昼下がりの暖かな陽気の中で時折なでるような風が庭先に干された白いシーツを揺らす。
広い蝶屋敷のあちこちで患者の治療にあたる者の忙しない足音や休息をとらない不届きものを叱る声が絶えず聞こえてくる。そんな平穏な音を遠くに聞きながら千晴は目の前の薬草に集中した。
蝶屋敷に泊まることが増えた千晴は簡単な薬草の知識を持っていたため、時間があるときは薬草の世話や選別の手伝いをしている。
今日も光が差し込む庭に面した一室を開け放って、乾燥させた薬草の選別をしていた。独特なにおいと時折それをさらってゆく風が心地よい。
千晴の隣では選別した薬草を使ってしのぶが薬を調合していた。互いに無言で作業をこなしていると乾燥した葉のかさりとこすれる音や、しのぶの手元で薬研がゴロゴロとなる音、乳鉢がこすれる少し高い音が絶えることなく部屋に響いた。
こうして相手を見なくとも近くに感じられる時間には、上手く言葉に表せないぬるい安心感がある。しかしその温みは触れたら落ちる水滴のような繊細な均衡の上に成り立っているのだ。
目が合うだけで、一言漏らすだけできっとこの空気は霧散してしまう。なんとなくそれが惜しいことのように感じられて、千晴は黙々と手を動かし続けた。
しばし時間を忘れて作業を続けていると、ぺたぺたと廊下を歩く足音が二人のいる部屋に近付いてくるのに気が付いた。
手元に集中していた意識を開け放たれていた扉に向けると、廊下の奥からお盆を持った少女が歩いてくるのが見えた。そこに乗っているのはどうやら二組の湯飲みと饅頭のようだった。
「しのぶ様、千晴さんお疲れ様です。二人だけ休憩時間が終わっても広間に来ていなかったので、アオイさんに頼まれておやつ持って来たんです」
「あら、もうそんな時間・・・ありがとう、なほ」
二本のおさげをたらしたなほの言葉に縁側越しの庭を見てみると、前に見た時よりも日差しが穏やかになっているのが千晴にもわかった。
自分たちも忙しいはずなのに、少女たちがこうして気を回してくれる理由は純粋な厚意であることを千晴は最近になってやっと理解できるようになっていた。
「ここまで持ってきていただいて・・・その、ありがとうございま・・・す?・・」
ただ、その厚意が自分に向けられたものであるという確信が持てない。口ごもりながら告げた礼も、しきりに指を遊ばせながらの疑問形である。
しかしこれが今の千晴は精一杯だった。
「はい。でも千晴さん、そんなに畏まらなくてもいいんですよ。大したことじゃないですから」
千晴の不器用な姿にも慣れたようで、なほはすっと二人の前にお盆を置いた。その表情がどこか満足気であることに気づいてしのぶの頬も緩んだ。徐々に心を開いていく千晴の姿と、それが周囲にも伝わっているという事実が嬉しかったのだ。
「そういえばさっき岩柱様がお見えになったんです。このお饅頭もその時に持ってきてくださったもので、」
お盆に目を落として思い出したのかなほが言った。
「悲鳴嶼さんが・・・」
「はい、しのぶ様にも伝えようとしたんですが急いでいたらしくてすぐにいなくなってしまったんですけど・・・」
語尾に向けて小さくなっていく声と共に、なほの背中もしゅんと丸まってしまった。
「そう。挨拶しておきかったのだけど、仕方ないわね」
項垂れるなほの頭を優しくなでながらしのぶが言った。
「ありがとう教えてくれて」
「いえ」
その手にぱっと顔を明るくしたなほはこの後仕事があるらしく、お盆ごと置いて戻って行ってしまった。
千晴たちも作業は終わったも同然だったため、軽く道具などを片付けて縁側に腰を下ろしてまだ熱い茶を啜った。手に持った湯飲みのじんわりとした熱が、気付かないうちに溜まっていた疲労感を二人に思い出させた。
しばらく無言でぼうっとしていた二人だったが饅頭を食べ終えた千晴が先ほどから気になっていたことを口に出した。
「しのぶは岩柱様と親交が・・・」
「・・・ええ、私たち姉妹を助けてくれたのが悲鳴嶼さん・・・今の岩柱なの」
ずずずっと熱いお茶を口にしながら二人の会話は淡々と続く。
「そっか、じゃあやっぱりしのぶは鬼を恨んでここに・・・」
「それもあるけれど・・・・・姉さんと約束したの。私たちみたいに悲しむ人を一人でも減らそうって」
なでるような緩い風が二人の髪をやさしく揺らしてゆく。
風の音だけが流れる中、しのぶはそっと隣に座る千晴の顔を覗いた。その表情は今までにないほど凪いでいて、黒曜石の瞳だけが外界の光を受けて揺らめいていた。
その蝋燭の火を思わせる静かな揺らめきに触発されたのか、しのぶの中に燻ぶっていた疑問がゆらりと起き上がった。
