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明朝。まだ太陽は出ておらず、頭上には暗い空が広がっている。
「新月。二十と八の七。四十五、三十八、二六三、七」
風の魔法を利用した通信器具を耳にあてがいながら、数列を口にする。
『はーい、満月の二、三十と七……だったっスかね? 合ってるっスか?』
……それを本人に聞いたら元も子もないと思うけど、この人なら大丈夫か。
「問題ありません。本日もよろしくお願いします、リシテア副所長」
『うっス。よろしくお願いするっスね、アインくん』
通信器の向こうから聞こえてくる、ここ半年ほどで聴きなれた声は、そう返した。
リシテア副所長。俺の所属する機関の直接的な上司であり、俺の担当する任務の管理者。
そして、俺の意思を汲んでくれる、唯一の協力者でもあった。
『で、どうっスか? 姫巫女様の様子は』
「特にこれといった問題はありません。能力の劣化もなし。龍との対話も毎日続いてます」
『ほいほい、問題無しっスね。りょーかいっス』
さらさらとペンを走らせながら、副所長はいつも通りに返してくれる。
「研究所の動向は」
『いつも通りっス。姫巫女は異常存在と断定。だから早くこちらで管理を、って』
「……そうですか」
研究所。この世界に存在する、異常と見なされたものを蒐集、管理する秘密機関。
そして、そこに所属している現地調査員というのが、俺の本来の役職だった。
調査の対象は、姫巫女──体内に世界横断という魔術を内包する、一人の少女。
与えられた任務は、彼女を大陸の中央部にある研究所本部へと連れて行くこと。
だが。
「もう少し時間が必要だと連絡してください」
『はいはい、それもいつも通りっスね。了解っス』
気だるげな──それも、いつも通りか──声のまま、副所長は俺にそう返した。
初めて姫巫女様と出会ったその時から、たぶん俺は彼女に見惚れていたんだと思う。
呑まれたと言ってもいい。うまく言い表せないが、彼女を自由にさせたかったというか。
確実に言えるのは、この少女を研究所へと連れて行くのは、間違いであるということ。
人々を救う存在である彼女を、薄暗く冷たい研究室の中へ閉じ込めたくはなかった。
これ以上、寂しさを感じてほしくなかった。異常であることを受け入れてほしくなかった。
それに、何よりも。
「先代の姫巫女が死んだ理由を未だに理解していない連中に、姫巫女は任せられません」
『言うっスねえ』
これだけ時間があるのに態度を変えないというのは、つまりそういうことなんだろう。
なぜ、大陸の各地にある神殿の中で唯一、この北神殿にしか姫巫女が存在しないのか。
それは単純に、中央神殿に仕えていた先代の姫巫女が、既にこの世に居ないからだった。
元来、姫巫女とは中央神殿に仕える者。こんな端の神殿に収まる存在ではない。
だが数年前、研究所が突如として中央大陸に発足し、姫巫女を異常存在として認めたのだ
そして、研究所は龍と対話する姫巫女の魔法──世界横断と命名した魔法の研究を開始。
様々な実験を試行する中、とうとう先代の姫巫女は事故によって命を落としてしまった。
以来、中央神殿の姫巫女の席は空いたままで、世界横断についての研究も凍結したまま。
姫巫女の誕生とは奇跡にも近い。だから、数十年はどちらも止まったままのはずだった。
しかし、ちょうど一年前。彼女──ソフィラティア様が、突如としてこの世界に現れた。
先に気づいたのは、研究所だった。そして中央神殿より先に新たな姫巫女を確保するため、こうして俺が現地調査員として送られたというのが、一連の流れであった。
「中央神殿との連絡は?」
『まだまだっスね。あと一ヵ月か二ヵ月くらいはかかるかもしれないっス」
「……何とか早めてほしいものですが、待つしかないですか」
もとより、いろいろな事情もあって、姫巫女の確保には乗り気でなかったのだ。
それに何より、先代と同じ末路を辿ってほしくなかった。彼女は真に人々を救う者なのだ。
だから、彼女には姫巫女としての使命を全うしてほしかった。
副所長はそんな俺の考えを理解してくれた、唯一の人だった。
『まあ、中央神殿も色々あるっスからねえ。でも、もう少しっスから』
「……ありがとうございます」
彼女が中央神殿との繋がりを持っていることは、運が良かったとしか言えなかった。
「では、本日の報告を終了します」
