不撓不屈の英雄を跪かせるには【完結】   作:につけ丸

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説明が分かりにくかったり矛盾していたらすみません。


第3話

 けれど誓いとは裏腹にイオの容態は刻一刻と悪化していった。

 

 切り取られた草花のごとく彼女はみるみると衰弱するばかりだった。

 その衰弱の速さは坂を転げ落ちていくようで、まだよろけながらも歩けていた丘の日からたったの4日で発熱も咳もないというのに最低限の生命を維持すること以外不可能となった。

 まるで植物人間。

 もはやベッドから起き上がる事すらできないイオを放って置ける訳もなくあの日以来、丘を訪れる事も、狩りをする事もせず、彼女の傍に居続けていた。

 

 無力だった。ひたすらに。

 

 こんな運命しか用意しない『神』なんてものに誓ってしまったのがそもそもの間違いだったのだろうか。

 ベッドの横でそう臍を噛むように顔を顰めて、医療の知識も経験もなく、医者なんてとてもではないこの孤毒で無力感に苛まれつづけるしかなかった。

 

 ベッドに横たわるイオは意識の覚醒も時を経るごとに短くなっていく。時折、目を醒まそうと「お母さんが待ってる」「行かなきゃいけない」そんな譫言を繰り返し、死んだ様に眠った。

 

 地獄だった。変われるものなら変わりたい。

 でもどうすることもできず、ただ彼女のとなりに居続けるほか、なかった。

 

「…………タカシ……」

「イオッ、起きたのか!」

 

 うっすらと目蓋を開けたイオに思わず身を乗り出してしまう。彼女を慮って驚かすような挙動は控えるべきだったが最後に彼女が目を覚ましてから2日が経っていて、抑えられなかった。

 

「なにかして欲しいことはあるか? 水、飲むか? それとも……」

「……ごめんね……」

 

 脈絡のないささやき声に閉口する。と同時に手の甲に冷たい感触が伝わった。

 氷のように冷え切ったイオの手が、握りしめていた拳に重ねられたのだ。

 

「わたしは……大丈夫だから」

 

 カゲロウよりも弱々しく思えるほどになったイオは、大丈夫、大丈夫……そう何度もくり返して、声量は小さく小さくなっていき、また意識を失った。

 

「はは」

 

 笑いが漏れた。ひどく乾いた笑い声。

 なんだ、これは。

 何かが砕ける音が口腔から響く。気付けば奥歯が砕けていた。

 堪らず立ち上がって、外に出た。玄関のドアを閉めた瞬間、なりふり構わず全力で駆け出していた。

 目的地なんてない、ただあの場所に居ればそのまま家をぶち壊してしまう。そう思ったから、離れなければならなかった。

 

「クソッタレ! クソッタレッ! クソッタレェェェェッ!」

 

 喉よ破れよと底なしの怒りから湧き出た罵声を吼えたくり、目に付いたあらゆる物を叩き壊していった。木も、岩も、鹿も、熊も、生命も無機物も関係はなかった。手当たり次第に殴りかかって、原型を留めなくなくなったら、まだ別のものに殴りかかった。息切れする気配も、痛みすら感じる事はなくて、赤熱した思考は濁流さながらの破壊衝動を満たすことだけを求めた。

 獣だった。そこに憧れていた英雄像なんてありはせず無慈悲な理不尽にただ癇癪を起して暴れまわることしかできない。

 

「ガァアァアアアアア!!!」

 

 怒号とともにどこかのなにかへ右拳を叩き込む。固い物を殴った感触。

 

「なにが……なにが英雄だッ!」

 

 今度は左拳。殴った痛みはなくて、ただ強く握った拳が熱くて堪らなかった。

 

「自惚れも大概にしろ! 人ひとり……好きな子ひとり救えなくてなにが英雄! 後悔の数だけチャンスはあったのに……何もしなかった役立たずの木偶の坊が! 冷めたふりして斜に構えて、無能がバレるのが怖かっただけだろうが! なんの役にも立たない屑がァ! 死ね死ね死んでしまえ!!!」

 