「じゃあ、千晴は・・・どうして」
ここからはあえて踏み込んでこなかった場所だ。ごくりと唾を飲み込んでしばらく、しのぶは囁くように問うた。
「どうして千晴は鬼殺隊に入ったの」
前を向いていた千晴はゆっくりと首を回し、その瞳にしのぶを映した。
その黒曜石が何を感じているのかしのぶには見当もつかなかったが、数秒しのぶを見つめ続けた千晴はふっと口元を緩めて相好を崩した。
なんだかいつもより大人びた千晴の仕草にしのぶは言いようもない寂しさを感じた。
「少し、長い話になるんだけど・・・・」
しのぶが頷くと、千晴は遠くを見ながら語り始めた。
紡がれる内容とは裏腹に、千晴の口調は始終穏やかなままだった。
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喪上千晴は孤児であったが、初めからそうだったわけではなかった。小さな山村でしがない薬草売りをする父とそれを支える母、二つ上の兄に一つ下の弟、さらに下の妹の六人でつつましく暮らしていた。
父と母は村で薬草を売るだけでなく街に出て薬草を卸すことを生業としていた。
人当たりが良く誰にでも手を貸すことを厭わない父は村人からも大層慕われていた。そんな親を持つ千晴も村でのびのびと成長していった。
転機は千晴が七つの冬のことだった。ここしばらく気だるそうに咳をしていた父が喀血するようになった。結核である。どこでもらってきたのかも、いつもらったものなのかも分からぬまま次いで母も倒れた。
兄と共に看病に励んだものの、いつになく厳しい冬の寒さは二人から体力を奪っていった。
「医者を呼んではくれないか」雪の深いこの村からでは子供が街まで出るのは困難なことだった。兄と共に村中の扉を叩けども「否」以外の返事を聞くことはできなかった。
その冬が稀にみる大雪だったからなのか、街で鬼が出ると噂されていたからなのか今となってはわからない。ただ、いつも村人を助けてきた喪上家を助ける人間は居なかった。
困難はそれだけに収まらない、働き手のなくなった喪上家は食料を手に入れることができなくなっていた。
このままでは本当に死んでしまう、「食料だけでも分けてほしい」再び兄と回れども「病がうつる。ここから出ていけ」と怒鳴るばかりで、誰も助けてくれる者はいなかった。挙句の果てには「うるさい」と千晴と兄を殴りつける者も居た。仕方ないので家に残った少しの食料を大切に食べて食い繋いだ。
厳しい寒さと飢えにまず音を上げたのは、苦しい咳と胸の痛みに喘ぐ両親ではなく一番下の妹だった。もともと体が小さかった妹は何の前触れもなくある日の朝に冷たくなっていた。
それを皮切りに両親の病状はますます悪くなったし、兄と弟も嫌な咳をするようになった。ただただ悪くなる状況を見ている事しかできなかった。
遂に床に臥せらないでいる人間は千晴だけになった。皆すっかり弱り切り水も受け付けないほどで、最後まで大切にとってあった干し柿は千晴がたった一人で食べた。すっかり固くなってしまった干し柿のしびれるほどの甘さに、どうしてか涙が止まらなかった。
それから数日後にその年一番の寒さがやってきた。痛いほどに冷たい空気が良くなかったのかもしれない、そこから三日と経たず喪上家で息をしているのは千晴だけになった。
「もうみんな死んだ。せめて葬儀だけでも挙げてほしい」半ば諦めて頼めばやはり答えは「否」である。ただ予想外だったのはその真夜中、家に突然火の手が上がったことだ。
慌てて外に飛び出すと、村長率いる幾人かの男たちが松明を片手に家を取り囲んでいた。
家から飛び出してきた千晴を何対もの目が捉えた。考える間もなく勝手に体が動いて、千晴は村の外に続く山道へ駆け出した。
不思議と追手は無かったけれど山の上から炎に包まれる家を見て、帰る場所がなくなったことを幼い千晴は確信した。それが孤児としての始まりだった。
大人でさえ苦労する雪道を必死の思いで抜けて千晴は街へと降り立った。そこからは同じく孤児の集まる街の隅で、盗みやスリをして必死に生きた。
寝床も食べ物も何もないが同じ境遇の子どもはたくさん居た。そうするとやはり仲のいい者ができて、千晴はその子供と協力して日々を生きるようになり、やがて数年が経った。
しかし千晴はきっと油断していたのだ、その子供から手ひどい裏切りを受けて満身創痍のまま孤児の縄張りから締め出された。
