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だってあたし、わんぱく少女だもん。
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「けっこう暗いですね」
「そうだね。埃は滞留しているし、空気も澱んでいる……ハンカチはあるかい? それで口元を押さえるといいよ、埃を吸わずに済むから」
「お気遣い感謝します」
「にしたって、これは酷い。全く使われていなかったわけじゃないんだろうけど、いかんせん、人の出入りが少なかったようだ。これは掃除をしようにも骨が折れるだろうね」
「それならわたしが、明日のうちに掃除をしておきましょうか」
「そのときは、僕も呼んでね。君にとって重たい荷物は、僕からすればそうでもないから。きっと役に立つよ」
待雪は今、上一番校舎にあるいくつかの倉庫の中で、わけあって収穫包丁という農機具を探していた。
茎の硬い野菜などを収穫するために使われることが主な使い道の道具であるのだが、それは包丁と名が付いているものの、食材の調理に用いられる場面はないに等しく……どうして料理人の待雪が、料理で使うことのない収穫包丁を必要としているのかというと、その理由は待雪と一緒に行動している男子生徒にこそあった。
今朝のことだ。
多くの生徒が朝食を食べ終えたころになって、
気性の穏やかさが伝わってくる深みの効いた声色で、彼はこの島にいる誰よりも落ち着いた雰囲気を帯びいていた。
「待雪さん。忙しそうなところ悪いんだけれど、ちょっと良いかな」
「っはい。大丈夫ですよ。どうかされましたか?」
待雪は大きく顔を傾けて、声のする方を見上げた。
椎本は並の日本人よりも体が大きく、背なんて人の倍ほどもありそうだったから(さすがにそんなに高くはないだろうが、彼の枯れ木のようなシルエットがよりノッポなイメージを助長していた)無理をして顔を上げないと目線が合いそうにもなかった。
照明の影にもなっていて、彼の表情は見えづらかったけれど、声からして切羽詰まった様子でもなかったから、急用というわけではないようだ。
それに忙しい時間帯も過ぎていたため、待雪は余裕を持った態度で彼に接した。
彼もまた、超高校級の肩書を与えられる変人であることに違いないが、しかしこの島にいる誰よりも精神的に熟していて、落ち着き払った態度が待雪には好印象だった。突飛な行動に振り回されることもなく、迷惑をかけられる心配がない分、待雪は彼と話すことに苦手意識を感じていなかった。
椎本はこけた頬を枯れ木のように節の太い指で掻きながら話した。
それは癖なのだろう。彼は話をするとき、いつも何かに対して申し訳なさそうに顔や喉を触る。
「実はこの島で、野菜を栽培している人がいるらしいんだ。畑を見せてくれるそうだから、待雪さんも一緒に見に行かないかい」
「野菜、ですか?」
「そう、野菜だよ。海辺で野菜を育てるのは難しいんだけれど、そういうのに詳しい人がいて、趣味で育てているらしいんだ」
「なるほど……?」
野菜、野菜かあ。
希望ヶ峰学園から支給されている野菜は、旬のものや品質の優れたものが多く、そのうえ鮮度だって悪くはないという素晴らしいものばかりであるが……しかし、ただ悪くないというだけであって、その日採れたばかりの野菜と比べてしまえば、どうしたって見劣りしてしまうものばかりであった。
だから、採れたての野菜が手に入るのなら、それほど素晴らしいことはないと考え、一瞬、胸躍る気持ちになりはしたものの……しかし……。
「す、少し待ってください。シイガモトさんは、野菜を栽培している方がいるとおっしゃいましたけれど、いったいどなたがそのようなことを? この島にわたしたち以外の誰かが、住んでいるとでもいうのですか?」
椎本の言葉を疑うようで悪いが、しかし一体誰が野菜を栽培しているというのだろうか。
この島で生きていくことは難しい。
それは殺し合いという状況を抜きにしても、同じことが言えた。
果物を実らせるような木など一つとして立していない不毛の土地であり、動物だって姿を見せず、せいぜい獲れるものは魚くらいで──それだって、沖に出て釣りをしなければ大きな魚は手に入らなさそうなほど辺りは崖だらけなのだから、ほとんど無理であるのと同じで──だから待雪らは、希望ヶ峰学園が船で運んできた肉や魚、野菜などを調理して食べているというのに。
そのうえ、仮に野菜を育てようにも、海辺での栽培は難しいと聞く。一年やそこらですぐに農業を開始できるような土壌ではないから、長い年月をかけて死んだ土地を開墾しなければならないのだそうだ。
生きていくどうこう以前に、単純な問題として、野菜を栽培すること自体が、この島では過酷なことだった。
それに見るからに、この島には建物が二つしかない。今、待雪らがいる校舎と、その周りにある監視塔くらいだ。
だから、昔からこの島に誰かが住んでいて、畑を守り続けていたという可能性はきっとないだろう。
人の営みの面影なんていうのは、この島では全くと言っていいほど見られない。
だから、いったい誰が……そんな疑問を呈すると、椎本はそれを予期していたようにすらりと答えを返した。
「兵隊さんが育てているらしいんだ」
「へ、兵隊さんが? それって、どういう……?」
「彼らだって、生まれたときから軍人というわけじゃないだろう? もとは農家に生まれた人もいるわけだから、そういう人が、持ち合わせている知識で野菜を育てているらしいんだ」
「……ですが、海辺での栽培は時間がかかるものだと聞きます」
「それは僕も知っているよ。……だから、僕らが想像しているよりも前から、彼はこの島にいるらしい。この建物も、あの監視塔も、そんな一年やそこらで建てられたものじゃないだろうし、きっとそれくらい初期の頃から耕し始めていたんだろうね」
