大正弾丸論破   作:鹿手袋こはぜ

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005 (非)日常編

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 いいか? 俺は女が大っ嫌いなんだ

 

 

 

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「いいか? 俺は女が大っ嫌いなんだ」

 

 彼にどのような言葉を返したらいいのかが分からず、待雪はじっと黙ってしまった。その態度がいっそう彼を刺激したのか、待雪にとって初対面である男子生徒は語勢を強めて厳しく当たってきた。

 

「貴様のような軟派なやつは特に嫌いだ。些細なことでうじうじして、泣き喚いて、その上あとになって陰口を叩くような陰湿さがどうにも好かない!」

「過去になにかあったんですか」

「うるさい! あったんだよっ、いろいろっ!」

 

 大きな声で怒鳴ると、彼は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がって、あと一歩というところまで待雪に詰め寄り、待雪の酷く萎縮しきった目を睨みつける。

 篝火が彼を抑えていなければ胸倉を掴まれていただろうということは、伝わってくる気迫から、想像するまでもない真実なのだと確信できた。

 恐る恐る顔を上げると、抉られたように鋭くなった目が視界に入り、待雪は思わず息を呑んだ。その瞳の奥には確かな嫌悪というものが存在していて、彼はそれを隠す気もないらしい。

 

 それほどまでに自分は──その男にとって女という生き物は、敵視するべき対象なのだと思うと、出る言葉もないというものだったが、震える両手をなんとか胸のあたりまで持ってくると、待雪は声を振り絞って真に訴えた。

 

「で、でも……わたしはそんなんじゃ……っ」

「みんな、そう言う。なぜなら女は愚かな生き物だからな、自分がそうだと気付けないんだ」

 

 一度に言い切ると、男は篝火の腕を振り解き、机の上に開かれた本や筆記用具を掻っ攫って、憤りが隠しきれていない幅の大きな歩みで食堂を出て行った。

 

「二度と話しかけてくるな。俺は、お前が、嫌いだ」

 

 そう冷たく突き放されて、待雪はそれ以上言葉を発する勇気を持つことができず、男子生徒が出ていった先に背を向けて、物音を立てぬよう厨房の方に戻っていった。

 

 食堂の外で、彼と、彼を追いかけていった篝火とが諍う声が聞こえたが、待雪はそんなことを気にしていられるような心の余裕もなかったため、ただ下を俯いていることしかできないでいた。

 

 涙こそ出なかったが、しかしああいうふうに怒鳴られて落ち込まない人間はそう多くはないだろう。

 待雪は、こういったとき泣き喚いたりするよりかは、物静かに自責の念に囚われてしまう人間だった。

 いくら理不尽なことであっても、誰かを恨むことができず、不始末な自分に責任を感じてしまうのだ。

 

 しかし、マイナスなことばかりでもなかった。こうも真正面に悪意をぶつけられて、気付きを得ることができたのだから。

 やはり自分は料理人として生きていく道しかないのだろうと、誰に言うでもない言葉を心の中で幾度か繰り返した。

 

 時を戻せば、三日目の昼前。

 食堂には珍しく人気(ひとけ)がなく、ある男子生徒が孤高な雰囲気で一つの長机を独占していた。

 彼は、おそらく図書室から借りてきたのだろう幾つかの本を机に積んでいて、ときたまコーヒーを口に含んでは、熱心になにかをノートへと書き込んでいた。執念にでも取り憑かれたように没頭する彼の姿は、この三日間で何度も見かけている凡庸な光景だった。

 それに意識を取られて、待雪はたびたび食堂の方を覗いては、彼を影から密かに見つめた。彼はそんな視線に気が付いていないのか、こちらを意識するようなそぶりは見せず、黙々と作業に打ち込んでいた。

 

「…………」

 

 その排他的な態度はだれもかれもを遠ざけている。その証に、彼はずっと険しい顔をしているばかりで誰とも口を聞こうとはしなかった。

 思うに、彼は、誰かと関わり合うことを意図的に避けているように見えた。殺し合いという状況下に置かれ、恐れもあるのだろうが、それ以上に彼は誰も信じていないようなのだ。

 それも無理はない。今の環境で疑心暗鬼に陥るのは至極当然だ。そしてそれが臆病なわけがない、それが彼なりの生存戦略で、この環境に対する戦い方なのだろうから。

 

 だが待雪としては困ったことに、その男子生徒は待雪が作った料理ですらも、決して食べようとはしなかったのだ。

 時々厨房に入っては、簡単なものであるが自分で調理を行い、それを食べ栄養としているようで、料理人である待雪の力を必要としていない。

 

 待雪にはそれが残念でならなかった。

 自分が作った料理を食べてもらえないことに、おのれの力不足を感じ、つい、どうすれば食べてもらえるのだろうかと考えてしまうのだ。

 

(自分にはなにが足りないんだろう……彼はどうして、わたしの料理を食べてくれないんだろう)

 

 疑問を抱き、いつものように食堂を覗き見るが、それだけじゃ答えは得られない。

 

 待雪が作る料理は、まさしく絶品と呼べるものだ。

 百人が食べれば百人が美味しいと答え、万人が食べれば万人が美味しいと答える。味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚、そのすべてに訴えかける、人の本能的な欲求を引き出す彼女の料理は、例外なく、また比喩もなく万人に好まれるものだ。

 人が求めるものを的確に作り出す彼女の感性というものは、まさしく天から授かった才能と呼べるものだろう。だからこそ待雪はその才能にこれまで頼って来たのだし、そしてそれは確かな成果を生み出し続けていた。

 

 それがどうだろう。

 決して上手であるとは言い難い、煮て焼くだけのような調理しかできない彼は、頑なに待雪の料理を食べようとしないのだ。

 

 自尊心など待雪にはないが、しかしこれまでの人生で当たり前のように経験してきた“料理を食べてもらう”ということが、彼ばかりは例外なのだと知り、待雪はずっと思い悩んでいた。

 

「直接、理由を訊きにいこうかな……? でも、なんて訊けばいいんだろう。どうしてわたしの料理を食べないんですか、なんてこと、言えないし」

 

 そんな強気な物言いをしてしまえば、余計に距離を置かれてしまうだろうことは目に見えている。

 待雪は、人と関わるための力をどこかに落としてきてしまったのではないかというほどに口下手であったから、自分の中で渦巻く複雑な感情を胸の内に抱えながらも苦悶することしかできずにいるのが、なんとも苦痛だった。

 

 そんな折に、篝火が元気よく食堂にやってきた。どうやら鯉口監視の当番を終えたばかりらしく、誰かを引き連れている様子はなかった。

 

「よォ、待雪。水一杯もらえねェか」

「っと、はい、水ですね。ちょっと待っていてください」

 

