姫巫女さまのかくしごと   作:宇宮 祐樹

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05 紅蓮の魔女のかくしごと(上)

 その日は、指先が凍ってしまいそうなほどの、ひどく冷たい雨の降る日だった。

 言い渡された任務は、世界横断を内包する少女――姫巫女という存在の一人を極秘に保護、そのまま経過を観察しつつ、速やかに研究所へと保護するという、簡単なもの。

 だが正直なところ、俺はこの任務に乗り気ではなかった。というのも先代の姫巫女を殺し、その上で再び同じ過ちを犯そうとしている組織の任務に、乗り気になる方がおかしかった。

 

「……ここか」

 

 やがて俺が辿り着いたのは古ぼけた神殿だった。。

 入ってすぐは、大きな空間――龍の言葉を賜るための、謁見の間という施設だった。

 部屋の左右には幾つもの長椅子が並び、その中心を通るように赤い絨毯が敷かれている。

 そして、光。雨雲を切り裂く、白銀の陽射し。その中に立つのは、一人の少女だった。

 揺れるのは太陽の光を紡いだかのような、足先まで届く銀髪。瞳は海のような深い翡翠で、その双眸は俺のことを見つめたまま動かない。まるで、何かを見定めるように。

 振り続ける雨の中、差し込んだ光の先に立つ彼女は、まるで絵画のように麗しくて。

 見惚れていたんだと思う。どうしても少女から、目を離すことができなかった。

 指先が凍てついて、動かなくなるような、そんな錯覚を覚えていた。

 

「……誰?」

 

 静謐を破ったのは、彼女だった。

 一言。けれどそこには、一言では表せないほどに重く、そして縋るような意思があった。

 ……たぶん俺は、この時から解っていたのだと思う。

 彼女が姫巫女という偽りの自分に、今にも殺されそうになっていたということを。

 

「……私の、……名は」

 

 俺が最後の一人だった。巡り合わせなのか、それとも悪運と呼べばいいのか。

 結局今になっても分からないが、けれど後に退くことはしなかった。

 目の前の彼女が、まるで陽炎のように儚い存在に思えたから。

 

「私の名は、アイン」

 

 繋ぎ留めなければ。消え行く少女を見届けるのではなく、その手を握らなければ。

 そのためならこの俺の身など捨ててもいいと、心の底から確信した。

 それほど彼女は麗しく、神秘的で。そして、何よりも澄み切った存在だったから。

 

「あなたのお傍に仕えるため――あなたを救うため、ここに参りました」

 

 

 

「…………夢、か?」

 

 そうでなければあり得ない。姫巫女様との初めての邂逅を、俯瞰で眺めていることなど。

 箱庭のようだった。暗闇の中、意識だけがそこにあるような、そんな曖昧で不思議な感覚。

 俗にいう明晰夢というものだろうか。まるで、自分の頭の中を覗いているような、そんな。

 

「そこまで難しく考えんでもよい。お主にとっては夢で構わんよ」

 

 聞こえたのは女の声だった。老人のような言葉遣いに反し、声色は若い。その声の方へと、目──正確には意識そのものだろうか──を向けると、一人の少女が俺の前に現れた。

 薄い青の下地に銀色の装飾が施された、姫巫女様の巫女装束をそのまま豪華にしたような、そんな衣装。髪の色も姫巫女様と同じ輝かしい白銀で、顔立ちも心なしか彼女に似ている。

 違うのは、瞳が朝焼けのように眩しい、澄んだ橙色をしていたこと。

 そして、何よりも目を惹いたのは、頭の上に生えた山羊のような二本の角。それはまるで、空を閉じ込めて結晶にしたかのような、きらきらとした光を放っていた。

 

「こうして会うのは初めてじゃな、アーベントロートの者よ」

 

 俺の名前を呼ぶと、彼女は片手を上げながら、にかりと歯を見せて笑う。

 そこで初めて、細められた瞳の瞳孔が、まるで爬虫類のように細長いものだと気が付いた。

 ……確か、龍とは生物で例えるならば、蜥蜴や蛇のような爬虫類に似ているとか。

 まさか。

 

「銀陽龍様?」

「いかにも。我は銀陽の創造主、シルバソリオ=エル=ドラグニカ、その者である」

 

 むん、と胸を張って、少女──否、銀陽龍様はそうお答えになった。

 

「しかしよう分かったの。信じてもらうのに少しは時間が要るかと思ったが」

「……おそらく、こんなことが出来るのは、この世界で銀陽龍様だけかと」

「かか、確かにのう。聞いとるよりもお主はこの世界を理解しとるようじゃ」

 