作り上げた寝床も持っていた食料も、秘密にしていた漁り場もすべて取り上げられてその手に残ったのは唯一つ、いつまで続くかわからない<自分>の命だけ——————文字通り身一つとなった千晴は最後に残った自分を守るために膝を抱えて蹲ることしかできなかった。
その日はじわじわと太陽が焼けつくような日で、体中に負った傷がじくじくと痛みを主張していた。孤児が集まる地区の手前で千晴が一人膝を抱えて蹲っていると、短髪に簡素な着物をまとった男が近付いてくるのが見えた。
その男はここらでは・・・というか孤児の間ではちょっとした有名人であった。ふらっと現れては男児を一人見繕って連れ帰るためだ。
噂に曰く、そこでは辛いことをさせられたり恐ろしい場所に送られるというが寝食が保障されるらしい。その噂の真偽が判らないことと、男の纏うなんとなく近寄りがたい空気に中てられて子供たちはいつもひっそりとその男を見ているだけであった。
しかし、この日は違った。千晴が男の前に立ちふさがったのだ。
「私を連れて行ってほしい」
虚ろにうったえる少女を男もまた無感情に見つめた。
温度のない目が時折何かを見極めるように細められるのを千晴はじっと見ていた。
「死ぬやもしれんぞ」
少し掠れた低い声が千春に問うた。
「でも、ここに居たら絶対に死ぬ」
「・・・」
千晴は事実を淡々と吐く。
自分のように追い落とされた連中が尽く死んでゆくのはこの数年間嫌というほど目にしてきた。
男は何かを考えるように目を閉じた。二人の周りを行きかう喧騒がやけに五月蠅く感じた。やがて男は目を開けて再びその視界に千晴を収めた。やはりその目に温度はなく、次に吐き出される答えを窺うことはできなかった。
「
「・・・千晴、喪上千晴」
「そうか、千晴か」
突然の名乗りに驚く千晴に男———紅燐はずいっと距離を詰めた。
少し手を伸ばせば届くところまで近づいた紅燐の顔を見るには千晴は顔を真上に向けねばならなかった。
真上から千晴を見る紅燐の顔は影がかかってよく見えない。
「千晴、俺はお前を救わない。だからお前もいつ逃げ出しても構わない。ただ、一度逃げたら俺はお前に二度と関わらない。今後盗みを働いた時もそうだ。」
感情のない声が真上から千晴に降り注いだ。その言葉を体に浸み込ませるように千晴は幾度かまばたきを繰り返す。
「それでも良いと言うのなら、ついて来るといい」
そう言って紅燐はくるりと身を翻してゆっくりと歩きだした。一拍置いて千晴もその後を追いかけた。そこから人里離れた紅燐の家に着くまでの間、彼は一度も振り返ることはなかった。
それから数年間千晴は紅燐———先生の下で一人、修業の日々を送った。
先生は元々炎の呼吸を使う鬼殺隊士であったらしいが、若くして引退したそうだ。黒い短髪に年齢を悟らせない顔立ち、おまけに無表情だった先生が実際幾つだったのか結局千晴にもわからずじまいだった。
修業を始めてわかったが、孤児たちの噂に違わず先生の指導は厳しかった。この修行を乗り越えても命の危険が付きまとう未来しかないことも知った。
しかし家も金も学も無く、特段容姿に優れているわけでもない女子が一人で生きていく方法がないに等しいことも千晴は知っていた。だから千晴は生きるため、体術や剣術をはじめとする戦い全般に簡単な読み書き、言葉遣いなど多くのものを先生から吸収していった。
こうして師弟関係は数年にわたって続いた。しかしそこに個人の関りは一切存在しなかった。つまり虚ろな二人は「教え、教わり」を機械のように繰り返すだけで、心が交わることは一度としてなかったのだ。
また、それを悲しいとも千晴は思わなかった。
その後はきっと他の人たちと変わらない。最終選別を受けて先生に別れを告げた。
そしてしのぶに出会ったのだ。
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千晴が一通り語り終えると、意外に時間が経っていたのか手に持ったお茶がすっかりぬるくなっていることに気が付いた。喋り通しで喉が渇いていたので残りは一息に飲み干した。
「はあ。というわけでそんなに珍しくもない話だ、どうってことない」
何でもないことのように軽い口調で千晴は言い切った。
「むしろ私は運がいいんだ、こうしてまだ生きているから」
はにかみながらしのぶの方を向くと、こちらを見ていたしのぶと目が合った。
和やかな千晴とは反対にしのぶは眉根を寄せて口を引き結んだ難しい顔をしていた。どこか怒っているようにも見えるしのぶは不意に千晴との距離を詰めると、座ったまま千晴を抱きしめた。
「しのぶ?」
