———どうしていいことって続かないんだろう。
泣いている。唯一大切にしようと思った人が泣いている。おそらく私のせいで。
————————
しのぶに過去を語ってから数日、千晴の世界は明るかった。今まで無意識に大切なものを作らないようにしてきた反動か、しのぶの温もりが特段に得難いもののように思えるのだ。
ずっと笑っていてほしい、ずっと一緒にいてほしい、その思いが日に日に強くなる。
しかし、しのぶはどう思っているのだろうか・・・時々千晴は言いようもない不安に襲われて、訳もなくしのぶの手を握ったり背中に張り付いた。
「なに?言わないとわからないわよ」
そういう時は決まってしのぶが訊いてくるのだが、その顔はまんざらでもなさそうで、千晴はいつもそれを見て安心するのだ。
心が満たされていて、しかしどこか切ない・・・この感情をうまく言葉にすることはできないけれど、この温もりがある場所————しのぶのいる蝶屋敷に帰ることが千晴にとっての幸福だと、心からそう思った。
しかしこの安息も鬼殺の合間の一時に過ぎず、千晴の生活はやはり鬼殺を中心に回っていた。
その日の夜も千晴は任務に赴いていた。単独任務であったが無事に終えて真っ直ぐに帰路に就いたのだが、今回の任地は遠方であったためか蝶屋敷のある街にたどり着いた時にはすっかり朝に近い時間となっていた。
それは夜明け前の最も暗い時間帯。町は深い眠りについているのかシンっと静まり返り、ひんやりとした夜の空気が音もろとも街を喰らっているようだった。
自分の足音だけが冷たい街に響く。その少し湿り気を含んだ音を聞きながら千晴が一人歩いていると、突然全身に怖気が走った。
「———ッ!」
一瞬にして全身の毛が逆立ち、体の芯が凍りついた。痛いほどに脈打つ心臓を服の上から抑え、急いで周囲の気配を探ってゆくと、町の一角にそれは居た。
鬼だ。
離れていても分かる強い鬼の気配に本能的に体が震えるのを止められない。今まで斬ってきた鬼も恐ろしくはあったが、明らかに格が違うのだ。
気配に人一倍敏感な千晴だからこそ、その恐ろしさもひとしおであった。
しかし、カタカタと震える歯を噛みしめて千晴は鬼のいる方へ駆け出した。
誰かを助けるためとか、そういう高尚な思いは多分なかった。怖いもの見たさとはよく言ったもので、千晴はこのおぞましい気配の正体をその目で確認しておきたかったのだ。正体不明の危険ほど恐ろしいものはないのだから。
幸いなことに千晴はこの町の構造が頭に入っている。鬼のいる通りと交差する道に出るために少々大回りをしたが、駆ける千晴はものの数分で渦中の場所付近にたどり着いた。
あとは建物の間を隠れながら進めば相手には見つからずにその姿を見ることができるはずだ。
民家の間の狭い空間を縫うように進んでゆく。近づくにつれて膨れ上がる寒いまでの重圧に唇をかみながら、千晴は見知った気配を捉えていた。
———どうして、よりにもよってあなたがここにいるんだ。
湖底の腐った泥を思わせる強大な鬼の気配に霞んでいたが、確かにそこには花柱の気配があった。
気付くと同時に聞こえてくるのは、ギィンと重く響く金属のぶつかり合う音。既に花柱はおぞましい気配の鬼と戦っているらしい。
———どうして、本当に・・でも、急がないと・・・。
訳も分からず千晴の胸に焦りがじわじわと広がって、四肢の感覚がスーッと薄れていくのを感じた。
水をかき分けるようなもどかしさを抱えて進めば、ようやく家屋の壁は終わりを迎えた。
千晴が抜けてきたのはどうやら花柱の後方にある家の壁だった。
絶えず聞こえてくる剣戟の音に耳を澄ませる。「はあはあ」と知らずに上がっていた呼吸を必死に押さえつけて、そっと通りの様子を覗き見た。
それはまさに、圧巻。
そう言う他ない凄まじい攻防が繰り広げられていた。
果敢に型を出してゆく花柱と、それを難なく受ける長身の鬼。激しく翻る羽織は戦いの激しさを語り、目にもとまらぬ速さで振るわれる桃色の刀身と金色の鉄扇だけが異様に輝いていた。
その姿はさながら対の踊りのようであったが、その実一方的なものであることを千晴は早々に悟った。
———花柱が押されている。