 随分と激しい運動をしていたのだろう、冬場であるにもかかわらず額には玉のような汗が浮かんでいる。超高校級の野球部の名に恥じない隆々と膨れあがった上腕や肩周りの筋肉の形が、汗で張り付いてしまったシャツの上からよく分かって、少し目のやり場に困るほどに、彼は汗だくだった。

 すでにぐっしょりとしていて、吸水性がまるで損なわれているタオルを首にかけると、篝火は上着をそばの椅子の背もたれにかけてからゆったりと寛ぎ始めた。

 

「あっぢィ……」

(湯気が立ってる……)

 

 水が注がれたコップを手渡したところ、篝火はそれを一息に飲み干して、それでもなお喉が渇いているのだというふうに手で自らを扇いでいた。

 

「なにをされていたんですか?」

「鯉口監視のついでによォ、走り込みしてたんだ。匂宮のヤツ、ケッコー体力あるし、足も速ェんだ」

「……トランクを持ちながら?」

「? ああ。ちょうどいい重りだよな、これ。希望ヶ峰も粋なことしてくれるもんだ。……ただ、寝るときに邪魔なのが考えもンだけどよォ」

「…………(筋トレに役立つよう付けられたものじゃないと思うけど……言わぬが仏かな)」

 

 特に話題もないため、しばらく言葉も交わさず、数度コップに水を注いだ。その度に、篝火は有り難そうに手を擦り合わせて、喉を鳴らした。

 呼吸が整った頃を見計らって、ふと思い出したような素振りをして訊いてみる。

 

「そういえば、コイグチさんの様子はどうですか?」

「ん、鯉口ィ? 変なこと聞くンだな」

「少し、気になったんです。……コイグチさんは、いつもあんな調子なのかなって」

 

 あんな調子というのは、もちろん、鯉口のあのどうしようもなく残念な性格や振る舞いのことを指している。

 篝火もそのことをよく理解しているようで、曖昧な表現であってもすぐにピンときたのか、言葉は濁らせたものの明確な答えを返してくれた。

 

「アァ、鯉口は良くも悪くもずっと鯉口だよ。飽きもせずにな。……疲れってモンを知らねェんじャねェのかなァ」

 

 悩むように頭を掻き、篝火はため息をつく。

 鯉口のことを考えるのは大変精神を削られるものなのだろう。言葉には元気がなかった。

 

「なんつーか、馬鹿みてェにはしゃいでる。……というか馬鹿だな、アレは」

 

 篝火は緩く背もたれに体重を預けて、疲れた様子で天井を見上げた。だいぶ熱も冷めてきたのだろう、発汗はもう治まっていた。

 

「さっきも言ったように、匂宮と外で運動してたんだけどよォ。鯉口のやつ、ずっとツマラなさそうな顔してたのに、藤袴が来た途端目に見えて張り切りやがって」

「ああ……なんだか、コイグチさんらしいですね」

「らしいってなんだよ、らしいって。俺と匂宮じゃダメだッつーのかよ!」

 

 不満そうに口を尖らせて言うので、待雪はすぐに訂正を入れた。

 

「いえっ……その、どうやらコイグチさんは、歳下の方がお好きのようでしたので……」

「あー……なるほどな。俺も匂宮も、華奢って感じじゃァねェし。歳も同じくらいだろうし。仕方ねェのかなァ……」

 

 残念ってわけじゃねェんだけどよ、と、篝火は露骨に残念そうなため息をついた。

 残念というのなら鯉口そのものが残念な存在なのだが、彼女という存在の捉え方というものは、男女によって異なるものなのだろうかと、不意に疑問に思った。

 待雪は、鯉口とは同性であるからさほど意識というものを持たないようにしているけれど、異性である篝火からしてみればそれも違ってくるだろう。

 証拠に篝火は、鯉口の恋愛対象に自分が入っていないことを知り、酷く落ち込んでいるようだったから。

 

「はーァ、やっぱ実物は違うンかなァ」

「実物……? どういうことですか」

「ん、聞いたことねェのか? アイツの噂」

「……聞いたことがありません。コイグチさんの噂って……未成年淫行で捕まったとか、そういう話ですか?」

「バカ、それは噂じゃなくって事実だろ。あんな変態を野放しにしてるほど日本の警察も甘かねェッて。話に聞いたわけじゃねえが、一回くらいは御用になッてンだろ。……ッて、いやいや、そうじゃなくッて。アイツの噂だよ」

 

 長年海外にいたからか、日本の世間や風俗にとことん疎い待雪は、篝火の言う噂というものについてまるで心当たりというものがなかった。

 ただ単純に、噂なんてものには興味がないからというのもあるのかもしれないが。しかし、元々、自分は世俗にてんで縁がない人間だったことを思い出す。

 商売をして生計を立てているとしている身としては、流行りや廃れとは無縁な人生というのも悪くはないのだけれど。ただどうにも、こう、人と話をしているときに話題が不足しがちであったり、またついていけなかったりするのは昔から困りものだった。

 

「鯉口葵の名前は有名なもんだったンだぜ。凄まじく剣道が強い上に、気立ても良くって、意志が強い。凛々しい顔立ちをしている日本刀のようにしゃんとした女がいるんだって噂は、よく耳にしたもンだ」

「はあ……」

「ま、噂なんざあてにならねェっつー話だよ。今のあいつの姿を見りャ分かるだろ? ……ああくそ、ちょっと憧れてたんだけどなァ……」

 

 篝火は今になって疲れがきたのか、ぐっとコップの水を煽ると、心配になるほどの勢いで机に伏した。

 それから、唸るように、「顔はいいんだけどなァ……顔はァ……」とひとりごちた。

 

「そうですね……顔はいいんですけどね……」

 

 同意を示す待雪の言葉。それを聞くと、篝火は伏せられた腕の隙間から顔を覗かせて、興味深そうに眉を上げ待雪に尋ねた。

 

「やっぱ、女のオマエから見てもそう思うんだな」

「ええ、まあ……コイグチさんは、喋らなければ本当に、カガリビさんがおっしゃっていた偶像と一致するんですけれど……」

「その点、噂と変わらねェのは熊谷くれェか。あとは東屋とか」

 

 指折りで数えながら篝火は言った。

 ファッションなんかには興味のなさそうな篝火の口から(今の服装だって、和服と洋服がまとまりなくバラバラに組み合わされた奇天烈な格好だ)、ファッションデザイナーである東屋や、バスガールとして大衆の人気を集める熊谷の名が出てきて、待雪は思わず疑問を口にした。

 

「よくご存知なんですね」

「美人には興味があるからな。ファッションデザイナーやバスガールなんて、美の象徴みてェなモンだろ? 現に二人ともキレイだし」

「否定はしませんが」

「それに、演劇とか好きだからよく観に行くんだけどよォ、劇場じゃァそういう噂話もよく耳にするンだ」

「劇場ですか。ああいう職業の方は、声も容貌もお綺麗ですよね」

「んだんだ。けんど、演劇やってるようなやつはこの島にいねェよなァ。同年代に好きな女優がいたから、そんな出会いもちッと期待してたんだけど……強いていうなら、澪標や東屋なんかが、そういった芸術的な美しさがあるよな」