 正しくは理解できないことを理解している、といったところだが。

 今だってそうだ。銀陽龍様が俺の前に姿を現した理由など、理解できるはずもなかった。

 

「だからそう難しく考えるなと何度言えば分かる。我が姿を現すのがそこまで珍しいか?」

「……龍とは、姫巫女としか言葉を交わせないものではないのですか?」

「いかにも。じゃが、どうも貴様とは波長が合うのじゃよ。あ奴の傍におるせいかもしれぬ」

 

 曖昧過ぎる返答に少し困ったが、事実として起きている以上、否定しようもなかった。

 

「さて、お主のことはよく知っておるぞ、アインラヴェンデル」

「……どういう、意味で?」

「そう怖がらんでもよい。本来のお主の正体なぞ知っておるし、お主の心労も解っておるよ。いやはや、面白いものを見させてもらっとるわ。安心せい、我はお主の味方よ」

「姫巫女様には」

「そこら辺は弁えておるつもりじゃ。言ってしまったほうが面白いと思うがの」

 

 ちっとも面白くないし、できれば勘弁してほしいところだが。

 

「それで、銀陽龍様はどうして私の夢に?」

「ああ、そうじゃった。お主に一つ、聞きたいことがあって来たのじゃよ」

「聞きたいこと、ですか」

「然り。我はその問いに対する、お主の答えを望む。別にこれはあ奴に言う訳でもないから、自分の好きに答えればよい。お主のそのままの答えを聞かせよ」

 

 それは、俺が研究所の職員であることも含めてだろうか。

 ついぞその疑問に答えることはなく、銀陽龍様は口を開き、

 

「アインラヴェンデルよ。お主は、姫巫女――ソフィラティアの事をどう思っておる?」

 

 そんな問いかけを、俺へ投げてきた。

 

「姫巫女様を……ですか」

「ああ。お主にとって姫巫女はどんな奴じゃ? 研究対象か? それとも尊ぶべき存在か? はたまた……いや、これは言うべきではないな。お主というより、あ奴に怒られそうじゃ」

「……少し、考えさせてください」

「好きにせい」

 

 によによと、やたら悪戯めいた笑みを浮かべる銀陽龍様に、そう言ってしばらく思考する。

 銀陽の姫巫女、ソフィラティア=エルガーデン。彼女は俺にとってどんな存在か。

 単純に答えるのなら姫巫女様、ということになるが、そういう訳でもないだろう。

 それではどんな人か、と思考を巡らせていると、意外にも答えはすぐに見つかった。

 というより、初めて会ったその時から、俺はこう思っていたのだろう。

 

「姫巫女様は、正直なお方です」

「……ほう? 続けてみよ」

 

 銀陽龍様に言われるがまま、その先を口にする。

 

「思ったことはそのまま口にしますし、他の何よりもご自身の気持ちを最優先するお方です。稚拙だとはあえて言いません。おそらくその在り方こそ、彼女が姫巫女である理由なのです。何者にも縛られない姫巫女様のお言葉は、確かに人々の助けになっています。ですが……」

「……なんじゃ? 申せ」

 

 これを銀陽龍様の前で言ってよいものなのか少し迷ったが、続けることにした。

 

「彼女は、嘘を吐くのが嫌いなのだとも思っています。ですから彼女が姫巫女であることは、同時に彼女自身を苦しめている。自分を偽ることに、ひどく罪悪感を覚えているのでしょう。でも、自分を偽らなければ姫巫女になれない。姫巫女でない彼女の言葉は、誰にも届かない。だから彼女は、自分の存在が消えかかっていようとも、姫巫女という機能で在り続けている。それが人々を救うために必要なことだから。自分しか、姫巫女はいないから」

「なるほどのう。よう見ておるわ」

「だからこそ私の前では、彼女は本当の自分でいてほしいと思います。自分を偽ることなく、自由であってほしい。そのためなら私はいくらでも彼女に付き合います。ありのままの彼女を受け止めます。それが、私が彼女にできる、唯一のことだと思いますから」

 

 そのためなら俺は、あの時と変わらず、やはり全てを投げ出せるような気がした。

 

「……只の人間が、ようそこまで言い張れるわ」

「只の人間だからです。私にできることは多くない。だからこそ、それを成さなければ」

「愚かだとは言わん。じゃがな、それはお主そのものを削っていることを忘れるでないぞ」

「……この俺の体一つで、彼女が自由になるのなら本望です」

 

 そう答えると、銀陽龍様は呆れたような顔で、大きな息を吐いた。

 

