ざあざあと絶え間なく降る雨が傘からはみ出す千晴の右肩を濡らしていく。
最近は暖かい陽気が続いていたが夜ということもあってその雨は冷たく、ほうっと吐いた息は白かった。濡れた場所から寒さが体中を駆け回り、千晴は思わず隣で反対の肩を濡らして歩くしのぶとの距離を詰めた。同じ傘の下で足早に歩くしのぶも千晴に倣って身を寄せてきた。布越しの体温がじんわりと暖かくて、萎えた気力が少しだけ持ちなおした。
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当分は、いや、もう会うことはないだろうとすら思っていた胡蝶しのぶとはあの任務以降、何度も肩を並べることになっていた。あれ以来合同任務はほとんどしのぶと一緒であることに加えて、それまで珍しかった合同任務自体も多くなり今では全体の半分以上の任務をしのぶとともに行っていた。
両者とも相手に思うところがあったので初めの方は意見が噛み合わず何を話しても口論になった。
あまりに面倒くさくて千晴の方から折れて一般人の救援を優先することにしたのだが、これを口に出して「あたりまえです」と怒ったしのぶとまた口論になった。この時はだいぶ怒らせたようでその日一日しのぶは無表情だった。
しかし、千晴がしのぶに歩み寄る姿勢を見せたことで生来真面目な気質であるしのぶも千晴を理解しようと努めるとうになり、おのずと二人の距離は縮まった。
殺伐とした職に就いて大人であることを求められる中で、互いに年相応の接し方ができる貴重な相手だったためか今では二人は同じ鬼殺隊員であり、異なる性質を持った友人同士でもあった。
任務の合間に他愛もない話で盛り上がったり、非番の日には街に出た。
ただ砕けた口調で年相応の振る舞いができる—————年頃の少女であるならば大半が享受しているであろう当たり前の行為は死と隣り合わせの世界に身を置く少女たちに束の間の安息を与えた。
また、任務においても千晴としのぶは相性が良かった。どちらも剣の才に恵まれていたし、威力で制圧することに長けた炎の呼吸と素早く相手を翻弄する蟲の呼吸の連携は鬼殺に大いに有効で、二人は着々と階級を上げていた。
かくいう今日も合同任務であり、見事な連携で迅速に鬼殺を終えた二人は現在その帰り道である。
「しのぶ、やっぱり傘そっちに傾いてるよ。全然雨防げてない」
千晴が「ほらほら」と自身の右半身を触りながら言うのをしのぶは呆れたように見ていた。
「だったら千晴が持てばいいじゃない。だいたい、あなたの方が大きいんだから」
「・・・それはしのぶの傘だから」
「なによ。面倒くさいだけじゃない」
ふいっと顔をそらした千晴をじとりと見つめたしのぶは逡巡した後、傘を持ったまま千晴を置いて駆け出した。横を向いていて不意を突かれた千晴は容赦なく全身を濡らし始めた雨に慌ててしのぶを追いかける。
「なんでぇ、ちょっと待ってよ」
情けない千晴の声にも足を緩めることなくしのぶはいたずらっぽく笑った。
「ふふふ、だって私の傘だもの」
「ええー、ずるいよ」
子どもっぽくべそをかき始める千晴とは反対にしのぶは始終楽しそうだった。「ここまでおいで」とでも言うように千晴の前でくるりと回ったりして雨など気にしないと言うように笑った。
普段は凛として大人びた様子のしのぶは千晴の前で、最近こうして年相応にふざけて見せる。そういう時のしのぶは少し意地悪であるけれど花がほころぶように笑う姿はきれいだと思った。そう思うのはきっと鬼に怒ったりその犠牲に悲しんだりと険しい表情ばかりを見てきたからだ。
「ずっとこういう風に笑っていればいいのに」
口には出さず、千晴はしのぶの小さな背中を追いかけた。口に出したとしてもそんな日が来ないことは、なんとなくわかっていた。
あのまま二人は雨の中を駆け回って来たので蝶屋敷にたどり着いた時にはどちらも全身ずぶ濡れになっていた。
玄関で隊服を絞っていると、とたとたと可愛らしい音を立てて手ぬぐいを持った三人組がきてくれた。
「おかえりなさいしのぶ様、千晴さんもこんばんは」
「うわーびしょびしょですね。この手ぬぐい使ってください」
「千晴さん、今夜は泊っていかれるんですか」