『ほいほい、お疲れっス』
通信が途切れると同時に、俺も耳に着けていた通信器を外す。
「……まだ諦めきれないのか、あの人は」
呟きと共に、朝焼けが訪れた。
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引用文献:銀陽の姫巫女における観察研究の報告書、項目二七より。
銀陽の姫巫女に該当する少女、ソフィラティア=エルガーデンの朝はとてつもなく遅い。
「姫巫女様、朝食のご用意ができました」
時刻は既に朝の十時を過ぎようとしているころ。姫巫女様の寝室の前にて。
扉を叩いてそう声をかけてみるも、当然ながら返答は無し。いつも通りの調子であった。
「……姫巫女様? 起きていらっしゃいますか?」
ここまで来ると五割の確率で何らかの反応があるのだが、今日はどうやら外れらしい。
相も変わらず静まり返った扉の前で、俺のため息だけが小さく響いていた。
「……失礼いたします」
そう呟いてから扉を開き、姫巫女様の寝室に入ってから、閉じたカーテンを勢いよく開く。
窓から差し込むのは。目が眩むほどに強く光を放つ陽光。世界を照らさんとする銀の輝き。
その光が指し示すのは、ベッドに横たわる一人の少女──ではなく
「……んあぁ…………」
「んあぁ、ではなく」
奇妙なうめき声を上げる毛布に、思わずそんな声が漏れた。
「姫巫女様、起きているのならせめて返事はしてください」
「あと……あと、八時間……」
「それでは陽が沈んでしまいますよ」
あと五分、とかだったらまだ可愛げがあったものを。
「それに、このままでは朝食が冷めて夕食になってしまいます」
「むぅ……べつに、冷めててもいいし……」
「せっかく姫巫女様のためを思って作ったのですが」
そんな言葉を付け足すと、姫巫女様はゆっくりと、首から上だけを毛布から出して。
「……あんた、割と良心に訴えかける脅し方するわよね」
「それくらいしないと聞いてくれないでしょう、あなたは」
「よく分かってんじゃない」
どれだけあなたに付き合っていると思っているんだ。
付き合っているというよりは、毒されてきた、と表現したほうが正しいのだろうが。
「ほら、分かったのなら早くベッドから出てきてください」
「仕方ないわね……」
とうとう観念したのか、姫巫女様は深く息を吐くと、ゆっくりと体にかけた毛布を翻した。
──最初に見えたのは、百合の花を想起させるかのような、淡く白い姫巫女様の素肌。
そしてそれを隠しているのは、上から下まで全てが開いたままのワイシャツだけ。
薄い布に挟まれたそこからは、胸元の小さな膨らみが覗いていた。
そのまま視線を下へ動かすと、瑞々しい太腿が視界の中に入ってくる。
一瞬だけ見えた鼠径部は白いままで、つまりそれは、何も履いていないということで。
彼女がうんと伸びると、シャツの隙間から細い腰が顔を覗かせる。
そのまま姫巫女様は、剥き出しになったままの両足を動かして、ベッドから──
「ひ、姫巫女様っ! ダメです、ストップ! そのお姿で動くのはお止めください!」
「ちょっ、何よいきなり! せっかく起きてあげようとしたのに!」
「ですがそれでは、その……あなたの……!」
「だから何!? 言いたいことがあるならはっきり言いなさい!」
ああもう、この人は!
「ですから、そのお姿では見えてしまうと言っているんです!」
観念してそう口にすると、姫巫女さまはああ、とようやく理解したようで、
「別に見えてもいいんだけど……」
「いいわけがありますかっ!」
気だるげに答える姫巫女様に、思わず叫び返してしまった。
「何よあんた、もしかして見たことないの?」
「いや、そういう問題ではなく!」
「…………見る?」
「だからそういう問題ではないと言っているでしょうが!」
頭おかしいんですかあなた、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。
「まったく……というか、そんな服どこから持ってきたんですか……」
「え? あんたの衣装棚からだけど」
は?
「……どういうことですか?」
「だから、あんたの服を借りてるんだって。意外と大きいのね」
ぶかぶかの袖を振りながら、姫巫女様はそんな事を言ってのける。
けれどそれは耳から入ってすぐ、反対の耳から抜けていった。頭の中が疑問で一杯だった。
俺の服を借りている? 姫巫女様が? そしてそのまま一晩を過ごしたと?