 口汚く何も為すことのできなかった己を罵る。もうそれしかもうできなかったから。

 元の世界にいたとき彼女を救う、糧や経験を得ていれば……。あの情報と科学で満ち満ちた世界だったならば何らかの手段はあったかも知れない。

 だが何も持たない己の選択肢は0で、剥き出しになった感情を暴力で発散させるだけしかできない。

 

「誰か、助けてくれ……」

 

 力尽きたようにくずおれ、いつかの幼き頃のように英雄に縋るしかなかった。

 

 パラパラと砕かれた破片が頭上から降ってきた。

 見ればここはいつもの丘で、今まで殴っていたものは丘に鎮座する大岩だった。どうやらそこかしこを駆けずり回ってここまでたどり着いたらしい。

 何十何百と殴打した大岩はひび割れ、今にも粉々に砕けそうな状態だった。

 本当に自分がやったのか、と乾いた笑いが漏れた。

 

 ただのバケモノじゃないか。

 自重するように笑う。白熱した本能のままに行動して、火事場の馬鹿力だろうが人並み以上の膂力で破壊して回っていた自分は、よくよく考えなくてもバケモノ以外の何物でもなかった。

 

 その時だった。

 大岩がまた崩れ、中から何かが見えたのは。

 

「ん……?」

 

 Φύγεαπό εδώ

 

 なんだ? 

 大半が岩に覆われ見えないが亀裂の入った大岩の隙間から文字が見え隠れしている。文字は読むことはできないがイオの持つ手記と似たような形をしていた。

 殴打した衝撃で脆弱になったいた岩を剥がしていく。どうやら大岩に見えていた物はゆで卵のように中の物を覆う殻だったようで、中から人が入れるほどのつるりとした球体が出てきた。

 

『───驚きました。扉を封印するために覆っていたあの外殻を拳だけで破壊するとは』

「ッ! 誰だ!」

 

 誰何の声とともに声の方向に視線を向ける。そこにいた声の主は、美しい女性だった。

 年のころは20代前半だろうか? 青い髪に、尖った耳……イオと同様の特徴と白皙の美貌をもった女性だった。

 だが特筆すべきはそこではない……イオにもないような特異なものがその女性にはあった。

 

「幽霊……?」

 

 思わず自失したかのように声を漏らしてしまった。なにせ突然現れた女性は、幽霊さながらに姿が透けていたのだから。

 戸惑う俺をよそに半透明の女性は、口を開いた。

 

『初めまして正木隆。私はあなたをこの世界に招き入れた者です』

「アンタが俺を……?」

『ええ。本来であればあなたの前に現れるつもりはなかったのですが……このような仕儀となれば致し方ありません』

 

 砕け散った大岩の残骸を見やり、その女性はすこしだけ呆れた気配を覗かせた。けれどそれも一瞬、すぐにこちらへ強い意志の籠もった視線を投げかた。

 

『あなたをここへ招き入れたのは、ひとつの願いを叶えてほしいが為でした』

「……願いを?」

『はい。……イオを連れてこの牢獄から逃げてほしい。それが私の望みにして、あなたをここへ呼んだ理由』

 

 真摯な眼差しを送る女性は、嘘を付いている様子も罠に嵌める様子も感じ取れなかった。感じ取れたのは強い決意と温かいものだけ。

 そしてハッと気付いた。目の前の女性の顔は誰かの面影が強くあることに……。

 

「まさかアンタは……いや、あなたは───!」

『ええ……私はリライア・リュビエー。イオ・リュビエーの母です───』

 

 


 

 

 かつん、かつん、と足音のみが響き渡る回廊は寒気がするほど伽藍堂で一切の虚飾がなかった。己以外、音を発する者のいない無音の世界。いっそ血流のさざめく音どころか、筋肉の収縮や関節の音さえ聞こえてくるほどここは静かだった。

 

 ───神殿。

 手記によれば大昔のリュビエー族が建造したというこの神殿は、切り立った山々のなかでも一番高い山を掘り進められて作られたらしい。場所は地面のなかにあれどその高度からすれば空中神殿と呼んでもおかしくない。