確かに、この校舎は明らかに風化していて、年月を経ているのは一目見ればわかることだった。
だからこそ椎本の語る話は真実味があり、すんなりと飲み込めてしまうものだった。
「……なるほど。それなら納得がいきます」
「うんうん。それでね、野菜がちょうど収穫期だから見にこないかって言われてね。だから、待雪さんもどうかなって思って」
「ふむ」
椎本が待雪を誘ったのは、待雪が料理人であると知られているからだろう。
実際待雪は、野菜に対して大きな興味を抱いてしまっていた。
しばらく逡巡したあと、待雪はこくんと頷いてから「行きます」と有り難そうに答えた。
それを聞いて椎本は「よかった」と、こけた頬にえくぼをつくって見せた。
野菜への興味もそうだったが、なにより誘いを断る理由もなかったから、待雪は従順に彼の後ろをついていくことにしたのだった。
殺し合いという環境下において、誰かと二人で行動するのは危うい行動だと分かってはいたが、しかし新鮮な野菜への興味が優った形だった。
新鮮な野菜。採れたての野菜。
どれほどのものがこの島で育まれているのだろうか。少なくとも、こんな場所で野菜を育てられるほどの深い知識と経験を持つ人物が作ったものなのだから、悪いものではないはずだという漠然とした考えに期待を寄せた。
「じゃあ、いつ頃なら都合がいいかな」
「そう、ですね……お昼が終わって、片付けをして、それから……夕食の下準備が終わった頃なら、なんとか時間が作れると思います」
「じゃあ、昼食後は食堂に残っているから、声をかけてもらえないかな。そしたら、倉庫に寄ってから畑にいこう。どうしたって、道具が必要だからね」
そういった経緯を経て、待雪は倉庫に来ているのだった。
万が一に備え、食堂にいた藤袴と匂宮に、これから椎本と二人で倉庫に行くのだと忘れず告げておいたから、おかしなことは起きないだろうと安心して臨んだ。
「レタスやキャベツなんかは旬で、ちょうど収穫期だからいくつか獲ってもいいって言ってたよ。あとはカブとかも名前を出していたような……」
「じゃあ、夕飯にサラダを出しましょうか。ツナの缶詰やマヨネーズが荷物の中にあったので、きっとおいしいサラダが作れると思いますよ」
「……まよねえず? 聞いたことのない名前だけど、でも、サラダというのはいいね。野菜の味がよく分かるし、何より冬に育った野菜は食感がいいから」
倉庫は暗く、その上埃っぽいので、椎本の助言に従い口元をハンカチで押さえながら中に入っていった。
暗闇はそれほど苦でもなかったが、息苦しさだけはどうにもならなそうだった。
「なにが必要なんでしたっけ」
「収穫包丁が二丁だよ。君と、僕の分。なんでも前まで使っていたやつが錆びてしまったとかで、こっちで用意しなきゃいけないらしいんだ」
「まあ、海がすぐそこですからね、潮風で錆びてしまったんでしょうか……こんな島じゃ、手入れも難しいでしょうし」
あまりにも倉庫は暗く、また空気も悪いので、椎本が廊下側の窓を全て開いたところ、多少は光が通い、視界も少しは良好になった。
外側の窓も開きたかったが、潮風が直に入り込んで物が傷んでしまうだろうことを思うと、そうするのは躊躇われた。
生きるにしても死ぬにしても、あと一ヶ月ほどしかこの島には滞在しないのだから、物の劣化など気にするようなことではないのかもしれないけれど……わざわざを物を使えなくしてしまうこともないだろうと、二人は暗黙のうちに行動を合わせていた。
この校舎には倉庫がいくつかあり、今二人が訪れている倉庫には箒や鍬などの道具が纏めて置かれてあった。埃こそ被っていたものの、道具自体は新品同然で、それぞれが几帳面なほどにキッチリ三つずつ用意されていた。
「色々あるみたいだ」
「鎌や斧なんかも置いてありますね。おそらくは、殺人のためにということなのでしょうけれど」
「だろうね……、こんなことのために使われるべきものじゃないっていうのに……」
椎本の声は、悲しげな色を帯びていた。
それだけ彼は、自然との関わりを愛しているのだろう。
包丁や食器といった料理道具をなによりも大切にしている待雪にも、その気持ちが分かるような気がした。
「農機具もそうだけれど、虫取り網なんかもあるね。三本あるから、三人で遊べるよ」
「……こんな島に虫なんているんですかね」
口から溢れたそれは、不意に感じた疑問だった。
この島は雑草こそ生えてはいるけれど、木なんて痩せ細ったものしか立していない死んだ土地だ。そもそも野菜が実ること自体、容易ではないくらいなのだから、待雪にとってはたとえ虫けらであっても生き物がこの島にいるとは想像しづらかった。
椎本は待雪の疑問を耳にしてか、こぶのように出っ張った喉仏を鳴らしながら深く考え込み始めた。
やがて、ため息とともに言葉を吐き出した。
「虫は、意地汚いほど生に貪欲だから、きっとこんな島でも生きているよ」
虫取り網の具合を確かめながら、椎本は言った。
「今日は越冬中のてんとう虫を草むらの中で見つけた。昨日はアリやマルムシも見かけた。……見る限りじゃ、外来種なんかは多そうだ。あいつらは荷物に紛れて入ってくるから」
「……荷物に虫がついているのは、よくあることですしね。以前、外国から輸入した食品がみんな虫にダメにされちゃって、お店が潰れちゃいそうになった事件がありましたから。それを思うと、虫にいい思い出はありません」
「それは大変だったね。虫は害をなすことが多いから、そういったとき、共存は難しいよ」
今だとウンカは余計にね。と、椎本は陰りのある乾いた笑い声とともに付け加えた。
「孤島は固有の生態系を確立していたり、独特な進化をしていたり……ときには数百年も前の状態を維持し続けていることもあるから、この島は興味深いんだけど」