 

 しかしどうにも、その二人には近付き難い印象を篝火は抱いているのだろう。あまり前向きな姿勢ではないようで、目がどこか遠いところを見ていた。

 その気持ちは分からなくもない。

 東屋はいつもツンケンとしているし、澪標は誰に対しても親切ではあるが、しかして親密になり難い高貴さがある。

 

 美しさとは一つの理想であるのだから、それがどれだけ高い位置にあってもおかしくはないのだが、あまりにそれは程遠く、手を伸ばすことすら億劫になってしまうものだった。

 住む世界が違うという言葉があれほど似合う二人もいないことだろう。

 

「そうですね。あのお二人は、可愛らしいというより美しいという言葉がよく似合います」

 

 そう同意をすると、篝火はやや気を持ち直したように体を持ち上げて、明るく歯を見せて笑った。

 

「まったくおんなじ意見だ。やっぱ可愛いとかよりもよォ、俺、綺麗な人の方が好きだな」

 

 そっちの方が手に入れ難くって、高嶺の花で、理想的だ。

 

 篝火はおもむろに立ち上がって、体の筋をうんと伸ばしながら元気良く意気込んだ。

 落ち込んだ様子もない。いつも通りの篝火だった。

 

「オマエと話して元気出たわ。あんがとな」

「いえいえっ……そんな、感謝されるようなことは……」

「大袈裟だな。別にそんな、命の恩人みたいに奉ってるわけでもねェのによォ」

 

 なにがおかしいのか、篝火は、待雪を見て朗らかに笑っていた。

 

「よっしゃ。このさい、アイツにも訊いてみるか」

「? アイツ、ですか?」

「ほら、あそこにいるアイツだよ。……えーっと、名前はなんていったっけな。おい、オマエ!」

 

 篝火は豪快な呼び声で一人の男子生徒に──食堂で独り黙々と勉強に励む、頑なに待雪の料理を食べようとしない男子生徒に──声をかけた。

 あまりに唐突な出来事に、待雪はきゅっと喉が引き締まるのを感じた。

 

 男子生徒は、鋭く細められた目をこちらに向けると、これ以上にないほど低く冷たい声色で「なんだ」と応えた。

 冷たい態度を取られていることをなんとも思っていないのか、篝火は待雪の心境を知ることなく明朗に話す。

 反して待雪は、どうしたらいいのか分からなくて、視線を右往左往とさせていた。

 

「オマエ、名前なんだっけ!」

「……チッ」

 

 なんとも排外的な男だった。

 舌打ちをしたのは、話しかけられる可能性を危惧していたからだろう。それが杞憂となって終わらなかったことをこうして厭っているようだ。

 ただ、だからといって無視を決め込むつもりもないらしく、そこは素直に答えを返してくれた。早く話を終わらせたいという気持ちが逸っているのか、余計な言葉は出てこなかった。

 

「俺の名前は、竹河(タケカワ)水仙(スイセン)。超高校級の水泳部……用件はそれだけか?」

「いやいや、悪りィ悪りィ。ちょっと質問があってなァ? あのな、竹河。オマエって、映画とか演劇とか観たりするか?」

「……嗜む程度にはな」

 

 篝火と話をすることに対し、良い感情を抱けていないのだろうということがひと目で分かる険悪な態度だ。

 竹河と名乗った男子生徒は、眉間に皺が寄った顔を篝火に向けた。やはり嫌悪感をこちらに抱いているらしい、一睨みされるだけでも心が怯んでしまいそうだった。

 だけれど、なぜだか竹河は篝火の方を向くばかりで、待雪のことは歯牙にも掛けない様子だった。

 まるで意識していない。自分は彼の瞳に写っていないんじゃないかと思えるほどだ。

 

「そうか、そりャァいい趣味持ってンな」

「一緒にして欲しくはないがな……どうせ、貴様の目的は女だろう」

「んなことねーよ! ……そりャァ、観る演目を誰が出ているかで決めているきらいはあッけどよ……」

「やはりそうだ。純粋に楽しんでいないな」

 

 竹河が鼻で笑うと、篝火が怒ったように声を大きくし、

 

「オメェだって好きな女優くらいいンだろ」

「いるにはいるが、あくまで演技が上手いと評価しているだけだ」

「アァ? 本当か。じャァ、あの人はどうなんだよ」

 

 篝火はいくつかの人名をあげたが(おそらく篝火イチオシの女優なのだろう。待雪には聞いたことのない名ばかりだったが、竹河はしっかりとそれが誰なのか理解しているようだった)、竹河は静かに首を横に振るだけだった。

 

「竹河、オマエ、変なヤツだなって周りから言われねェか?」

「面識のない人に対し、いきなり変なヤツと呼び捨てるようなやつよりかはまともだろうと思うが」

「そういうとこだぞ」

「…………、クソッ。そもそもだな、篝火。お前が名前を挙げた女優は全員、胸の大きなやつばかりで──」

 

 演劇に関する談議が進む中、待雪は半ば置いてけぼり気味に傍に立っていた。厨房に戻ろうにもそのタイミングを見失い、会話に入ろうにも話題というものが掴めずにいた。

 

 男子の間で行われるような猥談に巻き込まれなかっただけ運が良かったと考えるべきか(胸の大きさがどうこうの時点で充分猥談な気がするが)、それとも、こんな風に篝火に振り回されてしまい運が悪かったと考えるか……どちらにしても、待雪にとって益になるようなことは一つとしてなかった。

 

 そんな中で、竹河は相変わらず待雪の方に一度も視線を向けやしなかった。彼女の存在を認めてすらいないようだった。

 待雪がいることに気付いていないわけではないだろうが、ただ、意図的に視界から外しているように思われる。

 

 自分は竹河との間に、なにかしらの確執というものを持ってしまっていたりするのだろうか。そんなことを考えてしまうくらいに、彼は待雪を意識の外に追いやっていた。

 

「あ、あのう……」

 

 どうしていいものか困り果てた末に、待雪は勇気を出して、二人に声をかけた。

 

「ん。アア、待雪……そうだそうだ、本題を忘れてた」

 

 誤魔化すように笑うと、話を中断して、篝火は意気揚々と竹河に尋ねた。

 

「なァ竹河。お前、気になる女子とかいンのかよ」

「……はぁ?」

 

 そこでようやく竹河は、ちらりと待雪の方を見た。

 

 ただそこに、好意などは含まれていない。

 あるのはただの憎しみだった。

 

