「この世界で危険なもの?」
「ああ」
それは一日のルーティンワークを終わらせ中天に輝いていた日が傾きかけたころ。てきぱきと外出の用意をしながら、ふと気になった疑問をベッドで横になるイオに問いかけていた。
なんでそんなことを? と小首をかしげるイオに、少し頬をゆるめながら話し始めた。
「俺も旅に付いていくことになっただろう。だから、なにか不測の事態があってはいけない。対策を立てておきたいのさ」
「あ、なるほど。ありがとう、気遣ってくれて」
「自分のためでもある気にするな。……この世界じゃ見たこともない生物がいるからな……」
「ふふ、でもあんまり気にしなくていいよ。わたしもこの10年を無駄に過ごしてきたわけじゃないし、獣除けの対策はいくつかあるから……でもそうだなぁ、わたしたちの命を狙うような凶暴な生き物は熊やグリフォンくらいじゃないかな?」
「熊とグリフォン、か」
イオの言葉におもわず渋面をつくってしまう。
熊は分かる、だって元の世界にもいたから。……だがグリフォンは埒外すぎではないか。姿形も教えてもらったが、空想上のグリフォンのまんまだった。
いや、グリフォンの存在を疑っている訳ではない。グリフォンの近縁種だという、グリフォンに比べれば温厚なヒポグリフならば何度か空を滑空しているのをこの目で見たことがある。
あの時は目が異世界という環境の変化でついに頭がやられたのかと心配になったものだ。
「でもそこら辺は大丈夫かな。熊は鈴を持っていけばいいし、ヒポグリフの縄張りを通るか獣避けがあればグリフォンは寄ってこないし」
「そうか。問題なさそうか」
「うん。あとは……あっ、……ちょっと眉唾だけど一つだけ……」
「ん。どんなやつだ?」
「ホントに眉唾なんだよ? 出会う確率なんて0に等しいけど、でも熊やグリフォンなんて目じゃないくらい強力な存在」
イオが声はどんどんか細くなっていった。どこか怯えと畏れに威圧されるように……息をひそめるような声。
「熊の危険度が10だとして、グリフォンは30くらい……でもその存在は数字では表せないくらい。出会ったら見逃してくれることを祈るしかないような……そんな存在」
「そんな天災じみた奴がいるのか……?」
「うん。わたし自身見たこともないんだけど、お母さんの手記に少しだけ載ってたの……」
「そいつの名は?」
「───『まつろわぬ神』」
かすれ、ささやく、声だった。
「神……?」
「うん。それはとても怖ろしい存在。……昔は良い神様だったらしいんだけど、時を経て変質していって、悪い神様になっちゃったんだって」
「……」
なんて言えばいいのか判断が付かなかった。ありえないと笑い飛ばせばいいのか、イオと同じように恐れればいいのか。
「ふふ、脅かしすぎちゃったかな。でも大丈夫だとおもうよ? ただ手記に書いてあっただけだから本当に居るのかなんて怪しいし、わたし達の前に現れるなんてもっと怪しいし」
「そうだな」
確かに眉唾だった。『神』は居るという前提を置いてそんな者がいれば、太刀打ちできないのは明らかだ。
まつろわぬ神……まつろう事のない神、か。頭の中で単語を転がす。
まつろわぬとはどう言う意味なのだろう。平安時代に存在したまつろわぬ民とは朝廷に従わない民を指した。
であれば『神』の場合は? イオたちの一族に従わないからまつろわぬと評したのか? それとも彼らイオたち一族固有の宗教観念から?