 回廊は不思議な事にどこかうすぼんやりと辺りを照らし、己の全身を覆った外套から伸びる青い髪さながらに淡い青が行く先を示していた。

 どこかから切り出した石を巧みに敷き詰めたこの石造りの荘厳な神殿こそ『神』が御坐す場所なのだという。

 神殿内部の神聖な様相とは裏腹に構造はひどく簡単なもので、神殿はただただ大きな一本道が伸びるばかりで迷いようがなかった。

 

 終点である一本道の先には数十メートルはありそうな扉……いや、門が鎮座していた。

 その中からは隠し切れない強大な気配をひしひしと感じる。

 この先に居るのだ……真なる『神』と呼ばれるもの。真なる力の具現。すべての元凶───『まつろわぬ神』が。

 門の前に立てば手を触れるより早く、ゆっくりと持ち上がっていく。その様相は巨大なアギトが開く姿を連想させた。

 

 退くわけにはいかない。

 一歩、また一歩、と踏み出した。

 

 神殿の深奥は、先ほどまでの荘厳さとは打って変わって簡素なものだった。

 さっきまでの人工的な匂いを限界まで消し去った空間。敷き詰められた石はここだけ剥ぎ取られたように土が顔を出し、最奥にある石造りの玉座のみが神殿を思い起こさせるよすがであった。

 

 ───そしてその玉座に、彼はいた。

 玉座に腰掛けた、巨大な壮年の巨漢。

 

 手入れとは無縁そうな蓬髪と、顔の下半分を覆うみごとなひげが印象的な、野性味のある容貌だった。

 身長はおそらく十五メートルを超える。見上げるほどの大巨人。

 たくましく均整の取れた肉体は隆々と盛り上がる厳のような筋肉に覆われ、見ているだけで圧倒されてしまう。

 彼の肉体はどこまでも雄々しく、いかめしく、そして神々しい。ごく粗末な衣装──薄米ロ布と革の胸当て、すり切れたマントしか身につけていないというのに、おそろしいほどの威厳があった。

 向き合うだけでひざまずき、頭を垂れたくなってしまう。

 

「現れたか、最後の聖餐たる乙女よ」

 

 豪放磊落なユーモアを感じさせる声。だが一度機嫌を損ねれば、すぐさま激情に駆られて暴れだしてもおかくしなさそうな───嵐の前の凪にも似た声。

 そして、どうしようもなく喜色が入り交じった声だった。 

 

「……あなたが『まつろわぬ神』……そして、この馬鹿げた儀式をはじめた御方……なのですね」

「フ───そう言ってくれるな聖餐よ。わしは復讐せねばならん。あの忌々しい魔女めに」

「魔女、に御座いますか」

「そうだ。かつてわしが神霊として現世を彷徨っておったときのこと。あの忌々しい神殺しの魔女めが放った穴に呑まれ、此処に迷い込んでしまったのだ。全く忌々しい……此処で溜めこんだ300年余もの飢えと倦怠、晴してやらねばわしの気が済まぬ」

 

 言葉の内容には理解できない点が多々あったが、凪いだ声には尋常の者には決して発しえない狂気的な色があった。

 こんな場所へ押し込められた恥辱と憤怒、人には言い表せないその感情は、だけど何故か既視感があった。

 

「永かったぞ……我が屈辱の日々! あの未熟な神殺しと引き分け、肉体を失い、霊体のとなったわしはそこらの神獣にすら劣る存在となった! 為す術なくあの魔女の術に呑まれるほどに! だがそれも今日という日に終わる!」

 

 地を揺らす声は泰然とした山さながらでありながら噴火直前の活火山のような危うさがあった。今の言葉を鑑みるにおそらくこの『神』は大昔の戦いで傷付き、長い時間を掛けてそれを癒やしていたのだろう……今日の今日まで。

 