 竹河がなにを勘違いしたのかは分からないが──ひょっとすれば、さっきからじっと黙って篝火の隣に立っていた待雪が、竹河のことを気になっていて、それを篝火を通して好みを聞こうとしている──という誤解を生んでいたのなら、彼の地雷を踏んでしまっただろうことは十分にあり得る。

 

 この三日間、待雪が竹河をずっと厨房から覗いていたことが気付かれていたならば、より一層。

 

「ああ、クソ。いいか? 俺は女が大っ嫌いなんだ──それこそ、触れるだけで蕁麻疹が出るくらいにな」

 

 そこで冒頭に戻る。

 待雪は強い悪意をぶつけられたあと、厨房に戻って、そののち竹河と激しく口論を交わしていた篝火に頭を下げられながら昼食の支度をしていた。

 

「ほんッとうにすまねェ! この通りだッ。どうか熊谷にだけは言わないでくれ!」

「わたしは、なにも怒っていませんよ……むしろ悪いのはわたしです。無神経だったと思います。だから、頭を下げなくっても……」

「そうか! それは助かる!」

 

 けろりと表情を変えて、篝火はさっきまで抱えていた不安を豪快に笑い飛ばしてしまった。

 こうもあっさり明るくなられてしまうと、別に責めているわけでもないのに、やり切れない心のモヤモヤが生まれてしまうのはなぜだろうか。待雪はむすっと頬を膨らませ、少しだけ篝火の料理に脂身を足した。

 

 ……でも確かに、熊谷は怒ると怖い。以前篝火が大根のかつらむきをしながらオペラを独唱していたところ、食べ物で遊ぶなと酷く叱られていたのを思い出した(歌は見事なものだった)。

 熊谷に怒られることを怖がる篝火の気持ちは分からなくもないが……。

 

「なんだか軽薄ですね。……カガリビさんは、クマガイさんに怒られたくないから、謝ってるだけなんじゃないですか?」

「それもある」

「開き直らないでください。……いえ、別に、構わないんですけれど」

 

 しかし待雪はほんとうに篝火に対して怒りというものは抱いていなかったから、責める気にはなれなかった。それはもちろん、竹河にだってそうだ。

 むしろ、竹河が、なぜ自分の料理を食べないのかという理由を知れただけでも十分だとすら彼女は考えている。それだけでも彼女は満足した気持ちになれた。

 

「まァ、その、悪かったよ。ほんと。やっぱこんなんだからモテねーんだろうなァ、オレ……。はァ、なんでこんなに馬鹿なんだろ」

「……わたしは気にしていませんから、そんなに気に病まないでください」

「そうはいっても、こう、堪え難い呵責のようなもンがな……?」

 

 反省はしているようで、篝火は暗く表情を翳らせていた。いつもの元気も二割減といった感じで、どこか体の動きにも自信がない。

 自分のせいで、誰かが元気をなくすというのは本望ではない……どうしたものだろうかと悩んでいると、そういえば、と一つの閃きがあった。

 

「じゃあカガリビさん。贖罪ということで、わたしの手伝いをお願いできませんか?」

「手伝い?」

「はい。……三日か二日に一度、この島には新しい食材が運搬されてくるんですけど……厨房までそれを運ぶのは、一人だと骨が折れるんです。兵隊さんも手伝ってくださるんですけれど、それでも人手がたりませんし……」

「つまり、それを手伝って欲しいってことか」

「そういうことです。それ以外にも、もっぱらなにか、人手が欲しいときにお願いするので……快く引き受けていただければ……」

 

 篝火はいつものように首を軽く縦に振ってから、「よっしゃ、任せろ」と明るい笑顔を返してくれた。

 さっきは篝火のことを軽薄だと言ったが、それは少し真実とニュアンスが異なるだろうなと待雪は思い直す。

 良くも悪くも素直というか、単純というか。目標に向けて一直線に走ってしまうがために、二つのことを同時にこなせないような不器用さが、篝火からは感じ取れるのだ。

 

「荷物運びは昔からよくやってたから、ドンと任せろ。実家が店やってるから、こき使われるのは慣れてンだ」

「ほんとうに、助かります」

「ま、荷物運び以外でも頼ってくれよ。仲間なんだし」

「……仲間、ですか」

 

 仲間。

 その言葉は、あるいはそれに似た言葉を、待雪は先日も聞いていた。

 だが、まだそれは聞き馴れない、ぎこちないものだった。

 単純に、待雪にはまだ経験がないのだ。

 誰かと仲間になるということの、自覚も。

 

「ああそうだ。仲間だ。……鯉口監視のな」

「はやく脱退したいです」

 

 

 

 2

 

 

 

「夜警、ですか」

「はいそうです。夜警です。……あっ、夜警といっても、絵画の方ではなく」

「それはまあ、分かりますけれど」

 

 厨房に置かれた丸椅子の上で、ぴんと姿勢を正して座る藤袴は、混じり気のない澄んだ瞳で待雪を見つめていた。

 対して待雪は、少し疲れたような表情で彼女を迎える。食器を洗っている途中ということもあり、彼女の誘いは思いがけない出来事であったということもある。

 

「ええっと、夜警、ですか……わたしは、格闘だなんて真似事しかできない非力な人間ですから、有事の際は、足手纏いになるだけかと……」

 

 待雪が心許なく言うと、藤袴はそれと相反し、強気な姿勢で胸を張ってみせる。

 自らの行いに強い自信を持っているのだろう。傲慢な驕りでも、はたまた自己中心的な振る舞いでもない彼女の強い意志は、見ているだけで眩しいと感じてしまうものだった。

 やはり自分のような薄志弱行の人間とは対極的な人だと再確認させられる。

 

「足手纏いだなんて……そのようなことを気にしないでいただきたい。あなたは私が守ります」

「はあ……」

「露骨に嫌そうな顔をしますね。気持ちを察することができないわけではありせんが……心配ならご無用です。鯉口はいませんよ」

「いえ、そういう問題ではなく」

 

 むしろ鯉口は、夜警される側だろう。

 それに鯉口が夜警をすること自体が足手纏いというものだ。なにせ彼女は両手を縛られていて、身動きが取れないのだから、他人を守るどうこう以前にきっと自分のことだって守れやしないだろう。

 ただ、それは待雪もさして変わらない。待雪は両手が空いていようとなかろうと、これと言った格闘術も見せることができないのだし、なにより彼女はまだ護身術を会得していない。

 

「わたしは、夜警に参加する意味を見いだせないでいるんです。ただのお誘いでしたらお受けしたでしょうが、夜警ともなると、わたしのような虚弱な人間はかえってみなさんにご迷惑をかけるのではと……」

「私が信用ならないというのですか。私にはあなたを守ることができないと」

「け、決してっ! そういう意味では……っ」

「……今のは少し、いじわるな言い方でしたね。申し訳ありません」

 