神話は好きだから読み漁っていたが少なくともそんな言葉初めて聞いた。でも異世界なのだ……もしかしたら神様だって存在していて、たしかに実感できるからこそ元の世界にはない特異な表現を使ったのかも知れない。
謎は深まるばかりだった。
ただ、その単語を聞いてから、胸の奥底が妙にざわついて仕方がなかった。
「大丈夫だよタカシ、神様には私が毎日お祈りしてるもの。襲われるどころか助けてくれるよ」
「そうか。それもそうだな」
「ふふ。……日が暮れてきたね。タカシ、今日もお願いしていい?」
「ああ」
ほほえむ彼女の手を取って、いつもの丘に向かいはじめた。
さっきまでの疑問は思考の奥底に沈んで、いつの間にか消えた。
ふと仰いだそらには無数の綺羅星がかがやいて、静かな丘に座りこむ小さな二人を見下ろしていた。
丘は星明かりでそこらを駆けまわれそうなほど明るく……けれど口からは白い息がもれて鼻先をツンと刺すような肌寒さあった。
昼には春の温かさが満ちるこの場所も、夜となれば話は別だ。この気温の差、正しく春なのだろう。
手早く準備する。
「ほら、イオ」
火で温めた飲み物……イオが以前から作っていたという蜂蜜酒……を差し出す。これがあるのとないのとでは身体の暖まり方が段違いなのだ。
「ありがとうタカシ。……ん、久しぶりに飲んだけど、おいしいよねこれ。身体もぽかぽか温まるからどうしても眠れないときはこっそり飲んでるんだ」
「そうか」
二人の胃が満たされるまで、しばし和やかな時間が流れた。その頃にはさっきまでの肌寒さはどこへやら、満腹感とともに心地の良い熱が体内に宿っていた。
「……お祭りってどんな感じなのかな」
脈絡のない唐突な問いかけだった。見ればイオはコップの湖面に映った水鏡に視線を揺らしていた。もしかすると独り言だったのかもしれない。
「お母さんの手記にはたくさんの事が書いてあるけど、分からない事も多かったんだ……。お裁縫も、料理も、声が教えてくれることも、一人でできるものなら何でもやったよ。……でも、お祭りも、友達も、他の人がいないとできないことは今まで何もできなかったから。……分かんないんだよ」
ああ、そうか。イオはこれまで孤独な生活をおくっていたから……。
イオを気遣うように小さく笑う。笑うなんて不慣れすぎて引き攣っていたのは自覚していた。
「二人だけの、いまでも、十分お祭りだ」
「ふふ……だったら嬉しい」
こちらの答えに満足したのだろうかイオはほほえみ家から持ってきた風呂敷を解くと、六弦の竪琴を出した。
音楽の教科書にでも載っていそうな古風なリュート。
「下手だけどゴメンね」というイオ。とんでもない、と首を振って否定する。
何度か聞いたことがあるがイオの演奏と歌声は素晴らしい。その歌声はニュンペーかセイレーンさながらで、また聞けるのかと鼓動がにわかに活気付きさえした。
羽根も持たぬおまえが業を忘れて何処へ行く?
あの白き頂きへ、小さな小さな素足で歩いて来なさい。
曲は何度か聞いたことのあるものだった……あるいはこの曲しか知らないのかもしれない。
だが一度聞いたからといって色褪せるものでもない。
聞き惚れていると、無意識のうちに、いつの間にか口遊んでいた。
歌声に宿る魔性がそうさせたのだろうか。……ずっとずっと一人で歌っていた少女に、少しでもいいから寄り添いたかったのかも知れない。
歌は一度聞けば記憶に焼き付いてしまうから歌詞やリズムに問題はなかった。決して歌が上手いわけじゃないから、この旋律を汚してしまわないか。そちらの方がよっぽど心配だった。
いきなり歌いだした観客に目をまるくしたイオだったがすぐにうれしそうに笑った。
二人の奏でる曲は、最初に歌っていた曲に留まらなかった。
楽しい歌、悲しい歌……旋律が分からないときは導いてもらって、今度はこちらが歌い返して導いて、不思議なことに歌詞も旋律もなにもかもめちゃくちゃだったというのに一つの曲として体を為していたから奇妙だった。
ひとしきり演奏が終わると、星明かりに照らされた少女はしっとりと微笑んだ。
「……ありがとうタカシ。あなたが来てくれたお蔭で前よりずっと楽しい。人となにかをする事がこんなにもドキドキするなんて知らなかった」
星明かりに照らされた彼女はそら恐ろしいほど綺麗だった……今にも霞となって消えてしまいそうなほど。
それが潮騒のごとく胸を騒がせた。
「大丈夫。イオもこれからもっと沢山の人に出会って、もっと沢山の楽しみを見つけていけばいい。焦らなくても、いつか外に出てればすぐにできる」
その胸騒ぎのせいだろうか。普段より舌はなめらかに動いた。
「楽しそう! ねえねえ、外にはどんな人が居るの? 私でもタカシみたいにお友達になれるかな?」
「できる。少なくとも俺の幼馴染みなら保証する。全員子供の頃から共にいる気のいい奴らだ」