「ま、止めることはせん。それにそれくらいの方が、あ奴と相性がよいのかもしれんし」

「……それは、どういう?」

「なに、こっちの話じゃよ。お主は気にせずともよい。いずれ解ることじゃ」

 

 その言葉を気に掛ける暇すら与えずに、銀陽龍様は続けて口を開いた。

 

「さて、アインラヴェンデルよ。お主のその言葉、しかと我に届いたぞ」

「……答えになっていたでしょうか」

「充分すぎるほどにな。それに、お主がどういう人間なのかも理解できた」

 

 その言葉に、少しだけほっとする自分がいた。

 

「そろそろ朝が来る。夢から醒める時じゃ」

「分かりました」

 

 意識が朦朧としていくのは、そう答えたのと同時だった。

 

「ではまたの、アインラヴェンデル。次に会うのが何時かは分からんが、それまでに──」

 

 うっすらと霞んでいく視界の中、煙のように解けていく銀陽龍様は、俺へ向けて。

 

「──せいぜい女心の一つや二つ、理解できるようにしておくがよい」

 

 それが何を意味しているか理解する間もなく、暗闇に朝焼けが訪れた。

 

 ■

 

「おはよ、アイン」

 

 目覚めと同時に聞こえたのは、そんな姫巫女様のお言葉だった。

「…………おはようございます」

「珍しいわね、あなたがそんなにぐっすり眠ってるなんて」

 

 きょとんとした顔でこちらを覗きながら、姫巫女様はそう呟いた。

 

「今は」

「朝の十時。私も今さっき起きたんだけど、あんたの姿が見えなかったから」

「……申し訳ありません、すぐに朝食のご用意を致します」

「別にいいわよ、そんなに急がなくて」

「そういう訳にもいきません。姫巫女様のお体にも差し障るでしょうから、少なめでも──」

 

 と。

 ベッドから体を出そうとしたその瞬間、急激な眩暈に襲われる。

 まるで、地面が回転しているような、空中にいきなり放り出されたような、そんな浮遊感。

 そのまま床へ脚をつけることもできなくて、情けなくもう一度ベッドに横になってしまう。

 

「だから言ったじゃないの。私より自分の心配しなさいよ」

「……申し訳ありません」

 

 頬を膨らませる彼女に、そう答えることしか、今の俺にはできなかった。

 

「何があったの? 徹夜? それとも風邪? 熱は……なさそうだけど」

「……ご心配頂き、ありがとうございます」

 

 額へあてられた手を優しく退けながら、正直に打ち明ける。

 

「夢の中で、銀陽龍様とお会いしました」

「……はぁ?」

 

 なんて苛立った声を上げたかと思うと、姫巫女様が溜息と共に片手で顔を覆う。

 

「あの方は……あれほど慣らしてからって言ったのに!」

「……姫巫女様は、ご存じだったのですか?」

「私以外にも話せる人がいるってことはね。でも、あんたに会いに行くなんて聞いてない」

 

 ふん、と不機嫌そうに口を尖らせながら、姫巫女様はそう答えてくれた。

 

「……あんた、昨日の私と銀陽龍様の話、覚えてる? 真後ろで黙って聴いてたんでしょ?」

「断片的にですが……」

「その中で、私が銀陽龍様と話す時、すごく体力を使うって言ったけど」

 

 ああ、そういえば、そんなことを言っていたような……。

 

「……内緒にしていましたよね」

「それは……そうだけど! あんたに話す必要がなかったのよ!」

「言い訳……」

 

 いつもならもう少し問い詰めるところだったが、そんな体力も残っていなかった。

 

「そもそも龍と言葉を交わすっていうのはね、龍の力の一端を体で受け止めるってことなの。まして、相手は世界を創った原初の龍なんだからね? そうした反動があって当然よ」

「……姫巫女様は、それを毎日なさっているようですが」

「私は慣れた。っていうか、その対話に慣れる人間が姫巫女ってわけ。順序が逆」

 

 ……この疲労感と眩暈に慣れる? そんなことが出来るものなのか。

 

「ま、そんなわけだから少し休んでなさい。三十分もすれば元に戻るから」

「ですが、それでは姫巫女様の朝食が……」

「私のことより自分の心配をしなさいよ。あんた、一人で起きれるの?」

「でもそうしなければ、姫巫女様にご迷惑が――」

 

 そう言って再び立ち上がろうとするけど、やはり強烈な浮遊感が襲い掛かってくる。

 今度はベッドから落ちそうになったところを、姫巫女様に受け止められた。

 

「……次は無いわよ」

「申しわけ……ありません……」

「あんた、そういうところは無茶したがるのよね。別に私は気にしてないってのに」

 

