラとの関係性もある程度書いておきたいと思っているので、あと三日分くらい書きます(今は二日目の終わりくらい)。今回の話で女子生徒は全員登場したので、あとは男子生徒の話を書く予定です。

【未来人】
 その名の通り、未来から来た人。
 過去に戻るか未来に行くか、これはきっと究極の二択だろう。
 ただ誰だって今しか生きられないのだけれど。

【大浴場】
 脱衣所と浴場に分かれており、どちらも和を感じられる造りになっている。
 脱衣所には背の低い棚が並べられており、服を入れるための籠が多く置かれている。鏡や体重計などもあり、また冬場であっても風邪をひかぬように暖房設備が整えられている。
 浴場は広く、露天式。体を洗うスペースと湯船しかない質素な作りではあるが、湯船は広く、寛ぐのには十分。毎日夜時間になると封鎖され、お湯が取り替えられる。
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