「あっ、そっか……私と会う前からずっと一緒にいたんだ……」
「ん……どうかしたか?」
「うぅん、なんでもなーい」
「……?」
少し拗ねたようなイオに少し困惑する。どうにかせねば、混乱した思考のなか、とある質問が飛び出した。
「そ、そうだイオ。もし、もしだぞ。俺の元の世界に帰る手段が見付かったとして、君は俺に付いてきてくれるか?」
「……え。私が、タカシと?」
「ああ。それも今すぐ」
なにを口走ってるんだこのコミュ障は。そう自分をぶん殴りたかったが、もう止まれない。……それに気になってはいたことでもあった。
「……う、う〜ん……それは、無理かな……? いままで過ごしてきた場所をそんなすぐには変えられないよ……羊たちの世話もあるしね?」
「……そ、そうか」
少し、いや、かなりショックだった。イオなら、と思い込んでいた。
でもそれはただの思い上がりで……今までの生活基盤を放り投げてまで付いてくる人なんて早々いるはずもないと考えなくても判ることだった。
そんなもの人を所有物にしか思っていない証左じゃないか……問いかけの答えも己の愚かさも、二重でショックだった。
「それにここで頑張るのをやめちゃったら、お母さんにも胸を張って会えなくなっちゃうもん。ごめんね?」
「いや謝らないでくれ。俺こそ君のことを考えていなかった、すまない」
「いいよ。たぶん私に何もなかったら、タカシに付いてってると思うし」
「そ、そうか」
「でもそうだなぁ……。いつか……頑張って頑張って、お母さんに会うことができたのなら……タカシの世界に行ってみてもいいかな」
「……それは、遠いな」
「ごめんね? でもわたしはそのために今日この時までずっと頑張ってきたから。それを水の泡にはできないよ」
「そう、か」
我も人彼も人。彼女も一人の人間なのだ。それをひどく実感した。
それに可能性は0じゃない。……そう思いたかった。
「そう言えば山の向こうにイオの母がいて待っていると手記に書いてあるのか?」
「え? ……うぅん、手記には頑張りなさいってしか書いてないの。会えるって教えてくれたのは降ってくる声だよ」
「声が、か」
「でも間違って居ないと思う……だってお母さんは死んでないんだよ? だからこうして声をかけてくれるんだし、だったら今はどんなに遠くにいたとしても、私は胸を張って会えるよう、自慢の娘だって言ってもらえるように頑張るだけだよ」
言い切った声は、意志のこもった強い声だった。
心臓の鼓動が強く脈打った。母に会いたいと願うイオがひどくまぶしくて仕方がなかった。
「そんなにも、か」
「そんなにも、だよ」
「……分からない。俺は親にそこまでの感情を抱いたことがない。だからイオが会いたいと強く思う源泉が分からないんだ」
「あはは、タカシってば変なこと聞くね。──理由なんて、あるわけないよ」
「理由が、ない……?」
「だって子供が親に会いたいって自然なことでしょ? わたし、タカシみたいに外のことなんて知らないけど、それだけは分かるよ?」
「───────」
ああ……そうか、そうだよな。
目から鱗が落ちる、という経験をこの時はじめて体験だろうと後になって思った。
けれど、いまこの時はただ、未知の知識を突然与えられた子供のようにぽかんと忘我することしかできなかった。
世間知らずだと思っていたイオが、「おかしなタカシ」とクスクス笑っているイオが、何十倍も常識的で、成熟していて、とても眩しく見えた。
同時に気付いた。
なんで自分が元の世界に帰ろうと躍起になっていないのか……いや、躍起になれないのかが。
そうだ……森から出られないと知った時ももっとなりふり構わず行動しても良かったはずだ。迷いの森があるなら森を切り倒して切り拓けば良かった。山火事でも起こして活路を見出そうとしても良かった。
……でもやらなかった。
ここに手がかりがないと悟ったのならイオの家を飛び出して、一人だけ探索して回ってもよかったのだ。
……でもやらなかった理由。それは───
───
それが正木隆という己が、根っこのところで求めていた物。
それが
────ここから先は全て人づてに聞いた話だ。
どうやら俺は短命の家系らしい。
というのも母方は代々身体が弱く母が中学に上がるころには妹以外みんな病で死んでしまうほどには虚弱な家系だったそうだ。
そして父の方なんてそもそも天涯孤独の人だったらしく父が死んだ今では確かめようがないが、どちらにせよ両家とも身体の強さや運、それらを加味しても20代を越えられない者がざらだったらしい。
話に聞く父は要領は悪かったが情の強い人で、母の方は周囲が呆れるほどお人好しだったという話だ。ふたりとも辛い境遇に嘆くでも怒るでもなく、日々を精一杯生きていける強い人たちだったらしい。