 ただその考え方は、待雪らしいといえば、そうなのかもしれませんが。と、藤袴は不満げだった。

 待雪が誘いを断ることを予想していなかったわけではないだろうが、しかしそれが喜ばしくないのは確かなようで、表情は暗く、うんと悩んでいた。

 ここで待雪があっさりと首を縦に振れば、そんな陰りも消え失せるのだろう。ただ、自分が夜警に参加することで藤袴が背負うことになるであろう危険性を鑑みれば、どうしたって頷くわけにはいかない。

 

 だが、藤袴は、断られたならそれで終わりと、諦めよく前に進んでいける人間ではないようだった。

 藤袴は待雪の心に直接語りかけるような丁寧な言葉遣いで思いの丈を話した。

 

「そもそも私だって、有事の際、自分の身を守ることができるかと問われれば、確かな返事は返せないことでしょう。私がいつもしている柔道とは試合のことですからね、ルールの下で行われる闘いと、殺し合いとは全く異なるものでしょうから。……ましてや今は、誰がどんな凶器を持っていても不可思議ではない。私だって人ですから、拳銃で胸を撃たれれば死んでしまいます」

「ですから……わたしのような足手纏いがいると、フジバカマさんがより危険に……」

「いいえ。そんなことはありません。待雪は闘うことを前提にしているから、そのように考えるのです。私たちはむしろ逃げるべきなのですよ。あなたには特別な格闘経験や、大の大人を打ち負かすような膂力など必要ありません。ただ逃げるための足があればそれでいい」

「で、でも。わたしはっ。そうだとしても、夜警に参加したところでお役には立てな──」

「役に立つ立たないではなくっ」

 

 言い切らないうちに、藤袴が待雪の言葉を遮った。

 熱心なその気迫に、待雪は息が止まるのを感じた。

 

「ええいっ、まどろっこしいですね。分かりました、率直にお伝えしましょう」

 

 立ち上がって、藤袴は壁際まで迫り、待雪の両の手をグッと掴んで、それを自分の胸元まで力強く引き寄せた。

 驚いて、待雪は、藤袴に身を預けるような体勢になって、こちらを虎視眈々と睨む藤袴の動向を恐ろしげに見守っていた。

 

 人が多くいた昼時からずいぶんと時間が経っているということもあり、食堂にはほとんど人がおらず、二人の変化に気付く者は誰もいなかった。

 

 時が止まったかのような長い静寂を先に破ったのは藤袴だ。彼女は意を決したように深呼吸をして、熱い眼差しを待雪に向けて話した。

 

「絆を深めるべきだと、そう考えています」

「き、絆? ですか?」

「はい。絆です。……はっきり物を言いますと、私はあなたとの間に壁があるように感じています。どうしても取り除けない、見えない壁があるように。それはきっと、今後の活動に支障が出るものでしょうから……だから早いうちに、私はそれを取り払いたいのです」

 

 藤袴の言う心の壁なんてものが、本当にあるのだろうかと待雪は思った。だってこんなにも自分は、彼女に心を許しているのだから。

 ただ、藤袴は真剣なようだったし、こうまでさせておいて断ることもできず、待雪は頷きこそしなかったが、その唇を微かに震わせて同行の意を伝えた。

 

 夜、玄関ホールは日が沈んだことで格段と氷点下に近付き、吐く息も白い靄として形を作るほどだった。

 これほど寒いと食材が腐る心配もないが、早朝には井戸の表面に薄氷が張っているだろうから面倒だなと、暗色のマフラーに顔を埋めながら、未だ集合場所に来る気配のない一人を待っていた。

 

「いつものことですが、遅いですね……篝火は」

 

 銀飾の懐中時計を覗きながら、呆れたふうに藤袴は嘆いた。

 すると、ちょうどその時機に分かりやすく足音を立てて、篝火が寄宿舎の階段を駆け降りてきた。

 

「悪ィ悪ィ! ちッと上着探しててよォ」

「それにしては時間がかかり過ぎではありませんか?」

「いやァ、持ってきてたヤツが全部汚れちまッてたもンだから、キレイな上着探してたンだ」

 

 篝火はなぜか今来ている上着を得意げな表情で見せてきた。綺麗な上着と言っていたのに、薄い月明かりの下でもよく見えるくらいに彼が着ている上着は汚れていて、つまるところ彼が他に持っている上着はよっぽど酷いのだろうと思われた。

 

「昼間あんなに、はしゃぐからですよ」

「いいだろ別に。オメエが強えのが悪りィんだよ」

 

 比較的綺麗なものと言ってはいたが、それでも気になるのだろうか、篝火は付着している土埃などを払っていた。

 その隙を見て、待雪は影に隠れながら隣にいる藤袴に尋ねた。

 

「昼間、何をされていたんですか?」

「組み手を少し。体格差もあるので苦難しましたが、負けはしませんでした」

 

 負けはしなかった、というところをやや強調して言っているのは、やはりそこに矜持を抱いているからだろう。

 篝火がどれほどの腕前なのかは知らないが、見るからに体格差がある篝火と対峙し、負けはしなかったというのだから、よほど藤袴は柔道が強いのだろうということが知れた。

 土の上でも投げ飛ばすといった容赦のなさが際立つが、篝火がどこかを痛めているような様子でもないため、そこはやはり上手にやったのだろう。

 

 そんなことを考えていると、篝火がようやく待雪の存在に気付いたようで、気さくに挨拶をしてきた。

 

「おう、待雪。オメエもいんだな」

「フジバカマさんに、誘われまして」

「ははッ。そうかそうか、頑張れよ」

「笑い事じゃないですよっ。あまり気乗りはしていないんですから……今もまだ不安で……」

 

 夜。それも玄関ホールという声が反響しやすい空間にいるということもあってか、今の会話は藤袴に聞かれていたらしく、ランプの明かりをこちらに向けられた。

 

「そんなに私が頼りになりませんか?」

「そ、そういうわけじゃないんですけれど……その……」

「昼に言ったではありませんか。役に立つ立たないではなく、また足を引っ張る引っ張らないでもないのだと」

「ですが……」

「煮え切らないですね、待雪は。……ささっ、これを持っていてください」

 

 藤袴はなんの前触れもなく、あかりの灯ったランプをこちらに放った。そのまま落としてしまうわけにもいかず、慌ててランプの取っ手を掴んだ。

 

「上手!」

「上手、じゃ、ないですよっ。落としたらどうするんですか……っ」

「こうでもしないと、明かりさえ持ちそうにありませんでしたから」

 

 手渡されたランプを胸元に翳してみると、少しだけ手元が明るくなった。今日は雲がないからか、月の明かりも強いけれど。でも手元に灯りがあると、ほのかな暖かみを感じる。

 