 などとぶつぶつ呟いた姫巫女様が、よいしょ、とベッドの上へと乗り上がってくる。

 そして支えたままの俺の頭を、自らの膝の上へと優しく寝かせてくれた。

 …………ええと。

 

「姫巫女様」

「こうでもしないとあんた、休まないでしょ」

 

 真上から覗き込むさかさまの姫巫女様が、呆れた声で言ってきた。

 

「ですが、このような真似はその、あまりにも……」

「なに? 見惚れた女に膝枕されるのは嫌?」

「決して嫌ではありませんし、むしろそのお気遣いは非常に嬉しいのですが……」

「ならいいじゃない。十分とかでもいいから、しばらく寝てなさい」

 

 胸元を優しく叩かれると、瞼がだんだんと重くなっていく。

 暖かかった。まるで太陽に当たっているかのような、柔らかな温もりが感じられた。

 浸っていいものではないと思う。俺のような人間が、彼女の優しさに触れるなど。

 けれど、まどろみの中では立ち上がる力すらも湧かなくて。

 

「…………申しわけ、ありません」

「いいのよ。あんたは頑張りすぎなの」

 

 小さなその手で目を覆われる、その瞬間。

 

「私にも、少しくらい救わせなさいよ」

 

 姫巫女様が儚い笑みを浮かべているような、気がした。

 

 

 あれから姫巫女様に言われた通り少し休み、軽めの食事を喉に通してから。

 後に回していた謁見の間の掃除の、その最中のことだった。

 

「…………あれ?」

 

 それは何の前触れもなく、いきなり俺の目の前へと現れた。

 

「なぜ……」

 

 初めに感じたのは疑問だった。そして後からふつふつと湧き上がるように、恐怖が迫る。

 見間違いであってほしかった。だが、どうやらそういう訳でもないらしい。

 床でもぞもぞと動くそれに、俺はしばらく立ちすくんでから、ゆっくりと距離を取った。

 

「落ち着け……大丈夫だ、そう……何も問題はない……」

 

 自分に言い聞かせる。そうでなければ腰が抜けて、膝から崩れ落ちそうだったから。

 

「どうしよう……」

 

 出ていけと言って従うようなものでもないし、ましてや手で触れるなどできるはずが。

 ……いや。姫巫女様にお仕えする者として、そんな弱気になってどうする。

 

「やるしかないか……」

 

 一番いけないのは、あれが姫巫女様の眼に触れること。それだけは避けなくては。

 それに彼女の為に全てを捧げると誓ったのだ。そう考えると、不思議と肩の力が抜けた。

 ……守るものがあると人は強くなるというのは、どうやら本当のことらしい。

 何も恐れることはない。普段の俺のように、事務的に処理してしまえばいい。

 

「行くぞ」

 

 倒すわけじゃない。せめて箒の先で触れて、どこか遠くへ飛ばせれば。

 彼我の差は既に三歩ほど。そこから更に距離を詰めるが、あちらが反応する様子は無い。

 このままの調子でいけば、上手くいくはず。だから何事もなく──。

 

「ちょっとアインー? 体はもう大丈夫なのー?」

「あ」

 

 ぶーん。

 

「ああああぁぁぁああああああ‼」

 

 うわああああああ!? あああっ、ああああ! おあああぁぁぁぁあああああ‼

 

「ちょっ、は、え、何!? どういうこと!?」

「ひっ、ひひ、姫巫女様っ! どうかここから離れてください、今すぐ!」

「危険って何よ!? いいからちゃんと説明しなさい!」

「ですから――」

 

 ぶーん。

 

「あぁあああもう無理! やっぱり無理だろっ! ふざけるなよこいつ! 今すぐ死ね!」

「いや、だから何が……」

「今までありがとうございました! あなたにお仕えすることができて、本当に幸せでした! ここで果てるのに後悔はありません! ですからどうか、私の事は見捨ててください!」

 

 思わずそう姫巫女様に訴えるけれど、彼女は俺の背後を不思議そうに見つめるだけ。

 

「……何も、危険な風には見えないんだけど?」

「あなたにはアレが見えないというのですかっ!」

 

 半ば怒りの伴った叫びと共に、突き出した指の、その先に居たのは。

 

「……クワガタ?」

 

 すると彼女は、怪訝な目で俺の事を見降ろしながら。

 

「アイン? あんた、もしかして……」

「苦手なんですっ!」

 

 こうして情けなく、姫巫女様のお体に縋るほどには! 