お互い身寄りのない者同士で似た境遇の二人だったから惹かれるものがあったみたいで、運命的な出逢いのあと一週間と経たずに付き合いはじめた。そしてまだ20歳にもならない身空で結婚し、俺を身籠ったそうだ。
まだまだ若いふたりには壮絶な苦労があって、……でも幸せそうだったらしい。
けれど、幸せな時間は長くは続かなかった……だって、
俺は巨躯だ。
まだ14だがもう身長は180を超えてる。それは赤ん坊のころから変わらない……臨月のころには平均体重を遥かに上回って8㎏を超えていたって話だ。いわゆる巨大児だったらしい。
そしてそんな難産に身体の弱い母が耐えられるわけなかった。帝王切開に踏み切ったが、結局、母は俺を生んですぐに亡くなり、その数日後、後を追うように父も事故で亡くなった。
……ゆえに、親殺し。
唯一の親族で俺を引き取ってくれた伯母は、たしかに育ててはくれたが幼少のころから随分と罵られた。
お前さえ、お前さえ。何度も聞いた言葉。
たぶん、一度も名前を呼んでもらったことはなかったと思う。仕方のない事だと分かってはいたが、辛くなかったと言えば嘘になる。
伯母の工作は徹底していた。
父や母の写った写真はもとより名前の記された公共施設の新聞すらくり抜いて、いっそ病的なまでに遠ざけていた。
まぁ小学校に上がるころにはそういうものなのだと受け入れていたのだが。
もう諦めてずいぶんと経つが、けれど親の顔くらい見たかった。……まかり間違っても殺したくて殺した訳じゃない。
立ち往生、八方塞がり、袋小路、どうしようもなくてにっちもさっちもいかない……そんな状況は人が生きている中で必ず訪れる場面だ。
だけど独りじゃどうしようもない時は往々にしてあるもの。
そんな時、人はどんな行動をとるだろうか? 決まっている、誰かに救けを求めればいいのだ。
無条件で手を差し伸べてくれる家族に。
頼り甲斐のある友人に嘆願して助力を乞うて。
ともすればそんな存在なんていなくて神様に縋って。
そしてそれは俺も変わらない。
俺の場合は三つ目、それも神様ではなく物語の英雄に救いを求めた。英雄に憧れた理由はこんな所だ。
そしていつの間にか英雄になりたいと願っていた。
英雄に救われた者として誰かの救いになりたいと思うの可怪しいだろうか。
再度言うが、俺だって普通の人生が選べるならそっちが良かった。子供が思い浮かべるような夢にいつまでも縋っていたくはなかった。
親が、欲しかった。
だからこそ、イオと俺は同じ穴のムジナだった。
だからこそ、イオのひたむきに母を求める姿は心を打った。
だからこそ、両親を失った者同士、可能性があるのなら手を貸したかった。
そう思うと不思議なほどするりと納得することができて。今度はなんの気負いもなく言葉出てきた。
「イオ──君がお母さんに会えるのを手伝いたい……そして許されるなら再会した姿を見届けさせてほしい」
流暢に紡いだ言の葉に、イオは驚いたように目を瞠って次には俺の手を取ってその豊かな胸に掻き抱いた。
「ほんと! ありがとう嬉しい! さっき歌を歌うのだって二人だったらこんなにも楽しくて仕方なかったのに、タカシが手伝ってくれるならすぐお母さんにだって会えるよ!」
星光の照らす丘で爛漫に笑う少女はこの世の者と思えぬほど美しかった。俺の手を取った彼女は柔らかく微笑みつづけて……
ああ……今なら誓えるはずだった。いや、今こそ誓ってやる、不朽不滅の誓いを。
俺とイオにこんな運命しか寄こさなかったクソッタレな神様にだって誓ってやるよ。
───
果たせなかったことをイオにやって欲しいから。誰がなんと言おうと俺は決めた。
イオが嫌だっていっても付いて行ってやる。
迷いこんだこの世界は正直言って普通じゃない……イオがいなけりゃ訳が分からなくてアタマがおかしくなっていた。できるなら一刻も早く出ていきたい。でも、そんな所に彼女ひとり置いていくのか? ……論外だろ。
俺が帰ることなんて彼女の物語を見届けるまで無期限延期でいい。俺は最期まで見届けたい。心の底からそう思ったんだ。
「あっ。でもタカシだって帰りたいでしょ? 私も手伝うよ……タカシが私を手伝ってくれるみたいに」
断言する。イオは「人」じゃない。
青い髪。
長い耳。
壮絶な美貌。
異能の数々。
特殊な生い立ち。
ずらりと並べられたもののどれを取っても人の枠組みには当てはめられないもの。けれど……
だから、どうした。
こんなクソの役にも立たないでくの坊の言葉にだって、イオはとびっきりの笑顔を浮かべて……手を握ってくれて。それだけで、救われたような気がするのに───
「一緒に頑張ろう、タカシ」
───ああ。この時、この瞬間、この刹那。
本当の意味でイオ・リュビエーという少女に”恋”をしたのだろう。