「……お詳しいですね」
「人生十九年、虫に捧げてきたからね。自然と話題は虫のことだよ。あとは植物とか」
「……先ほどから気になっていたのですが、シイガモトさんは、虫だけでなく植物や農業についての知識もあるように見えるのですが」
「それなりにね。一応は農家の生まれで、田舎育ちだから……ま、超高校級の昆虫博士なんて、ただの肩書きだよ。その分野で実績を残せるかもしれないってだけで」
彼はある程度物の位置を把握しているのか、棚の奥まったところに手を伸ばしていたので、待雪はその背後を遠くから見つめていた。
高い背をうんとかがめて物を探る彼の後ろ姿は、角張った骨や隆起した筋肉から、一塊の鉄みたいに確からしい静けさを感じさせるもので、そこに大木のような印象をつい抱いてしまう。
無防備な背中が不思議なくらい広く感じられた。
「……っと、あったよ、収穫包丁」
椎本は手に取った収穫包丁を、自分の手柄を示すようにこちらに見せてきた。
薄らと積もった埃を払うと、椎本は包丁の持ち手を待雪に向けた。
「はいこれ。待雪さんの」
「あ、ありがとうございます……」
収穫包丁は革製のカバーに収まっていて、一度引き抜いて確かめてみた。錆びもなく、刃物としてきちんと使えるものだったから、ひとまずは安堵して、そっとそれを懐に隠した。
椎本もそれを真似るようにして、外套の裏にしまっていた。
畑は柵の外にあるらしく、体育館の奥が外と繋がっているそうなので、待雪と椎本の二人はそこまで向かうことになった。
予め知らされていたことではあるが、今改めて“柵の外に出る”と意識するのは、なんだか落ち着かない心地であった。
とにかく、体育館へ向かうことになり、その道中で二人は意外な出会いをすることになった。
玄関ホールに出たところで熊谷に出くわしたのだ。
なにか目的があってそこにいるというわけでもないらしく、玄関ホールに置かれていた姿見で身嗜みを整えている最中のようだった。
こちらの足音に気が付いたのか、熊谷は待雪の方を振り返り、驚きから素っ頓狂な声を上げた。
「あれ、薫じゃん。珍しいね、外にいるの」
「あ、お、こんにちは、クマガイさん」
「…………、まあいいや。それで、どうかした? こんな昼間に……変な、のっぽ男と一緒で」
「それはですね。シイガモトさんが、」
「僕なんだね?! 変なのっぽ男って、僕のことなんだね?! まったく戸惑う様子も見せなかったね?!」
「え……いや、だって……男って、シイガモトさんしかいらっしゃいませんし……」
「それはそうなんだけどさ! もうちょっと躊躇ったりしないの?」
「は、はい」
「……あそうなんだそうなんだ」
椎本は落ち込んだように、幅広い肩に顔を沈めた。随分と背も曲げてあるのに、それでも自分より目線が高いのには素直に驚いた。
フォローの言葉をかけるべきか待雪は悩んだが、自分が何かを言ったとしても、それは逆効果になりかねないと考えて、ひとまずは熊谷に対する説明を優先した。
「実は、この島で、野菜を育てている方がいらっしゃるそうなんです。それで、畑を見せてもらえるそうので、シイガモトさんと一緒に見に行こうという話になりまして」
「ふうん」
熊谷は何かをじっくりと考えているようだった。
ふむふむ。
そんな音だって聞こえてきそうなくらいで、やっと顔を上げたかと思えば、彼女はいいことでもあったみたいに満面の笑みを二人に見せた。
「あたしも付いていっていい? こう見えてあたしも農家の娘なんだから!」
2
体育館の奥の、そのまた奥。
厳重な鉄扉を抜けた先にある噂の畑には、新鮮で豊潤な野菜が生き生きと根を張っていた。
監視塔の外にある掘立て小屋のそばで、柔らかな土と鮮やかな緑が愛おしい耕作の空間を作り出していた。
見事なものだ。網で覆われているからか、鳥に啄まれている様子もなく、また適切な処置を行っているのか、虫食いもそこまで酷くはなかった。
海のミネラルによる栄養分をふんだんに吸収しているのだろうか。葉の表面は艶やかで、触れてみると柔らかく、そこは唯一、この島で生命の奔流を感じることができる場所だった。
やはり自分は料理人なのだと、ここで再確認した。
良い食材を見ると、ついどんな料理を作ろうか考えてしまうのだ。
ただ待雪は、喜びという感情に反し、こうも容易く外に出られたことへの疑問を捨て去ることができないでいた。
兵隊の監視を複数付けられた上でようやく外出を認められたとはいえ、しかしながら、特別危険視されているわけでもなく、兵隊は気安く話しかけてくるほどに遠慮がない対応で、さほど重苦しい空気でもなかったのだ。
警戒されているようで、そうでない。
敵視などまるでしていない。むしろ、新しくやってきた物珍しい訪問者を歓迎するかのような雰囲気すら感じられた。
超高校級という肩書きは向こうにも伝わっているのか、そのことについて訊ねられることも多く、彼らはずっと親しげだった。
待雪らに、恨みや怒りを抱いているというわけではないようだった。
つまるところ、やはりこのコロシアイ生活というのは私怨や怨恨で行われているものではなく、実験的な意味合いが強いのだろう。
彼らはきっと、わたしたちを殺すことだって躊躇うはずだ。
そう思わざるを得ない親切な態度で待雪らは接せられていた。
とすれば──
「…………」
「? どうかした? 薫」
「い、いえ。なにも。……少し考え事をしていただけです」
「それにしても良い野菜だね。土も、根菜を育てるのにちょうど良い硬さだ」
畑は素人が作ったようなものではなく、確かな知識と経験に基づいて作られたものなのだろうということがひと目見て分かるほど懇切丁寧に手入れされていた。