「この島は電灯が一つもありませんからね。灯台から送られてくるサーチライトの光があるとはいえ、夜警にランプは必須です」

 

 背面を通る光の筋を横目に、藤袴は遅れてやってきた篝火にもランプを一つ手渡した。

 サーチライトは夜通しで島を巡っている。島から脱走者が現れないように監視しているのだろう。校舎には死角も多いが、囲いとなる金網との間には広い空き地が十分に広がっているため、四方に建てられた監視塔からはよく見通すことができるのだろう。

 

 厨房で料理をしていると、つい忘れがちになるが、この島において逃げ場などないのだと再び思い知らされた。

 死にたくなければ人を殺すしかない。この島から出たければ、人を殺すしかない。そんな狂った二択は、それでもこの島にいる十六人の若人に選択を強いていた。

 ただ待雪は、死にたくはないが、だからといって誰かを殺す気にはなれなかった。

 

「さっそく始めましょう。では、私は、こちらから行くので、二人は向こうのほうに」

「おう」

「では待雪は、私に着いてきてください」

「は、はい……」

 

 言われるままに藤袴の背を追った。

 こうなってしまえばヤケだ。有事の際は藤袴の足を引っ張ることのないよう、一目散に逃げるしかない。ただ一つ懸念材料があるとすれば、こんなにも重たいトランクを──初日から首元につけられている首輪とケーブルで繋がった、非常に重たいトランクを──抱えたままで、十分な速度で走ることができるだろうかということだった。

 外は雑草や石も多く、ブーツだと少し歩きづらいほどなのだから、その上夜という視界の悪い状況では走ることはままならないのではという懸念もある。

 

 反して、藤袴は、あんなに重たいトランクを持っているというのに、それを感じさせない足取りで月夜を進んで行った。体幹や筋力が優れているのだろう、軸がしっかりした歩みだった。

 度々こちらの様子を伺いながらのことだから、本来はもっと早く歩くことができるのだろう。

 やはり自分は足手纏いであるように感じてしまう。

 

「トランクは重くありませんか? 歩きづらいようなら、私に任せてください」

「いえっ、大丈夫ですっ」

 

 気遣いは嬉しかったが、迷惑をかけるわけにはいかない。それに気になることもあった。

 

「えっと……カガリビさんたちは、一体どこに……?」

「篝火と匂宮は、私たちとは反対側から、校舎を時計回りで回っています。ですから私たちは反時計回りに」

「なるほど……だから向こうに」

「そういうことです」

 

 これは藤袴に限ったことではないのだが、待雪は大抵の場合、人と会話を弾ませることができない。

 他者との交流を疎んでいるわけではないが──むしろ沈黙は身に堪えるくらいなのだけれど──しかしどうにも言葉がとっさに浮かんでこないのだ。

 

 よく喋る人が相手なら問題はない、適当に相槌を返しているだけでも会話が成り立つし、なによりそういう人は自分が話しやすい環境を作ってくれる場合が多いからだ。

 その点、篝火はよく話しかけてくれて、自分から話題を出して、話が終わればすぐに切り上げるという、沈黙の時間がほとんどない人間だった。

 烈火というか、猛烈というか。

 振り回されがちにはなるが、話しやすさというのなら、篝火くらい雑な人間の方が気楽だというきらいがあった。

 

 だが、藤袴は良くも悪くもお堅い人間だ。私生活を見せないというか、私生活そのものが公務的というか。規律正しく、気を抜いていないように見える。それが彼女なりの生き方なのだろうから口出しはしないが、壁を感じるというのなら、藤袴の方にこそ壁があるような気がしてならない。

 

 当たり障りのないことでも口にしてみようと、少し早足で歩いて隣に並んだ。

 

「普段、夜警はどうされているんですか。いつも一人というわけじゃ、ないんですよね」

「ええまあ。いつもはあなたの代わりに野分がいるのですが、今日彼はお休みということになっています」

「ははあ」

「彼はなにかと忙しそうでしたからね。少しくらい休養が必要でしょう」

 

 野分……確か、超高校級の保健委員と言っただろうか。

 厨房の点検をしていたとき、石鹸がなかったため倉庫まで取りに行った際、一緒に石鹸を探してくれたのがその野分という男子生徒だった気がする。

 

「おや。知り合いでしたか。待雪とは気が合わなそうな人だと思っていたのですが……そういうことなら、今度の夜は野分と組みますか?」

「いえ、結構です……」

「そうですか。それは残念です」

 

 藤袴はとくに残念とも思っていなさそうな声で言った。

 彼女が野分に対して抱いている印象というのはよく分からないが、大人しく真面目だという印象を抱かれやすい待雪とは合わなそうという意見を出しているあたり、人格的な面でよろしくない人間なのだろうか?

 ただそれは、藤袴が待雪のことをどう認識しているかに関わってくることだろうから、結局のところ不明瞭なままだった。

 

「今夜は一段と冷えますね……けっこう、これでも、厚着してきたつもりなんですけれど」

「寒く感じるのも当然です。気温もそうですが、その上風も強いのだから、服に少しの隙間もあれば寒く感じることでしょう。一度上着を締めてあげましょうか」

「……いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 一度そこで立ち止まって、トランクとランプを下ろしてからコートだけをはだけさせた。ちょうど建物の影から出てきたところだったから、綺麗な月がよく見えた。

 

「ん、っしょ……っと。けっこう、ふくざつぅ……なぁっ。つくりなんですねっ」

「おそらくですけれど、知人が作ってくれた服なんです、ですから普通のものと比べて手が込んでいて……今はもう亡くなったと聞いているので、このコートは遺作になるんでしょうかね。だからかより一層、技巧に凝ったような作りになっているような……」

「あ……それは、すみません。野暮なことを聞いてしまいましたね」

「? ……ああ、いいんです。わたしからした話ですし」

「そうですか。…………。それにしても、おそらくだなんて変なことを言うのですね、待雪は」

「それは……まあ、この服を作ってくれた人が、変な人だったので。おかしな人というか」

「? 鯉口よりもですか?」

「比べたいですか? 結構、良い勝負になるかもしれませんよ」

「やめておきましょう」

 

 できましたよ。

 と言って、藤袴は、ピンと張った上着の背を軽く叩いた。

 厚着をしているので、それほど衝撃も伝わって来なかったが、なんだかそれだけで暖かくなれた。

 

「このコートをわたしにくれた人は、会うたびに印象が異なる人でした。いつだって、以前お会いした時よりも前衛的で、かと思えば、古くさくもなる変な人でした。元は料理を教わりに行ったんですけれど、洋服も作れる多才な方のようで……ですから、実際にその人がこの洋服を作っている場面を見たり、自分が作ったんだよと言われたわけじゃないんですけれど、でもたぶん、その人が作ってくれたのかな……って」