攻めの姿勢を崩さぬままに肩で息をする花柱とは反対に、鬼はにこにこと嗤って、明らかに余裕がある。それはきっと花柱も分かっているはずなのに・・・。
———どうして逃げないんだ。
———こんなの、絶対に勝てない。花柱だってわかっているはずなのに。どうして逃げてくれないんだ。
圧倒的な強者を前に「逃げ出したい」と震える身体をかき抱いて、千晴はある種祈るような思いで花柱を見つめた。
その時、不意に鮮血が舞った。
千晴からではどこを切られたのか定かではないが、花柱が傷を負ったらしい。その美しい顔が痛みで歪むのが、やけにゆっくり鮮明に見えた。
「———あ」
姉妹だからだろうか、痛みをこらえるその顔にしのぶが重なって、千晴は思わず声を上げた。
瞬間向けられる二対の視線に「ヒュッ」と喉が詰まる。焦ってもつれた脚は何を誤ったか前に出て、家屋の陰に潜んでいた千晴の体は通りに投げ出された。
幸い転ぶことはなかったが、よろける姿は無様そのものだ。
「千晴ちゃん?!」
「あれぇ、もう一人いたの?しかも女の子だ。今日はついてるなぁ!」
花柱の声に安堵したのも束の間、舐めるような視線に「ヒュッ」と息が詰まる。鬼の意識が自身に向いたことで〈死〉が一気に迫ってくるのを感じた。
「うぁ・・・」
体中の細胞が警鐘を鳴らし、膝がガクガクと震える。
「そんなに怯えて可哀そうに、もう大丈夫、俺がちゃんと食べてあげるから」
その顔は本心から言っているかのように慈愛に満ちていたが、その声音に熱はなく、空洞のような印象を千晴に与えた。その気味の悪さと、鬼の重圧からくる死の恐怖から逃れるように身をよじると、思案顔の花柱と視線がかち合った。
「———花柱様!撤退を・・・・勝てないですよ!こんなのと戦って、馬鹿だ!逃げましょう!」
「ええー!どうして逃げるんだい?せっかく救ってあげるのに」
恐怖でタガが外れた千晴の叫びに花柱は答えない。代わりに鬼が心底驚いたと目を丸くする。
「恐怖も不安も生きているから感じるんだ。大丈夫、君のその想いも俺が残さず食べて高みへ救済してあげよう」
———うっそりと嗤うこの鬼はきっとすぐにでも私を殺せるのだ。
そう思うとひたすら恐ろしくて、千晴は再び花柱に縋った。
「花柱様ァ!」
———逃げよう・・・いや、逃げたい。
———こんなところで死にたくない。せっかく優しい場所を見つけたんだ。帰りたいんだよ、あそこへ帰りたい・・・帰らせてくれ。
完全に逃げ腰でボロボロと涙を流す無様な千晴に、しかし花柱は微笑んだ。
「そうねぇ、退くべきよね・・・」
「はいッ!」
「だから・・・・人を呼んできてもらえる?」
「・・は?・・・・」
———この人は何を言っているんだ。
思考が止まる千晴に花柱はふわりと笑いかける。
「ね?お願い・・・退くためには必要なのよ」
———あなたは逃げないんですか。
どうしてかその言葉が口を開けても出てこなくて千晴は動けずにいた。
「さあ、早く」
しかし見かねた花柱の言葉でやっと体が動き出す。くるりと勢いよく背を向けて千晴は駆け出した。
「——っゔぅ」
噛みしめた歯の間から嗚咽が漏れる。あの鬼から逃げられて嬉しいはずなのに、胸が痛くて涙が止まらない。
「救援、救援ッ・・・どこに・・・」
かと言って立ち止まることもできないで、振り返らずにひた走る。
沸騰しそうな頭の中で、これが救援を呼ぶための行為ではないことを・・・ただ一人逃がされて、それに甘んじているだけであることを千晴は理解していた。
だってあの場に鎹烏は居なかった。きっと既に救援を呼んでいるはずだ。
———なのに、どうして。
私を逃がしたのだろう。分からないと混乱する気持ちと、自分は助かったというほんの少しの安堵。その二つがない交ぜになって、そのまま足が止まってしまいそうだった。だから思考を振り切るように全力で走った。
走りながら町全体の気配を探っていく。闇に埋もれて静まり返った町は気配を探りやすくて、千晴はすぐに救援と思わしき気配を見つけた。
それは微かな希望だった。「間に合え」とただ念じながら、まだ遠いところに居るそれに向かって千晴はひたすら駆けた。
———これで・・・きっと、これで帰れるんだ。
この時は、愚かにもそう思っていたんだ。