「さて、わしの名を知っているか聖餐よ? 名乗らねばならぬか? それとも貴様には遥か遠き異界に伝わる古き王の名をそらんじる賢者であるか? さぁ、いずれだ?」

「……存じております。御身の御名は、■■■■■■であられますね」

「ほう! 異界との関わりが断たれてなお、わしの名を知りえる者が居たか! これは愉快! 愉快よ! 貴様に聖餐としての役目がなければ我が手元におき格別の加護を施しただろうな! ハハハハハ!!!」

 

 愉快でたまらない。神々の王者たる者の哄笑は比喩抜きに床を、壁を、大地を、山を鳴動させた。

 

「さて、最後の聖餐にして我が名を看破した賢者よ。貴様ほどの智慧があるならばこれまで行われてきた儀式の意味を知らぬはずがあるまい?」

 

 賢者、と称えながらもその視線は蟻や路傍の石を眺めるそれであった。己と目の前の存在との隔絶としたものが浮き彫りにしたかのように。

 

「我が一族を喰らい、御身が力を取り戻す為……」

「そうだ! 此処に迷いこみ貴様ら一族が居たことこそ僥倖であったぞ! これを以って復活せよとの我が父祖たる天の意志に違いないと感じ入ったものよ!」

「…………」

「かつては雨と大地の地母神であった神祖の裔たる貴様らはわしの良い滋養となったぞ……こうしてあと一歩で『神』として復権できるほどに!」

「……っ!」

「おぬしらの一族は女人しか生まれぬ女系の一族ゆえ、たびたび異界に穴を空けては男を呼び込んだりしたものよ……クク、貴様の頭蓋に度々声を落としていたのもわしよ……貴様らが贄としての質を落とさぬ為にな! 

 王者たるわしが小賢しい策を施さねばならなかったのは屈辱であったが……どうやらそれも実ったらしい。貴様は贄として至純の輝きを放っておるわ!」

 

 止めだった。

 あの声は……母だと思っていた声は……目の前で哄笑する『まつろわぬ神』のものだった……。

 では、わたしは、なんのために───? 

 

「最後に貴様を呑み込み、わしはかつての力と権威を取り戻す! なぁに不安がることはない最後の聖餐よ! 貴様もまたすぐに同じところに送ってやろう! ハハハ!」

 

 会えると信じていたものは欺瞞だった。今まで信じ、縋っていたものは……山の向こうに安住の地があるという言い伝えは……母に会えるという希望は、砂上の楼閣のごとくに消え去った……。

 

 終わりだった。弱り切った身体に鞭打って、一縷の望みを賭け、精神力だけで支えていたココロが今、折れた。

 

 限界を迎えたようにブツリと意識が断裂し───

 

 

「───そんなこと()()()()()()()

 

 

 はらり、と外套のフードから伸びていた青い髪が落ちた。その瞬間、折れた心は刀剣の如き強さとしなやかさを以って再誕した……まるで入れ替わったかのように。

 

「───貴様……我に奉げられた乙女などではないな」

 

 愉快気だった『まつろわぬ神』は打って変わって底冷えするほどの冷たい声音で問いかけた。投げかけられた問いに口角を吊り上げる。

 

 そう、俺はイオでも、リュビエーの一族でもない。

 

 俺はタカシ、ただの人間。

 

 ここに至るまでに己自身に暗示を掛けたのだ……なにせここは精神が遥かに上位にくる世界。己を騙し切ればこんな芸当も可能なんだ。

 

「此処にお前の欲する贄などいない」

 

 さぁ始めよう。クソッタレな運命に反逆する時が来た。

 

「贄となるには当然、生きた者でなければ意味はない。しかしここに───()()()()()()()

 

 


 

 

 走っていた。イオの母だという女性から受け取った真実を握りしめて。

 イオの母に会ったという事実と、イオの母が語った話はあまりにも衝撃的で……一刻も早くイオに伝えなければならないと、猛然と駆けていた。

 

「イオ! 君の母に───ッ!」

 

 家の扉を開け放ち、前のめりになりながらベッドに駆け寄った。だが威勢の良い声は尻すぼみに消えていった……なにせベッドはもぬけの殻でイオの姿はどこにもなかったのだから。

 

 イオッ! 