「なるほど……なんだかミステリーですね」

「そうですね。ミステリアスな人でした。単純な人でもありましたけれど」

 

 それからというものの、まるきり会話は途絶えてしまった。

 

 待雪もそうだが、なにより夜警に誘った側の藤袴が会話を始めようとしないのだ。

 会話をしたくないというわけではないのだろう、話が始まれば乗り気で応えてくれるし、なにより親睦を深めたいと言っていたのは彼女なのだから、そういった意図や企みは、その態度にいやでも現れてくる。

 だから話をしているときはさほど違和感もないのだが……こうも沈黙が続くと、不自然さを感じ取らないでいるというのは不可能である。

 

 待雪は黙り続ける藤袴を不思議に思って、月明かりに照らされた彼女の顔をバレないように横目で見た。

 

 するとどうだろう。

 

 どこか決まりの悪そうな、それでいて、複雑な顔をしているのだ。

 誰か個人に対してではなく、もっと大きなことに対して申し訳なさを感じていそうな、そんな表情だ。

 藤袴のこんな顔を見たことがあっただろうかと思わずにはいられない。月下でその輪郭は薄ぼけてしまってはいるが、儚いぶん、そんな複雑な表情はより際立つというものなのだ。

 

「フジバカマさんは、とても強い人ですね」

「? 強い?」

「日頃からそう思っていました。フジバカマさんは強い人だと。率先して人を守ろうとすることは、わたしにはとてもじゃないですができないことです。フジバカマさんは力もそうですが、なにより精神が気高く、高潔です」

「そうですか……あなたの目には、私がそのように見えるのですね」

 

 藤袴が俯いてしまったから、影になって表情を見ることはできなくなったが、今の言葉はどこか沈んでいる。

 失言してしまっただろうか。

 

「す、すみません……お気に障りましたか?」

「いえ、そういうわけではないのです。むしろ、強く見られることに、私は嬉しいと感じています。……だってそれは、頼りにされているということなのですから」

「ええ、まあ……」

「私は頼りにされたいんです。誰からも……そしてそれは、待雪、あなたからもです。私は待雪にも頼りにされたい。……今日待雪を夜警に誘ったのは、そういったことを伝えておこうと思ったからです」

 

 一息吸って、藤袴が続けた。

 

「私はあなたのことを過小評価していたようです。私があなたに抱いていた初対面の印象は、“気弱そうだ”というものでした。……ですが、訂正します。あなたは気弱などではありません」

「……い、いいえ。わたしは、弱い人間です」

「そんなことありません。誰かのために、自分のできることをする人が、弱いわけがありません。待雪は強い(こころざし)を持っている」

 

 誰かのために。自分ができることを。

 それは藤袴だってそうだ。誰に頼まれるでもなく、こうして夜の安全を守り、みんなの不安を照らしてくれている。

 それを強いと呼ばずに、なんと呼べば良いのだろう。

 

 どうして彼女は、そんなにも自信なく、言葉を受け止めるのだろう。

 

「私は弱い人間です。この島に来てから、死への恐怖は毎晩のように私を襲います。……ですが、こうして夜警をしていたり、鍛錬を重ねたり……、……待雪の料理を食べているときは、そんな恐怖も忘れることができます」

 

 藤袴は足を止めて、待雪の方を振り返った。

 月の光で青白く照らされて、その端正な顔立ちがほの明るく写っていた。

 

「私はあなたに感謝しているんですよ、待雪。みんなはいつも平気そうな顔をしていますけれど、心の中では、死に対して怯えている。……この島に来た日の朝、体育館でのことを憶えていますか? 誰も目を合わさず、誰も言葉を交わそうとせず、互いに互いを疑い合っていたあの朝を」

 

 壱目は別のようでしたけれど、と付け加えて、それから「でも」と大切そうに続けた。

 

「待雪の料理があったから、みんな、ああして柔らかな笑顔を浮かべることができるようになったのです。食堂にいるときだけは、みんな、気を緩めて寛ぐことができているのですよ」

「それは……」

 

 言葉が出てこなかった。

 照れくさいとか、そんなんじゃなくって。本当に言葉が出てこなかったのだ。

 自分はそんなふうに感謝されるべき人間ではないと叫びたい気持ちだったが、しかしそうやって藤袴の言葉を否定するのは憚られた。

 

 待雪は、もごもごと口を動かしたあと、決まり悪そうな声を擦り切らせた。

 

「わたしはただ、料理を作っているだけです。それだけです。……でも、それが人のためになっているようなら、わたしは嬉しいと思います」

「なら良かった。少し、心配でしたから」

「心配……?」

「待雪のことを心配していたんです。私たちは待雪の料理に救われていますけれど、待雪自身は、誰かに救われている様子がないように見えたので」

 

 その言葉の意味を理解できなかった待雪だったが、しかしすぐに藤袴の意図に気がついた。

 藤袴がしきりに頼りにしてほしいと言っていたのは、そういうことだったのだろうかと。

 今日、夜警に誘ったのも──絆を深めたいなんて言い出したのも、ようは自分を心配してのことだったのだろう。

 

 わたしは首を横に振って話した。

 

「わたしはみなさんに喜んでいただければ、それで幸せなんです。美味しいと喜んでいただけて、たくさん食べてもらえて、それがわたしは嬉しい。だから、きちんと対価はいただいています」

「……不思議な人ですね。待雪は。根っからの奉仕者とでも言うのでしょうか」

「よく言われます。あまり欲がない人間なので、自然とこうなってしまうんです」

 

 釈然としないようではあったが、しかしそれをなんとか飲み込んで、藤袴は納得げに頷いて見せた。

 

「ですが、困ったことや、一人ではどうにもならないことがあったときは、私を頼ってください。私はあなたの味方です。あなたがみんなを思うように、私もあなたを思っています」

 

 そんなところで、待雪らとは逆方向に校舎を回っていた匂宮と篝火の二人と再開し、適当な言葉を交わしてまた別れた。

 

「あちらは特に異常もなさそうですね。今日は意外と早く終われそうで……す……。んむ、あそこにいるのは」

 

 藤袴は、校舎がある方とはまた反対側を指差して言った。

 その先に何があるのだろうかと目を凝らしてみれば、なにか一つ、人影が見える。月光の影になってハッキリと顔までは見えなかったが、肩幅や背の高さなどからして男の人のようだった。

 ひょろりとしていて、一つの細木のように痩身の男だ。

 

「あれは……早乙女(サオトメ)ですね。今日もまた……少し、声をかけていきましょうか」

「? 今日も?」

「雲のない夜は、いつもああして月を見ているそうなのです。今日は雲一つない絶好の観測日和でしょうから、こうして外に出ているんでしょう。……危ないからと、再三注意しているのですが」

 