「な、なぜ……」
「だってあんた、私のパジャマ全部洗っちゃったじゃないの」
「……え?」
気に入ったのか、袖をぶんぶん振ったまま、姫巫女様はそんな答えを返してきた。
「『脱いだ服を溜め込まないでください!』とか何とか言って、私の部屋に置いてあった服、全部あんたが持って行ったのよ。その日の夜に使うパジャマもあったのに」
「そう言えば確かに昨日、そんなことを言ったような……?」
「だから、私は仕方なくあんたの服を借りるしかなかったわけ。これで満足した?」
「なるほど、そうだったのですか。それは申し訳──」
ん?
「いや、だとしても元は姫巫女様のせいじゃないですか!」
「ちっ」
「舌打ちしたって駄目ですからね! 今度はちゃんと、脱いだものは洗濯カゴに!」
何度も注意してるはずだが、姫巫女様は一向に言う事を聞いてくれない。
いや、言ったらその通りに聴いてくれるというのも、彼女らしくはないが。
「それに、着るものが無いからと言って勝手に男の、まして、私のような者の服を借りるなど言語道断です! いいですか、姫巫女様のようなお方がこのような真似をするなど……」
「あーもう、わかったわよ! 脱げばいいんでしょ、脱げば!」
「全然わかってないじゃないですかあなた!」
叫びながら服に手をかける姫巫女様に、思わず後ろを振り向いた。
「何よ、さっきはあんなに着ちゃ駄目って言ったのに」
「それとこれとは話が別です! とにかく肌を隠してください、今すぐにっ!」
「意味わかんない……」
それはこっちの台詞だ!
「頼みますから、他の者の前でそのような恰好はなさらないでくださいね……」
「するわけないでしょ。あんたの前だからできるのよ」
「私の前でもしないでいただきたいのですが!」
呆れながら振り向くと、姫巫女様は俺を睨みながら頬を丸く膨らませていた。
「そんな顔してもダメです。服くらいちゃんと来てください」
「またそんな母親みたいなこと言う」
「ですから、姫巫女様の傍にお仕えする者として、当然のことを言ってるだけです……!」
そう言われないような生活を送ってくれれば、こちらとしても負担が減るのだが。
「……とにかく、本日分の寝間着はこちらでご用意します。それはもう着ないでください」
「えー、結構着心地とかよかったのに」
「駄目です。早く返してくださいね」
「……ふーん」
すると、姫巫女様は何か思いついたような顔をすると、にやりとこちらに笑いかけて、
「あんたさ、もう一度これ着るつもり?」
……はい?
「だから、私と服を兼用してもいいのか、って聞いてるのよ」
「それは……」
「別に私は全然いいんだけど? ああでも、今日来る街の人たちには言っちゃおうかしら? 昨日はアインの服を借りて寝ましたー、って。事実だし、別に言っても構わないのよね?」
「構うに決まってます! なんてことをしようとしてるんですか!」
「この服くれないんなら、今日一番目に神殿来た人に言ってやる」
「ああもう、分かりました! それは差し上げますから、どうかお止めください!」
「それでいいのよ」
なんて情けなく敗北宣言をすると、彼女は嬉しそうに笑いながら、そう言ってきた。
……本当にどうしてそこまで嬉しそうなのだろう。そんなに気に入ったのだろうか。
「よし、そうと決まれば早く朝食にしましょ。だんだんお腹も空いてきたし」
「それもそうですね……」
……いや、ちょっと待て。
「姫巫女様」
「何?」
「まさかとは思われますが、そのお姿のまま朝食を摂られるおつもりですか……?」
裸足のまま廊下に出ようとしている彼女は、俺の声に不思議そうな顔のまま振り向いて。
「何か問題あんの?」
「私が今あなたに言ったこと、本当に一言も理解してないんですね!?」
そんな恰好で食卓に並ばれても、こちらが困る!
「お召し物は!」
「あんたが持ってきてないからないけど」
「でしょうね! 今すぐ取ってきますから、もうしばらくお部屋でお待ちください!」
「ええ、でもそれだと朝ご飯が冷めちゃう……」
「また作り直しますから! それでは、決して部屋から出ないでくださいね!」
しょんぼりと肩を落とす姫巫女様にそう言葉をかけながら、寝室を後に。この後の掃除や、姫巫女様の世話なんかを考えると、頭が爆発してしまいそうなほど痛くなってしまう。
そしてその痛みに慣れつつあるのもまた、否定しようがない事実で。
彼女の観察研究を始めてからちょうど一年目の朝は、そんな俺の混乱から始まった。
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