 背筋をとてつもない怖気が走った。弾かれたように踵をかえし、家を飛び出す。身を焼く自責の念がどうしようもなく腹の中でのたうち蟠っていた。

 

 予想に反してイオはすぐに見つかった。よくよく考えなくても彼女は重篤な状態だったのだ……そう遠くへ行けるはずもなかった。

 

 見つけた先は、水を汲んだり釣りをして魚を獲る小川。そこでイオは水浴びをしていた。

 

 その姿はギリシャ神話に出てくるニュンペーさながらで……見て取った瞬間、岩になった様に固まってしまった。あまりの凄絶な美しさに、魂を抜かれたすら錯覚してしまう。

 例えようもなく美しい……けれど今にも折れそうなほど弱々しかった。美人薄命という故事があるように、閃光さながら煌きとともに一瞬で散ってしまいそうな儚さが同居していた。

 

 

おいで雛よ、定めを担う我が子らよ。

清廉にして白痴なる少女が歩む道は一つだけ。

この世すべての風と慈雨が生まれる場所でひとり王が待つ。

 

 

 イオの水面を揺らめかすような声が、真実、おだやかな川を震わせていた。水浴びと唄はいつの間にか踊りと変わっていった。躍動する彼女の肢体は途方もなく美しくありながら、けれど、そういった情念からは遠く切り離されたところにあった。

 昔、幼いころに見た「巫舞」を思い出してしまう……神前で清らかな乙女が神に奉げる神楽を。……いま視界に納まる光景を見ると、なるほど巫舞のそれであった。

 神聖な踊りのなかには、思考すら奪い取る魔性が宿っていて、水辺で踊る乙女はいまにも水の衣を纏ってしまいそうほど……いや、本当に水を纏っていないか? 

 

 気付けば生唾を嚥下していた。

 水を纏うどころかイオを中心に驟雨が降りはじめ、()()()()()()()()()のだから───ッ! 

 

 一も二もなく足が水浸しになることも構わず川に飛び込み、どこまでも飛んでいきそうなイオを抱く。身体に伝わる温度は氷細工でも抱きしめているように冷たかった。

 認めるか! 熱を分け与える気持ちで少女を抱きしめる。虚ろだったイオが瞬いたあと瞳に光がもどって、そこで彼女が我に返ったように見えた。

 フッと糸が切れたように力の抜けたイオを全身で受け止め、彼女が痛くならない限界まで強くつよく胸に掻き抱いた。

 

「あ……タカシ…………ごめんね、わたしどうかしちゃってた」

「───違う! イオは何もおかしくない! おかしくなんてない!」

「どうしたのタカシ……怖いよ……?」

 

 弱々しい声は初めて会った時の溌剌さはどこにもなくて。いまのイオは膨らみ切った風船に見えた……内からも外からも何かしらの干渉があれば一気に破裂してまう、そんな危うさをもっていた。

 ガリ、と噛みしめた口腔から鉄錆びた味覚が広がり、けれどその胸中を一切表に出すことなく平静を装った。

 

「大丈夫。次に目が覚めた時にはすべてが終わっているから……だから、今は眠っていてくれ」

 

 すでに消耗していたイオはその言葉がきっかけだったのか、落ちるように意識を閉じた。

 その様を見届け、懐からハサミを取り出すと刃を彼女へ向け、イオの長い髪を喉元あたりで──断ち切った。

 すっくと立ち上がるとイオを抱えて家のベットに寝かせ、静かに家を出た。

 

 目指す先は丘。

 正確には神が御坐す神殿につながる大岩へ、ゆっくりと歩を進めた。

 辿りつくと大岩の前には、変わらずイオの母が静かに佇んでいた。こちらを視界に収めると、柳眉を逆立て厳しい視線を向けた。

 

『本当にきたのですね……ですが何度も言いましょう。イオを連れて逃げなさい。もはや大半の力を失いましたが、あなたが力を貸せばこの世界から逃げるだけの道は作れます。だから……』