蝶屋敷で手伝いをしているすみ、きよ、なほの三人は濡れた二人を見て次々に口を開き、静かだった玄関が途端ににぎやかになった。
「みんなただいま、千晴は今夜泊っていくわ。それと手ぬぐいありがとう」
「すみませんが今夜も泊まらせてもらいます」
千晴が申し訳なさそうに泊まる旨を伝えると、少女たちは嬉しそうに顔を見合わせた。
「わかりました布団出しておきますね。それにしてもびしょびしょですね」
千晴が隊服の裾を絞ってバシャバシャと水を落とすのを見て髪を下ろしたきよが驚いたように言った。
「ああ、それはしのぶが、」
「いいえ、千晴が向こうで傘をなくしてきたのよ」
「好きでなくしたわけじゃない。置いたところから傘が逃げたんだ」
「ええっ逃げたんですか」
「そんなわけないでしょう、扱いが雑なだけよ」
しのぶもバシャバシャと水を落としながら答えた。
そのやり取りに三人がおかしそうに噴出した。ひとしきり笑うとまた千晴が水を拭きとるのを手伝ってくれた。
「わあ、千晴さん手がとっても冷たい。お風呂入りますか」
「ああっと、どうしよう・・・うーん」
走って来たからか自分で寒さは感じていなかった千晴だが、なるほど、確かに指先や皮膚の表面が冷たくなっていた。しかし、どうしよう。迷惑ではないだろうか・・・隣で刀を外しているしのぶはどうするだろうか。
「しのぶはどうする」
「もちろん入るわ。このままだと多分冷えて眠れないもの」
「・・・じゃあ、私も。お願いします」
「では私準備してきますね」
声を上げたのはおさげのなほだった。千晴たちの体をぬぐってビタビタになった手ぬぐいを一度置いてくる時のついでだと言う。
「何から何まですみません」
やはりどこか申し訳なさそうに千晴が言った。
「いえ、いいんです。千晴さん用の浴衣もお風呂から上がるまでには置いておきますね」
そう言ってなほは洗い場の方へと駆けて行く。
「それに私、千晴さんが来てくれるの嬉しいんですよ」
遠ざかる背中から向けられた言葉に千晴はぽかんと口を開けた。
「どういうこと・・・なに、私お土産とかは持ってきて・・・ない、ですよね」
心底不思議そうに顎に手を当てて首をかしげる千晴に残された一同は自然と目を見合わせて一斉にくすくすと笑いだした。それに気づいた千晴は眉をひそめてさらに神妙な顔になる。
「違う、なほはそういうことで嬉しいといったわけではない」すみ、きよ、しのぶは笑いながらその旨を伝えるも、ますます分からなくなった千晴はついに唇をへの字に結んでむくれてしまったのだった。
基本的に大所帯である蝶屋敷は風呂場も大きく造られている。治療のために運び込まれる隊士の汚れを落としたり、看護する側も清潔であるように心がけているためである。
広い風呂場でしのぶに世話を焼かれながら入浴を終えた千晴は、ぽかぽかと温まった体に紺色の浴衣を身に着け、遅くまで世話を焼いてくれた三人娘に礼を述べた。
しのぶとはそこで別れ、一人で奥の空き部屋に用意された布団に寝転がった。
清潔な枕に顔をうずめるといつもより艶やかな自分の髪が見えた。千晴の無造作な髪の扱いに見かねたしのぶが丁寧に水気を拭きとって櫛を通してくれたのだ。
髪を見つめてぼうっとしていた千晴はごろんと転がって仰向けになる。茶色の天井の木目が見えた、そのまま視線を下にずらすと簡素な文机と座布団、千晴の荷物が目に映る。そのほかに積み上げられていたり保管されていたりするものは特にない。
つまりこの部屋は正真正銘千晴に用意されている部屋だった。
それだけではない。この布団だっていつの間にか千晴専用になってこの部屋の押し入れに仕舞われているし、今着ている浴衣も神崎アオイが見繕ってくれたものだった。
「わたしの・・・」
ぽつりとつぶやいた言葉は妙に舌触りが良くて、でも不思議と胸がきゅっとして何かがあふれそうになった。この感覚はしのぶと出会ってからたびたび起こる。蝶屋敷に泊まるようになってからはもっと増えて千晴は日々頭をひねっていた。
千晴が蝶屋敷に泊まるようになったのはしのぶと行動するようになってしばらくしてからのことだった。同じ任地が多いのだから、どうせならという曖昧な始まりだったはずだ。しかしこれは千晴にとって大きな変化だった。