突然のことに千晴はあたふたと両手を中途半端に上げたが、肩に乗るしのぶの頭も背中に回るしのぶの腕も微動だにしなかった。
ただただ優しく包み込んでくるしのぶに、千晴もそっと身体を預けることにした。しのぶのほうが背が低いのでやや前かがみになってしまうのはご愛嬌だ。
「・・・・馬鹿ね」
「なにが・・」
肩口でつぶやかれた言葉に千晴が返せばしのぶは小さくかぶりを振った。
「なんでもないわ」
その言葉と裏腹にしのぶの腕は千晴を抱く力を強めた。
上体に千晴の体温を感じながらしのぶは自分がどうしたいのかを考えていた。
千晴の語った過去はしのぶを大いに動揺させた。と同時に千晴の「自分の命を優先する」考えに納得がいった。
———千晴にとっては助けてもらえないことが当たり前。
同情するのは違うと思った。千晴の歩いてきた道を陳腐なものにしてしまいたくなかった。
両腕で抱きしめる、その身を己に預ける千晴を想う。その酷薄な道を想う。
自身の過去を語る中で千晴は悲しいとも辛かったとも決して言わなかった。むしろこんなことはありふれた事象でしかない、そう言い聞かせているようにしのぶは感じた。
同情はしない。けれど悲しいのだと、苦しいのだと弱音を吐けなかった千晴のことを、目一杯大切にできたらいい。そう思った。
———だから。
「あなたはここに帰ってくればいいのよ」
———私は千晴をいつでも迎えよう。
応えるように回された千晴の腕が、なんだか少し嬉しかった。
「あなたはここに帰ってくればいいのよ」
しのぶの口から告げられた言葉は千晴にとっては砂糖のように甘いものだった。
———私がいることを許された場所。気付いていなかっただけでずっと自分はそれを求めていたのかもしれない。でも、今はただ、目の前の温かな存在に縋り付きたかった。
それまで身を委ねるばかりで下がった腕を持ち上げて、しのぶの背中にそっと回した。自分よりも小さなその背中がどうしてか泣きたいくらいに温かくて、離れたくないと思った。
千晴からすれば馬鹿なほど真っ直ぐなしのぶは、きっと他人のためなら消えてしまえるのだと思う。そうでなくとも、いつ消えてしまうとも知れなくて心配だった。
だから、今この手に収まっているしのぶだけは自分と同じくらい大切にしてもいいかな、そう思った。
零れないように、消えないように、そんな願いを込めて千晴はぎゅっとその腕に力を込めた。
たがいに想いをその胸に、二人の少女は確かに絆を結んだのだった。この得難い安らぎを二人は生涯忘れない。
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蝶屋敷では食事はできるだけ一緒に摂る習慣がある。その日の夜も千晴を含めた蝶屋敷の面々はささやかな団欒の時間を送っていた。
しのぶの横で味噌汁を啜っていた千晴は一対の視線に気が付いた。それとなく目線を向けるとバチンッとその主と目が合った。しのぶの向かいに座る花柱である。
ビクッと固まる千晴と反対に、花柱はにこにこと嬉しくて仕方ないというような笑みを送ってきた。
千晴は花柱のこういった毒気を抜くようなところが少し苦手だった。嫌ではないのだが体がむずむずして顔に変な力が入ってしまうからだ。今回も見つめられて居た堪れなくなってきたのだが、花柱の隣に座るカナヲに世話を焼き始めて視線が外された。
ほっと身体の力を抜きながら、「嫌な感じではないんだけどなあ」と一人頭をひねる千晴であった。
胡蝶カナエは上機嫌であった。可愛い妹からの相談以来二人の様子それとなく見てきていたが、今夜はなかなかどうしてしのぶの顔が格段に明るい。きっとなにか二人の間で壁が解けたに違いない。
妹に良いことがあって単純に嬉しいカナエの視線は自然と千晴の方にも向いていく。目が合ったので微笑みかけると照れたように固まるのが可愛らしかった。どうして良いのかわからずに視線だけを彷徨わせ始める姿はやはりカナヲに似ていて微笑ましい。
いつまでもこの幸せな風景を守りたい。
ささやかな願いはこの場の全員が抱えていながらも、確約されることは決してない。だからきっと人々は目の前の幸せを噛みしめるのだろう。
入らなかった話
今回は千晴の先生が登場しました。
紅燐先生です。彼は感情を見せないのですが、1日に1回だけ感情を見せる時間がある設定でした。
その時間は仏壇に手を合わせる時間です。あれです。彼は大切な人たちが全員向こうに行ってしまった人です。なので感情もそっちへ置いてきてしまったっていう…まあ、そんな感じの話を入れたかったなあああっていう愚痴ですね。これは。力量不足でした…悲しい!