「───だがイオは長く生きられない」

『…………』

「あなたが言ったんだ。いまイオが苦しんでいるのはその『まつろわぬ神』のせいなんだと。なら、俺の答えは、決まっている。虎穴に入らずんば虎児を得ず。元凶のもとへ行って、元凶を断つだけだ。……それに逃げた先にそいつが来ないとも限らない」

 

 静かに紡いだ言葉に、イオの母は閉口した。彼女も分かっているのだ……この状況はどうしようもない八方塞がりで、ただ諦めるか無謀な賭けに出るかしかない事は。

 

『もう、言葉を尽くしても意味はないのですね……』

 

 そう諦めたように言うと、どこからか古ぼけた指輪を取り出し、差し出した。

 

『あの子に渡し忘れていたものです。私ももう幾ばくもなく消えるでしょうから……すべてが終わったらあの子に上げてください。我が一族に伝わるものです』

「それはあなたがイオに……」

 

 渡すべきだ。そう言葉が終わる前に、イオの母は首を振った。

 

『いいえ。もう限界が来ています』

 

 見ればもう彼女は腰のあたりまで身体が減じていた。

 

『ですから一言だけ言わせてください。……我が娘のためとは言え、無関係なあなたを巻き込んで申し訳ありませんでした。私が望んだがために、冥府に帰るはずだったあなたをこのような牢獄に閉じ込めてしまったこと……』

「謝罪はいらない。俺はこれが天命なのだと察した。だから謝らないでくれ」

 

 今度はこちらが言葉をさえぎる番だった。無言で首を振る。

 

『……ではどうか勝って。そしてどうかあの子を救ってあげてください……』

「───ああ。必ず」

 

 外套を目深にかぶって、大岩のなかへ入った。

 さぁ、誓いを果たす時が来た。ここから先は退くことも、失敗することも、敗北することも、許されない。

 手に入れるべきはただ一つ、望むものはただ一つだけ。

 

 いざ、神を滅ぼす修羅となれ───。

 

 


 

 

「そうだ。この世界に来る前から俺はもう───死んでいる」

 

 俺はすでに死人。しかし、だからこそ此処に……この『まつろわぬ神』が支配する領域に入ることができた。

 

 もともとイオの母リライアは己と己の一族の運命を知っていた。

 だが最初から知っていた訳ではなくて、リライアの母と妹がしきたりを騙った『まつろわぬ神』復活の儀式の贄として神殿へ行く瞬間、過去現在未来、すべての記録があるアカシックレコードから知識を拾う「霊視」と呼ばれる奇跡によってこの馬鹿げた儀式の真実を知り得たのだという。

 真実を知ったリライアだったが時すでに遅く、二人の家族は『まつろわぬ神』の贄となってしまった。己の無力を責めたが、諦めるわけにはいかなかった。その時すでにイオを身籠っていたのだから。

 この子だけは何があっても生き延びさせる。神の贄なんかにはさせない。その一心でリライアは奇跡の探求を行い、そして世界の真理を突き止めるに至った。だが突き止めた真実は過酷な現実だった。

 

 この世界は神の創造した牢獄である───。

 

 何度目かの絶望がリライアを襲った。

 しかも『神』の創造したこの牢獄から抜け出すには尋常の方法では為す事はできず……そもそもベースとなった世界が、精神が肉体よりも上位にくる「幽世」という世界で、その中にさらに霊体が有利になる法則を敷いたのだ。

 肉体をもつ彼女は圧倒的に不利であった。

 

 だが、諦めるわけにはいかなかった。

 リライアは精神体となる覚悟を決め、身命を賭した奇跡はイオが4歳になる直前に行われた。……結果は、成功。肉体は失ったが精神体となり力を蓄えつつイオを見守る守護霊となった。

 そしてイオが14歳となる少し前……儀式が行われる前に、十全な力を蓄えた彼女はこの世界に孔を開ける事に成功した。魂一つ分が出入りできるだけの小さな孔を。

 そして掬い上げられたのは俺の魂。そう、死んだからこそ俺は此処に立っている。

 