今も転々している藤の家紋の家も鬼殺隊の一員である千晴をもてなしてくれていたが、ここにはどうしてか千晴個人を歓迎し、千晴の居場所を作ってくれている。
「どうしてだろう」
どうして彼女たちは私によくしてくれるのだろうか。そして、どうしてそうされる度に私の胸は疼くのだろうか・・・・わからない。
わからないと言えばしのぶのこともそうだ。どうして他人を守りたがるのだろうか、自分の安全さえ守られればいいではないか。どうしてだ・・・しのぶのことが癪に触っていたはずなのに、どうして私の体もしのぶを守ろうとするようになってしまったのだろうか。
「わからない」
まとまらない考えは睡魔を連れてきて、千晴の思考は夢の淵に消えた。
———シンと静まり返った蝶屋敷の一角。皆が寝静まる中、ふすまで仕切られた一室から橙色の明かりが一人の影を映した。
様々な薬瓶が戸棚に並ぶその部屋はしのぶの自室である。部屋の主は戸棚のガラスや薬瓶が暖かな石油ランプの光を鈍くはじく中、日輪刀の手入れをしていた。
刀の手入れと言っても見た目も繊細な刃の手入れではなく、毒を仕込む鞘の手入れである。
鞘を丁寧に解体して中の毒を減った分だけ補充するのだ。下手にこぼすと中に刃を収めた時に刃が痛むので細心の注意をして作業を進めていく。
一般的に刀は使ったら手入れをするのが鉄則であるが、しのぶは毎回鞘まで手を回す必要があるので普通の隊士よりも負担が大きい。
しかしこの鞘に継ぎ足している毒こそがしのぶの生命線そのものであるので不備の無いよう丁寧に丁寧に作業を進める。ただ、その負担が大きいのは事実で、将来的にはもっと補充しやすくしたり、鞘の中で毒の調合を変える仕組みを考えている。
しのぶはこうして何かに集中する時間が嫌いではなかった。外部からの情報を遮断した状態で自分の中に浮かんでくる取り留めもない思考を追いかけると、頭の中が整理される気がするのだ。しかし今追いかけている思考は整理される気が全くしなかった。
しのぶが思うに、千晴は人に頼らない人間だった。落ち着いた敬語と大人びた雰囲気で壁を作り、人を信じようとせず何でも一人でやろうとする態度は「あっちへ行け」と人を追いやるようだった。
しかし、しのぶは負けず嫌いだった。何とかして認めさせてやると千晴を構い倒した。最初の方は突っかかっていたというのが正しいかもしれない。
真正面からぶつかるしのぶに千晴は戸惑っていたが、いつしかその態度は子供を思わせるほどに軟化していた。むしろしのぶの方が驚くほどに。
しかし、変わったことが圧倒的に多い中、やはり変わらないものもある。お互いの鬼殺に対する優先順位だ。
しのぶは一般人を、千晴は自身の安全を第一に考える点は頑なに変わらなかった。千晴はしのぶに合わせて一般人を優先して任務にあたってくれているが、それはしのぶと自身の実力を冷静に鑑みたうえで一般人を優先しても自身に危険がないことが分かっているからである。
今でも自分たちの命さえあればいいと思っていることに変わりはないようで、一般人の被害は仕方ないものとして切り捨てる節があった。
「鬼を斬ればその後の被害者は減るのだから無理に危険を冒してまで他の人間を庇う必要などない」というのが千晴の持論なのだ。
だが、それに納得できるしのぶでもない、というか納得したくなかった。「鬼殺隊は人を救ってこそ。私たちが救われたように・・・」という思いがどこか心の中にあるからだ。
齢十四のしのぶは些か真っ直ぐに過ぎたのかもしれなかった。
あれこれ考えているうちに手の方は問題なく作業を終えて片付けに入っていた。
この手入れにはもうじき帰って来るであろう姉を待つという名目もあったのだが未だ姉は帰ってきていない。任務続きで会えない姉にこの胸の内を相談したかったのだが、さすがにしのぶも疲れを無視できなくなりそうなので仕方なく床に就くことにした。
石油ランプを消そうと立ち上がった時、すすすっと見知った気配が近づいてくるのに気が付いた。待ちきれずそっとふすまを開けて廊下を覗くとやはり待ち望んだ存在がいた。
「姉さん、お帰りなさい」
しのぶは声を潜めて笑いかける
「ただいま、しのぶ。まっていてくれたの」
「ええ、刀の手入れもあったし・・・」