雑草もきちんと処理されていて、土の状態も素晴らしく良い。鳥害や虫害が少ないのも、きっとこの畑の主が手を尽くし続けているからだろう。
気を取り直して、しゃがんだ状態で土を触ってみたり、野菜に触れて新鮮さを測りながら、この畑の持ち主の顔を想像してみた。少なくとも、悪人ではないだろうと思えるくらい、この畑に実る野菜の数々は生き生きと育っていた。
「良い土ですね……。海辺は塩害が起きてしまうので対策が必要ですけれど、この野菜を見ていると、ちゃんとした知識を持っている方が育てられたのだろうということがよく分かります。……色が鮮やかで、肌艶も良くって、料理意欲をそそられます」
「うん。あたしもそう感じた。見ただけで味が分かりそうなくらい、きっとこれは美味しいんだろうなって思った」
熊谷が言うように、確かに見ただけでも食材の良さは伝わってきた。これなら、サラダにしたときも見栄えが素晴らしく美しいものになるだろうと思わされた。
「この畑を耕している人は、動植物に対して深い知識を持っていたから、きっと野菜も良いものができているだろうとは思っていたけど……ここまでとはね。やっぱり愛情をたっぷり込められた野菜は、よく育つんだね」
「…………」
「シイガモトさん……この野菜って、どなたが育てられたんですか……? ここにはいないみたいですけれど」
待雪は立ち上がり、辺りを見渡した。
待雪ら三人を数人の軍人が囲んでいるが、詳しく畑についてなにかを語っていた人物というのは一人としていない。
あくまでも監視をするということを忘れていない立ち振る舞いで、椎本とあれこれ話し込んだというほどの野菜に対する熱意も感じられなかったから、待雪はここに畑の主はいないだろうと判断して椎本に尋ねた。
「柏木さんっていう人なんだけれど、今は雑務が残っているとかで、むこうの監視塔にいるらしい」
「そうなんですか……あの、可能であればですけれど、今度会える機会がないか聞いてもらえませんか?」
「? どうして?」
「お話を、聞きたくって。……それに、こんなに良い食材をいただくんですから、ぜひわたしが作った料理を……食べてもらいたいなと、思いまして」
思いを告げると、椎本は少し驚いたように目を動かしたあと、にっこりと笑って言った。
「それは良い案だね……よし。今夜にでも、僕の方から取り計らってみるよ」
「ありがとうございます……っ」
待雪の言葉を聞き届けると、熊谷がうんと背を伸ばし立ち上がって、快活な声で椎本と待雪の二人に呼びかけた。
「ね。そろそろ収穫しない? じきに夕方だし、料理をするなら暗くなる前に下準備は済ませておきたいでしょう?」
「そうだね。育ちきってるものは全部採っていいそうだから、遠慮なく持っていこう。……あ、でも、食べる分だけにしようね。いつでも来ていいらしいから、焦らないようにさ、収穫しようよ」
外套に差した収穫包丁を抜くと、椎本は早速身をかがめて、野菜の葉をかき分けながら状態を探り始めた。
そこで待雪が、念を押すように不安ごとを言った。
「でも、ほんとうにいいんですか……? こんなに素晴らしい野菜をわたしたちが食べてしまって……それも無償で」
「いいんだよ、いいんだよ」
明るい声で椎本は言った。
よほど野菜が好きなのだろう、普段は聞かないような、踊るように楽しげな声だった。
「これだけ多いと、彼一人じゃ食べきれないらしくってね。兵隊さんたちには決まった献立があるみたいだから普段の料理にも使えないし……育ちすぎると固くなったり芽が出たりして食べられなくなるから、食べ盛りの子に食べてもらえるなら本望だって、そう言ってたよ」
「そうですか……なら、遠慮なく、いただいておきましょうか」
そう言って、自分の収穫包丁を引き抜いたときに気が付いた。
「そういえば、この包丁、クマガイさんの分がありませんね……」
「包丁は二つしか持ってきてないから、熊谷さんは今から倉庫の方に取りに行ってきて──」
「よっと」
「?!」
水の流れのように華麗な手つきで、熊谷は椎本からひょいと収穫包丁を取り上げた。
「ふっふーん、隙あり! 包丁はあんたが取ってきなさいな」
「うわっ、こいつやった! 待雪さん、こいつやったよ! 僕のやつ盗った!」
「はは……わたしは先に収穫してますね」
「ちょっと待雪さん?! 止めてくれないの?!」
結局、椎本は熊谷から包丁を取り返すことができず、渋々とした様子で「僕は向こうのカブ畑を見てくるよ。包丁がないからね、包丁がね」と、名残惜しそうに向こうに行ってしまった。
「呆気ないわね。あっさり向こうに行っちゃった」
「優しい方なんですよ。争いとか、苦手そうですし」
「ふーん……それか、カブが好きなだけかもね」
「おーい! 聞こえてるぞ! カブのなにが悪いんだー!」
「勝手に話聞かないでちょうだい! 人の会話に聞き耳立てる奴は嫌われるわよ!」
椎本は両手でそれぞれカブを掴み、体を大きく見せるようにして威嚇してきたが、対して熊谷がレタスを投げつけるような素振りを見せたために、椎本は不服そうにしゃがんでこれ以上争うつもりがないのだと、すごすごとカブ畑の奥の方へと下がっていった。
「げ、元気ですね……」
「だってあたし、わんぱく少女だもん」
「それ、あまりいい意味じゃないと思うんですけれど……」
「いいのよ別に。淡白でつまらない人よりはまし」
「あええ?! 僕がなんだってぇ?!」
「誰もあんたのことなんて言ってないわよノッポ! 自意識過剰もいい加減にしなさいよっ」
「なにをっ! やるかぁ?!」
といったやりとりが数度続いて(その度に作業が止まるので、野菜一つを収穫するのにもうんと時間がかかった)、ようやく静かになったかと思うと、するとまた同じようなことが起きた。
飽きないというか、忙しないというか。