 加えて、「おおかた匂宮と篝火の二人は、話に夢中で見過ごしたのでしょう」と呆れ、ため息を吐くと、藤袴は早乙女の方にランプを振りながら近寄っていった。その後ろを待雪はついていった。

 早乙女と呼ばれる男子生徒はよっぽど月が好きなのだろう。ずっと側まで近寄って、肩を叩いてこちらを振り向かせるまで、待雪ら二人にまるで気がつく様子がなかったのだ。

 確かにこれは危ない。自分のように非力な人間でも、こうも、無防備な背中なら、簡単に殺してしまうことができるだろうから。

 

「早乙女。夜も深く危ないですから、早く個室に戻ってください。……それになにより、あなたは無防備だ。声をかけても気付かないのは重症と言える」

「あ、ああ。ごめんごめん……月が、あまりにも綺麗だったから……すぐ戻るよ」

「すぐに戻るといって、昨日はずっとここに立っていたではありませんか! それでは風邪を引いてしまいますし、なにより命の危険もあります! ……今日は、私が部屋まで送りましょう。さあ、着いてきてください」

「えっ……あっ、ちょ、ちょっと!」

 

 地面に置かれた早乙女のトランクを掴み取ると、藤袴はそれをグイッと引っ張り、胸元まで引き寄せた。トランクには例外なくケーブルが繋がれており、そして首輪と接続されているため、早乙女は首根っこを掴まれたように体勢を崩した。

 待雪は傍目から見ていて、ケーブルがちぎれてしまわないかひやひやとしていたが、思ったよりもそれは頑丈にできているらしい。

 ……しかし、なによりも驚くべきなのは藤袴の腕力だろう。あんなにも軽々とトランクを扱うなんて、並大抵の人にはできない。

 

「あ、歩けるよっ。おれ一人でもっ」

「さあっ、早くっ、可及的速やかにっ! あなたは自分がどれだけ殺されやすい人間なのかを自覚するべきですっ」

 

 藤袴はお節介なところがあるが、それも心配してのものだろうと思うと、容易く口出しすることはできなかった。

 早乙女もまた呻きこそすれ文句は言っていないのだし、待雪は黙って二人の後ろを歩く。

 

「話は玄関ホールで聞きましょう。強引な手口だと自分でも思いますが、これぐらいしないと、あなたはあの場から動かないでしょうからね」

 

 言葉通り玄関ホールまで引っ張っていくと、そこでようやく藤袴はトランクを手放した。

 

「ひ、ひどいよ藤袴さん……。なにもこんなに強引にしなくっても……」

「強引にしないとあなたは動かないでしょう。あなたに死なれるのは困るのです。この島で、殺人の火蓋を切らせるわけにはいきませんから」

「ううむ……」

「月が見たいなら、せめて一声かけてください。私か、あるいは匂宮や篝火を付けますから」

「彼らはいつも猥談をしているからなあ……ちょっと……」

「なら私が。……静かに本でも読んでおきますから、月見の邪魔はしませんよ」

 

 それになにより、月明かりでの読書というのも風情があるものです。と藤袴は付け加えた。

 

「…………、うーん。んむむ……それなら構わないけど」

「なら明日からはそうしましょう。夜警のあと、呼びに行きますから、しっかりと厚着をして準備しておくように」

 

 今日はもう寝てくださいと、しっかり言葉通り個室まで送っていってから、ちょうどその頃合いに篝火と匂宮の二人も帰ってきた。

 もうこれでおしまいなのだろう。藤袴は、眠たげな二人からランプを受け取ると、待雪の元へとやってきた。

 なので、待雪は足の疲れと気怠さ、それから少しの達成感を胸に、藤袴にランプを手渡す。すると藤袴は、ランプの火から待雪に視線を移して、こう言った。

 

「それでは待雪。今日()お疲れ様でした」

「おつかれさまでした……っ」

 

 ん? 今日()。……今日()?!

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 今日()……って……」

「? どうしたのですか、待雪。そんなんじゃ、()()()()()で十分に動けませんよ」

「か、か」

「か?」

 

 既に鯉口監視の仲間とやらに入れられてしまっている以上、藤袴とは決して浅からぬ関係なわけで。

 つまるところ、明日もまた同じ日が繰り返されることということなのだろう。

 

 待雪は少し限界だった。

 ここ数日の間に起きていたことは、待雪の心へ確実にダメージを与えていた。

 初日からそうだ。意味も分からず孤島に連れてこられて、殺し合いなんていうものに巻き込まれて、鯉口という変態の世話をさせらて……あとなんか、壱目とかいう俗物的な人にも絡まれて……。

 誰にだって限界があって、待雪はそれが、常人よりちょっぴり許容できるくらいで、だから、既に限界を迎えつつある待雪の心の器からは、あっという間に感情が零れ出ていった。

 

「か、かんべんしてくださあぁぁあぁ〜〜いっ!」

 

 この島に来て一番の大声だった。

 その後、叫び声を聞きつけた人が夜警をしていた人数よりも多く集まったのは、言うまでもない。




※夏の中頃に当作をpixivへ投稿しました。pixivのほうが読みやすいという方は、私のプロフィールのURLからご覧ください(サイトでタイトルを検索しても出てくると思います)。

※以前7/25に生徒名簿を作成しました。ただでさえ登場人物の多いお話ですから、読みやすくなれば幸いです。どのみち、捜査編や学級裁判編の後書きに各章の重要人物の情報を詳しく書くので、生徒名簿を詳しく読む必要はありません。

・日常編が冗長的になりつつあるので、やや話を削って進めようかなと思っています。やっぱり個々人に焦点を当てる書き方は、大人数で展開していく創作論破と相性が悪い……かといって群を書くのが苦手というジレンマ……。だから日常編は三話、多くても四話くらいの予定です。一章で詳しく書けなかったキャラはまた次章で。

・せめて春先までには一章完結したいな。WIKIというものに載せることができるようになる目安が一章完結らしいので。SNSとかやってないから、そうやって宣伝できる場所はありがたい……。


【ランプ】
 手持ちの灯りは油のランプなどが一般的に使われていました。19世紀末には懐中電灯の原型が生み出され、1923年には電池寿命の長い乾電池ランプが登場するなどしましたが、ただ充電はできないので、電池は交換が必要でした(その電池がなかなかに高額で、庶民に手が出せるようなものでもなく、懐中電灯はあまり普及していなかったようです)。

【月が綺麗ですね】
 夏目漱石による有名な翻訳。
 これに対する返しの言葉というのは多くあるようで、「死んでもいいわ」は定番のようですね。
 他にも色々とあるのですが、どれも詩的で素敵な言葉なので、調べてみることをお勧めします。
 (ちなみに「死んでもいいわ」の出典は、ツルゲーネフの中編小説『アーシャ』を二葉亭四迷が翻訳し、出版した、『片恋』に出てくる言葉です。意味は「あなたのもの」)

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