「うふふ、ありがとう嬉しいわ」
任務続きでなかなか会えなかった、たった一人の姉の姿にしのぶの眠気も吹き飛んだ。
「姉さん、疲れてない?・・・その、相談したいことがあって」
「ええ、もちろん大丈夫よ」
気遣うようなしのぶの視線にカナエは微笑んで答えた。
「それに疲れていたとしても関係ないわ、妹の相談に乗るのも姉の役目だもの。うふふ、それにしても何の相談かしら、姉さん張り切っちゃうわ」
しっかり者な妹が珍しく頼ってくるのが嬉しくてカナエは上機嫌である。妹と対面に座ってにこにこと笑みを浮かべた。
「もう、笑ってないで、こっちは真剣なのよ」
「わかっているわよ。うふふ、ほら、姉さんに話してみて」
「・・・・んん、あのね」
——そうして口火を切るともう止まらなかった。千晴と仲良くなったこと、でも千晴の鬼殺への態度がどうしても納得できないこと、さらにはいつまで経っても蝶屋敷の子たちに他人行儀なことなど次から次へと話した。カナエはそれにうんうんと相槌を打って真摯に聞いてくれた。
「・・・だから、子供みたいに甘えたなくせに人のことなんてどうでもいいって言うのが分からないのよ」
ひとしきり話し終えたしのぶは難しい顔で俯いた。対してカナエはにこにこと微笑みを崩さない。
「そう難しく考えなくてもいいのよ」
その楽観的な言葉にしのぶは目を見開く。
「その千晴ちゃんは多分カナヲと同じなのよ。カナヲほど心を閉じているわけではないけれど、自分を守るために殻に閉じこもっているだけだと思うの」
「・・・でもあの子、ちゃんと自分の意思があるわ」
微笑む姉をしのぶはじっと見つめた。
「うーん、確かにカナヲと比べるのは極端すぎたかしら・・・でもほら、千晴ちゃん皆から親切にされると困った顔でおどおどしちゃうってしのぶも言っていたでしょう」
「ええ、確かにそう見えるとは言ったけど・・・」
「それって多分、人の気持ちにも自分の気持ちにも鈍感なのよ。どうして自分が親切にされるのか分からないし、自分もどうしていいのか・・・どうしたいのかもわからない。ね、そういうところカナヲに似ていない?」
コテンと首をかしげるカナエを前に、しのぶは口をつぐむことしかできないでいた。その紫の目は今までのことを想起してくるくるとその色を変えた。
「それにしのぶが異常だって思うほど敵意や悪意には敏感なんでしょう。それもきっと何かつらいことがあったからだと思うの」
そう言ってカナエは悲しそうに目を伏せた。
たしかに、姉さんの言葉に思い当たる節はいくつもあった。千晴は誰かに親切にされたり感謝をされても頓珍漢なことばかり言って相手を困らせていたし、不思議そうな顔をしていた。
そうか、あれは鈍感だっただけなのか・・・今までの疑問がスッと晴れた心地がした。
「姉さん、どうして姉さんは話を聞いただけで分かるの?」
自分はまるで駄目だと言うように肩を落として尋ねるしのぶを、カナエは優しく見つめた。
「うーーん。そうねえ、きっと経験の差だわ。悲しいことや不安なことがあってツンツンする人って意外といるのよ。ここまで拗らせてるのは珍しいけれど」
思いを巡らすように目を閉じてカナエは小さく笑った。
「それに、初めて千晴ちゃんがここに来た時、私もいたでしょう。その時はあまりお話しできなかったけれど、悪い子じゃないってわかったもの」
まるで慈しむように放たれたその言葉にしのぶははっと目を瞠った。
「そうね、そうだった。悪い子じゃないの。でも、どうして千晴が人を切り捨てられるのかが分からなくて・・・・だから今までに何があったのか聞きたいけど・・・聞いて良いのかもわからなくて」
膝を抱えて消え入るような声で言うしのぶの背中を、隣に移動したカナエは優しくさすった。
「大丈夫よ、千晴ちゃんもしのぶには心を開いてくれるようになってきたみたいだし、なにより、こういうことは焦るものじゃないわ」
背中を行き来する体温が暖かくて、しのぶはだんだん瞼が重くなってくるのを感じた。
「さあ、もう寝ましょう」
その言葉に頷くも、しのぶはそっと隣の姉に寄り掛かる。安心するにおいと包み込むように回された手が心地よかった。
たった一人の肉親、互いにその存在を確かめながら姉妹の夜は更けていった。