 イオの母から聞いた話はこれがすべてだった。自分が死んでいると聞かされて驚くよりも、不思議と納得が勝った。

 死を自覚すると靄がかかった記憶は晴れ、自分が交通事故によって死亡したことを思い出す事ができた。元の世界から此処へ来る直前の記憶がひどく曖昧だったのはそう言う訳だ。親子二代で事故死とはつくづく運がない。

 そして魂となったとき偶然、目に付いたイオの母に掬われ此処に流れ着いた。俺が此処に辿り着いたのはなんの運命も奇跡もなく、ただただ偶然の積み重ねだけだった。

 

「イオの母から教えてもらったことだ。此処は肉体よりも精神が遥かに上位にくる世界……ゆえに精神が死滅しない限り不朽不滅らしいな。

 ああ、たしかに思い当たる節はある。現に、俺が此処に訪れてから一度も怪我を負っていない」

 

 そう。狂乱して大岩に殴りかかった時も、現実ならば拳は砕けて血まみれになるはず……けれど痛みも血も流れなる事もなかった。

 俺が血を流したのは衰弱するイオを見て、途方もない無力感に苛まれたときだけ。

 

「つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そしてお前は法則を定めた『神』……だからこそ、お前もその枠組みから抜け出せないんだろう?」

「……ほう」

 

 つまらなそうに話を聞いていた『まつろわぬ神』の双眸がはじめて興味を持ったように己を射貫いた。

 それだけで心を千々に砕く極大のプレッシャーが降りかかる。

 これが王の中の王にして、神の中の神。

 気まぐれに人を虐殺しようと世界を滅ぼそうとも許される至高の存在。矮小な人間程度、撫でるまでもなく視線を向けるだけで滅ぼすことは容易い。

 ───だから、なんだ。

 

「───おもしろい」

 

 玉座から『まつろわぬ神』が立ち上がった。

 その威容、その神気、その覇気、およそ生を受けてよりどんな物質よりも禍々しく神々しい。

 山脈が隆起したかと錯覚させるほどの力強さに、心を強くあらねば跪いていたことだろう。

 

 世に謳われる物語の英雄たちも、こんな気分だったのだろうか。

 ヘラクレスが、スサノオが、ペルセウスが。

 なにかを守るために立ち上がり強敵を前に彼らはどんな想いを心に秘めていたのだろうか。追体験じみた今の状況にそんな考えがふと脳裏をかすめた。

 

「おもしろいぞ人間! その覚悟、その不遜、その蒙昧! なんという愚かさか! 貴様は我が手ずから殺すに相応しい!」

 

 『まつろわぬ神』の両の手に二対の棍棒が顕現した。

 おそらく知識のなかにあるあの『まつろわぬ神』と同一視されていた神が所持するというヤグルシとアイムールに違いない。

 あの『まつろわぬ神』もまた英雄の一柱、世界各地の英雄をさらっては読み漁っていた知識の中に刻まれていた。目の前の英雄神は竜さえ討ち果たした希代の勇者……己など及びも付かない武勇を誇る。

 

 ───だから、なんだというのだ。

 

「『まつろわぬ神』はプライドの塊なんだろう? そのプライドの高さが強さに直結するほどに。なら(人間)という弱者を倒せなければその自尊心は酷く傷付くんじゃないか? そうなったお前は『神』足り得るのか? そこに俺の勝機はある──」

「フ───愚かな。例えそうだとしても定命の運命しか持たぬ貴様に『神』であるわしを倒せるはずがなかろう」

「どうかな。此処じゃ精神が敗北を認めない限り、死にはしない。そして───俺が折れることはない」

 

 なぜならこれこそが我が天命。俺が生まれた理由。己の生まれた意味を示す最大のチャンスに他ならない。

 

 目の前には敗北必至の猛敵。だというのに心の中に悲観は微塵もなく、それどころか歓喜に打ち震えていた。

 

 そうだ。

 これが本当の”戦い”なのだ。なにも持っていなかった俺が、初めて誰かのために戦う……願って止まなかった本当の戦い。

 

 

───故に、貴様に万に一つの勝ち目は無いぞ。バアル=メルカルト……ッ! 

 

 己が勝利は、己の為ではなく───。

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