仲がいいのかそうでないのかよく分からなかったが、愉快で騒がしいことに違いなかった。
(なんだか意外だなあ。合わなそうってわけじゃないけれど、まったく違う性格の二人だから、お似合いってわけでもないし)
普通に気が合わないだけなのかもしれないが。
待雪にはそこまで詳しく分からない。
大きな声を出して疲れたのか、諍う様子も見られなくなってきたので、待雪は熊谷に対してぼんやりと考えていたことを尋ねた。
椎本にも聞きたいなとは思っていたが、彼は遠くにいるので、また今度にしようと今は意識の外に遠ざけた。
慣れた手つきで包丁を扱う熊谷の横顔を少し見てから、自分の手元に目線を移して尋ねた。
「クマガイさんのご実家は、なんの野菜を育ててらっしゃるんですか」
「……なに。気になるの? 知りたい?」
「わたしの家も、農家だったので……共通の話題もあるかなと思って」
「それなら僕の家もそうだよー! 僕の家も農家でねー! お米作ってたー!」
「うっさい大声出さないでよ! あんたの話はいいの! あんたの話は!」
ちらりと椎本がいる方を見て(カブは採取し切ったのか、別のところにいた)、呆れたふうにため息をつくと、熊谷は質問に答えてくれた。
「……キュウリとか、トマトとか。──夏は熟した実をもいで、川の流れで冷やして食べたりしたけれど……そうね、ここ数年は、もうそんなこともしてないな」
幼少期を懐かしむように、熊谷は思い出を口ずさんだ。
彼女にとって、それはきっと大切な記憶なのだろうと思われた。
だがしかし、楽しい思い出の話をしているはずなのに、反して熊谷の表情は沈んでいた。
それを待雪が不思議に思っていると、熊谷は秘密を打ち明けるように、ぎこちない顔で笑った。
「実はね、私の家はね、もう農家じゃないの。今はあれこれ違うことやっているみたい」
「違うこと?」
「ええ。ほら、あたしってバスガールじゃない? でもあたしが住んでいる街って田舎なものだから、バスを走らせても観光名所なんて全然ないのよ。だから、観光名所を作るために奔走してるみたいなの」
「へえ……良いご両親ですね」
「うん。自慢の両親よ」
レタスの玉を傾かせ、露出した茎に包丁の刃を食い込ませる。
茎は太く、栄養を大きく吸い込んでいるだろうことが一目見てわかった。繊維に逆らい、力を込めると、野菜特有のシャッキリとした感触が音として聞こえてくる。
中程まで切ってしまえば包丁はケースに戻し、あとは茎を手折るようにレタスを回転させ、収穫した。
三度もそれを繰り返すと、だいぶ手慣れてきた。
「薫の家は、なにを育てているの。野菜? それとも果物?」
「んん、えっと、父が、好奇心旺盛で。毎年たくさんの畑で、たくさんの種類の野菜を育てていましたから、特にこれといったものはありません」
「それって大変じゃない?」
「毎年憶えることが多かったので大変でした……分からないことも多かったですから、失敗することもよくありましたし、なにも獲れないなんてことも珍しくなかったです……でも、お陰で、野菜については色々と知識を得ることができましたし、多くの人と触れ合うこともできたので、父には感謝しています」
「そう。いいお父さんなのね」
「わたしが一人娘だったっていうこともあるんでしょうけれど、人一倍、愛されていたと思います」
レタスの数は、待雪が収穫していた分だけでもう十を超えていたので、これくらいあれば足りるだろうと収穫包丁はケースに納めた。
「一人娘ってことは、兄弟姉妹はいないのね。あたしもおんなじ。……ときどき、妹とか弟が欲しいなって思うことがあるんだけど、そういうのってある?」
「僕の家は大家族なものだから、そういうのはないかな……。鬱陶しいもんだよ、妹も弟も。生意気なやつらでさ。同族嫌悪って言うのかな」
「あんたの話は聞いてない……って、いつの間にこっち来てたのよ?!」
いつのまにか、遠くの方にいたはずの椎本が後ろで土を触っていた。
熊谷に反するように、椎本はなんだかやけになったような声で叫んだ。
「もうカブは十分取り終えたからね! 他の野菜もあらかた集めたし! はっきり言って、暇だなあ僕!」
「耳元で大きな声出さないでよね! あんた体もデカいし声もデカいのよ!」
と熊谷が大きな声で言った。
これだと、また諍いが始まりかねないと、待雪は話を戻すため慌てたように熊谷の質問に答えた。
「わ、わたしは、妹が欲しいとか、弟が欲しいとか……そういうことは、思ったことないですね……っ。地域の子と遊んだり、逆にお世話になったりするようなことは、よくありましたけど」
「ふうん……ご近所付き合いが盛んなのね」
「立場的なものもあったんでしょうけれど、みなさん親切にしてくださいました」
「立場?」
「故郷では、父がそれなりに大きな地主で、土地を貸しているので、立場的にはわたしが上だと思われているみたいで。……それで親切にしていただいて」
隔たりを感じることもありましたけれど。と待雪。
熊谷は、どこか思うところがあったのだろうか……返す言葉に困ってしまったようで、ただ一言「そう」と付け加えただけで喋らなくなってしまった。
奇妙な沈黙が流れて、それが待雪には居心地が悪くって。
息を吐くみたく、苦し紛れに言葉を発した。
「そういえば、カムクラさんってどこにいらっしゃるのでしょうか。あれから姿を見ていないので」
「? カム、クラ……? ……ああ、あのお爺さんね」
思い出したように椎本が言った。
「神座さんなら、向こうの監視塔にいるんじゃないかな。前に入っていくのを見たから」
「? 椎本。アンタ、話、したことあるの?」
「うん。この畑を作った柏木さんと、野菜についてあれこれ話をしてるときにたまたま近くを通ってさ……だから、柵越しでだけれど、色々話したよ。あの人あれで結構気さくな人なんだ。興味深そうに話を聞いてくれるし、知識も豊富で……なにより力強くって、元気なお爺さんだった」