千晴が見つけた気配はやはり救援だった。六人で移動していた彼らは花柱の正確な位置まではわかっておらず、合流した千晴はすぐに先導して引き返した。
走りながら見上げた東の空には薄っすらと白が混じり、凪いでいた空気が流れだすのを感じた。
————夜明けは近い。
千晴を先頭に最短距離を駆け抜けた救援隊の目に未だに刀を構えて立つ花柱の背中と、鉄扇を振り上げる鬼の姿が映った。
すぐさま千晴の後ろにいた隊士が抜刀し、花柱と鬼の間に割り入る。身のこなし方からして、だいぶ上の階級の人間のなのだろう。千晴の目には追えなかった。
「ええー、どうして邪魔するのかなぁ」
「黙れ!悪鬼が!!」
「困った」と頭をかきながら笑う鬼を一蹴して、先行した隊士が斬りかかる。
ひらりと距離を置いた鬼は、次々に刀を構える隊士と白んでいく東の空をを眺めて「はあぁー」と大きなため息をついた。
「なんだ、もうすぐ日の出じゃないか。これじゃあ全部片付けても食べられないよねぇ」
笑みを崩さないまま、ひどくつまらなそうに呟くこの鬼は皆殺しなど容易いのだと言う。
隊士の間に鋭い緊張が走り、だれもが身を固くする。
「だから残念だけど帰ることにするよ。ここら辺は日影が少ないしね」
「ッ待て!」
誰かが叫ぶ声も空しく、屈託のない笑い声だけを残してその鬼は街の闇に消えた。脅威は消えたのである。
「——っはあ」
どこからか上がった吐息とも溜息ともつかぬ音で、一気に場の緊張は解かれた。
緊張の糸が切れ、へたり込んでしまいたい体を押しとどめて、千晴は未だこちらを振り向かない花柱に目を向けた。
真っ直ぐに立つその凛とした背中に、安堵と後ろめたさがない交ぜになった、形容しがたい気持ちが溢れる。正直何を言えばいいのかもわからなかったが、花柱と言葉を交わさねばならぬ、不思議とそう思った。
先程までとは異なる、石を飲み込んだかのような重い緊張感を携えて千晴は一歩踏み出した。
その時だ、花柱の背中がぶれたかと思うと、そのままとさりと地面に崩れ落ちた。
「え?」
水を打ったように静まり返る通りに、千晴の混乱した声がいやに響く。
一瞬の膠着が解け、その場が一気に騒然となる。
「花柱様!」
駆けよる隊士たちを目の前に、千晴はただ立ち尽くすばかり。
まるでそれら全てを見計らったかのように、暖かな光が世界を照らし始めた。
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蝶が地面に落ちるように、あまりに儚く倒れた花柱を千晴は呆けたように見ていた。
処置のために仰向けにされた花柱は、鎖骨から鳩尾までがざっくりと斬られていた。それまで堰き止めていたものが溢れだすかのように、ゴボゴボとくぐもった咳と真っ赤な血が吐き出される。美しい顔は苦悶に満ちて、浅い呼吸しかできないのか、その華奢な肩が小刻みに揺れている。
手当の心得のある者が止血を試みているものの、花柱が助からないことは誰の目から見ても明らかだった。
隠や蝶屋敷の医療班を呼ぶ声、何か使えるものはないかと走り回る音、それらすべてを遠くに聞きながら千晴は立ちすくむばかりだ。
もう鬼は去って自分は助かったはずなのに、どんどん現実感がなくなって、ついには耳鳴りが鳴り始めた。しかしそれはすぐに鋭い叫び声の前に霧散して、千晴は現実に引き戻された。
「姉さんッ!!」
「———ッ!」
張り裂けんばかりの叫び声をあげて、しのぶが千晴の横を通り過ぎて行く。その必死な声と双眼に浮かんだ涙を見て、千晴はキュッと喉奥が閉まるのを感じた。自分は何か間違えたのかもしれない。そんな予感がした。
「姉さん!しっかりして!」
最愛の姉の体を抱きかかえてしのぶが叫んでいる。
あのくぐもった咳は収まったのか、先程よりも落ち着いた表情の花柱が愛おしむようにしのぶの頬に手を伸ばした。
「しのぶ、鬼殺隊をやめなさい。」
紡がれた声はやはり弱々しく、どうあっても助からないと言っているようだった。
「あなたは頑張っているけれど、本当に頑張っているけれど、多分しのぶは・・・・・・・・・・。普通の女の子の幸せを手に入れて、おばあさんになるまで生きて欲しいのよ。もう・・・十分だから・・・」