 

「……ちょっと意外ね。あんたがこんな虫一匹でそんなに騒ぐなんて」

「逆にあなたはどうしてそんなに落ち着いていられるんですか!」

 

 そんな俺の疑問に、姫巫女様は呆れたようなため息だけを返した。

「とりあえずこの子は外に返しましょ。そこまで騒がれる方が不憫だわ」

「で、ですが姫巫女様……それは、虫……ですよ?」

「なるほど。あんたクワガタじゃなくて虫全般がダメなのね」

 

 なんて俺の言葉に呆れる様子を見せながら、姫巫女様は黒いその影へと手を伸ばす。

 そして──ひょい、と。

 まるで、作りかけの菓子をつまむような、落ちた筆を拾い上げるような。そんな気軽さで、姫巫女様はあの忌々しい生き物を掴み上げた。今までで一番心強い、彼女の姿だった。

 そうやって呆気に取られている俺など目もくれず、姫巫女様は片手で謁見の間の扉を開く。

 

「さよなら。アインがうるさくなるから、もう来ないでね」

 

 そんな言葉を添えてから、姫巫女様が手を放す。

 舞い上がったクワガタは、その雲一つない空へと羽ばたいて────ゆかずに。

 

『やっと見つけたよ、姫巫女サマっ!』

 

 などと、少し高い女の声で、高らかに叫んだのだった。

 

「え……? 今、喋って……」

『あーっと、別にこの子が喋ってるわけじゃないんだ。この子を通じて、私が話してるの』

「どういう……こと? ね、ねえアイン? これっ、どうして……」

『あはは、確かに不思議だよね! じゃあ、少し早いけど種明かし、いってみよう!』

 

 理解不能なこの状況で、ただはっきりとしているのは、その声の主の像。

 そして、それはおそらく、この世で一番姫巫女様に見せてはいけない人物のもの。

 

「──っ、姫巫女様ッ! こちらへ!」

 

 宙に舞うクワガタに赤熱を始め、その身を紅蓮に染めると同時、周囲へ炎を舞い踊らせる。

 紅に染まる炎の向こう、一瞬のゆらめきの後に現れたのは、一人の少女だった

 背中まで届く長い金髪に、赤黒い全身を包むローブと三角帽子。瞳は薔薇を描いたような、強く輝く朱の色。そして顕れた彼女は、こじんまりとした唇から大きく息を吸い込んで、

 

「初めましてだね、姫巫女サマ! 私のなま」

 

 ばたんっ。

 あぶない、間に合った。

 

「……今日は神殿を閉めましょうか。姫巫女様も、毎日働きづめでは大変でしょうし」

「あ、え? いや、えっと……今、扉の向こうに何か……」

「見間違えたのでは? やはり姫巫女様もお疲れのようですから、今日は休みましょう」

「で、でも……なんかあのクワガタが燃えてて……」

「クワガタなんて、そんな虫がこの神殿に入り込むわけないじゃないですか」

「あんたさっき、思いっきり私に抱き着いてたけど!?」

 

 知らない。忘れた。というか俺が姫巫女様にそんなことするだろうか。ありえん。

 

『ちょっとー、いくらなんでもひどくない? せめて名乗るくらいはさせてよー!』

 

 ……違う。これは幻聴だ。そうであってくれ、頼む。

 

『相変わらずアイくんは恥ずかしがり屋さんだなぁ。そんなに照れなくたっていいのに』

 

 聞こえない。何も聞こえない。そうだ、今日の俺は彼女と久方ぶりの休日を過ごすんだ。

 ゆっくりお茶をしながら一緒に本でも読んで、何の変哲もない日常を過ごすのだ。

 

『んもー、いい加減、顔くらい見せてよ! 私もちょっと手段選んでられないの!』

「だったら帰れ!」

『それがそうもいかなくてさー……この扉っていくらするの? そこまで高くないよね?』

 

 いや待て! いくらなんでも、それは洒落にならない──

『そぉ──れっ!』

 

 ごばぁん、と。

 腹の底に重く響く轟音と共に、俺と彼女を隔てていた扉が、はるか後方へと吹き飛んで。

 差し込んでくる白い光の中に立つのは、金の髪を輝かせる一人の少女だった。

 

「さっきぶりだね二人とも! じゃあ改めて、自己紹介いってみよう!」

 

 指先で上げた三角帽子の下には、意味が分からないほど清々しい笑顔が浮かんでいる。

 そしてそれは、願うならもう二度と見たくない、魔女の笑顔だった。

 

「私の名前はエフィカトラシアルバフラム! 紅蓮の魔女、フラムって呼んでね!」

 

 

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