「ふうん……あたしはあんまり、あの神座っていう人には良い印象がないから、なんとも言えないけれど」
「その気持ちは分からなくもないけれどね。…………、殺し合いなんてなかったら、きっと親しい間柄になれたと思うよ」
神座出流という男に対して抱く印象は、人によってさまざまだった。待雪はただ、関わりたくないとだけ思っていた。
拒むわけじゃないが、あの神座という男からは、良い印象が一つも得られなかったのだから。
キャベツはあと数日もすれば頃合いだろうということだったので、また後日、この三人で来ることになった。
なので熊谷が、レタスの最後の一つを取り終えようとしていて──そのとき。
「痛っ」
「だ、大丈夫ですかっ?」
「指先切っちゃった……そこまで深くないから、心配いらないわよ」
「そうですか? ……でも、傷口から雑菌が入ると大変なことになると聞きますから、保健室に行って消毒しましょう」
「
傷口を吸いながらの舌ったらずな言葉遣いで、熊谷には緊張感はなかったが、しかし待雪としては、バスガールという美を振りまく職業に就く熊谷に、たとえ指先であれ、傷痕一つでも残ることが心配でならなかった。
それに、こんな島、病原菌だっていそうにないけれど、でも死の瘴気だけは特別濃く漂っているのだから、そんな穢れが傷口から入り込まないとも限らない。
穢れだのなんだのと、そんなオカルトチックなことを信じているわけではないが、医者にかかることもできないこの島で変に熱病などに魘されてしまうことは避けたかった。
「傷口を洗うくらいはしておいた方がいいんじゃないかな。……放っておくと危険なのは確かだよ。山の中を素足で歩いて怪我をして、そのまま傷が悪化して足が腐った、なんて話もあるくらいだし」
「それは、いくらなんでも誇張しすぎじゃない? ……でも、そこまで心配してくれるなら、そうしようかな……」
熊谷は弱気な態度で答えた。
「わたしが付き添いますよ。応急処置くらいならできるので」
「いいわよ、そんな。あたし一人でも──」
「結構難しいんですよ。片手であれこれやるのは」
抵抗はあるようだったが、熊谷は待雪の同行を認めた。
口では問題ないと言っていたものの、しかし熊谷自身不安に思っていたのだろう。心なしか頬が緩んでいた。
とにかく傷口を水で流し、適切な手当てを施すため保健室に行こうとしたところで、困ったように椎本がぼやいた。
「あー……でも、どうしようか」
「? どうかされましたか?」
「二人は保健室に行かなきゃいけないし、それは仕方ないことなんだけど……一人で何度も往復して野菜を運ぶのは、大変かなと思ってさ」
「ああ……それなら、カガリビさんに手伝いをするよう言っておくので、安心してください。どうせまた外で走り込みをしていると思うので、道中で声をかけておきますよ」
「篝火? どうしてあいつが手伝ってくれるの?」
「以前いろいろあったので、わたしの手伝いをしてくれるようになったんです」
「色々?」
「いろいろ」
「イロイロ?」
「イロイロ」
3
保健室独特の鼻につく消毒液の匂いが、待雪は少し苦手だった。
あのケミカルな匂いを嗅ぐと、どうしても思い出してしまうことがあるのだ。
どうしたってそれは忘れることのできない記憶だった。
棚に並ぶ赤褐色の瓶を遠い目で眺めているうちに、熊谷の傷の手当ても終わったようで、待雪は半分ほど眠っていた意識を覚醒させて熊谷を気にかけた。
「傷口は洗っているようであったから、消毒をして、布を巻くだけの簡単な処置にしておいた。ま、布は気休めでしかないが、ないよりはマシであろう」
熊谷は布でぐるぐるに巻かれた指先を曲げたり伸ばしたりしながら、「見事なものね」なんていうふうに呟いていた。
彼が行った傷口への処置は、無駄なく素早い動作であり、施術者の如実ない技術の高さを思わせた。
「わざわざ、ありがとうございます……」
「なあに。この程度、お茶の子さいさいである」
褒められ慣れているのだろう。彼は自然な様子で謝意を受け取っていた。
超高校級の保健委員という肩書きを与えられている
詳しい人物像は未だ不明であるが、しかし藤袴らと共に夜警をするくらいには、正義感の強い人間なのだろうかと思いを巡らせる。
ただその割には鯉口監視のグループには入っていなかったりと、彼についての印象は曖昧なところが多い。
そもそも話をしたことだってないのだから、彼についてなにも分からないのは無理のないことなのかもしれなかった(接点がないわけではないが、しかしそれは数に数えるほどのものでもない)。
なにより彼はいつも保健室にいるようで、食堂で姿を見かけることは少なく、待雪の中では印象が薄いというのも彼をよく知らないことの大きな理由であるように思えた。
けれど、ここ数分で得た彼の印象というものは、その真面目でお堅そうな見た目とは違って明るく開放的なものだったから、つい気を許して待雪は口を開いた。
「ノワキさんは、こういったことをよくされるんですか」
「こういったこと、とは?」
「傷を診たり、その処置を行ったりです。テキパキと手慣れていらしたので」
野分は大きな薬箱に物をしまいながら答えた。
「傷を見ることやその手当ては、ボクの生業だったからな。生きるためには身につけねばならぬ技術だった──幼い頃からそうして生計を立ててきた故、こんなことは嫌でもできるようになってしまった」
暗い顔をして言うので、つい待雪は、触れてはいけない過去に踏み込んでしまったのだろうかと、申し訳なさそうに背筋を曲げて「す、すみません……」と謝ってしまった。
それを聞いて野分は、少し慌てたように訂正の言葉を付け足した。