話しながらも花柱の命は削られているのだろう、しのぶの頬に置いた手が力なく滑り落ちていく。しかし、その手を離さないと言うようにしのぶが握り締めた。
「嫌だ、絶対やめない姉さんの仇は必ず取る。言って!!どんな鬼なの、どいつにやられたの・・・!!」
怒り、悲しみ、もどかしさ、それらのこもった叫びが朝の静けさの中で響き渡る。
「カナエ姉さん言ってよ!!お願い!!こんなことされて私、普通になんて生きていけない!!」
「姉さん!!」
その場にいる誰もが鬼によって引き裂かれようとしている姉妹を沈痛な面持ちで見ていた。ただ一人、喪上千晴を除いては・・・。
———しのぶが泣いている。
ここまで感情を露わにしているしのぶを見るのは初めてだった。
あそこで倒れているのがしのぶだったら、私も泣くのかな・・・泣くんだろうな。そうか、花柱は・・・
———しのぶにとって大切な人だったのか・・・。
その言葉は、土に水が染み渡るようにスッと理解できた・・・・・
故に、千晴は気づいた———己の重大な過ちに。
千晴の目の前が突然真っ暗になった気がした。さっと血の気が引いて、霧散したはずの耳鳴りがまた聞こえ始めた。四肢の感覚が薄れ、舌がカラカラに乾く、喉の奥が萎んで息も満足に吸えない。
「——はぁッ・・ぅあ・・・」
泣くときみたいに胸がつっかえるのに涙は出ない。乾いた嗚咽だけが引き攣った喉からこぼれ出る。
———ああ、そうか・・・私は・・しのぶの大切な人を見殺しにしてしまったのか・・・。
私にとってのしのぶのような・・・人には各々大切な人がいる。
この当たり前の事実を、この日初めて千晴は真に理解したのだ。今までは自分のことで精いっぱいで、周りのことなど目に入らなかった・・・周りの人間に目を向けてこなかった。そのツケがこれだ。
どっと押し寄せる後悔の波は千晴を包み込んで、深い水の中に引きずり込んだ。両手で顔を覆ってしまうと、たちまち平衡感覚が薄れた。周りの音がグワングワンと反響してよく聞き取れない中で、その小さな声は不思議と千晴に届いた。
「ちはる・・ちゃん・・・」
ばっと顔を上げると、しのぶの腕の中に横たわる花柱が真っ直ぐこちらを見ていた。その花を思わせる瞳には逃げた千晴を責める色はなく、優しさだけが悲しいほどに溢れている。
「千晴ちゃん・・・・人を・・呼んできてくれて、・・・ありがとう」
思わず目を見開く、嗚咽と共に涙があふれた。
「——ッなんで!・・・ッふゔ、なんで怒らないんですか・・・」
「・・・・うふふ、それは・・・」
続く花柱の言葉は血と共に吐き出される咳の中に消え、ゴボゴボと噎せる花柱に代わってしのぶの声が空を切り裂いた。
「————どうして?!」
それは非難の声だ・・・。聡明なしのぶは今の会話で気付いたのだろう。激情に身を焦がして再び叫ぶ。
「ッうう、どうしてよ!!」
———あなたが一緒に居たのならッ!・・・助かったかもしれないのに。
涙を湛えてもなお鋭い視線が千晴にそう告げていた。
きっと詰られるであろうことはわかっていたが、一等大切にしたかったしのぶからの糾弾は大層痛くて、千晴は思わず数歩後ずさり、顔を歪めた。
私のせいだと思った。
いや、紛れもなく私のせいだった。
千晴はただ降り積もってゆく後悔と悲しみの重さに耐えきれず、衝動のままに駆けだした。それは紛れもなく逃げだった・・・取り返しのつかない逃避。
正直その辺りはもう頭がぐちゃぐちゃでほとんど何も覚えていない。蝶屋敷にも戻らず、ひたすら情動のままに駆け続けた。ひたすら遠くに行きたかった・・・もう、あそこには戻れないのだから・・・。
そうしてこの日、千晴は帰る場所と大切な人の隣、その二つの場所を失った。引き換えに知ったのが人の絆であったことはまさしく皮肉である。
この日のことを千晴はずっと忘れない。悲しみは滾々とわき続ける泉のようで、後悔は揺れる波のように千晴を苛んだ。
この愚かな逃亡者が再び蝶と見えるのはまだ遠い先の話だ。
原作との相違点
胡蝶カナエvs童磨戦で増援が来ました。きっと原作でも増援自体は出ていたのではないかと思うので、今回は千晴が先導して間に合ったことにさせました。
千晴の行いは無駄ではなかったけれど実を結ばなかったなあ。自分で書いていて悲しくなりました。