「そう間に受けるでない。ちょっとした誇張表現だというのに。……叔父が診療所を営んでいて、小遣い稼ぎに手伝いをしていただけだ。困窮した幼少期なぞ送っとらんよ」
「そ、そうですか……いや、その、すみません。勝手に想像してしまって……」
「謝ることはなかろう。それよりも、軽く笑い飛ばしてくれるほうが気が楽だ」
「へ、へへ」
「……それより、傷のことだが……」
野分は深刻そうな声色と、改まった態度で熊谷の指先に目線をやった。
バスガールという言わば人気商売、外見を売る職業に就く熊谷の指に傷が残ることを待雪は案じていたから、そうした野分の深刻なことを打ち明けるようなそぶりは、自然と不安な気持ちを起こさせた。
熊谷は傷は浅いといっていたが、本当はそんなことはないのかもしれない……一生ものの傷であればどうしようと、不安は積もる。
緊張の糸を張り詰め、それを目一杯まで伸ばしきったとき、野分はようやく口を開いた。
「残念だが、指の傷はもう……」
「…………」
「いやまあ、たいした跡も残らず治ると思うぞ。そもそも縫ってすらいないのだからな」
「は、はあ……それは、良かったです。良かったですね、クマガイさん」
「頼む、笑ってくれ……! ボクが悪かったから、せめて一つ冗談が挟まっていたことに気付いてくれ……!」
「え、あっ、ええ? 跡もなく、というのは冗談なんですか?! ど、どうしましょう、クマガイさんっ」
「違うっ、そうではない、そうではない!」
閑話休題。
話が理解できていて、なおかつややこしい方向に持っていくことのない熊谷がなんとか待雪に説明し、野分に限っては酷く恥ずかしそうに机に伏せ、腕に顔を埋めながら独り言を呟いていた。
「昔からの癖なんだ……ひどくつまらない、誇張した嘘をついてしまうのは……。田舎の婆さんや爺さんは、これで大笑いするのだがな。『驚きで心臓が止まりかけた』なんてことを言ってだ」
「その言葉はお年寄りの方が言うと、変な現実味がありますね」
「というかお爺ちゃんお婆ちゃんを驚かせちゃダメでしょ。なにやってんの」
「しかたないだろう。ボクができるような簡単な処置で済む程度の傷は、大抵子供か年配者しか負わないような擦り傷捻挫なのだよ。自然と話し相手の年齢層は限られてくるものだ」
深いため息をついて、それっきり野分は顔を伏せたままだったので、待雪は気を遣って話題を変えた。
「そっそういえば、昨日の夜は何かされていたんですか? いつもは夜警に参加されているようですけれど、どうやら昨夜はお休みされていたようでしたので」
「ああ……ひょっとしてキミ、ボクの代わりに夜警をやらされてたんだな。生憎、文句と病原菌は受け取らぬ主義だ」
「いえっ、そういうわけではなく……っ。単純に、好奇心からです」
なにか大切な問題でもあって夜警へ参加できないのなら、その問題をなんとか解決してもらって、いち早く夜警に復帰してもらいたいと待雪は考えていた。
だからこうして原因を探ることで、解決への一助に繋がれば良いと思っていたのだが……。
「そういうことか……いやなに、昨日は単に、疲れたから休んでいただけだ。毎晩毎晩遅くまで起きるのは体に良くない故な──三日に一度は休みをもらうと、早々に宣言しておいた」
「なるほど……ということは、つまり……」
「ああ。今夜からは再開するつもりであるから、そう心配することもないぞ。昨日の夜の叫び声はたまらなく大きかったからな、あれなら自分でやったほうがすぐに終わるしすぐに寝付ける」
「お恥ずかしい限りで……」
また三日後には代役を頼むことになるだろうが、と野分は笑った。
そこでようやく、熊谷が口を開いて、不機嫌そうに待雪に訊いてきた。
「なに、薫。夜警とかやってるの?」
「フジバカマさんに頼まれて、昨夜から……」
「ふうん……そう……、それって危なくない?」
「思っていたよりは、危険なものではありませんでしたよ。何かあっても、フジバカマさんが守ってくださるそうなので」
「…………」
「? どうかされましたか?」
「いや……ちょっと……、ううん、なんでもない」
それっきり、熊谷は考え込むようになってしまったので、自然と会話は待雪と野分の二人だけで行われるようになった。
慣れない土地での健康状態はどうだとか、この島に来るまでの経緯などの他愛ない話をしばらく続けていた。
「時に待雪クン。今夜の献立は如何様か」
随分と楽しみにしているのだろう。野分の声色はいつにも増して上機嫌だった。
「今日は新鮮で甘いレタスが手に入ったので、サラダを出そうかなと思っています。缶詰のツナだったり、マヨネーズであったり……いろんな種類のソースが作れそうなので、たくさんの味付けで野菜を食べてもらおうかなと」
「ふうむ、西洋料理か?」
「料理の考え方はそうですね。どちらかといえば、外国料理と呼んだほうがいいかも知れませんが……あ、も、もしかして、お嫌いでしたか? でも、マヨネーズに醤油や味噌を加えれば、どこか懐かしい日本の味も作れますよ」
「いや、別に西洋の料理が苦手というわけではないのだがな。むしろ興味があるくらいだ」
「なら良かったです……。あとはステーキとかもありますよ……これも西洋の料理で、肉料理です。みなさん育ち盛りですから、野菜だけじゃ物足りないでしょうし」
「ふうむ……そうかそうか! まよねえず、さらだ、それからすていき……うーむ、欧州文化は複雑怪奇なり! 名前だけ聞いても肝心の料理はまったく想像つかないが、しかして旨そうだということだけは確信できるぞ!」
元気そうに野分は続けた。
「待雪クンの作る料理は格別だからな、野菜なんぞ飽き飽きするほど食べ尽くしたと思っていたが、既に興味がおさまらん!」
「きっと、満足していただけますよ」
「ならば腹を空かせて待っていよう!」
とてもいい笑顔をしていた。
野分は根が明るいのだろう、知的なその様相とは裏腹に、愉快な人物なのだと言うことが知れた。
……ただ、致命的なまでに話が噛み合わなかったりと、確かに藤袴の言う通り、待雪とは相性の悪い人間なのかも知れなかった。
4
保健室を出て、食堂に着くまでの僅かな時間、待雪と熊谷は二人きりだった。
付け加えるなら、熊谷の様子がなんだかおかしなことに待雪は気がついた。彼女はなぜだか、保健室にいたときからずっと、思い詰めたように俯いているのだ。
どうしたんだろうと不思議に思って、声をかけようかと言葉を考えてたところ、ふいに熊谷の方から話しかけてきた。
「薫」
聞こえてきたのは、消え入るような声だった。
「今日は迷惑かけちゃってごめんね」
熊谷は沈んだ様子で言った。
驚いて、待雪は横に並んでいるはずの熊谷の姿を探し、振り返った。
彼女は後方で立ち止まり、顔を青ざめさせ、肩も少し震わせていた。そのうえ、なにかに締め付けられたみたくぎゅっと身を縮こませて、ずっと謝っていた。
「椎本にも悪いことしちゃったかも。……あいつは、ああやって逆らって、笑ってくれてたけど、でも……私、怒られても仕方のないことを言ったり、したと思う」
「…………」
「本当に、私って最低だ。結局指も怪我しちゃって、それでまた、二人に迷惑かけちゃって……せっかく楽しくしてたのに、それなのに不快にさせて……っ」
さまざまな感情で、彼女の気持ちがいっぱいいっぱいになっていることは声で分かった。
側から見ても彼女は、今にも壊れてしまいそうなくらいに危うく、不安定だった。
「やっぱり私は……私は……」
最後の方は声にすらなっていなかった。
今にもぼろぼろと泣き出してしまいそうなくらい、熊谷は何かをたくさん抱えているように思えた。いつもは明るい彼女が、こんなふうになってしまうくらいにそれは、辛く重たいことなのだろうか。
それがなんなのか、待雪には分からなかったけれど、でも崩れかけている彼女を見て、つい支えたいと思ってしまった。そうするべきだと思った。
「わたしは迷惑だなんて思っていません」
待雪は前に出て、熊谷の顔を覗き込み言った。
「楽しかったです。クマガイさんと一緒にいて」
慣れない笑顔を熊谷に向けた。
すると熊谷は、戸惑ったふうに目をみはって、じっと待雪の顔を見つめた。
目を見られることが待雪は苦手で、そっぽを向きかけたが、それでもなんとか目は合わせ続けた。
「……本当に?」
「本当です。クマガイさんといた時間は、楽しいことだらけでしたから。不快だなんて、そんなふうに思ったことはありません」
熊谷の瞳は揺らめき、それでもすっと瞼が閉じたかと思うと、顔を隠すように視線を背け、胸の内に抱く罪悪感を吐露し始めた。今までの言葉が自分を責めるものであったのに対し、それは明確に待雪に向けられた懺悔の気持ちだった。
「でも私は、本当に酷いことをしちゃった……椎本には、謝っても謝りきれないくらいのことをした……」
「本当に酷いことをする人は、罪悪感なんて覚えませんし、それにわたしは迷惑をかけられたなんてひとつも思っていません。シイガモトさんだってきっとそうです」
「けどっ、私は、だとしても私は──」
「クマガイさんを責める人は誰もいませんし、クマガイさんは、誰かに責められるようなことはしていません。少なくとも、私はそう思います」
「で、でもっ──」
熊谷がこれ以上自分を責めることがないよう、待雪は間断なく続けた。
ぎゅっと、その震える肩を暖かく抱いて。
「……もしもクマガイさんが不安で、シイガモトさんに謝りに行くのが怖いなら、わたしも一緒に謝りに行きますから。元々、クマガイさんを連れていったのはわたしなんですから。わたしにも責任はあります」
「そんな……悪いのは、わた──」
「クマガイさん」
「…………」
「楽しかったですか。わたしと一緒に遊んで」
優しい声色で囁いた。
言葉を受けて、熊谷は、目尻にたまった涙を拭うと、何度かなにかを呟いた後、硬く結ばれた口を微細ながらも緩めてくれた。
そして、上擦った声で前を向いてくれた。
「楽しかった……」
「じゃあまた遊びましょう」
「……うん」
「いつにしますか」
「……じゃあ、明日。明日もまた、あたしと遊んでくれる?」
「ええ……もちろん。いつも通り、わたしは厨房にいると思うので、お暇なときはいつでもいらしてください。いつでもわたしは、クマガイさんのことをお待ちしています」
「それなら、よかった……。そうよね。明日があるんだものね」
前向きな言葉だった。
熊谷は、気を取り直したように笑った。それでも少し声が震えていて、目端は濡れていて、完全に振り切れたわけではないのだろうということが察せられた。
しばらく抱擁を続けて、涙も止んだ頃になってそれもやめて、食堂に着くまでの道すがら、明日のことを二人で語った。
「じゃあ明日はピクニックしない? 二人だけで、ピクニック」
「いいですよ。お昼なら時間もありますから、そのときでもかまいませんか」
「うん。それでいい。むしろそれがいい」
「じゃあそれで。待ち合わせは──」
二人には接点なんてないけれど、こうして孤島で出会えたことが運命だというのなら、きっとそうなのだろう。
夕陽で顔を紅く染めていた熊谷が待雪に笑いかけた。
「約束ね。約束」
「はい、約束です」
指切りを交わして、誓い合う。
そのとき触れた暖かくて柔らかな指に、指を絡め取られ、そのまま食堂まで手を取って連れ立った。
目次「日常編長過ぎませんか?」
次話「うるせえ!」
次々話「オメエが短くなんだよ目次ィ!」
・次回もその次も日常編です。ちなみに次々話で死体発見です。
・三日ほど前、待雪さんのイラストを描いたので、pixivやTwitterの方で掲載しました。良い出来なので、ぜひ見て欲しいです。